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リゼルアルヴはタガルを自由にしてきた。友人にしてはあまりに近く、しかし恋人にしては遠い関係だった。だから自分にタガルの行動を制限する権利はないし、タガルはそれを望まないだろうと思ってのことだ。
思い返せばタガルは今のように、リゼルアルヴを苦しませる言葉を何度も投げかけてきていた。リゼルアルヴを縛るために。タガルのように、気ままに遊ぶことを許さなかった。
リゼルアルヴはタガルを縛らなかったのに、タガルはリゼルアルヴを縛りつけてきたのだ。
「どうして私ばかり縛られなきゃならないの! こんなの自由じゃない、フェアでもないわ! あなたが自由であり続けるために私が傷つくなら、私だって私が自由であり続けるためにあなたを傷つけてやるわよ! だってそうでしょう、あなたを好きになったのは私だけど、あなたはそれに応えなかった! なら私はまだ私だけのものよ! あなたが私のものでないように!」
悲しくはないが涙が止まらなかった。人は怒りでも泣けるのだと初めて知った。不思議な感覚だった。そもそもこれが怒りなのかも、はっきりとはわからない。ただわかるのは、こうして叫んでいても、自分がまだタガルに振り向いてほしいと願っている、ということだけ。
タガルはなんとも言えない顔で目をそらした。気まずそうなのがありありとわかる。彼のことだから、こうやって女に怒鳴り散らされるのは慣れているはずだと思っていたのに、その反応は予想外だった。
息を整えながら、続ける。
「あなたと家庭を築く未来を夢見てた。ありえないって自分に言い聞かせながら、それでも期待するのはやめられなかった。家族ってものを知らないから、いい妻にも、いい母親にもなれないかもしれないけど、それでもあなたとずっと一緒にいられる権利がほしかった。どうしても、あきらめられなかった。でもいいわ、もうあきらめるわよ。そんな未来は来ないわ、今度こそ、本当に」
半ば自分に言い聞かせていた。リゼルアルヴはわかっている。よく理解している。自分が『天国から一番遠い女』で、せめてこの世で幸せになろうとしてきたことは、無駄な足掻きでしかなかったことを。
リゼルアルヴは単純な女で、どんなことやものであっても、一度好きになったらずっと好きなままだ。何をされてもずっと、タガルが好きだ。リゼルアルヴにとって、タガルが好き、ということはごく自然なことだった。
あきらめようとこんなに努力しているのに、うまくいかないくらいには。
「……私はあなたが好きよ。あなたがどこに行っても、私に振り向くことがなくても。見返りなしにすべてを捧げてもいいと思えるくらいに。でもそれじゃだめなのよ。そんなのは、私の幸せには繋がらないわ。私は私自身で幸せにしてやらなきゃ、他の誰も幸せになんかしてくれないんですって。だから、私からあなたを捨ててやるのよ。あなたが私に見返りをくれるというなら話は別だけど、あなたはそういう男じゃないでしょ。あなたはタガル・ティ・トルヴァグ、誰よりも自由な男なんだから。……でも」
私はあなたになら自由を明け渡してもいいと思ってた。
吐き出したその言葉がすべてだ。自由を求めていたつもりはないが、束縛されたいわけでもなかった。しかしタガルの傍にいられるなら、どんなに不自由を感じてもいいと思っていた。たとえの話ではあるが、手足を失ったとしても、傍に置いてくれるならそれでよかった。
マトラドの顔を思い出す。フェレピジアのことも。ミビダリの言葉も。
彼らはみんな、リゼルアルヴを心配してくれていた。タガル・ティ・トルヴァグという男がどれほどのクズ男か知っているから、それにリゼルアルヴが振り回されることをよく思っていなかった。たとえ彼女が、自ら進んで振り回されているとしても。
