第四章 繋いだ手に誓う 六
六
大社で行われた長い軍議の後、芙由は一人食堂にいた。元帥に外食しようと誘われたのだが、気を遣わせたくなかったから断った。ここの天丼が食べたかったのもある。
長いテーブルが四列と、四人掛けの丸テーブルが二十卓ほど置かれたこの広い食堂は、天丼が美味い事で有名だ。その上安いので時折市民の姿を見掛けるが、それでも昼食の時間だというのに、席は半分ほどしか埋まっていない。
食堂自体があまりに広いせいもあるが、大社の職員達は多忙すぎて、ここでゆっくりと食事をしていられないのだ。出雲島民は休まない事で有名だが、こと大社に勤める役人達は、休憩すら三十分と取らない。国を治める役人達が、率先して労働基準法に違反しているのは、あまりいい事ではない。
芙由も半休ばかりで、休暇と呼べるような休暇はここ最近取っていない。しかし代わりに、休憩はきっちり取る。腹が減ると仕事が手につかなくなるので、無理矢理取らされると言った方が正しいだろうか。
有難くはあるが、食事しながらでも仕事は出来るので、不満もある。それをやめろという事なのかも知れないが。
「芙由様、こんにちは」
天丼に箸をつけた所で、斜め上から愛らしい声が聞こえた。顔を上げると、華奢な体には不釣り合いな程大きなトレーを持ったアーシアが立っている。
今頃は落ち込んでいるだろうかと芙由は考えていたが、アーシアのビスクドールのような愛らしい顔立ちも、薄桃色の唇も、変わりない。彼女は体も心も、見た目より丈夫に出来ているようだ。
アーシアの隣には、軍部の制服を着たままのキアラが控えていた。青褪めたような白い肌は相変わらずで、芙由は見ているだけで心配になる。猫のような淡いグリーンの目も、薄い唇も、笑っていた。顔色を見る限りでは疲れているように見えるが、これが通常なのだろう。
「お久しぶりです、中将」
「ああ、元気そうだな」
キアラは頬を僅かに紅潮させ、はにかんだように笑った。抜けるように白い肌は、少しでも表情を浮かべただけで赤く染まる。
「ご一緒していいかしら」
「構わない。二人でどうした?」
アーシアはトレーをテーブルに置き、芙由の正面に腰を下ろした。その隣にキアラが座り、自分のトレーに乗せてあったコップをアーシアの前に置く。
アーシアのトレーには、きつねうどんと天ぷらそばが乗っていた。キアラのトレーにもちゃんとラーメン丼が乗っているから、両方アーシアが自分で食べるのだろう。しかしこの小さな体のどこに入るのか、芙由は何度見ても不思議に思う。
「私は笹森補佐官に呼ばれたんです。キアレッタは、芙由様にお礼が言いたいっていうから」
「私に?」
問い返すと、キアラが頷いた。何かしただろうかと、芙由はおくらの天ぷらを齧りながら考える。
「ありがとうございました、色々と……無事中将の下で、働かせて頂ける事になりました」
「……ああ」
キアラが第三師団隷下部隊の小隊長に任命された事は、元帥から聞いていた。出雲は陸軍の規模が大きいから、彼女の階級なら分隊長か小隊長補佐になる。しかしそれでは勿体無いと教官が言うので、ついでに昇級させたと言っていた筈だ。
能力以上に、芙由は彼女の姿勢を買っていた。何があっても逃げる事なく母州の為に戦おうとした彼女の事は、軍人としてのみならず、人として尊敬出来る。耐え忍んで自らが傷ついた事は、決して褒められた事ではないが。
「それはいいがな、どうして伊太支部で曹長止まりだったんだ? 殆ど一級だっただろう」
「あの……」
言葉を濁し、キアラは視線を落とした。アーシアがうどんをすすりながら、彼女を見上げて首を傾げる。アーシアの仕草は愛らしいが、うどんをすする手つきがやけに所帯じみていた。
出雲語で上手く言えないのか、単純に言い辛いのか定かではない。だから芙由は、キアラに返答を急かさなかった。彼女の事情は知っているし、思い出したくない事を思い出させたくはない。芙由が箸を止めて口を開きかけた時、キアラは顔を上げた。
「……というか、問題ないのですか? 私が少尉に、なんて」
