第2話:テスト勉強は緑のマーカーで完璧です!
六月の湿気が、図書館の古書特有の匂いと混ざり合い、私の嗅覚を心地よく刺激する。
前回の「オオワライタケ事件」から一週間。
私の愛の胞子活動は、一時的な潜伏期間を経て、再び活性化の時を迎えていた。
世間は、忌まわしきテスト週間。
放課後の図書館は、死んだ魚のような目をした生徒たちで溢れかえっている。誰もが教科書という名の枯れ木にしがみつき、知識という栄養素を必死に吸収しようともがく、哀れな菌類たちのようだ。
だが、私――菌田きのこは違う。
私は、図書館の最奥、最も日当たりが悪く、カビの発生率が高そうな「郷土資料コーナー」の影から、獲物を虎視眈々と狙っていた。
「見つけました……神木先輩」
閲覧席の中央付近。窓からの西日がわずかに差し込む席で、彼は頭を抱えていた。
その背中は小さく丸まり、時折「うぅ……無理だ……」という苦悶のうめき声が漏れている。先週の、狂ったように笑い転げていたハイテンションな姿とは別人だ。
どうやら、私の先輩は追い詰められているらしい。
これはチャンスだ。弱った宿主に入り込むのは、寄生菌の基本戦術。
私は音もなく書架から這い出ると、滑るような足取りで先輩の背後へと忍び寄った。
「……先輩、脳のシナプスが枯渇していますね」
耳元で囁くと、先輩は「ひぃっ!?」と短く悲鳴を上げて飛び上がった。椅子がガタッと音を立て、周囲の自習生たちがギロリと睨んでくる。
「す、すみません……」
先輩は青ざめた顔で周囲にペコペコと頭を下げ、それから私に向き直った。
「き、菌田さん……! 驚かせないでよ……心臓が止まるかと思った」
「心停止には『キヌガサタケ』の粘液が強心剤代わりになると言われていますが、試しますか?」
「結構です! ……というか、先週のアレ、本当に大変だったんだからね!?」
先輩は恨めしそうに私を睨んだ。
あの日、オオワライタケ入りドリンクを飲んだ先輩は、部室で一時間ほど笑い続けた後、電池が切れたように爆睡したらしい。
「筋肉痛で翌日の登板回避したんだぞ……。監督には『お前、何食べてラリってたんだ』って怒られるし」
「でも、笑うことで腹筋が鍛えられたはずです。怪我の功名ですね」
「ポジティブすぎるよ!」
先輩は大きな溜息をつき、再び机上のノートに視線を落とした。
開かれているのは『世界史B』の教科書と、真っ白なノート。
「……勉強、捗っていないようですね」
「うん……。僕、暗記科目がどうしても苦手でさ。年号とかカタカナの名前とか、全然頭に入ってこないんだ。今回の赤点はマズイんだけどなぁ……」
先輩が絶望的な顔でシャーペンを回す。
なるほど。記憶力の低下。集中力の欠如。
これは、私が救済の手を差し伸べる絶好の機会(培地)ではないか。
「先輩、諦めるのはまだ早いです」
私は制服のポケットから、とっておきのアイテムを取り出した。
「えっ、また変な汁とかじゃないよね? もう液体は飲まないよ?」
「違います。今回は『学習支援ツール』です。安心安全、オーガニック100%の」
私が机の上に置いたのは、一本の万年筆のような黒いペンと、タッパーに入った奇妙なサンドイッチだった。
「まずはこちら。私の特製、『ヒトヨタケ・インクペン』です」
「……ヒトヨタケ?」
「はい。ヒトヨタケというキノコをご存知ですか? 成長すると傘が溶けて、黒いインクのような液体になるんです。その抽出液を精製して、ペンに詰め込みました」
先輩は怪訝そうな顔でペンを手に取る。
「キノコの汁で……字が書けるの?」
「試しに書いてみてください。市販のインクよりも粒子が細かく、紙への浸透力が段違いですから」
先輩は半信半疑で、ノートの隅に『あ』と書いた。
その瞬間、彼の目が驚きに見開かれる。
「えっ……すごい、書きやすい!?」
ヌラリ、とした独特の書き心地。抵抗感が全くない。まるでペン先が氷の上を滑るように、漆黒の文字が紙の上に刻まれていく。
「でしょう? 摩擦係数が極限までゼロに近いんです。これなら、書いて覚える作業も疲れません。スラスラと知識が脳に流れ込んできますよ」
「本当だ……! 手が勝手に動くみたいだ!」
単純な……いえ、素直な先輩は、目を輝かせてペンを走らせ始めた。
