ep0.3 禍々シキ者
ep0.3
終業式を終えた教室。
窓の外では、春を迎えた柔らかな陽射しが校庭を照らし、たくさんの生徒たちが名残惜しそうに笑い合っている。
「じゃあな!また四月!」
「春休み、遊ぼうぜー!」
「魔ズニーランド行こうよ!学生割あってさ〜」
廊下からは、別れを惜しむ生徒たちの賑やかな声が絶え間なく聞こえてきた。
――だが、一年A組だけは違う。
誰一人として席を立たない。
笑い声も。
私語も。
椅子を引く音すらなく、教室には時計の秒針だけが五月蝿いほどに響く。
教壇へ立つ佐藤は、その光景を静かに見渡す。
38人の視線。
その全てが、ただ真っ直ぐ自分だけを見つめていた。
黒く。
深く。
まるで底の見えない穴のような瞳で。
佐藤は小さく息を吐き、手元の出席簿を閉じる。
「……それじゃあ、最後に一つだけ連絡だ」
教室にいる全員が微動だにしない。
誰一人、瞬きすらしない。
「みんなは来年度から、二年Z組――特進クラスへ進級する」
「四月以降は、本校舎ではなく"旧校舎"へ登校するように」
「詳しい説明は始業式の日に改めて行うが……今、配布した資料へ目を通してくれ」
静寂。
全員がプリントへ視線を落とし、暗い瞳孔が忙しなく駆け巡り、一瞬で読み終える。
そしてまたすぐに顔を上げる。
返事をする者はいない。
ただ、全員が佐藤を見つめ続けている。それが読了の合図だと分かる。
「……よし、それじゃあホームルームは終わりだ。約一ヶ月……"学生らしく、たくさん遊ぶように"」
静寂の中、その一言が教室へ落ちた瞬間だった。
ぱちり。
誰かが、瞬きをした。
それを合図にしたかのように、教室中へ音が戻る。
「やっば、腹減ったぁ!」
「ねぇねぇ!これからどっか遊び行こうよ!」
「カラオケ!」「いやボウリングだろ!」
次々と椅子を引く音が重なり、鞄を肩へ掛ける音、笑い声、机を叩く音が教室を埋め尽くしていく。
ほんの数秒前まで、人形のように動かなかった三十八人。
その面影は、もうどこにも無かった。
「ワンちゃん!一緒に帰ろ!」
「え??……あぁ、そっか」
「部活はもう無いんでしょ!」
「……そうだね」
「何も無い春休みだよ!いっぱい遊びいこ!!」
「そう、しようか!」
戌亥は笑顔を浮かべ、一色透花と並んで教室を飛び出していく。
「先生またねー!」
「来年もよろしくー!」
元気よく手を振る生徒たち。
「……ああ!事故とか怪我には、気をつけてな」
誰もが、ごく普通の高校生だった。
教室には、次々と「さようなら」が響き渡る。
やがて最後の一人が教室を出ていき、扉が静かに閉まった。
再び訪れた静寂の中。
佐藤は誰もいない教室を見つめ、小さく息を吐く。
「……たくさん、思い出を残しておいで」
その呟きが届く者は、もう誰もいなかった。
〜
「でさ〜、ママは『アンタなんかが、なれるわけない』って、学校に電話しだしてさ!』
「……」
「ねぇ!ワンちゃん?」
透花の顔が、突然眼前に迫る。
「わっ!え、な、なに!?」
「話、ちゃんと聞いてる?」
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「もー!聞いてよ!!だから、うちのママがね――?」
どうやら、1-Aクラスの全員。
卒業後の進路は既に決まっているらしい。
私はスポーツ工学を専門とした大学に進学し、将来は汚リンピック女子バスケ日本代表のコーチへ。
根津の奴は東大に行くって言って、はしゃいでいた。
そして透花の将来は――
「ねぇ。本当に、アイドルになんかなりたいの?」
私は問いかける。
前を歩く透花は私の方を振り返って、笑った。
その目は相変わらず暗くて、深い。
「え?そう決まったんだから、アイドルになるんだよ。私が歌って、踊って日本を元気にしてあげるんだってさ〜」
「そうじゃなくて――」
透花は歩みを止めない。
くるりと後ろ向きのまま、両腕を広げる。
「もー!ワンちゃんって心配性だなぁ!」
青信号。
横断歩道を渡る人々も、皆ゆっくりと歩き始めている。
「私は大丈夫だって!理事長も、私はトップアイドルになれるって……」
その瞬間だった。
ブォォオン――
耳障りなエンジン音。
視界の端を、白い乗用車が凄まじい速度で駆け抜ける。
「――透花ッ!!?」
思わず叫ぶ。
だが、透花は何が起きているのか分からないまま、笑顔でこちらを見ていた。
「え?」
キキィィィィィイイイイイッ!!
