四話
アセンシャの畑の中ではわからなかったが、外の景色は幾分穏やかな気候になっていた。
最初こそは、アセンシャの魔法で気候変動でも起こしたのかと思ったが、どうやら違う。
雪解けの痕跡が大地にあり、枯れ枝かと思えば、新たな木の芽が覗いている。越冬をしていた虫たちも顔を見せ、それを食べに鳥が囀っている。春の兆しが現れていた。
いつの間にかと思ったが、神の土地へと行っていたのだ。何があっても驚くまい。そう思うものの、やはり戸惑ってしまった。ただ、極寒の環境を今年は耐え過ごさなくてもいいことは嬉しいことだった。
外の様子を気にしながらも、ミレイスは急いでズヤウを家へと運んだ。
自分よりも体格の良い体を抱えて運ぶことができたのは、精霊の膂力あってのものだ。精霊で良かったと、ここ一番に喜びを抱いた。
ミレイスの部屋のベッドはズヤウには少々狭そうに見える。だが仕方ない。慌ててズヤウを運び込んだので、他に寝かせるベッドを選ぶ余裕がなかったのだ。
それから今度こそと顔や体を拭いて着替えをすませる。
ズヤウの抵抗がなければひどくあっさりと終わって拍子抜けしたほどだ。肌を晒してしまうことには、どぎまぎしてしまった。いけないことをしている気持ちが湧いたが、すぐにその気持ちは消し飛んだ。いくつもの傷跡が見えて、手が止まる。
どれもこれも古い跡で、薄い皮膚の下には鈍色の鱗が覗いている。特に背中が多い。元々、ここの皮膚や肉は裂けてえぐれていたのではと思って、胸が締め付けられたように苦しくなった。
今は痛みがないのだろうか。ないといいと願いながら、清拭を終えてから傷薬を塗って丁寧に服を着せた。
「……うん、大丈夫。ズヤウはお休みしているだけ」
言い聞かせるように呟いて、ベッドの傍らから離れる。
一息ついたところで居間へと戻る。
アセンシャの姿はまた見えなくなっており、代わりにズヤウの鞄や替えの服、生活一式の道具が居間に置かれていた。またどこかへと出て行ったのだろう。つかみ所のない人物なのだから、残念だが仕方がない。
いつ起きてもいいように、食事でも作ろうか。
前にも同じことがあったと思い返しながら、アセンシャの残した道具を改めてよく見てみる。そこには手のひらサイズの本も置いてあった。
(アセンシャ様の文字だわ。ご自分で書かれた本? だとしたらとんでもない貴重なものでは)
恐る恐る手に取って開いてみる。途端、文字が飛び出した。空中に投影された文字は可愛らしい丸みを帯び、色合いも桃色や黄色、黄緑と甘やかな色だ。
『彼に届け私の愛! とっておきの乙女の料理~愛の妙薬編~』
唖然として見て、そして、そっと閉じた。
題名のあとに材料名が流れ出てきたが、普通とは程遠い何かだったので、遠慮することにした。黒焦げのは虫類や劇辛粉末や発光する昆虫の卵やらは、病み上がりのズヤウに食べさせるには酷ではないかと思ったのだ。カヒイの都でズヤウの料理によって舌が肥えたミレイスには、そう判断できた。
(アセンシャ様……いえ、でも、きっと深いお考えがあってのことよ、多分。それに、いつか使う、かもしれないし……)
ズヤウに見つからないように、ミレイスは自分の魔法の鞄に入れておくことにした。
ほかに何かないかと探す。すると、見たことのない果実があった。
形は、小ぶりの丸で先端がやや尖っている。手のひらに収まるくらいの薄紅色をした皮の張り具合は、中に身がみっしり詰まっていると主張している。瑞々しい香りがする。
まるで、マネエシヤの菜園に足を踏み入れたときのような、その雰囲気を思い出させる芳香だった。
(これをすりおろせば、すぐに食べても大丈夫かしら)
数は十分にある。形を崩しても、あっという間になくなるということはなさそうだ。
(次は、スープ。それからお腹に溜まるようなもの)
台所に向かって、食材がある籠からいくつか手に取る。穀物を乾燥させた粉、芋類、ほかにいくつかの調味料。
