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「ぼく」と「僕」の物語  作者: 鳴海
プロローグ
1/6

開幕

「こんな話を知ってる?」


 彼はぼくにそう話しかけてきた。教室にぼくと彼しかいないからなのか、それとも初めからぼくと話すために彼が教室に残っていたのかはわからない。ただぼくはいつも通りこの教室を最後に出るために残っていただけだ。


 知らないよ、とぼくはその内容を聞かずに答えた。


 そうだよね、と彼は笑った。


「まだなにも話していないからそう答えるのは当たり前だったね。まあでもきみならそう答えるんじゃないかとは思ってはいたけど」


 窓を通して見える空は、すでに衣替えを終えていて、燃え上がっている火のような真っ赤な色に染め上がっていた。

 いつ見ても綺麗だ。

 ぼくが教室に最後まで残っているのはこの空を見るためだ。他の場所ではなく、この場所で見るこの景色が好きなのだ。

 そのことに賛同してくれた人はいない。そもそも話したことがなかった。ぼくがこうしてこの空を見ることが好きだなんて誰にも話してはいない。


 けれど彼は知っていた。


 ……知っていたのだろうか?


 ただぼくがそう思うだけで、本当のところは確かめていないからわからない。


「人間の価値についての話なんだけどね」


 彼はぼくが黙っているのを気にすることなく話し始めた。


「人間の価値というのは、その人が持つ才能や努力などの経験で決まるんだって。たとえば水泳の選手は泳ぎの才能があって、それに驕ることなく練習したからこそそれに見合った価値があるんだ。もし仮にどちらかがなければ、あるいは低ければその人の価値は、才能と努力をした人の価値を超えることはできない」


 彼はぼくが黙っていることをいいことに、流れてくるそうめんのような滑らかさで言葉を紡ぎ上げた。彼はお喋りなのだろうか、それとも俗に言う口から生まれたという曰くつきの子なのだろうか。それもまたわからなかった。


「まあ今のは『水泳』という枠組みの中だけでの話だよ。本当ならそこに性別とか、身長とか、体重とか、そういった何百という項目で人の価値っていうのは決まるんだってさ」


 ぼくは、彼がぼくにお構いなく話しかけてくるのと同様に、彼にお構いなく話しとは関係ないことを考えた。


 時間は夕方。


 場所は教室。


 いるのは二人だけ。


 これだけのシチュエーションなら、恋愛小説でよく見かける。『見かける』というのは小説に使う言葉ではないけれど、ぼくはそれ以外になにか思いつくわけでもなかった――いや、『目にする』が正しいのではないだろうか。

 今度小説家の友人に訊いてみよう。


 ――いないけれど。


 男女二人だけという空間というのは、ぼくには思い浮かべることができなかった。一体どうやって生きていけばそんな空間に巡り会うことができるのか、甚だ疑問でしかなかった。

 今、こうして二人きりの教室にいるぼくが言うのもおかしいけれど、教室に二人だけ――閉鎖された空間に二人だけというのは気持ちのいいものではないと思う。いやこんなまどろっこしい言い方をしなくても、素直に気持ち悪いと言ってしまったほうがいい。

 ぼくと見知らぬ人。

 ぼくと親しい人。

 ぼくと男性。

 ぼくと女性。

 どんな組み合わせを考えたところで、ぼくのその評価は変わらない。もしかしたら全ての組み合わせにいるぼく自身が気持ち悪いのかもしれないと考え、ぼくを外した組み合わせも考えた。けれどやっぱりぼくの評価が変わることはない。


 しかし、その空間のなにが気持ち悪いのか、と訊かれてもぼくは答えることができない。確固たる理由があって気持ち悪いと感じるのではなく、なんとなく気持ち悪いとしか言えない。近い表現を言うなら、『生理的に受け付けない』がしっくりくる。しっくりくるが、合致はしない。


