8/9 青天の霹靂
「どうかな、先生」
その目は不安げにそっと、上下に動く憂の瞳を追う。暫くの沈黙の後、憂は目頭を押さえてふうっと一息つく。
「すごく面白いです。特にこの主人公の少年が二個目の仕掛けを解くところなんて、本当にわくわくしました」
真夏のさなか。この日、小説の具合をぜひ見せて欲しいから、会えないかと先に声を掛けたのは憂だった。もし用事が無ければ、という前置きをして。
二人がいるのは出会いの場所。思い出のエントランスにも蝉の声がじわりと染み込む。
「良かった。はあ、凄くドキドキしました」
ほっとした表情で胸をなでおろす。
「初めてでこれだけ書けるなんてすごいですよ。早く続きを読ませてくださいね。期待してますよ」
春樹はいつものように鼻の下に手を添える。その顔は若干赤みを帯びた。
「そう言えば冒頭が空欄でしたが」
思い出したように憂が尋ねる。
「良い表現が思い付かないんだよ、数行で目を引けるような」
ああ、納得という声を出す。
「凄く難しいですよね。『吾輩は猫である』、とか『国境の長い……』とか、そこを聞いただけで、あっ、あの作品だって解かるのが良いですよね」
あとは……と思い出したように憂は付け足した。
「読者に謎を残すのが良いって聞いたことがあります。良い意味で消化不良というか、どういう事って」
「謎か……。大事な場面とか言いたいことを最初に持ってきたらいいのかな」
「せっかく図書館にいるんだから、ちょっと探してみましょうよ」
二人は暫く、この作品の冒頭はどうだ、いやこの言い回しが素敵だと、花を咲かせた。
「あとは腕の見せ所です。期待してますよ、未来の大先生」
ポンと春樹の肩を叩く。鼓動が忙しなくなるのを確かに感じた。
品評会が終わったところで、憂がぽつりと呟く。
「去年、二人で美術館に行ったの憶えていますか? 」
「もちろんです。丁度これくらいの時期、確かセザンヌ展ですよね」
事も無げに答える。そうですよと頷く憂。
「あの日の帰り道でした会話、憶えていますか? 」
今度はうん、と春樹は考え込む。確かあの日は、とおぼろげな記憶を語り出す。
「動物園も好きだとか、公園も好きって言う話でしたね。あっ、あと科学館も」
結局全部行きましたね、と笑う日向を穏やかな表情で憂は見つめた。
「今日、ですよね? 」
本当は生花が良かったんですが、と言って憂が差し出したのは綺麗な押し花。目の覚めるような白さ、薄く儚げな五枚の花弁が、さながら翅を広げた蝶のような美しさを醸し出していた。それが時間が止まったかのように憂の手の中で一本の皺も無く、見事に咲いている。
綺麗ですね、と思わず春樹も見惚れる。微笑む憂に葵ですか?と尋ねる。憂は一瞬驚いた顔を春樹に向ける。
「さすが日向さんですね、正解です……と言いたいところですが、惜しいです。実はこの花は、ゴジアオイって呼ばれる、葵とは別の科のお花なんです」
「ゴジアオイですか。本当に綺麗ですね。それにしてもどうしてこれを僕に? 」
「さっき言ったじゃないですか。今日ですよねって」
今日って……。記憶を辿っているのか、やや黒目が左上を向く。しばしの沈黙の後、あっ、と小さく悲鳴を上げる。
「思い出しましたか。日向さん、去年も忘れてましたよね」
そうでしたっけと答える春樹。
「日向さんの誕生花。八月九日はこのゴジアオイなんです」
「調べてくれたんですか。ありがとう。というか、育ててくれたんですか? 」
「大変だったんですよ。咲いたと思ったら、一日で花弁が落ちちゃうから。でも、次々に咲いて毎日違う顔を見せてくれて、楽しかったですよ」
「これはその中で一番綺麗に咲いたお花です」
誇らしげに見せるそれを受け取り、まじまじと見つめる。
「ありがとう。憂さん、素敵なプレゼントもだけど、何よりも憂さんが僕の誕生日を覚えていてくれたことが何よりも嬉しいです」
そう言うと今度はじっと彼女の目を見た。春樹はもとより、どういたしましてと受けた憂の頬も染まっている。どちらともなく視線を逸らす。春樹は目の端で、憂がやや俯いて、もじもじと両の指先をしきりに絡み合わせているのを見た。言い出しにくいことを最後まで取っておいた、といった感じだ。はっ、と淡い期待を込めて憂を見つめた。いつもと違う視線を感じたのか、憂は静かに口を開いた。ごくりと唾を飲む。
「凄く言い辛い事なんですが……」
高鳴る鼓動。まさか、いや……もしかしたら。
「花言葉は調べない方がいいですよ。余り良い意味じゃ無かったので」
予想外の返答に、そうなんですかと空返事をした。春樹のテンションが一オクターブ下がったことを察したのか、慌てて憂は
「牛蒡の花言葉って知ってますか?『いじめないで』らしいですよ。変わってますよね」
と的外れなフォローを入れた。その言葉というよりも、一人で舞い上がっていたことに、春樹は堪らずふっと吹き出した。いつの間にか蝉の声は止み、夕立ちの臭いがした。
「実はね……」
春樹の笑いが止んだ頃、憂が俯いたままぽつりと呟く。
「私、東京の大学に行くことに決めたんです。どうしても帝都大学の文学部に行きたいんです」
「東京……」
突然の告白に春樹は復唱することしかできなかった。胸の奥がざわつく。俯いたままの憂を見つめる。両手で組んだその指が小刻みに震えている。…だから。
「だから、これからは暫く勉強の方に集中したくて」
聞きたくなかった、言いたくなかったであろうその言葉。憂は唇を真一文字にきゅっと噤む。小さな肩がカタカタと揺れている。春樹はふうと一息つくと口を開けた。
「そりゃあそうか。憂さん頭良いし、この辺の大学なんか目指したら勿体無いからね。憂さんが帝都大学に入ってくれれば、僕も自慢できるよ。凄く頭の良い知り合いがいるぞって」
わざとらしく‘知り合い’を強調した言い方だった。それっきり、二人の間に沈黙が横たわる。
雨が大地を叩く音が聞こえる始めた頃、沈黙を破ったのは憂だった。
「日向さんといた時間は、本当に幸せでした」
その声は明らかに震え、しゃくりあげる様だった。
「慰めなんていらないよ。その幸せな時間を捨てて、これからは勉強、そして受かれば東京にバイバイってことだよね」
春樹は頭では自覚していた。こう言うと彼女を苦しめるだろうということ。そして自分がなんて嫌な奴かということ。しかし、やり場のない苛立ちに言わずにはいられなかった。
だが、予想に反し、その美しい唇が奏でたのは、違いますという言葉だった。その言葉には、力強い意志が宿っていた。今度は憂が春樹を見つめる。春樹が憂を見つめ返す。涙の浮かぶその瞳には、これまで見たことの無い力強さがあった。
「待っていてくれませんか、試験に受かって、東京に行くまで」




