第3話:雨の日の相合い傘は香ばしい
梅雨前線が停滞し、日本列島は分厚い雲に覆われている。
天気予報のお姉さんは困り顔で「しばらく雨が続くでしょう」と告げていたが、私、菌田きのこにとっては、それは「しばらくパラダイスが続くでしょう」という福音に他ならない。
雨音は、大地の微生物たちが奏でる歓喜の歌だ。
アスファルトが濡れ、土の匂いが立ち上る。空気中の水分量が飽和し、カビやキノコたちが「待ってました」とばかりに胞子を飛ばす準備を始める。
世界が潤い、腐り、そして生まれる。
ああ、なんてロマンチックな季節なのだろう。
放課後の昇降口。
私は下駄箱の陰、傘立ての裏側という絶好の湿度ポイントに潜伏し、その時を待っていた。
外は、バケツをひっくり返したような土砂降りだ。校庭の木々は激しく雨に打たれ、グラウンドはすでに泥の海と化している。
生徒たちが「うわー、マジかよ」「最悪、靴濡れるわー」などと、生命の恵みを冒涜するような文句を垂れながら駆け出していく中、彼が現れた。
神木先輩だ。
部活が休みなのか、今日はエナメルバッグではなく通学カバンを持っている。
彼は昇降口の屋根の下で立ち止まり、空を見上げて途方に暮れていた。
「……うわぁ、完全に降られたな……」
独り言が漏れる。カバンの中を探っているが、折り畳み傘が入っている様子はない。
彼は困ったように眉を下げ、スマホで雨雲レーダーを確認し、そして深いため息をついた。
ビンゴだ。
私の予測通り、先輩は傘を忘れている。
光属性の人間は、天気という自然の脅威に対して無防備すぎる。だが、そこが愛しい。濡れて困っている小動物(大型哺乳類だが)のような姿を見ると、私の保護本能という名の菌糸がうずくのだ。
「……ふふ。出番ね、私の『アンブレラ・マッシュ』」
私は足元に置いていた、巨大な物体を持ち上げた。
ズシリ、とした重み。生きている証だ。
私はカビ臭い陰から這い出し、光の射す昇降口へと歩みを進めた。
「先輩、お困りのようですね?」
背後から声をかけると、先輩はビクッと肩を震わせて振り返った。
「えっ? あ、菌田さん……」
私を認識した瞬間、先輩の顔に一瞬だけ「またか」という警戒色が走ったのを私は見逃さなかった。前回の「消えるインク事件」の記憶がまだ新しいのだろう。だが、今の彼は選択肢を持たない遭難者だ。
「こんにちは。すごい雨ですね。前線が活発で、湿度計の針が振り切れそうです」
「あ、うん……そうだね。菌田さんは、帰らないの?」
「ええ。この湿気を全身で浴びてから帰ろうかと思っていたのですが……先輩、もしかして傘をお忘れですか?」
「……うん。朝は晴れてたから油断したよ。止むまで待つしかないかなって」
先輩が苦笑する。
今だ。私は最強のカードを切る。
「それなら、駅までご一緒しませんか? 私、少し大きめの傘を持っているので」
「えっ、いいの? 悪いよ、そんな」
「いえいえ! 困った時はお互い様、共生関係こそが自然界のルールです。さあ、どうぞ!」
私は背中に隠していた「それ」を、バッ!と目の前に突き出した。
「……え?」
先輩の目が点になる。
私が差し出したもの。それは、ビニール傘でもなければ、シックな布製の傘でもなかった。
柄の部分は、太くてごつごつした流木。
そして、傘の部分には――直径1メートルはあろうかという、巨大な、肉厚の、茶色くてヌラヌラと光る「円盤」がついていた。
「なに……これ?」
「『サルノコシカケ』の傘です」
私は胸を張って答えた。
「正確には、私の家の裏山で数百年の時を経て成長した、伝説級の巨大マンネンタケ(霊芝の一種)です。あまりに立派な傘だったので、採取して、撥水加工を施して傘に改造しました。名付けて『万年アンブレラ』です!」
先輩は口をパクパクさせている。
「キノコ……だよね? これ」
「はい。木質化しているので、非常に頑丈です。ビニール傘のように強風で折れる心配もありません。天然素材100%のエコな傘ですよ」
「いや、エコとかそういう問題じゃなくて……重くない?」
「愛の重さに比べれば、これくらい!」
私はにっこりと微笑んだ。
先輩は、激しい雨足と、私の持っている巨大なキノコを交互に見て、葛藤していた。
濡れて帰るか。キノコの下に入るか。
究極の二択。
しかし、優しい先輩に、後輩の好意を無下にする選択肢はなかった。