『1789年 バスティーユ襲撃』『ナポレオン戴冠』
次々と歴史用語がノートに書き連ねられていく。黒々とした文字は、どこか有機的で、艶めかしい光沢を放っていた。
「すごいよ菌田さん! これならいくらでも書ける!」
「ふふふ、お役に立てて光栄です。……そして、脳の栄養補給にはこちらをどうぞ」
私は次に、タッパーの蓋を開けた。
中に入っているのは、パンの間に「白いモフモフとした何か」が挟まったサンドイッチだ。
「……これは?」
「『ヤマブシタケ』のサンドイッチです。中国では四大山海珍味の一つとされる高級キノコですよ」
先輩がサンドイッチを持ち上げる。白いモフモフは、どう見ても動物の脳みそのような形状をしていた。
「うわ、見た目が……脳みそっぽい」
「その通り! ヤマブシタケには『ヘリセノン』という成分が含まれていて、脳の神経成長因子を活性化させると言われているんです。つまり、食べれば記憶力が爆上がりします。受験生の必須アイテムですよ!」
「へ、へえ……。脳に効く脳みそみたいなキノコ……」
先週のトラウマがある先輩は一瞬躊躇したが、今の書き心地の良いペンによる高揚感と、「記憶力向上」という甘い言葉には勝てなかったらしい。
パクッ、と一口食べる。
「……ん? あ、意外と美味しい」
「でしょう? クセがなくて、少し海鮮のような風味があるんです」
「うん、これならいける! ありがとう菌田さん、なんかやる気出てきた!」
先輩は、右手でヒトヨタケのペンを走らせ、左手でヤマブシタケのサンドイッチを頬張りながら、猛烈な勢いで勉強を始めた。
鬼気迫る集中力だ。ノートはまたたく間に真っ黒な文字で埋め尽くされていく。
私はその横顔を、じっと見つめていた。
ああ、尊い。
私が抽出したキノコの体液で、先輩が歴史を紡いでいく。私が採取したキノコの肉が、先輩の血肉となり脳細胞を活性化させる。
これはもう、私と先輩の共同作業。生物学的な融合と言っても過言ではないわ。
「頑張って、先輩。私の菌糸が、貴方の海馬をハッキングしている……」
◇
そして、運命のテスト当日。
一限目は『世界史B』。先輩が最も苦手とし、そして昨日、私の協力によって完璧な対策を行った科目だ。
休み時間、私は2年生の教室を覗きに行った。
先輩は自分の席で、自信満々の表情を浮かべていた。机の上には、昨日猛勉強したノートが置かれている。
「神木先輩!」
「あ、菌田さん!」
先輩が私に気づき、爽やかな笑顔を向けてくる。
「昨日はありがとう! あの後、家に帰ってからもあのペンで勉強したんだ。ノート一冊丸ごと使い切るくらい書いたから、もう年号も用語も完璧だよ!」
「それは良かったです! ヤマブシタケの効果で、脳の回転も絶好調のはずです!」
「うん! これで赤点回避どころか、高得点狙えるかも!」
チャイムが鳴り、私は自分の教室へと戻った。
勝利を確信していた。私のキノコ知識が、先輩の青春を救ったのだ。これで先輩からの好感度はストップ高。次は「お礼にデート(という名のキノコ狩り)」に誘われるに違いない。
私はウキウキしながら、自分のテスト用紙(生物基礎)に「キノコの分類」について必要以上に詳しく書き込んでいった。
……しかし。
悲劇は、テスト開始直前に起こっていたことを、私は知らなかった。
◇
放課後。
私は再び、先輩の教室へと向かった。「どうでしたか?」と、勝利の報告を聞くために。
だが、教室の入り口で、私は立ち尽くした。
先輩が、机に突っ伏していた。
その背中からは、この世の終わりのようなオーラが漂っている。周囲のクラスメイトたちが、腫れ物に触るように遠巻きにしている。
「せ、先輩……?」
恐る恐る声をかけると、先輩がゆっくりと顔を上げた。
その目は虚ろで、頬はこけ、まるで数日間遭難していたかのようにやつれていた。
「……あ、菌田さん……」
声も掠れている。
「ど、どうしたんですか? テスト、難しかったんですか?」
「……いや、問題自体は、見たことあるやつばっかりだったんだ」
「じゃあ、どうして……」
先輩は、震える手で机の中のノートを取り出した。
「テストが始まる直前にね、最後の見直しをしようと思ったんだ。昨日、君のペンで必死に書き込んだ、このノートを……」
