十九話
――ああ、これには余計なものがついている。地に返そう。
見えない手のひらの上でころりと転がされたような。
意識ごとぐるりと回された心地を味わって、視界が回る。
いや、辺りは見えない。見えないが何故か回っていると感じたのだ。
どうにか転がるままの状態を止めようと、身動きする。腕を伸ばして、体をよじって。
そして、目が開いた。
幾度も見たことのある、あの夢の空間にミレイスは居た。
上下左右がわからない黒い空間。浮いているのか沈んでいるのか定かではなく、ミレイスばかりが白く浮かび上がるように色を持っている。
いや、もう一人いた。
少女だ。
ミレイスとよく似た少女がうずくまり、こちらに背を向けている。簡素な貫頭衣は、前に夢で見たかつての自分の姿とよく似ている。だが、どこか違和感があった。
(あれは……私じゃ、ない)
何故かそう思えた。顔が見えないからだろうか。背格好からは間違いなく自分と似た容姿だとわかる。だというのに、違うと即座に否定ができた。
それを証明するかのように、少女の背に覆い被さる影が増えた。
女の影だ。
今のミレイスよりも成熟した、女性の影。輪郭が揺らいでいることから、しっかりとした存在ではないようだ。茫洋として、色は薄くやや透けている。だが、少女に執着している様子だということは理解できた。
腕を伸ばして回し、頬ずりをしてはじっとりと絡んでいる。愛情が目に見えるのならば、あの女性から少女へ向けて粘性の泥がまとわりついているのだろう。
そして、絡まれた姿はやがて一つになる。女性が溶けて少女に吸収されていく。かぶりを振った少女が、びくりびくりと震えている。
ぎこちない動作。緩慢な仕草で振り返る。
少女は、やはり、ミレイスとは違う顔だった。
着飾る際に、さんざん自分の顔を見たのだ。すぐに、こんな顔ではないと思った。
だが、似ている。
ミレイスの顔と似通った容姿の少女は、活力に満ちあふれた姿とはほど遠い。
例えるなら、果実が熟し切って腐る手前の、終わりを匂わせる退廃的な美しさがあった。唇をつり上げて笑うだけの仕草が、ぞわりと肌を粟だたせるのはそのせいかもしれない。どこか悍ましさを孕んだ、目の離せない魅力を持っていた。
「ああ、キサ。キサ。わたしのキサ」
歌うように言葉を紡ぎ、少女が立ち上がる。若々しい見目とは異なる声だ。年を重ねた、色艶を含む女の声。うっとりと情感を込めて名前を呼ぶ。
左の親指に嵌められた木製の指輪を、恍惚とした表情でかざしては「ああ」と感嘆の息をこぼしていた。あれは、自分がアセンシャからもらったはずの物なのに。そう思うが、ミレイス以上に指輪に対して執着をしているように見えた。
「わたしがあなたになる。あなたにわたしはなる。キサ、わたしのキサ」
少女が歌う。歌って、そして、ただ見ているだけのミレイスに笑いかける。
「お前も、キサになるのだ」
怖気がはしった。
祝福でもくれるように、気軽に言われる言葉が、恐ろしかった。
「指輪の片隅に住んでいたキサを、手に入れました。キサと一つになれたのです。やっと、やっと……ええ、私は待っていました。お前が私を見ているのを見返しては、ずっと。さあ、お前も。キサになれる。私のあなた。こちらに」
足が動かない。
逃げようにも、この空間をどう逃げればいいのかわからない。早く目が覚めないかと思うが、一向に覚める気配はなかった。
ならば魔法をと思うが、うまく発動しない。
一歩、また一歩、少女の形をした恐ろしい何かが近づいてくる。
「お前が魔力をくれるたびに、私はよりキサに近づける。溶けたキサの、私の一欠片を飲み込んだのは、お前。だから、お前も私になれる。ともにキサになるのです」
(いや。嫌。来ないで)
言葉も発せずただ立ち尽くすミレイスに、形ばかりの笑みを浮かべて手が伸ばされた。