だからリゼルアルヴは、彼らの気持ちを受け取るしかない。本当はリゼルアルヴもわかっている。タガルは恋愛の相手にふさわしくない。彼は彼自身も、自分を把握しきれていない節がある。そんな男を相手にしていては、いつかリゼルアルヴは身を亡ぼすことになるだろう。そう、わかっている。
わかっているけれど。
タガルが少しでもリゼルアルヴに対する気持ちを持っていてくれたら、死んでもいいと思える自分がいた。タガルの傍にいれば、『天国に一番遠い女』もせめてこの世では最高に幸せになれる。
「私は、私を幸せにしてやるの。今度こそ素直に、自由に生きるわ。たとえどんなに好きな人ができても、もうその言葉に振り回されたりしない。どんなに困難でも、そうするわ」
タガルは何も言わない。何か言おうと口を開いたが、結局すぐに閉じてしまった。
こんなタガルを見るのは初めてで、少しだけ緊張が解れる。怒りより、期待が勝ったのだろう。
「……あなたの気持ちが知りたいわ」
きっと今の自分は、涙でひどい顔をしている。袖でぐっと顔を拭って、微笑みかけてみせた。
何を言われても、もう大丈夫だと思えた。期待もあるが、それが裏切られたとしても、ごく普通に生きていける気がした。苦しかろうが、痛かろうが、悲しかろうが、きっともう大丈夫だ。
ミビダリのにやりと笑ったあの顔が浮かんだ。昨夜、初めて会ったばかりだが、出会えてよかったと心底思えた。リゼルアルヴという女はリゼルアルヴ自身しか幸せにしてやれない。唯一、幸せにできる男はタガル・ティ・トルヴァグだ。今までのすべてを吐き出して、それだけでずいぶんとすっきりした。
言いたいことはすべて言えた。ただ静かな気持ちで、タガルの言葉を待った。
タガルは珍しく腹立たしげにガシガシと頭を掻いて、しばらくの沈黙の後にようやく口を開いた。
「おまえのことは気に入ってる」
簡単なその一言。それっきり、また黙ってしまった。
しかし、リゼルアルヴにはそれで充分だった。その一言にどれだけの想いが込められているか、よくわかったからだ。
笑みがこぼれるのがわかる。幸せな気持ちが広がった。ああ、やっぱり自分は単純な女だ、とあきれてしまう。そのあきれに、単純でいい、と答えた。単純だとあきれられても、笑われても、幸せを幸せだと感じられるなら、それはきっと素敵なことだから。
冷め切ったコーヒーを少しだけ口に含む。甘ったるくて、まずかった。砂糖なんか入れなければよかった、と思った。
「私も好きよ、タガル」
タガルが好きで好きでどうしようもない。嫌いになんてなれない。
こうして数十に一度でも、タガルが気持ちを伝えてくれたら、もう死ぬまで彼に振り回されてもいいと思えるくらいに、リゼルアルヴはタガルのことが好きなのだ。
これからは誰にも振り回されてはいけない。自分は自分でしか幸せにしてやれない。わかっている。わかっているけれど。
自分以外に自分を、『天国に一番遠い女』を幸せにしてやれる、唯一の存在が、このタガル・ティ・トルヴァグ、どうしようもないクズ男なのだ。
つまり。
残念なことに、リゼルアルヴはタガルに心底惚れきってしまっている。
リゼルアルヴは困っていた。
どんなにあきらめる努力をしても、タガルが好きでたまらない。見返りが与えられる見込みは少なく、ただ何もかもを捧げることが愚かだとわかっていても。
どれほど心がけたところで、タガルをあきらめられない。心底、困っていた。
だから、リゼルアルヴはあきらめた。
タガル・ティ・トルヴァグをあきらめることを、あきらめた。
「ただのつまらない話よ。結局、私はそういう女だったってこと」
話を聞いたマトラドはあきれたように笑った。リゼルアルヴもまた、同じように笑う。
「フラれ仲間も解散か」
「あら、わからないわよ。報われないはずの私が報われたんだから、あなたが報われないはずないじゃない」
我らがリーダーにして、尊敬すべき友人であるマトラドの幸せを願いながら、リゼルアルヴはそう言った。
そして続けて「もしくは私がフラれるか」と冗談にならない冗談を口にして、この話は終わる。