十八話
「外から、矢が。ここを封じ込めろと、人が集まって」
「矢? ……まさか」
ズヤウがさっと周囲を見た。遠くを見るように顔をしかめて、目を見開いた。
「あいつらか。わざと招いて魔物を放った……ちがう。それだけじゃないな、執政官の謀だ。あの女が裏切るのを承知の上か。くそ、巻き込まれ損だ」
これだから人間は。
舌打ち混じりに言って、ミレイスを支える腕の力を強める。
ざらりとした感触。衣服ごしでもわかった。ズヤウも魔力を吸ったのだ。どれだけの数だったのだろうか。この場にいなかったミレイスにはわからないが、人前で魔力を吸う選択をしたくらいには、追い詰められたのだろうか。
(ズヤウは、こんなにしてくれるのに。どうして)
なぜ外の人たちは化け物と呼ぶのだ。救ってくれた恩人を何故恐れるのだろう。こんなに優しく気遣える人だというのに。
「ミレイス、怪我は。他の奴らは」
「平気。カイハンが連れて行ってくれました」
「なら、もうここに用はない。立てるか」
頷いて、ズヤウの体に寄りかかりながら立ち上がる。情けないことに、あの魔法で消耗してしまった。まだまだ未熟だ。歯がゆく思いながら足に力を入れる。
そのまま、胸元に抱き寄せられた。
「飛ぶぞ。掴まれ」
「んぅっ、は、はい」
綺麗な衣装に抱きついても良いのかと躊躇いがちに背中に腕を回す。遠慮するなとばかりに回されていた腕が、さらに寄せたかと思えば、視界がぐらりと変わる。
屋根が下に見える。
上空に居るのだ。
今夜は星明かりだけではなく月も宵闇を照らしている。冷え冷えと澄んだ空気で、遠くまで見通せるほどだ。
こんな時でなければ、美しい月夜の散歩を楽しめたことだろう。だが、今はそれどころではない。
連続して魔法を使うズヤウが宙を移動していく。
喧噪が下になる。見れば、幾人か指さしたままこちらを仰ぎ見上げていた。何か言われているのだろうか。ろくなことではない。ただ、ミレイスは常人よりも良いその目でリスティチェが何か呟いているのを見つけてしまった。
――空に。
それに気づいた瞬間、羽音を耳が拾った。虫の羽音だ。
「ズヤウ」
「わかっている」
息を吐きながらズヤウはまた、転移の魔法を行使した。
***
空を見上げて、リスティチェは舌打ちをした。
美貌のレディ、高嶺の花。知る人ぞ知る、最上の女。かつてそう呼ばれた頃とはほど遠い。
うまい話があると持ちかけられてから数年。要望がある度に見目の良い女たちを唆して、だました。最初こそほんの少しの呵責はあったが、繰り返せばもうなんの感慨も起きなかった。
(聞いていないわよ、こんなの!)
だが、今回はどうだ。
大口からの依頼で、気合いを入れていたというのに。世間知らずの娘を適当におだてて、簡単な知識を教えるだけ。
滅多にない容姿の娘と青年だった。思い出すだけでも腹立たしい。あのテネスナイの口利きでなければ、騒ぎに乗じて売り払ってしまいたかったくらいだ。
旧友というのは嘘だ。むしろ、テネスナイはリスティチェの妬みの象徴だ。
女性で最上位にいた女。それだけで、敵視するに値する。だが、片や高級娼婦、片や前王太后だ。逆らうわけにもいかず、煮えくりかえった腸を隠して接していた。
自分よりも美しい者を見ると、苛立ちを覚えるようになったのはいつからだろうか。年を重ね、無邪気を装う商売方法が成り立たなくなってからだろうか。
リスティチェの魔法の才能は恵まれなかった。だが、用いる魔法の適正は恵まれた。こんな仕事をつくなかで、人の意識を和らげて好印象を持たせることが可能な軽い催眠を扱えるのは幸運だった。おかげで馬鹿みたいに稼いだものだ。
己の地位を保ちたい。さらなる美しさを得たい。そのためならなんだってする。
それは、はからずしも美貌狂いの第四王子と同じだった。あの王子は気味悪いが、得られる成果は捨てがたい。
だからほんの軽い気持ちで女たちを提供する役目を請け負った。自分よりもほんの少しでも美しい者たちに親しげに近づいて、信用を抱き始めたところを突き放すのは、快感だった。
(何が、今回は貴方の働きに報いる駒をおくります、よ! あんな、化け物! 騒ぎを起こして、さらに女たちをさらえってこと!? できるわけないじゃない! あの王子、やっぱり頭が狂ってやがる!)
