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この小説には、腐向け表現・不快な描写などが含まれます。ご注意ください。



 一瞬本物の人間と見間違えてしまったのは、その人形が恐ろしいほどに生々しかったからだ。


 いや、あれを人形などという概念で括ってしまってもいいものか、と私は今でも懐疑的だ。あれは最早、生を失った人間であった。

 まだまだ若さが身体のなかに漲り、まさにこれから何かを成し遂げようとしたときに、ころりと急逝した人間の死体が展示されているように、私には思われてならないのだ。


 グロブナー家の応接間であった。無駄に飾り立てられた無駄に広い部屋の中で、それは異質な存在感を放っていた。


 グロブナー家は、英国のなかで最も権力を誇る富裕貴族のうちの一つだ。

 高級紳士服の仕立屋が並ぶサヴィル・ロウ、アンティーク・ショップを内包するロイヤル・アーケード、さらには王立芸術院「ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ」などが存在するメイフェア、ベルグラビア地区。豪奢な高級店が密集するこの地区の開発を、二百年以上前から担っている。

 ヒュー・ルーパス・グロブナーが当主であるときには、ウエストミンスター公爵の爵位も授与され、まさにグロブナー家にとって「我が世の春」であった。


 そんな時期に私がグロブナー家の夫人と交流があったのは、ひとえに縫石職人などという人物が英国中探しても私以外にいなかったという、ただそれだけである。


「気持ち悪いでしょう」


 扉を開けて真正面の台座に、蝋人形は置かれていた。凝視していた私に、グロブナー夫人は言った。

 夫人の使者から連絡を受け、馬車でグロブナー家の本宅に向かったときには、既に日が傾きかけていた。天に突き刺さりそうなほど高い門扉の前で立ち尽くしていた私を、夫人は迎え入れた。

 夫人は、ヒュー・ルーパス・グロブナーから寵愛を一身に受けているだけあってまさに目が眩むほどの美女であったが、夫が愛する芸術には何の興味も抱いていないようだった。


「夫がこの前、急に買ってきたのよ。何でも新進気鋭の蝋人形師をたまたま発見したとか。あの人ったら、この気持ち悪い人形に元の値段の五倍の金を払ったのよ。才能の原石に埃を被せるようなことがあってはならない、と言っているけれど、私にはちっとも理解できないわ。理解する気もないのだけれど」


 それは男の裸体であった。


 私にとって蝋人形など未知の領域であったが、他の職人が手がける人形とは比べものにならないほど優れていることは、素人目にも明らかだった。


 違う。訂正しよう。優れている、などという言い方はあまりにもありきたりだ。凡夫だ。そもそも比べるものではないのだ、芸術は。

 しかし、その蝋人形が応接間に飾られている他の作品群とどこか違っていたのは確かだ。人の目を惹きつける何かがあった。ぞっとするほどに現実(リアル)であった。本物の人間だと信じ込んでしまうくらいには。


 人形の皮膚は、乳と蜜が溶け込んでいるかのように白く滑らかだった。皮膚の下を、青い血管が走っていた。男特有の筋肉や筋は作られておらず、胴体だけ見れば女だったが、股間には立派なものがぶら下がっていた。太く長いそれには血管が浮き上がり、女のような肢体とのアンバランスさが奇妙な美しさを作り上げていた。


 顔はもっと美しかった。天使のようであった。


 頬は薔薇色に染まり、薄い唇は淡く色づいていた。とろりと目尻が下がった瞳には、蜂蜜のような甘さがあり、ひどく蠱惑的だった。

 小さな頭蓋を覆う髪の毛は、本物の金髪が使われていた。細く輝く髪の毛の一本一本が、緩くカーブしながら額にかかっていた。

 背中に翼がないのが不思議に感じるほどの美少年だった。


 忘我。蝋人形の彼と、私は同化した。彼の中に私は入り込み、彼の皮の裏を満たした。私は彼であり、彼は私だった。何とも言い表すことのできない感覚であった。その感覚は、奇妙なほど自然に私の心に根を張った。

 グロブナー夫人が私に声をかけなかったら、私はいつまでも蝋人形と対峙していただろう。


「左腕のアメジストとルビーが取れそうになったから、貴方をお呼びしたの。きっと昨日、馬車に乗ったときだわ。腕が扉に引っかかって、腕自体に怪我はなかったのだけれど、ぷちんと細いものが切れる音がしたの。糸が外れたのね。直してくださらないかしら。もちろん、いつも通り代金は言い値で払うわ」


 私の前に無防備に晒された夫人の腕からは、その細さに似合わないほど大ぶりな宝石がいくつも生えていた。


 私が縫いつけた宝石たちだった。

 シャンデリアに照らされて輝きを放つ腕に、紫と紅玉の石が不安定に揺れていた。


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