1-13 夢か現か
(もう一つ、こちらの問題はどうしよう……)
その日の夜。私室に引き上げたセリーヌは部屋の中に立ち尽くし、考え込んでいた。
部屋にはベッドが一つしかない。今までセリーヌが寝床にしていたクッションや敷布は怪我人である獣人女性のために檻の中に敷き詰めてある。結果、ここ三日間、セリーヌは板張りの床の上に直接転がって寝ていたのだが、それもそろそろ限界だった。
腰が痛い。背中が凝り固まり、腕がスムーズに持ち上がらない。日常の動作にも支障を来すほど、身体が悲鳴を上げていた。
(かと言って、予備の寝具を持ち出すのは無理)
出来ないことはないが、管理されている備品を持ち出せば、セリーヌの研究室に「誰か」がいることに感づかれる恐れがある。獣人を研究材料として檻の中で飼うことは許されても、獣人を保護――寝床を与えることは許されない。獣人に心を寄せることは、それだけで処罰対象となり得る。
(そうなると、結局……)
セリーヌは部屋にたった一つのベッドに視線を落とす。ベッドに横たわるケレンは目を閉じていた。就寝中、睡眠状態にある彼を見て、セリーヌは諦めのため息をついた。
「……ごめんなさい」
小さく呟いて、ベッドの上、ケレンの眠る横に膝をつく。ギシリとベッドが鳴った。ケレンが目を覚まさぬよう注意を払いながら、セリーヌはベッドの空いたスペースに潜り込む。勝手な同衾に申し訳ないと思いつつ、ケレンに背を向けて横になったセリーヌはほっとした。
やはり、寝具があると無いとでは大違い。これで、身体が痛くて何度も寝返りを打つ羽目にならなくて済む。ここ数日の睡眠不足から、ベッドに入ったセリーヌは直ぐに睡魔に襲われた。抗うことなく、セリーヌはその心地よい眠気に身を委ねる。
意識の途切れたセリーヌは、ふと、自分が夢を見ていることに気付いた。いつ眠りについたかは分からない。けれど、これは間違いなく夢の世界。どこか見知らぬ部屋に在る自分に気付いたセリーヌはそう判断した。が、不意にそれがただの夢でないことに気付く。
(これは……)
薄暗い部屋の中、置かれているのは簡易なベッドと小さなクローゼットが一つ。そして、ベッドの上に横たわる人の姿。セリーヌはそれを部屋の隅、暗い闇の中から眺めていた。
初めて見る部屋、けれどこのパターンは初めてではない。彼の記憶の中で何度か見たことのある場面に酷似していた。ある時は薄汚れた下町の宿屋の一室で、ある時は戦場の天幕の中で、また、ある時は軍の官舎の私室で。場所は変わっても、どれも彼が一人きりでいる場面――恐らく、彼にとって最もプライベートな空間だった。
静寂の中、ベッドの上の男性――ケレンが寝返りをうつ。仰向けに寝転がった彼は寝ていなかった。目を開け、天井を見つめている。セリーヌは、息を殺して彼を見守り、そうして、一つの結論に行きつく。
(夢じゃない。ここは、彼の記憶の世界……)
どうやら、寝ている間にスキルを使ってしまったらしい。セリーヌのスキルは意識しなければ発動しないのだが、睡眠中は制御が外れるのかもしれない。或いは、寝ぼけてスキルを使ってしまったか。
どちらにしろ、意図せずにケレンの記憶に潜っていることは間違いない。早々にこの場から離脱しようとしたセリーヌは、聞こえた声にギクリと身体を強張らせる。
「……ねぇ」
「っ!?」
驚きに、セリーヌは悲鳴を上げそうになった。恐る恐る、声のした方――ケレンへ視線を向けると、天井を見ていたはずの彼の視線がこちらを向いていた。
(そんな……っ!?)