赤褐色の髪と同じ色の眉が、困ったように歪んでいた。喋る度に見える白い歯に、芙由は目眩さえ覚える。
本人が戸惑うのも当然だろうと、芙由は思う。事実彼女も相談された時は驚いたし、出雲では異例の飛び級だったが、体力検定の結果を見て納得した。だから異論は唱えなかったし、不適当ではないと思っている。
「悪かったら昇級させん。上等教育課程はこなしたんだろう」
小隊長以上の任に就くには、三年制の軍学校を卒業した後大学に入らなければならない。そこで更に二年、上等教育課程をこなす。幹部を志す者は最初から士官学校に入るが、軍学校在学中に指揮官として適正ありと判断された場合は、大体二年制の軍大学へ通う事を勧められる。
芙由は軍学校から大学へ行き、叩き上げで尉官まで昇級した。つまり、今のキアラと同じ道を辿ったのだ。そう考えると、感慨深くもある。
「そうなんですが……私では、力不足というか」
キアラはまだ、困ったような顔をしていた。煮え切らない彼女に、芙由は顔をしかめる。もどかしいのは嫌いなのだ。
「私がいいと言っているんだからいい。それより早く食え、ラーメンが冷めるぞ」
「あ、いえ……」
「キアレッタは猫舌なのよ」
早々とうどんを平らげ、蕎麦に手をつけたアーシアが告げ口する。キアラは肩を竦めて益々困った顔をしたが、芙由は首を傾げた。
「ラーメンは熱い内に食うからいいんだろう」
「同感です」
低いながらも癖のある声を聞いた瞬間、芙由は反射的に顔をしかめた。キアラが立ち上がりかけたが、制されたのか、すぐに浮かせた腰を下ろす。視線だけ流して見た声の主が予想通りの人物だったので、芙由は更に舌打ちした。
髪も目も黒いが、その彫りの深い整った顔立ちは、少なくとも黄色人種のものではない。切れ長の鋭い双眸はどこか淀んでいるが、顔はにやけていた。
「あら、キース。出雲にいたの?」
苛立つ芙由をよそに、アーシアは相変わらず若気たキースに笑いかけた。キースは大袈裟に肩を竦めて、胡散臭い笑い声を漏らす。この失礼な白人は、他人を不快にさせる顔しか出来ないのだろうかと、芙由は思う。
「笹森補佐官に呼ばれてね。隣いいで」
「断る」
言い終わる前に即答したが、キースは構わず芙由の隣へ腰を下ろした。聞いた意味がない。
彼のトレーに乗っていたのは普通の定食だったが、飯が丼に山のように盛られていた。何故か付け合わせにはない筈の味噌田楽が、小皿に盛られている。千春もそうだが、賢者はよく食うのだ。
「何だその飯は」
何故味噌田楽なのかは聞かなかった。
「出雲の白飯は美味いですから、来た時にたらふく食っときたいんですよ。あんたこそ何ですかその天丼」
芙由は視線を落として、自分の手元を見た。通常の三倍はあろうかという赤い丼とキースの顔を交互に見た後、鼻で笑う。
「知らんのか、裏メニューだぞ」
「でけえよ。あんたこそ食い過ぎだろ」
「別にいいだろう。私が食い過ぎても、お前が腹を壊す訳じゃない」
キースは眉間に皺を寄せ、溜息を吐いた。彼の反応は、芙由には理解出来ない。
正面のアーシアは、最後に残してあった揚げを幸せそうに食べていた。一方隣のキアラは、ようやく食べ始めた所だ。麺をすすれないようで、いちいちフォークで巻いていた。彼女達は案外気が合うようだが、食べるペースが全く違う。
「姉さん、小隊長だって?」
芙由は一瞬誰の事かと思ったが、キアラが視線を上げたので納得した。百以上年下の女を姉さん呼ばわりもないと思うが。
「はい、第三師団に」
「乃木がいるトコだってな。苦労するぜあそこの小隊は」
「……え」
キアラは表情を曇らせ、怪訝な声を漏らした。黙々と箸を進めていた芙由は、眉を顰めてキースを睨む。高い鼻をへし折ってやりたい衝動に駆られたが、流石にやめた。
「不安を煽るような事を言うな。言う程悪くはない」
「半分認めてんじゃないですか」
キースの言う乃木のいる隊、第八連隊は、どこか一つだけが劣っている兵を集めた集団だった。駐在課に回すには勿体ないが、他州へ派遣するには頼りない。そんな兵が多いので、鍛える為に第三師団の隷下に入れたのだ。