丁寧に作らなくてはとも思ったが、自室で眠ったままのズヤウが気になってしょうがない。こうしている間に起きるのでは、だとか、具合が悪くなっているのでは、だとか、つい意識がいってしまうのだ。
おかげで、あまり凝ったものはできなかった。
前に作ったことのあるスープに、芋や野菜を加えて、さらに粉を練り丸めたものを投入した。もちもちとした食感があり、腹も膨れる。これは、ズヤウが以前作ってくれたもので、よくお代わりをしたから覚えた料理の一つだ。それから、先ほどの果物をすりおろして小皿に入れ、台所のテーブルに並べる。
そうして、小走りにズヤウのいる自分の部屋に向かった。
「ズヤウ?」
声を掛けながら入る。
起き上がっていることを期待してベッドを見るが、変わらず寝たままだ。
そろりと足を運んで、ベッドの端に用意していた丸椅子へ腰を下ろす。微かな呼吸に安心する。そっと頬を撫でて、きちんと生きている確信をもとうとして、胸元に耳を寄せる。
とくとくと音がする。生きている音だ。
(大丈夫。大丈夫……神様は許してくださった。マネエシヤ様も、こちらに戻してくださった。だから、ズヤウはすぐに目が覚めるわ)
だが落ち着かない。
ミレイスは気持ちを静めるために、起き上がって居間に置いていた料理をいくつかベッドサイドのこぢんまりとしたテーブルに運ぶ。それからまた、胸元に頭を乗せて、耳を澄ませる。
心配しているのか、自身が安心を求めているのか、これではわからない。そうは思っても離れがたいのだ。
頭を擦り寄せては耳を下敷きにして、また確認をする。そしてそのままうつ伏せになると、ミレイスは目を閉じた。
どのくらい時間が経っただろうか。
自動で魔法の明かりが自室に灯ったことから、日が暮れたのだとわかる。いつの間にかウトウトとしてしまっていたようだ。重たい目蓋を開けてミレイスが目を擦る。
「あまり擦ると、腫れるからやめておけ」
とん、と頭に手が置かれて撫でられた。ぱちりと一気に目が開いた。抱きついたままの状態でも、すぐにわかる。
思わず、力を入れてしがみついた。
「それから、僕はお前の枕じゃない」
そう言うが、声音は穏やかで、同様に頭に置かれた手も優しく触れている。
「ズヤウ」
「ああ」
「ズヤウ」
起きている。目が覚めている。
そのことが嬉しくてまた頭をすり寄せて、体の温かさに安堵を覚える。
「……よかった」
心の底から絞り出すように言葉が漏れた。嬉しくて涙が出そうな気持ちはこんな気持ちなのだと知った。
なおも抱きついたままのミレイスに、ズヤウは離れろともやめろとも言わずに、あやすように撫でてくれた。
それがまた嬉しかった。
ひとしきり抱きついたあと、体を起こすと、ズヤウもゆっくりと起き上がった。まだ疲れか痛みが残っているのか、動作はぎこちなく緩慢に見える。
「あのね、ズヤウ。アセンシャさまから食材をいただいたの。それで、私、ご飯を作ったの。だからね」
あのね、そのね、聞いて。
言いたいことがたくさんある。口に出せば、まるで幼子のような口調になってしまった。それくらい興奮をしているのだ。ズヤウは気が抜けたように穏やかに笑っていた。
「もらうから、落ち着け。お前が倒れてしまう」
「大丈夫、私、頑丈だもの! ああ、そうだわ。冷めたかも知れないから温め直してこなくちゃ」
「自分でする。お前の分は?」
「とってきます!」
ばたばたと部屋を出て、急いで用意をして戻る。ズヤウが起きていることに安心しながらまた椅子に座る。
ズヤウはミレイスの忙しない様子を見守って、それから魔法を使ってミレイスの分まで料理を温めた。
「ミレイス」
「はい?」
ちょいちょいと指先で呼ばれた。何かと思って顔を寄せれば、小さな音を立てて口づけられた。
「え」
湯気の立ったスープの器を両手で持ったまま、ぽかんと口が開く。そこに、ズヤウは自分の分のスープの具を掬うと放り込んだ。反射で頬張って咀嚼する。味は、ズヤウのものを何度も食べていたからおかしくはない出来だった。
(おいしい……でも、あれ、今。あれ?)
