おしまい。
最後に目にした男の子は怒っていました。少女の前で初めて、彼は声を荒げました。
「ぜったい隠してるだろ」
「隠してないよ」
「嘘だ! そんなひどい顔して、頬にも腕にも傷を作って」
ブランコを下りた男の子が、少女のそばまでやって来て顔や腕を示します。少女はうつむきました。睡眠不足のせいか顔には隈ができて、身体のあちこちには引っ掻き傷が刻まれていました。リストカットを試そうとした手首だけは見せないように、少女は鎖を強く強く、握りしめました。
男の子の声色はたちまち崩れました。
「……なぁ。僕、そんなにいけないこと、しちゃったかな。君に本音を言わせられなくなるようなこと、やっちゃったのかな」
「…………」
「嘘の要らない関係でいようって言ったじゃん。他の誰を信じられなくてもお互いのことだけは信じよう、頼り合おうって……」
「……あなたは、何もしてない。悪くなんてないよ」
少女は息を振り絞ります。それから、すっかり忘れていたのに気付いて、今更ながらに笑顔を繕いました。
「大丈夫だよ、私」
それがどれだけ男の子を傷付ける台詞なのかも、多少は理解しているつもりでした。案の定、男の子は苦悶に顔を歪めました。
これだけ手負いが男の子にばれてしまっても、なお、少女には男の子を頼る気が起きませんでした。それよりも、幸せに包まれて眩しい男の子からは離れていたいとさえ思います。太陽に憧れたイカロスが蝋の翼を溶かされたように、男の子に憧れれば憧れるほど、少女の傷は強い痛みを覚えます。
だから、無理。
頼ることなんてできません。
それは自分の身を守るため。痛みから逃れるためなのです。
「……ごめん」
男の子はつぶやきました。
「僕がいけなかったんだね。たくさんのものを君にもらったのに、何も返せてない。愚痴を聞く程度のことしかできてない。そりゃ、君だって頼り甲斐があると思えないよな」
そういう理由ではなかったのですが、少女は小さく、うなずいてしまいました。それから慌てて付け加えました。見返りを求めているわけではないのだと。
「私は、あなたの役に立てさえすれば、それでいいの」
──嘘。
「でもそれじゃあ……」
「あなたには笑顔でいてほしい。それが一番、私にチカラをくれるから」
──嘘。
「他に願うもののない私だもん。あなたの幸せくらい、せめて一緒に祈らせてよ」
──みんな嘘。
へにゃり、と相好を崩すと、反論の言葉を失った男の子は唇を噛みました。言い返しても無駄であることに、ようやく気付いたのでしょう。あるいは──そこにあるのはもう、昔のような信頼関係ではないということにも。
そうだよね、と彼はうなだれました。
「すべてを話してって望むのは、僕のエゴなのかもしれない」
力なくつぶやいてから、すぐに彼は「でも」と続けます。少女に話の主導権を握られたくなかったのでしょうか。
「苦しんでる人に無理強いはできないから、今は待つ。だから、いつかまた開けるときが来たら、心、開いてよ」
「…………」
「僕は待ってる。待つことしかできないのが情けないけど、前みたいに君がすべてを話してくれる日が来たときのために、いつまでも待つよ」
少女が待たないでと言っても、待つ。──その言い切りには頑固な決意が伺えて、吐き気がしそうなほどに甘い香りが漂います。
少女はついにうなずき返しませんでした。約束のできないものを約束することなど、か弱い少女にはできませんでした。
それから何を話して、どんな言葉を交わして、どういう表情で男の子の隣に座っていたのかは覚えていません。気付けばいつものように、夕暮れの帰路をひとりでたどっていました。
見るも無惨な手首の傷も、夕陽はみんなお見通しと言わんばかりに煌々と照らし出します。少女はただ、黙って、歩を進めました。自分の影にさえもそっぽを向かれながら。
何も考えませんでした。
何も思いませんでした。
思考のためのメモリなんて、とうの昔に使いすぎて焼き切れてしまいましたから。
ただ、焼き切れてしまう前に認めた結論だけが、かろうじて記憶の端に引っ掛かって形をとどめています。道端の小石を拾うように、少女はそれをつまみ上げました。そして、そっと、“醜い笑顔”を描きました。実行の時が来たのを悟ったからでした。
それは男の子との別れを意味していましたが、少女の心に躊躇いはありませんでした。躊躇ってはならないのでした。男の子と少女の幸福を、できうる限り最大にするために。そして、少女の痛みを最小にするために。
身体は嘘をつけません。たちまち、頬をこぼれ落ちた涙がアスファルトで跳ねて、砕けます。光の粒の行方を見送った少女は微笑みました。後ろを振り返って、公園のある方角を眺めました。そうして、
「ごめんなさい」
鼻をすすって、笑いかけました。
「……大好きだったよ」
その日から、少女は二度と、あの公園に近寄りませんでした。
少女は男の子を裏切る道を選んだのです。男の子が自分の不幸に気付かないように。そして、自分以外の人を頼って、不幸を幸福に変えられるように。
それは男の子のためだけではなくて、不幸の源を遠ざけるという意味では自分のためでもあったと思います。少女は男の子の仮想敵でいられればいいのです。自分を裏切った最後の一人として、あの人の記憶に君臨していられればいい。なんなら、それを話題にして誰かとの仲を深めてくれたっていい。
とうとうひとりぼっちになった世界で、もう何度、失望に枕を濡らしたのか分かりません。いくら泣いても励ます声はありませんが、少女は自分の心が確かに満たされていくのを感じていました。
こんな人間でも、誰かのことを幸せにしてあげられた。そのちっぽけな達成感だけを胸に、未来を生きていく。
その覚悟が、少女にはあったのです。
ひとりの少女がいました。
容姿は人並み。頭のよさも人並み。誰のことも憎まないけれど、誰のことも愛さない。愛せない。誉め言葉は忘れないけれど、欠かさない笑顔はいつだって虚構。そんな子でした。
天性の“ひとりぼっち”であることを受け入れた少女の目に、希望とか、幸福とか、そんな前向きの概念は少しも映りません。たったひとつの誇りといえば、今は二度と会うことのなくなってしまった一人の男の子を、幸せにしてあげられたこと。恨むことなんて決してありません。
そして今でも、少女は願うのです。
あの子が明日もどこかで笑って生きていくことを。
当たり前に誰かを愛し、誰のことも憎まず、誉め言葉だって忘れず、いつも笑顔を欠かさないでいてくれることを。
だって、泣いても、叫んでも、
愛することをやめられなかったのですから。
──ぜんぶぜんぶ、おしまい。