 だからぼくはエレベーターに乗ることはないし、タクシーに乗ることもない。タクシーに乗るというのは中学生のぼくからしてみれば、外車に乗るのとそう変わらない。タクシーチケットなんか都市伝説だと思っている。

 以前エレベーターに乗ろうと決意し、扉を開くのを待っていたことがあったが、あの数十秒でぼくの寿命が数年は縮まったと思う。手に汗をかいたし、心臓が爆音を鳴らしてしたような気もした。それでもぼくは待ち続け、ついに扉が開いたその瞬間――ぼくは駆けだした。もの凄い嘔吐感に掻き立てられ、その場に留まってなどいられなかった。


 ただエレベーターに二人乗っていたのを見ただけなのに。


 ただの閉鎖恐怖症というわけではない。閉鎖した空間にいるからといって苦しむことはない。むしろそっちのほうが、居心地がいい。誰にも干渉されなくて済むのならそれはそれで気分のいいことだと思う。


 今のこの状況から考えてみても――今のこの状況だからこそ、そう感じるのかもしれない。


「ところできみは僕の価値はどのくらいだと思う?」


 それまでの話が耳に入ってこなかったのとは違い、その言葉は何故かぼくの鼓膜を震わせ、そして脳に到達した。


 ぼくは少し考え、

「二百円くらい」

 と答えた。


「二百円かぁ」


 彼はそう落ち込んだ風に言っていたが、ぼくにはそう聞こえなかった。そう答えられることがわかっていて、そういう風な反応をしたという感じだった。


 彼の考えていることがわからなかった。


 ぼくは彼が――気持ち悪かった。


「僕はきみにはものすごい価値があると思うよ」


 お世辞じゃなくてね、と彼は付け加えた。


 彼がお世辞を言う人には見えなかったから、そのくらいはわかっていた。いや、これじゃあ語弊がある。

 ぼくは彼の姿を未だ見ていない。

 それはぼくが窓際で空を眺めていて、彼が背中のほうから話しかけてきたからだ。別に彼は強要してこなかったし、これでも充分に会話ができていたから問題はない。言葉の感じや、背に感じる雰囲気のようなものが彼の人格を把握するのに充分な材料になったのかもしれない。


「きみにはなんていうか言葉では言い表せないくらいの価値があるんだよ」


「……でもそれはきみから見た場合の価値だよね? 世間から――世界からしたらぼくにはきみが言うほどの価値はないよ」


「そんなことはない。きみは自分のことを客観的に見ることができているじゃないか。そういうことはなかなかできないことだよ」


「過大評価、というより勘違いだよ」


 そんなことを言うために彼はここにいるのだろうか。そうなら今すぐに帰ってもらいたい。もうすぐ空が再び衣替えを始めてしまう。この赤い空を見ていられる時間は残り少ないのだ。邪魔をしないで欲しい。


 ぼくの心を乱すことを言わないで欲しい。


 だが、それは悲しくも――いや、今となっては嬉しくも叶わなかった。


「僕が今日きみに会いに来たのには理由があるんだ」


 彼はようやくそのことについて触れた。


「僕はきみを誘いにきたんだ」


「誘いに?」


「そう。僕はあることをしようと思っているんだ。それにきみも付き合って欲しい」


 回りくどい言い回しとはこのことだろう。

 ぼくは変わらず空を見続けた。



「僕は自分の価値がどこまで上がっていくのか試したいんだ」



 何故だかはわからない。

 わからないけれど、その言葉にぼくは心を打たれたような感覚に陥った。胸の鼓動が高鳴っていくのがわかる。風がぼくの耳にささやくように教室内を通り過ぎっていった。他に音などなかった。吹奏楽部のやかましい音も、運動部の耳障りな掛け声もなにも耳に入ってこなかった。


 そして。


 そしてぼくは彼と対面するために振り返った。


 それがぼくと彼の初の会合。


 後にも先にもこれがすべての発端だった。

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