アスファルトを引き裂くような急制動。
タイヤが白煙を巻き上げ、焦げたゴムの臭いが辺りへ広がる。
それでも。
止まらない。
車体は透花だけを目掛けるように、一直線に突っ込んできた。
「………ッッ!!!」
咄嗟に、目を瞑る。
キ、キィイイイイイッッッ!!!!
鼓膜を、激しく揺さぶる高音が鳴り響く。
私はどうしようもなく、その場へと屈んだ。
――独り、屈んでしまった。助けようとすら、思えずに。
……音が、止んだ。
車が何かに衝突する音も、肉片の飛び散る鉄の匂いもしない。
私は恐る恐る、瞼を開く。
白い乗用車は。
透花の鼻先、あと数センチという場所で停止していた。
タイヤから白煙が立ち上り、溶けた油の臭いだけが辺りを満たす。
「…………」
「……え?」
運転席の男は、ハンドルを握ったまま硬直していた。
顔面は真っ青。
「な、なんで……?」
震える声が、半開きの窓から漏れる。
「ブレーキが……いや、違う……俺、なんで赤で……?」
自分自身へ問い掛けるように呟き、何度も首を振る。
「俺……何やってた……?」
男は震える両手を見つめ、信じられないものを見るような目でフロントガラスの先を見つめていた。
周囲もまた、ざわめき始める。
「危なっ……!」
「今、信号赤だったよな?」
「あと少しで轢かれるところだったじゃん……!」
「大丈夫ですか!?」
人々の視線は、一斉に透花へ集まる。
それなのに。
透花だけは。
微動だにしなかった。
車の目の前で、両腕を広げたまま。
黒く、深い。
底の見えない穴のような瞳で、ただ前だけを見つめている。
「と、透花?」
「……皆が私を見てるね」
「――え?」
「……行こっか」
透花は、歩き出す。
全ての視線を、注目を背負いながら。
風だけが、透花の髪を静かに揺らしていた。
◆
「――若林くんや、春日くんは分かります。でも、太田くんと……"一色さん"にも適正が?」
佐藤は、広げたファイルを眺めながら綿堂理事長へと問う。
綿堂はファイルを手に取って、ゆっくりと口を開く。
『太田くんは生まれが……ね、色々あるでしょう。それに一色さんも――』
机に置かれた、一色のプロフィール。
そこに貼られている証明写真の少女は、思わず見惚れてしまうほど整った顔立ちをしていた。
艶のある黒髪。 透き通るように白い肌。 大きな瞳に、均整の取れた目鼻立ち。
派手な化粧も、着飾る様子もない。 それなのに、一枚の証明写真ですら周囲から浮き上がって見えるほどの存在感を放っている。
誰もが一度は振り返るだろう。それほど完成された、そんな"容姿"だった。
『そもそも禍津高校は各クラス37名の筈です。でも、1-Aは38名で1-Bは36名。
……確か一色さんは、元々1-Bになるはずだったのでは?』
「……た、確かに」
『私たちですら理由が分からない……認識出来ない"事実変動"が起きている。これは――』
「事実変動……現実の、改変……」
佐藤の額に、小さく汗が滴った。
『恐らく、神の御業。彼女は天界によってセットされたと考えることが自然です』
「それって……どういう?」
『さぁ?……私にも、分かり魔せんよ』
綿堂は一色のページに書かれた一文を、指でなぞる。
【一色 透花。禍津高校に深いトラウマと絶望を持つ。過去に何らかの事件へと巻き込まれた可能性あり】
『これは……何故か彼女が入学したときから分かっていた分析結果です』
「入学前から、我が校への絶望……?」
『何なら、彼女が一番最初に……"堕ちる"と予想してい魔すよ。私は』
「……」