混乱しながらも飲み込めば、ズヤウは満足したようにうなずいて自分も食事を口に運び始めた。
(え? ええ?)
ズヤウを見ていたら、ぱちりと目が合う。朝焼け色の美しい瞳が和らいでこちらを見ていた。
「冷めるぞ」
「は、はい……?」
わからないながらもミレイスも食事を始めれば、小さく笑われた。
よくわからない。わからないが、ズヤウは楽しそうだ。
その様子に、ミレイスはひとまずいいかと思うことにした。
静かだ。けれども、嫌な沈黙ではない。
綺麗に平らげて、食器を重ねておく。片付けをして、口内を魔法で簡単にゆすぐ。
そうして落ち着いたところで、ベッドに腰掛けているくらいには調子が戻ったらしいズヤウに礼を言われた。真向かいに腰掛けたミレイスの前で、丁寧にズヤウの頭が下がる。
「世話になった」
ミレイスは目を瞬かせた。
「手当ても着替えも、お前だろう? 醜いものを見せて、悪かったな」
今度は、すぐに首を振った。そんなつもりはなかった。
世話をしただとか、嫌な思いをしたとか、一切なかった。むしろこちらがズヤウの隠していたものを見てしまったという罪悪感がある。
「ズヤウ、私のほうこそ、ごめんなさい」
「いや、お前が謝る必要はない」
優しく言ってくれるが、そうではない。違うのだ。
ミレイスは緩く首をまた振って、正直に打ち明けることにした。黙ったまま、偽ったままということは、精霊であるミレイスにとっては難しい。
ただ、それ以上に、自分に良くしてくれたズヤウに嘘偽りをもって接したくなかった。
嫌われるだろうか。
だとしたら嫌だ。けれど、言えないままというのも、駄目だ。
「あなたの過去を、マネエシヤ様を通して見てしまったの」
「僕の? マネエシヤ様が?」
ズヤウの秀麗な顔に疑問が浮かんでいる。眉根が寄って、どういうことだとミレイスを見ている。
「ズヤウが、マネエシヤ様に召し上げられたのだけれど……」
そう言うと、記憶にあったのか怪訝な表情から苦い表情に変わる。顔半分が隠れていないと、驚くほどズヤウは表情豊かだ。
だが、今はその表情がミレイスにとっては怖くもある。いつ非難をこちらに向けてくるのか、嫌悪をもたれるかと思えばキリがない。
しかし、ズヤウはミレイスの嫌な予想に反して、「ああ」と返事をしただけに終わった。
「さらに珍しがった神様方にズヤウが取られたの。それで、そのときに、その……過去を映されて」
「大体、分かった」
苦いままの顔で、ズヤウは言った。呆れられただろうか。恐る恐る見ていれば、ズヤウはやがてぽつりと言った。
「やっぱり神なんてろくでもない……気分良く鑑賞できるものじゃないだろ」
「あの、でもカイハンとの様子は楽しそうだったわ」
「ああ、それは、まあ」
思い出したのか、小さくズヤウが笑う。
「それで、本当に全部見たのか」
「ええ。ズヤウが意識を失うあたりまで。ごめんなさい、ズヤウ。あなたの了承もなく見てしまって」
「……そうか」
大きく溜息をつかれた。眉間に皺を寄せて口を閉じたズヤウに、もう一度身を縮めて謝罪の言葉を紡ぐ。
するとズヤウは、ミレイスの頭をちょっとばかり強い力で撫でて、離した。はずみで頭が上がる。目にしたズヤウの表情は、若干困ったように眉尻が下がっていた。