彼がセリーヌを認識している。
信じられず、セリーヌは驚きに目を見開いた。自分は今までと同じ行動しかとっていない。ただ暗がりに潜むだけ。この場に「あり得ない」存在を彼が認識するはずはなかった。けれど今、彼は間違いなくセリーヌを見ている。
セリーヌは咄嗟にフードを深く被り直した。ベッドの上で身を起こしたケレンは、年の頃で言うと十代後半。現実の彼と殆ど変わらぬ相貌に成長している。セリーヌが惹かれたのと同じ意思ある瞳が、ヒタとこちらを見据えている。
「あんた、殺し屋か何か?誰かに頼まれて、俺のこと殺しに来たわけ?」
「……」
問いかけに、セリーヌは沈黙を返す。微動だにせず、無言を貫くセリーヌに、ケレンの「ふーん」という面白がるような声が聞こえた。
「殺し屋じゃないんだったら、あんた個人の用があるの?復讐とかそういう感じ?」
軽い調子でそう尋ねたケレンがベッドから足を下ろす。そのまま、足音一つ立てずにセリーヌの方へと近づいてくる。
逃げ場がない。部屋の隅に追い詰められたセリーヌは顔を伏せた。頭上に、見下ろすケレンの視線を感じる。
「まぁ、いっぱい殺して来たからなぁ。その内、どっかで誰かに殺されて終わるんだろうけど……」
そう言って嗤うケレン。
「今は未だ、やることがあるんだよね。あんたに殺されてやるわけにはいかない」
その「やること」が何なのか。セリーヌには分かる気がした。今の彼はバイラートの軍服を身に纏っている。軍に所属するようになって増えた彼の表情。記憶場面に「個」として登場する彼の仲間たち。セリーヌの知る限り、彼が初めて手にした居場所。飄々とした態度の裏で、大切なものを守るため、彼は戦い続けている。
冷めた瞳で、ケレンが右手を伸ばす。首を絞めようとする動きに、セリーヌは息を詰めた。心臓が早鐘を鳴らす。ここは彼の記憶の中、セリーヌが死ぬことはない。それでも、彼の静かな殺意に、セリーヌは「殺される」と、そう思った。
怯えて動けないセリーヌは、ギュッと目を瞑る。瞬間、ケレンの口から小さな驚きの声が上がった。
「え……?」
「……?」
予期した痛みが襲って来ない。そっと目を開けたセリーヌの視界に、愕然とした表情を浮かべるケレンと、彼の右腕が映った。彼の視線を追った先、彼の右手がセリーヌの身体にめり込むようにして貫通している。
(そうか……)
セリーヌはこの場にあり得ぬ存在。居ない者には触れられない。それに、ケレンの記憶の中にも、彼が私室で誰かを手にかけた過去はないのだろう。「あり得たかもしれない」記憶ならまだしも、ケレン自身が「そんなことはなかった」と認識している記憶を歪めることは難しい。
唖然としたまま手を引っ込めたケレンの表情が不快げに歪む。
「……何、コレ?あんた、亡霊か何か?」
「……」
「俺に殺されて、それで化けて出たってわけ?」
そう言って、ケレンはふんと鼻を鳴らした。
「心当たりはあり過ぎるほどあるから、とり殺したいってのも分かるけど……」
忌々しげに睨む彼に、セリーヌは何度も首を横に振る。セリーヌは亡霊ではない。まして、ケレンを殺そうなどと思うはずがない。彼の中に「亡霊に命を狙われる」という記憶を残さないために、セリーヌは彼の言葉を否定した。
そんなセリーヌの反応を、ケレンがまじまじと観察する。そうして最後に、ハッと声を上げて嗤った。
「亡霊だろうが何だろうが、あんたに殺されてやるつもりはない」
「……」
「……消えろ」
刃のような鋭い声。明確な拒絶の言葉に、突如、世界が白に覆われた。ケレンの記憶から弾き出されようとしている。そう気づいた数瞬後、セリーヌは暗闇の中で目を覚ました。
周囲を見回すと、そこは自分の部屋。ベッドの上で緩慢に身を起こしたセリーヌは、隣で眠るケレンを見下ろした。
闇の中、ケレンの瞳は閉じられている。胸が規則正しく上下するのを見て、セリーヌはほっと息をつく。彼を起こすことがなくて良かった。
ケレンが安らかな夢の世界にあることを願って、セリーヌは再びベッドに身を横たえる。
スキルの発動は想定外のこと。今後はなるべく彼に触れぬよう気を付けなければならない。重ねた両の手を胸元で握り締めるようにして、セリーヌは暗闇の中に目を閉じた。