乃木の所属する小隊は、たまたま小隊長が今年で退役するから後任が必要だっただけで、別段キアラに押し付けた訳ではない。精鋭揃いの近衛師団小隊長だった彼女を、それより下の役職に就けるのも失礼だろうという、元帥の配慮もあったようだ。
「キアレッタなら大丈夫よ。ね?」
にっこりと微笑むアーシアに曖昧な笑みを返し、キアラは再びフォークを動かす。その表情は、不安げに曇っていた。
口の中のものを飲み込んでから、キースは笑った。彼もチェーンスモーカーの割に、やけに歯が白い。しかし到底、爽やかとは言い難い笑顔だった。
「まぁそう暗い顔すんな、入っちまえばなんとかなるモンだ。頑張れよ」
「……そうだといいのですが」
彼女はやっぱり、不安そうだった。無理もないが、努めて貰わないと芙由が困る。
まだ部下には言えないが、今はただでさえ、危うい状況下にある。千春は華と伊太が手を組んだ可能性もあると言うし、呑気にしていられないのは確かだった。軍の上層部には午前中の軍議で伝えられたし、アーシアとキースが呼ばれたのも、その件を話す為だろう。出雲も、大分焦っているようだ。
いずれは本格的な戦争が勃発するだろうとは、芙由も思っていた。既に各所で要塞の建設には着工しているようだが、兵達にはまだ不安が残る。実戦経験がない事も不安要素の一つだが、それは向こうも変わらない。せめてもう少し、体制と軍備を整えるだけの時間が欲しかった。
「それより平気なんですか? 今伊太に部隊なんか派遣して」
キースのさりげない問い掛けに、芙由はまた、顔をしかめた。彼がどこまで知っているのか読めないが、この緊張状態の中で教育部隊を派遣する事には、元帥も難色を示していた。折角受け入れを承認させたというのに、苦労が水の泡だ。
彼の疑問に解答するのは易いが、今はキアラがいる。迂闊に漏らせない事も分かっているだろうに、何故こうも配慮が足りないのだろうと芙由は思う。
伊太が動いたのは、賢者が亡命してきた事が一因とも言える。アーシアには早めに言っておくに越した事はないが、キアラはこれから部隊へ配属される身だ。いずれは知れる事とはいえ、ただでさえ不安だろうに、余計な心配をさせたくなかった。
「今の時期は新兵の入隊準備で忙しいんだ、どうせ落ち着くまでは派遣出来ん」
「今どうなってるか、知ってんですか」
芙由は空になった丼の蓋を閉め、音を立てて箸を置いた。アーシアとキアラが驚いたように目を丸くして、お互い顔を見合わせる。
彼のこういう所が、芙由は嫌いなのだ。思慮の浅い発言で悪戯に人を動揺させ、放っておく。一対一で話す分にはいいが、彼を含めた複数人では、会話したくなかった。
「言葉を慎め、カークランド。貴様が何を知っているのか知らんが、この場で話すような事ではない」
「そりゃ失礼しました」
睨む視線をものともせず、キースは箸を持ったまま肩を竦めた。苛立ちを抑えきれず、芙由は席を立とうとテーブルに手を着く。
「伊太に、何かあったのね」
剣呑な空気を破るように、アーシアが呟いた。キアラは黙り込んだまま、伸びたラーメンを食っている。
芙由の頭が一気に冷えた。伊太と出雲の関係がこれ以上悪化して、一番心を痛めるのは彼女達の筈だ。目先の怒りに囚われて感情的になっていた自分を恥じ、芙由は椅子に座り直す。ついでにキースの伸びた襟足でも引っ張ってやろうかと思ったが、それもやめた。アーシアの表情が硬かった為だ。
「冷静になってよく考えてみたら、私達が法を犯した事を、知事が見逃す筈ないわ」
ひそめた声で呟いたアーシアは、視線を落として俯いていた。責任感の強い彼女だから、自責の念に駆られても不思議ではない。千春も懸念していたが、別段アーシアが悪い訳ではないので、出雲は責める気もなかった。
しかし彼女達の行動が、裏目に出てしまった事は確かだ。アーシアは伊太を救いたい一心で助けを求めて来たのだから、情状酌量の余地があると千春は判断した。結果的に罰する事はなかったが、それが余計に彼女を苦しめてしまうのではないかと、芙由は思う。
