09. 危険は隣り合わせ
ごとごとと駆ける馬車は一向に霧を抜けない。
魔法使いの青年は、険しい表情で何事か呟き続けている。どうにも、妖精と交渉を試みている様子だった。
不安を内包する車内で、小夜も二人たちが気掛かりで落ち着かなかった。
「アリア?」
アリアが両耳を押さえてうずくまり、小夜は慌てる。
「どうしたの」
「うるさい」
ぞんざいな返しにムッとしかけたが、うるさいうるさいと呟くアリアが、小夜に言ったわけでないと気付く。
小夜の耳にも、アリアほどではないだろうが囁きがまだ届いている。交渉が上手くいかないのかな、と視えもしない姿を探して視線が彷徨う。
戸惑いつつ小夜が背を撫でてやろうとすると、馬車はがくんと揺れ動いた。
「どうどう!」と商人の焦りが聞こえ、停車する。
「お客さん方、申し訳ないが時間を頂きますよ。車輪が嵌っちまったみたいだ」
前に傾いた馬車から顔を出すと、ぬかるみに前輪が埋まっているのが見えた。
商人は海馬に指示を出しているが、それも思わしくない。乗客は全員馬車を降り、その内の男性二人はぬかるみに足を入れ、馬車を押し始めた。
小夜も靴を脱ぎ、手伝うことにしたが上手いこと動かない。こんな重いものを運ぶタツノオトシゴすごいなと感心してしまう。
「商人さんよ、今ここがどこなのか、あんたは把握できているのか」
馬車を押しながら、男性の一人がやや苛立たしげに問う。
「この湿地帯を何度か通ったことはあるが、こんな道といえないところを走った馬車はないぞ」
商人の男はぼさぼさの髭に覆われた口を、重たそうに開く。
「お客さんの言う通り、方位磁石がイカレちまってます。それにここまで霧が深まることはそうない。狩人さん方が言っていた通り、妖精の仕業でしょう」
「じゃあ、」
「しかし必ず目的地までお客さん方を無事運びましょう。わしも商売人です。人と人との信用なくちゃあやってけない。狩人さん方も、何度か世話になっている人たちです。いずれ合流できますよ」
声を荒げそうになった男性に、商人は力強く言葉を被せた。くたびれた出で立ちの商人だが、その眼差しは誠実に心を射抜く。今すべきことは争うことではなく、各々を信じる気持ちだと。
男性は商人と、妖精に話し続ける青年の背中を交互に見て、言葉を飲み込むと、再び馬車を押す。
「私も手伝います」
小夜の向かいに座っていた女性も、長いドレスの裾をたくし上げ、泥をものともせず入って来た。
和らいだ空気に、小夜もほっとしながら足を踏ん張る。
「全員その場から離れて!!」
だが、青年の鋭い声で、ようやく一同は巨大な影が迫っていることに気付いた。濃霧から伸びた何かがしなる。
「――…!」
小夜の行動は早かった。泥から素早く飛び出したと同時、馬車は薙ぎ払われる。倒れ来る馬車と地面との間に、小夜は滑り込んだ。幼い少女を抱きしめて。
「ぅわっ」
直後、小夜は強い力に引き寄せられた。
目の前でけたたましい音を立てて馬車が横倒しになる。やっべーあんなのの下敷きになっていたらと小夜はぞっとした。
「さよ、よわいのにすぐとびだす」
心臓をばくばく鳴らす小夜を、アリアが無表情に見下ろす。
「助かったけど、考えるより先に動いちゃったんだよ、お姉ちゃんなんだよ仕方ないだろっ」
すぐさま駆け寄り礼を言う女性に少女を預けながら、小夜は反論した。怪我は御免だが、子供相手には反射で庇ってしまう自覚はある。
アリアは聞こえてないように影に目を向けた。その瞳が碧い光を放ち、黒髪が波打つ。
「アリ――…ッ」
爆発音に驚いて視線を移す。
青年の魔法が起こした爆風で、影が明らかになった。先程のイモリと似ているが、種類が違う。体躯はより巨大に、色は濁った黒。威嚇なのか、頭を高く上げてこちらを見下ろす様子は、まるで獲物を値踏みするようで胸がざわつく。
「すぐおわる」
軽くステップを踏むように、アリアは駆けた。
「あ、あなた危ないわっ」
青褪めた女性が止めようとしたが、直後小夜と共に絶句した。
アリアが二階建てはあろう高さまで跳躍し、そこにあるイモリの頭を蹴り飛ばしたのだ。
「大丈夫じゃないですかね」
先に冷静になった小夜が真顔で言う。
