第九話 記憶喪失
「あなた・・・・誰ですか?」
鼓膜を伝わって俺の脳へと送り込まれたその言葉はどこからどう見ても鈴川の口から言い放たれた言葉だ。
現実だ。空想な訳があるか。
鈴川が記憶喪失な訳あるかよ。
俺のこと忘れているなんて・・・・・
驚いているのはもちろん俺だけではない。
横に立っている鈴川の親父さんだって、俺の後ろにいる俊哉だって賀川だって急きょ駆け付けてきてくれた大野に春富、そして兄さんと椿さん。
誰もがこの事態を呑み込めていなかった。
「嘘・・・・・でしょ」
震える声で賀川は口で両手をふさいで言った。
目からは涙があふれ出ているのは見なくてもわかりきっていることだ。
俺は何も言葉にできない。
獅子堂も、俺と同じようにわかりきっていることなのに何も言わない。
なぜだか、涙が出てこない。
ずっと目を覚ますのに待ちわびていたその少女がこうなることはわかっているのにもかかわらず言葉一つかけてやれない。
「蘭・・・・・お父さんだ。わかるか?お前のお父さんだ」
鈴川の親父さんも震え声で娘の両肩をつかんだ。
しかし、鈴川は拒もうとしなかった。
拒めることができなかったのかもしれない。
「私の・・・・・お父さん?」
とぎれとぎれであるけれどしっかりと喋れている。でも、問題は鈴川が父親の顔を覚えているのかだ。
俺はその光景をじっと見ている。
「そうだ、お前の・・・・・お父さんだ」
「お父さん・・・・・なのね」
確信を持って鈴川が言う。
どうやら父親のことは覚えていたらしい。
「じゃあ、あの人は覚えているか?」
さらに鈴川の親父さんは、ベッドの前に立っている獅子堂を指差していった。
獅子堂が固唾を呑んでいるのがわかる。
賀川と、春富のすすり泣く声が病室に響き渡りながら鈴川は獅子堂の顔を見る。
「この人は・・・・・中学の頃一緒のクラスだった」
「っ!!」
一同が目を丸くした。
鈴川が獅子堂のことを覚えている。
だったら記憶喪失ではない。
鈴川は完全に記憶を失っていない?
でも・・・・だとしたらなぜ俺のことは知らないんだ。
獅子堂のことを覚えているのならば俺を覚えていてもおかしくはないはず。
「じゃあ・・・・・お父さんの隣のいる人は知っているか?」
今度は俺に指をさして鈴川に聞いた。
もし・・・・・・・鈴川が首を横に振ったら・・・・・
俺はそれ以上の思考を停止させた。
それ以上考えたって何も変わりはしない。
「ねえ・・・・蘭は、大丈夫よね?」
俺の後ろで俊哉にすがりついている賀川の小声が聞こえてきた。
「大丈夫だ。鈴川は大丈夫だから・・・・・」
俺も獅子堂と同じように固唾を呑みこむ。
「・・・・・」
鈴川はじっくり俺の顔を見て思い出すように見ている。
鈴川のまっすぐできれいな瞳に俺が映る。
俺は鈴川から目を背けなかった。背けたら現実から逃避しているように思っちまうから。
「知らない」
答えがそれだけだった。
首を横に振る動作と同時に鈴川が出した答えはそれだった。
これで確信したb。
鈴川は高校に入学、つまり俺と出会ってからの記憶だけを失くしているんだ。
そうとしか理由づけられない。
なんで獅子堂を知っていると首を縦にふったところでもう分かっていたはずだ。
「嘘・・・・・」
今度は俺がつぶやいた。
自然と目に涙がたまる。
しかし泣けなけなかった。
泣こうとは思わなかった。
鈴川が記憶を失くしていることはすでに獅子堂から聞いていた。けれど、俺と過ごした日々の記憶がなくなるとまでは知らない。
現代の医療技術は記憶喪失を予測できようとも、どの部分からの記憶が無くなっているかなんて知ることなんで今では不可能だ。
「鈴川さん、ここから少しいいですか?」
「先生・・・・・」
鈴川の担当医が鈴川の親父さんに手をかけた。
「蓮司君。念のためのことがあるからここからはお医者さんに任せよう」
俺は迷いもなくうなずきその場から離れた。
担当医は鈴川の脇に座り優しく話しかける。
「あなたの名前は?」
最初の言葉はそれだった。
唐突すぎたのか少し戸惑っていたけれど迷わず、
「鈴川蘭です」
「じゃあ君の通っている学校の名前は?」
「私立・・・・・笹ノ川学園」
少し引っかかるところがあったものの間違えずにこたえることができた。
やはり、記憶を失くしているのは俺と出会って以降の事なのか。
「あなたは友達の名前を覚えていますか?」
さらに頭まで抱え込んでしまった。
それほど思い出すのに重傷なことか痛いほど知ってしまった俺にとってこの光景は目に入れたくない。
鈴川は頭をあげ、まず指差した人物は俊哉に寄りかかっていた賀川だった。
「賀川・・・・・利華。私の最初の友達」
「・・・・・蘭!!」
親友に名前を呼ばれて賀川は思わず鈴川に抱きついた。