先輩がノートを開く。
私はそのページを見て、息を呑んだ。
「……えっ?」
そこには、文字がなかった。
いや、正確には「文字だったもの」があった。
ノートのページ全体が、どす黒い、ネバネバとした液体で塗りつぶされていたのだ。
まるで、墨汁をぶちまけたかのように。あるいは、何かが溶けて崩れ落ちたかのように。ページを開いた瞬間、ツンとした腐敗臭のような匂いが漂う。
「な、なんですかこれ!?」
「……消えたんだよ。僕の勉強の成果が」
先輩が乾いた笑いを漏らす。
「朝起きた時は大丈夫だったんだ。でも、学校に来てカバンを開けたら、文字が滲んでて……。テスト直前に開いたら、全部こうなってた。ドロドロの黒いシミになって、何も読めなくなってたんだ」
私はハッとして、自分のポケットの『キノコ図鑑』を取り出した。
震える指で「ヒトヨタケ」の項目を開く。
そこには、重要な注釈が赤字で書かれていた。
【注意:ヒトヨタケのインクは、時間が経つと自己消化酵素によって分解が進み、さらに空気中の雑菌と反応して腐敗・液状化する性質がある。保存用のインクとしては極めて不向きであり、数時間から半日で判読不能になることが多い】
「あ……」
私の口から、間の抜けた声が漏れる。
そうだった。ヒトヨタケは「一夜茸」と書く。その命は短く、すぐに溶けて黒いしずくとなり、土に還る。
その儚さこそが風流であり、私が愛するポイントだったのだが……それを学習用インクとして使ってしまえば、どうなるか。
先輩が一夜漬けで詰め込んだ知識は、文字通り「一夜」で溶けて消滅したのだ。
「頭の中が真っ白になったよ……。ノートを見ても黒いシミしかないし、匂いは臭いし……。パニックになって、覚えたはずの年号も全部吹っ飛んだ」
「そ、そんな……」
「しかもさ、ヤマブシタケのせいかな……テスト中、ずっとお腹がゴロゴロ鳴ってて……集中どころじゃなかったよ……」
先輩が再び机に突っ伏す。
その肩が小刻みに震えている。泣いているのだろうか。それとも、怒りに震えているのだろうか。
私は、黒く染まったノートを見つめた。
普通なら、ここで「申し訳ないことをした」と反省する場面かもしれない。
だが、私の「キノコ・フィルター」を通した視界には、全く別の光景が映っていた。
――なんて美しいんだ。
先輩の努力(勉強)が、黒い液体となって紙に染み込み、形を失って崩壊していく。
これぞまさに、諸行無常。生命の循環。
知識という有機物が分解され、新たな土壌となる瞬間だ。
先輩が泣いているのは、その儚い美しさに心を打たれたからに違いない。自分の努力が自然の摂理の一部となったことに、魂が震えているんですね!
「……先輩、素晴らしいです」
「え?」
私が感嘆の声を漏らすと、先輩が顔を上げた。
「見てください、この黒いシミの広がり方を。まるで抽象画のような、前衛的な美しさがあります。先輩の知識は消えたのではありません。このノートの中で、新たな菌類の苗床として生まれ変わったのです!」
「……え、なに? 何言ってるの?」
「テストの点数なんて些細なことです。先輩は今、世界の真理を体感したんですから! これは歴史のテストよりも価値のある学習体験ですよ!」
「…………」
先輩は、しばらく口を開けて私を見ていたが、やがて力なく首を振った。
「……菌田さん。お願いだから、期末テストの時は、普通のペンと、普通のパンを持ってきてね……」
「えっ? つまり、また私が勉強を見てあげてもいいってことですか!?」
「いや、そういう意味じゃなくて……はぁ……」
先輩の深い溜息が、初夏の教室に溶けていく。
その溜息さえも、私には胞子を飛ばす風のように感じられた。
大丈夫、先輩。
今回は「筆記具の選定」という実験で、少しだけデータのエラーが出ただけ。
次こそは、消えないインク……そうね、漆の成分に近いキノコを使えば、永遠に消えない(そしてかぶれる)愛のメッセージが書けるはず!
私のマイカツは、失敗を養分にして、より強く、より高く、菌糸を伸ばしていくのだ。
「次は体育祭ですね、先輩。お弁当、楽しみにしていてくださいね!」
私が満面の笑みで告げると、先輩の顔色が、ヒトヨタケのインクのように黒く沈んでいった。




