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 労働者階級に貸し出すものなのだろう。何も整備されておらず、一部屋しかない粗末なものだった。


 窓はない上に、西向きの部屋だから、扉を閉めると黄昏のような暗さが室内を支配した。埃が意志を持ったように舞っていた。私は袖で口と鼻を覆った。


 ダニエルは部屋の真ん中に死体を横たえた。忘れ去られた部屋に、若い娘の死体は奇妙なほどに似つかわしく感じられた。


 ダニエルは死体の傍に膝をつき、手の中でナイフをくるりと回した。

 数年前にスラム街の奥で私の目を差した輝きが、今度は目と鼻の先にあった。


 ダニエルは、豚を解剖するかのような素早さで死体の体を切り開いた。迷いのない動きだった。呼吸が止まっていても、予想外の出血はある。返り血を浴びることがないよう、ダニエルはジャケットとシャツを脱いでいた。

 切り裂いた腹に手を突っ込み、子宮を引っ張り出したところで、彼は手を止めた。


 切り裂きジャックに襲われた死体がそこにはあった。


 ダニエルはナイフをハンカチで拭いながら、扉の前に突っ立っている私に聞いた。


「どうだい、僕の仕事を見た感想は」


 私は転がっている人間の容器を見た。

 数時間を共に過ごしただけの娼婦の死体は、私の心になんのそよ風も起こそうとはしなかった。


 己すらも燃やし尽くすほどの激情に駆り立てられたのは、ダニエルが娘の喉を絞めたその一瞬のみであった。


 私は死体から視線を逸らした。


「これ以上ないほど、貴重な体験だ」

「それは連れてきた甲斐があるというものだ……まあ、僕が仕事の現場に同行させるなんて、後にも先にも君だけだがね」


 そうしてくれ。


 ダニエルに聞こえないように呟いた。


 君が他の誰かを仕事に連れていったりしたら、私はそいつに何をしでかすか分からない。


 建てつけの悪い扉の隙間から風が吹き込んでいた。冷気を含んだ風だった。スーツ越しであっても、それは私の肌を死体のように冷たくさせた。


 確実に秋が終ろうとしていた。


 一人の娘を切り裂いたダニエルは、スーツを着込むと典型的な英国紳士であった。「プロフェット&ナイト」の店主に戻った彼は、私のスーツに手を滑らせた。


「少し生地が薄くなっているな。まあ三年間、ほとんど毎日着ていたら薄くもなるが。仕立て直そう。君にぴったり合うスーツを贈るよ」


 私は返事をしなかった。ダニエルの声は、私の聴覚の外側を滑り落ちた。


 私は蝋人形を見ていた。

 蝋人形は私の目の前にいた。

 虚ろな暗闇を抱え込んだ彼は、私をじっと見つめていた。私の内面に広がる洞を見透かしていた。私もまた見つめ返した。私たちの間に言葉はなかった。


 結局のところ、蝋人形とは何なのか。私は今になって思う。


 人形とは「間隙」だ。何かと何かの隙間。


 それはある空間とある空間の間でも、ある時代とある時代の間でも、ある人とある人の間でも、何処にでも存在する。己の中にすら存在するのだ。どこかにぽっかりと空いた虚ろな穴。何も存在せず、何も抱え込まず、だからこそ逆説的に何でも抱え込むことができる暗闇……。


 乾いた風が通り抜ける、その隙間こそが人形だ。


 しかし、この考えが正しいかどうかなど私には判別できない。

 あの時の私もそうであった。ただ恐れ、敬い、共感していた。

 彼の皮の裏にあるものと同じものが私の中にも広がっていた。


「ノア君?」


 ダニエルが私の顔を覗き込んだ。美しい瞳と目が合った。私は微笑んだ。何も考えずに笑むのは、久々のことであった。

「帰ろうか、ダニエル」

 

 

 一八八八年。長く厳しい英国の冬が、訪れようとしていた。


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