あれに捕まったら、どうなるのだろう。少なくとも、今のミレイスはいなくなってしまう。そう思えてならなかった。
(嫌だ。死にたくない。まだ、生きていたい)
少女の指先が胸元に触れる。
とろりと、彼女の指先が溶けた。砂糖が水に浸みて溶けるような、どろりと形を崩している。乳白色の何かがゆっくりとミレイスに入り込もうとしていた。
見たことがある色だった。ミレイスの生前。魔力を取り入れるのだと出された食事。それに近い。
嫌でもわかってしまった。かつて、ミレイスが食べていたものを連想させる何か。震えがはしり、嘔吐きそうになる。だが、体は動かない。
少女の指先から、手首、前腕とミレイスへと入り込んでくる。そのたびに、全身をまさぐられるかのような不快感が襲った。胸元から、首、胴、そして手へ。
だが、左腕に浸食が入る前に、破裂音がした。
「あぎっ」
少女がのけぞり、ミレイスからはじかれたのだ。何故かと左腕へと目を向ければ、そこには金の腕輪が輝き主張していた。なかでも、碧玉が瞬くように光っている。
ズヤウだ。すぐに悟った。
(あ……ああ、助けて、くれた)
助けを求めるなんて、無駄だとかつての自分は思っていた。でも、今は違う。すがれる相手が、頼りたい相手が、支えたい相手ができたのだ。
泣きたいくらいに嬉しくて、満足に動けるのなら声を上げていたかもしれない。ミレイスは自身を叱咤して奮い立たせた。
少女を見返す。いや、そこにいたのは、もはや少女ではない。
退廃的な美しさはどこかへと消え、あの少女へと覆い被さっていた女の姿へ、さらには朧気な影へと変じていた。それが許せないのか、身を振り乱して呻いている。
ミレイスを憎い敵だといわんばかりに睨みを向けて、手を伸ばした。
不思議と、怖さは感じなかった。
(私、まだしなくちゃならないことがある。したいことがある。だから、来ないで。ここから、私の中からいなくなって!)
ミレイスを置いて、大きな魔物へと向かったズヤウの無事を一刻も早く知りたい。カイハンたちもきっと待っている。アセンシャだって、このままミレイスがいなくなればさびしいと感じてくれることだろう。
近づく手に、ミレイスはしっかりと意思を持って迎えうった。
(――出ていけ! ここは、この体は、私の……ミレイスのものだ!)
瞬間。
風が逆巻いた。
荒れ狂う風がどこからともなく現れて、ミレイスの髪を乱す。パキン、と乾いた音を立てて、留めていた髪留めが前方に躍り出た。
風は羽根飾りの髪留めから出ている。淡く銀色に光り、大きな風を生み出して、ミレイスと少女の間を隔てていた。
怯んだ少女が後ずさる。
さらに強く羽根飾りは光り遠くへ押し出すと、今度は左腕にある碧玉が外れて飛び出した。緑色の疾風の刃が放たれ、少女を散り散りに切り裂いていく。血は吹き出ず、まるで紙細工のように少女は破れて暗い空間に溶けていった。
(……ズヤウ?)
少女へと羽根飾りと碧玉が攻撃を放つ瞬間、うっすらと見慣れた鈍色の髪を靡かせたズヤウの後ろ姿が見えた気がした。
しかしそれも僅かな間だ。少女が消えていくうちに、どちらの道具も光りの粒になって同じように砕け散っていく。びゅうびゅうと風の音ばかりが響いた。
(ズヤウにもらった物が、消えちゃう)
初めて他人からもらった、贈り物。宝物だった。
かき集めようと手を伸ばす。だが、欠片すら得られずにどんどんと消えていく。
それが悲しくて、夢中であった場所を探った。
ミレイスを置いて、魔物へと向かった背中を思い出してしまう。
探って、伸ばしてを繰り返している間も、風は渦巻き、ミレイスを巻き込んだ。大きな風に思わず目をつぶる。いつの間にか、動けるようになっていたのだ。
片腕で顔をかばっているうちに、辺りは白んでいった。
びゅう。ガタン。ごうごう。
風が鳴る。何かを揺らす音がする。
音に包まれながら、空間はさらに白く塗りつぶしていった。