思い出しかけて口元を抑える。
昔に差し出した研究材料、女たちがふらふらと戻ってきたかと思えば、急に姿が変わった。悪夢が現実に起きたらああなるのだろうか。
真っ先にリスティチェを相手にしていた男が喰われた。言葉通り、女の口が裂けて床まで落ちたかとおもったら形を崩して丸呑みにした。脈打つようにうごめいて、体が膨れて溶けて、そこからは会場に火がついたように一斉に皆逃げ出した。
戦おうとした者もいた。警備についていた者も武器を手に向き合ったが、なしのつぶて。慌ててリスティチェも逃げようとしたところに現れたもう一人の化け物。
鱗の腕を晒した魔の瞳を持つ男。あの娘と一緒にいた男だ。
何故かは知らないが、化け物同士でつぶし合っているなら都合が良いと押しつけて逃げ出した。
出て行ったところで、二階にいた娘と目があった。あの娘もまた、化け物に変わるに違いない。
半ば自己保身と恐慌に陥っていたリスティチェは指し示してこの館を壊せと口走った。今まで築いた自分の魅力と地位を持って、あの化け物から逃げるのだ。そう思って。
だが結果はどうだ。
月明かりの中、空を飛ぶ影。
「空に」
空にいた。逃げたのだ。館から解き放たれた。言葉に出したところで、リスティチェの上に陰が差した。
虫の羽音と共に現れた巨体。
「あ」
いつの間にか周囲に悲鳴は聞こえなくなっていた。
それもそのはず。リスティチェの目の前で、飲み込まれていっている。そして、それはリスティチェにも伸びていた。
悲鳴は、さほど響かず余韻も残さず消えていった。
***
まだ虫の羽音が耳を離れない。
短距離の転移を繰り返したズヤウが疲労も露わに息をしている。
すでに場所はプロフェンの街を離れていた。地面を軽く均しただけの街路と、最低限に伐採された森林の道だ。
ズヤウはその中で、目指す場所でもあるのか道沿いには進まずに森林の中を突っ切った。
入り組んだ森を抜け、辿り着いたのは静かな湖畔だった。
森の木々はそこを守るように枝葉で天蓋を作り、月明かりがその隙間から差し込んでいる。暗い中に落とされた光りは優しく、こんな状況でなければうっとりと魅入っていただろう。
その場にミレイスを下ろして、ズヤウは一息ついた。
「……ここは、まだ精霊がいる。お前一人くらいは、隠せるだろう」
精霊。
あたりを見ると、確かにそのような気配がする。同輩というよりも、魔力の塊というような。明確な自意思を持つ何かとは思えないが、こちらを気にしているような存在はいた。
例えば、風もないのにさざ波を立てる水面の下。例えば、天然の木々の天蓋から注ぐ柔らかな光。目をこらせばうっすらと何かの形を作っては変えて流れている。
それはミレイスの側をいたずらでもするように漂い、ズヤウの視界からは入らないように明確に避けていた。あの目を嫌っているのかもしれない。カイハンのように、魔力の塊でもあるこの存在は、ズヤウの目で見られれば魔力が乱されてしまうのだろう。
ズヤウはそれを気にした様子もなく、むしろ精霊たちを気遣うように湖畔から体ごと背けていた。
そしてその背は、今にもまたどこかへ行ってしまいそうだった。
(私一人? 隠せる? ズヤウは?)
どういうつもりかとズヤウを見る。まだしっかりと力が入らない体を動かして、近寄る。
「ミレイス。大人しく待てるか」
「何を、するの?」
嫌な予感がした。ズヤウの腕を掴もうと手を伸ばす。
その瞬間だ。
「みつけた。えいよう。ひかり。わたしの、わたしのおおお」
女の声だった。幾重にも重なった女の声。
それは空からする。あの天蓋の、その上から。
柔らかな月明かりを遮って、大きな胎を抱えた蛙の顔が湖畔をのぞき込んでぎょろぎょろと動いていた。
蛙と言って良いのかはわからない。だが、形容するならば、それが一番近いだろう。
ぼこぼこと隆起した瘤のある細長い四肢を折りたたみ、背中には三対の翅が生えている。翅脈は赤黒く、見ているだけでも不安になるそれをまばらに動かして大きな体を浮かせていた。
頭まで裂けた口が開いて、触手が伸びると精霊を掴んだ。食べているのだ。
「お前の苦言やそしりは後で聞く」
伸ばしていた手は逆に掴まれて、体を寄せられた。そのまま顔が近づく。
「だから、今は何も言うな」
口づけられた。前よりも、ずっと優しく。眼差しも、怒りにまかせていたときとは違う。どこまでも穏やかで、温かで、まるでミレイスを大事だと言わんばかりの感情が見え隠れした。
驚きに目を見開くと同時に、体から力が抜けていく。まるで内にある魔力の容量を吸い取られるような。
徐々に抜けていく力が、視界がぼやける。
(魔力を吸うことは、人からも、できるのね……)
ぼんやりとなりつつある意識で、ズヤウの体にもたれかかる。ゆっくりとそのまま、木陰に隠れるように体を預けさせられた。
薄暗い視界が、ズヤウの背を映す。一歩、二歩、歩く度にズヤウの姿は変わっていく。
そのまま空へと跳ねて、天蓋を昇る。
醜悪な蛙の顔がまるで打ち上がるようにかき消えた。咆哮に飛ばされたのだ。
肌が震えるような、奥底から揺すぶられるような声。
痛みに堪えた声なのかと思うと、胸が痛い。動けない体が悔しくて、せめてと動かそうにも、指先一つ動かない。
無理に動かそうとして、倒れ込む。
(ズヤウ。ズヤウ、待って)
置いていかないで。一人で戦うなんてしないで。私もその場に行かせて。
言いたくても、口から声が出ていかない。
見上げた先には、穴を開けた天蓋。その向こうで飛ぶ魔物。それに向き合い牙を剥く異様の姿。長い胴をうねらせて空を泳いでいる。
光りを受けて反射したのは、銀の色。鱗だ。
歯がゆい思いを、苦しい思いを抱えて、視線は空へ。意識が落ちるまで、じい、と届かない空を見上げていた。届かないのなら、せめて見届けようと思った。
細長い蛇体がしなって魔物に向かう度に、星の光に照らされて輝いている。空を駆る偉容。寝物語にも語られる稀な存在の一つ。
ただただ、ミレイスは遠ざかる小さな龍の姿を見ていた。
ちかりちかりと視界が明滅するのは、意識が落ちかけているのか。それとも。
空が一際白く染まる。そうして、そこにはもう何もない。魔物も、ズヤウの姿も。何も。
(ズヤウ……?)
ただ、何事もなく元通り。澄んだ冬の夜空が広がるばかりだった。
風が撫でる。冷たい夜風に吹かれて、ミレイスの意識は泥濘に沈んでいった。