しかし鈴川は何のことかさっぱりわからない。わかるはずもない。自分がなぜここにいるのかすら分からないままなのだから。
「瑠奈・・・・・私のクラスメイト。友達」
「・・・・らーん!!」
春富までもが鈴川にすがりついた。
二人とも涙を流しては嗚咽しながら鈴川の名前をひたすら呼ぶ。
そうか、これが最後の砦だったのか。
ようやく担当医の人がこんな質問したのかわかった。
鈴川にとって大事な人である俺を覚えているのかどうか確かめるためだったのだ。
しかし確認する必要はもうない。
すべては鈴川に声をかけたところで決まっていたのだ。
鈴川は俺と出会って以降の記憶を失くしたんではなくて瀬原蓮司という人物の記憶が無くなっただけなのだ。
もちろん、俺だけという風にいえる根拠はない。
けれど、質問を続ければわかることだ。すでに賀川と春富の名前を思い出した時点で決まっていたのだから。
鈴川にすがりついている賀川と春富はわかっていないんだろうな。
まあ自分たちだけでも覚えていてくれただけならそれはそれでいいことなのだろう。
おそらく鈴川は俺のことをどう思い出そうとしても思い出すことは不可能であること。
まだ担当医が鈴川に質問する中、俺は音を立てないよう静かに病室から出て行った。
その行動を俊哉は見逃すはずがない。
屋上へ来るとやはり春の気候だった。
冬に立ち寄る屋上と春の立ち寄る屋上だとやはりポカポカとした感じで気持ちがいい。
ホント、さっきの出来事が嘘になりそうなくらい気持ちがよくて・・・・・・
「何やってんだよ」:
大きな伸びをしていたら聞きなれた声が耳に入ってきた。
「なんだよ。こんなところに」
「お前がどこかに行こうとするから心配してきたんだよ」
お人よし。とか言いたかったけれど言ってもどうせいつもの下らない口弦歌で終わるのがオチだ。
こんなところで強気になったってしょうがない。
「何強がってんだよ」
「・・・・・」
心が読まれる。
そんなはずがない。
今のはたまたまだ。
「ははっ、何言ってんだよ。俺が強がるわけなんて・・・・・って・・・・あれ?」
なんでだろう・・・・自然と涙が出てきた。
さっきは泣かなかったのに・・・・・なんでなんだよ。あれくらいで泣くなんて・・・・男じゃねえよな。
「我慢するなよ」
「我慢なんてしてねえよ。目にゴミが入っただけだ」
俺は苦し紛れに両手で目をぬぐっていると首元が絞められる感触が伝わってきた。
手を放すと、俊哉が俺の襟首をつかんでいた。
「そういうのを強がっているって言うんだよ!!」
俊哉の怒声が響いた。
風が強く吹き付け、屋上の下から見える桜並木が音を立てて揺れた。
「お前知っていたんだよな!?鈴川が記憶し失くしているっていうことを。獅子堂から聞いたんだよな!?」
何も答えられない。
口元を殴られたように言葉を投げかけられ口が開かなった。何を言っていいの分からなかった。
図星。だからか。
そう、すべては獅子堂から聞いたのだった。
意識が戻ったとしても、記憶喪失になっているということを。
もちろん、すべての記憶かほんの一部の記憶が無くなっているかなんてそこまで細かなところまでは教えてもらうも、医者がそこまで汁がはずがない。
「日ごろの行いが・・・・・災いしたんだよ」
ぽつりとつぶやいた。
「じゃあ、獅子堂から聞いたのか?」
「そうだよ・・・・・すべては獅子堂から聞いたんだよ。鈴川の意識が戻ったとしても記憶はなくなるって・・・・・」
「だったらなんで泣かねえんだよ。なんで涙を流せねえんだよ!!」
親友のその言葉で俺はうやむやとなっていた思考が覚醒した。
なぜあの場で泣かなかったのか?
なんで俺はあの場で泣かなければいけないんだ?
同じ言葉が目の前で羅列するような錯覚にとらえられる。
俺は思いきって喉をゴクリと鳴らし精一杯の力で今度は俊哉の襟首をつかんだ。
「俺があの場で涙を流せば鈴川の記憶が戻るとでも思っているのか?今まで俺と一緒にいたあいつが忘れちまった俺を慰めてくれるのか!?
どう見たって泣けねえんだよ!!泣きたくてもあいつの前じゃ泣けないんだよ!!」
最後の一言が再度、桜並木を揺らしたかのように見えた。
「俺はよ・・・・・・五日鈴川が記憶をもどすって信じているよ。信じているから・・・・・・それまで流す涙はあいつの前では見せないって今決めた」
これでいいんだよ。
これで少しだけ、一歩近づくことができるんだよ。
「それはお前の自由でいいけれど、自己紹介くらいしておけよ。いつまでも初対面のままじゃどうしようもできないだろ」
・・・・ったく、
どこまでこいつはお人よしなんだか。
俺は安堵の笑みを浮かべて、馬鹿な親友の後について鈴川の病室へと戻って行った。