「ねえ、芙由様。知っているなら教えて下さい。知事は出雲に何か言って来たの?」
「何事もない」
芙由が間髪容れずに答えると、アーシアは小さな唇を引き結んで顔をしかめた。
「出雲と伊太が冷戦に近い状態にあったのは元々だ。お前とベルガメリが州を出た事では、何も変わりはしない」
「でも……」
「先延ばしになってた事が、今になっただけさ」
鮭の身を箸で切りながら、キースはアーシアの言葉を遮るように口を挟む。芙由も、今度は睨まなかった。
「お前だって分かってたろ、バンビ」
テオドラが自衛軍をも操っている以上、こうなる事は内部の者なら誰もが予想していた筈だ。アーシアの行動がきっかけを作ってしまった事は確かだが、キースの言う通り、たまたま今になっただけだ。
「不安なの……とても」
「まだ決まった訳じゃない。戦々恐々としているよりは、腹を据えて構えていた方が楽だぞ」
アーシアは上目遣いに芙由を見上げた後、ちらりと隣のキアラを見た。何を思うのか、キアラはラーメンのスープを飲んでいる。先程から会話には入らず、黙り込んだままだった。
結局、彼女の不安を増大させてしまった。芙由は申し訳なくも思ったが、事実なのだから発言を撤回も出来ない。
一気にスープを飲み干したキアラは、丼を置いて息を吐いた。雌猫のような淡いグリーンの目は、伏せられていて感情が窺えない。彼女がどうするのか、芙由は不安でもあった。
「……私はアーシア様の為に、出雲へ来ました。しかし実際は、伊太支部から逃げたと言った方が近いでしょう」
女性にしては低い声が、彼女の性格をそのまま表しているようだった。アーシアは眉尻を下げて、キアラを見上げている。キースは黙々と飯を食っていた。
彼女のように部隊内で暴行を受けたが故に心的外傷を負い、出雲へ逃げて来る軍人は少なくない。部隊内での集団私刑によって傷ついた男性軍人もいるが、圧倒的に多いのは、婦女暴行事件の被害者だった。
そういったいざこざが起きるのは、州的に見ても同様の事件の発生件数が多い地域だと言える。伊太は元々女性の立場を重んじる地域である為この限りではないが、少なくとも芙由が今まで見てきた女性軍人達は、女性軽視の風潮がある地域から逃げて来た者が多かった。
彼女達の大半は、女性が軽視される州を憂い、従軍したのだと聞いている。それが皮肉な事に自らが被害者となり、結局州から出ざるを得なくなった。それでも軍を抜けず本部へ来たのは、出雲に現状を伝える為だったのだと、彼女達は口を揃えて言う。
だから本部は、対策を取らざるを得なかった。今も教育部隊の派遣を頻繁に行っているのは、その為でもある。キアラには過保護と言われたが、被害を受けても母州を想う軍人達に、応えてやりたかったのだ。
「軍人は州を守るものと考えていました。だから私は、伊太を出ることは逃げだと思っていましたが……それは違うのだと、中将に教わりました」
アーシアはいつしか、両手を握り締めていた。その表情も、不安げなものから安堵したようなものへ変わっている。
傷つき苦しむ女性軍人達を何人も見てきたから、芙由にはキアラの痛みも分かる。同僚を信じられないと泣く女もいたし、異性が近付くだけで吐き気を催すという女もいた。それでも彼女達は、自分のような被害者が出ない州を作りたいと、軍人であることを望んだ。平たく言えば、生まれた州の為に働いていたかったのだろう。キアラも、そうだった。
キアラは荒れて行く伊太を憂い、従軍したのだろうと芙由は思う。本部以外の女性軍人には珍しい事だが、聞けば従軍したのにはアーシアが関わっていたというから、その理由も分かる。アーシアは誰よりも、欧州大陸と世界を想っている。
人々が生まれた地域を愛する州は、いい州だと千春も言っていた。だから生まれた島を、延いては世界を愛する人々が住む出雲はいい州なのだと、芙由は胸を張って言える。世界を守れ、と言う訳ではない。けれどそうして人々に国を想う心を持ってもらう事が、人を導く賢者のあるべき姿なのではないかと、芙由は考えている。