霧を払いながら吹っ飛んでいくイモリを、戯れつくようにアリアが追いかけて行く。
「なんだ……? 彼はいったい?」
呆気に取られた青年も、解答を求めて小夜に向くが、そんなの小夜だって知らない。
再び霧が立ち込めた向こうで、青い光が明滅するのが見える。アリアの魔法だろう。
「あ、下手に動かない方が良いと思います。はぐれたり、他にもああいうのがいないとも限りませんし」
今の内に逃げよう、あの子供はどうするんだ、と少々いざこざが起こっている男性らに淡々と告げて、小夜はアリアの元に向かった。
◆
数歩先の風景もわからないほど視界が悪かったが、ほどなく巨大イモリは見つかった。
だらしなく開いた口から舌が伸び、緑の液体を流す姿に鳥肌が立ちながらアリアを探す。
やがて小夜の足は思わず凍り付いた。
アリアが、裂いたイモリの腹に顔を突っ込んでいたからだ。
ぐじゅぐじゅという音は、もしかして食べているのか。体液を啜っているのか。うえー。あからさまに引く小夜に、くるっと青い光彩が向く。ごくんとその喉が鳴った。うげー。
「……口、なかなかホラーじみてる」
べっとりと緑色の体液で汚れた口周りから、緑色が糸を引いて垂れ落ちている。下手なB級ホラーじみた光景に、お蔭で空腹も忘れた。
「……」
小夜はハンカチを取り出して、アリアの顔を黙って拭い始める。
大人しくされるがままに小夜を見ていた瞳は、徐々に光度を落ち着けていき、至って普通の子供に戻った。
「さよのほうがおいしい」
「イモリと比べられる身にもなってほしい」
一息つくアリアに、小夜のほうは溜息をついた。
「あなたは強いのかもしれないけれど、無茶はしないでよね」
「むちゃ?」
「……心配するってこと。アリアが怪我をしたら、私もいい気分はしない」
「ありあはまけないよ?」
アリアはよく分かっていない顔で首を傾げた。
小夜はもう一度溜息をつくと、アリアと馬車に戻って行く。
そう。悲しむかはわからないが、良い気はしないと小夜は思う。それが人間でも、別の何かだとしても。
「ああ、お客さん、そちらのチビさんも無事で……」
商人が息を切らしつつ言った。大人たちは、倒れた馬車を起こそうと苦戦しているところだ。
「これを、おこせばいいの」
ちょこちょこ小夜の隣に来て、アリアは尋ねる。
小夜が応えるよりも先に、小石を持ち上げるようにアリアは馬車を持ち上げた。ついでに泥からも引っ張り上げ、走行に問題はなくなった。
「えらい?」
期待するような瞳が小夜を見上げる。
頭を撫でてやると、アリアはご満悦な笑顔になったが、小夜は周囲の視線が痛かった。
「助かったよ。君のお陰だ。この状況もほどなく抜け出せると思う」
青年が疲れた様子でアリアと小夜に笑い掛けた。
「あ……本当だ、霧が晴れてきた……」
「うるさいの、あれがジャマだった」
アリアはイモリを指差す。
妖精たちもイモリに手を焼いていて、退治してくれる者を探していた、ということらしい。実に迷惑な騒動に巻き込まれたものだ。
「二人も無事だな」
ふうと息をつく青年の視線を追うと、浅くなってきた霧の向こうから、二つの人影が走って来る。
「方位磁石も戻っています。これで正規ルートに戻れるでしょう」
商人も汗を拭い、手綱を取る。
人数も揃い、ようやく出発となった馬車は、けれど疲労の空気が重たかった。
「ありがとうね……」
向かいの女性は少女を抱きながら、小夜とアリアにもう一度頭を下げた。控えめな笑みには安堵と、少し怯えがあって、小夜も軽い会釈だけにとどめた。
「さよ?」
「……眠れなかったんでしょ。いいよ、眠ってな」
小夜の肩に寄り添っていたアリアの頭を、小夜は撫で下ろす。心地良さげにアリアの瞼はとろんと降りて、やがて規則正しい寝息となる。
「……」
専門の狩人でもすぐに片付けられなかった化け物を、たった一人で難なく倒してしまった。まだあどけない子供の器に、得体の知れない力が潜んでいる。
『なにもの? ……さよは、おれがなにものだったらいい?』
アリアの言葉を思い出す。
――さあ。私もわかんないや
アリアの黒髪にそっと頬を寄せて、小夜も瞳を閉じた。
車輪の回る音しかもう聴こえない。霧の晴れた湿地の空は、青空が広がっている。