「私は軍人です。母州が敵となろうとも、世界の秩序を保つ為ならば、喜んで戦場に立ちます」
キアラの言葉が、芙由の胸に沁みた。自分で言った事だが、他人の口から語られると改めて実感する。国の為に軍があり、軍人を含めた全ての人の為に、国がある。兵士が世界を守るものならば、指揮官は彼らの為に存在する。
芙由には、自分の言葉が彼女の片隅にでも残ってくれていた事が、嬉しかった。聖女として生まれたからには、誰かの役に立てるような生き方をしたい。その願いが、確かに叶っているような気さえした。
キアラは視線を落としてアーシアを見ると、そっと微笑んだ。その笑顔に、アーシアも笑い返す。二人の無言のやり取りに、彼女達は互いに信頼し合っているのだと、芙由は思う。
「あなたに言った事は守れないかも知れませんが、私は本部で自分に出来る事をしたいと思います。許して頂けますか?」
アーシアの口元が徐々に綻んで行き、満面の笑みに変わる。太陽に向かって胸を張る向日葵のような彼女の笑顔は、今までに何人もの人々を救ってきた。キアラも彼女に救われた内の一人なのだろうと、芙由は思う。
人の心を救う事など、芙由には出来ない。欧州大陸の政治に過剰に関与するアーシアを問題視する声も議会では上がっていたし、そのせいで知事に利用された部分もある。
それでも芙由は、彼女は正しい人だと考えている。全体を見れば問題はあるだろうが、大陸に奉ぜられている限り、賢者が救うべきは人の心なのだ。一人一人の幸せを願わずして、どうして世界など守れよう。
「あなたがいいと思う道を進めばいいのよ。私はいつだって、見守ってるわ」
笑い合う彼女達が、芙由には眩しく見えた。アーシアの返答を聞くと、キアラはトレーを持って立ち上がる。
「元帥にお礼を言って来ます。まだ大社にいらっしゃるでしょうか」
「昼は外に出ると言っていたが、まだ会議があるからそろそろ戻っているんじゃないか? 受付で聞くといい」
「ありがとうございます」
直角に近い角度まで頭を下げ、キアラは三人を見回した。彼女の顔に浮かんだ笑みは、太陽のように温かい。
「色々と、ありがとうございました。失礼します」
「頑張れよ、ねえさん」
キースが最後に取ってあった味噌田楽を齧りながら手を振ると、キアラは彼にも笑いかけて見せた。ふと思い出し、芙由は背を向けかけた彼女を呼び止める。
「そうだ、ベルガメリ。近々抜き打ち視察がある、気を引き締めて励めよ」
肩越しに芙由を見たキアラの表情は、凍り付いていた。第三師団は昔から、師団長の視察となると訓練内容が一層厳しくなる事で有名だ。キースが呆れた目で見ているのが、芙由の視界に入る。
「……言ってしまったら、抜き打ちにならないのでは」
「細かい事は気にするな」
「あんた意外とボケるな」
キースが突っ込むと、アーシアが笑った。キアラは苦笑いを浮かべ、軽く会釈してから背を向けて出て行った。
世界にはまだ、国を想う人がいる。それだけで、芙由には嬉しかった。自然と頬が弛むのを堪えきれずに微かな笑みを浮かべると、テーブルに頬杖をついたキースが顔を覗き込む。
「嬉しそうですね」
視線だけでキースを見ると、彼は相変わらずにやけていた。けれど今は、不思議と腹も立たない。芙由は一つ頷いて、キアラの出て行った方へ顔を向けた。
「嬉しいさ。腑抜けた出雲の軟弱者共を、鍛え直してくれそうだからな」
「それだけじゃないでしょうに」
キースもどこか嬉しそうだった。彼も結局、悪い男ではない。態度も発言も芙由の癇に障るが、彼の思想は、嫌いではない。
芙由は口元に笑みを浮かべたまま、視線を逸らす。
「……さあな」
逸らした視線の先にいたアーシアは、相変わらずにこにこと楽しそうに笑っていた。不安は残るが、この国はまだ大丈夫なのだと、芙由はそう思う。
何があっても、世界はきっと、彼女達のような優しい人に支えられて立っている。そう考えると、己の意味を見出す為に従軍した自分は、なんと卑小なのだろう。そうは思っても、芙由に出来る事は、最早これしかない。
「自分に出来る事……か」
そう独り言ちて、芙由は席を立った。