「……じゃあ、お言葉に甘えて……駅までお願いしてもいいかな?」
「もちろんです! さあ、中へどうぞ!」
こうして、私の夢見たシチュエーションが完成した。
相合い傘。
一つの屋根の下、肩と肩が触れ合う距離で歩く、恋人たちの特権。
ただし、屋根は巨大なサルノコシカケだが。
◇
ザーザーと降りしきる雨の中、私と先輩は歩き出した。
バラバラ、ボトボト。
普通の傘なら「パラパラ」という軽快な音がするところだが、この万年アンブレラは、分厚い菌類の肉体が雨を受け止めるため、鈍く重たい音が頭上で響く。
「……なんか、音が独特だね」
先輩が上を見上げながら呟く。
「はい。菌類の抱擁力を感じますよね。雨粒さえも優しく受け止め、養分に変えてしまいそうな……」
「養分にはしないでほしいけど……」
距離が近い。
先輩の左肩と、私の右肩が、時折コツンとぶつかる。そのたびに私の心臓という名の子実体は破裂しそうだ。
先輩の制服からは、シーブリーズの爽やかな香りがする。
一方、私たちの頭上からは――。
「……ねえ、菌田さん」
「はい、なんでしょう!?」
「なんか……すごく、香ばしくない?」
先輩が鼻をひくつかせた。
「なんていうか、こう……おばあちゃんの家の押し入れというか、湿った落ち葉の山というか……あと、ちょっと出汁っぽい匂いが……」
ギクリ。
私は冷や汗をかいた。
「そ、そうですか? これはアロマテラピー効果のある、森の香りですよ?」
実は、このマンネンタケ、完全に乾燥させてニスを塗ったつもりだったのだが、今日の猛烈な湿気のせいで、どうやら「戻って」しまっているらしい。
乾燥シイタケを水で戻すと強烈な出汁の匂いがするように、私の傘も今、雨水を吸って芳醇な香りを放ち始めているのだ。
「森の香りっていうか……うん、すごい濃厚だね……」
先輩は少し顔をしかめているが、雨に濡れるよりはマシだと思っているようだ。
だが、問題は匂いだけではなかった。
歩き始めて数分。
雨脚はさらに強まり、湿度も最高潮に達した。
キノコにとって、水分を含み、衝撃を与えられることは、あるスイッチが入る合図となる。
そう、繁殖のスイッチだ。
「……ん? なんか、粉っぽい?」
先輩が自分の肩を払った。
紺色のブレザーの肩口に、うっすらと茶色い粉が積もっている。
「あれ? なんだこれ、砂埃?」
「えっ」
私は慌てて見上げた。
巨大なマンネンタケの裏側、無数に空いた微細な管孔から、雨の衝撃に合わせて、フワッ、フワッ、と微細な煙のようなものが噴出している。
胞子だ。
私の傘が、先輩との相合い傘に興奮して、生命の種を撒き散らし始めたのだ!
「わっ、すごい! 先輩、見てください! 胞子乱舞です!」
「スポア・ダンス!? いや、これ汚れちゃうよ!? 何この粉!」
「大丈夫です、人体に害はありません(たぶん)! 漢方薬にもなる成分ですから、むしろ浴びれば浴びるほど健康になりますよ!」
「浴びたくないよ! 服が茶色くなっていく!」
先輩はカバンで頭を守ろうとするが、相合い傘の中にいる限り、充満する胞子からは逃れられない。
狭い空間は、茶色い粉塵で満たされ、私たちはまるで砂嵐の中を歩いているような状態になった。
「ゲホッ、ゲホッ! ちょ、菌田さん! 匂いもすごいし粉もすごいし!」
「吸い込んでください先輩! 私たちの肺の中で、このキノコは永遠に生き続けるんです!」
「肺真菌症になるわ!!」
先輩の悲痛なツッコミが雨音にかき消される。
すれ違う人々が、ギョッとして私たちを振り返る。
それはそうだろう。
巨大なキノコを掲げ、茶色い煙を撒き散らしながら歩く男女。妖怪・雨降らしの行進か何かに見えているに違いない。
散歩中の犬が、猛烈な勢いで吠えかかってきた。「ワンワン!(なんだその匂いは!)」と言っているようだ。
「ひぃぃ、犬まで! もう駅まで走ろう!」
「あっ、待ってください先輩! 走ると振動でさらに胞子が!」
「もう出ちゃってるよ! うわぁぁぁ!」
先輩は私の腕を掴むと、駅に向かって駆け出した。
ドタバタドタバタ。
走る衝撃で、マンネンタケはさらに激しく「ボフッ! ボフッ!」と胞子を噴射する。
それはまるで、蒸気機関車が煙を吐くように。
私たちの後ろには、茶色い軌跡が長く伸びていた。
◇
駅の軒下。
ようやく雨宿りできる場所にたどり着いた時、先輩は変わり果てた姿になっていた。
濡れてはいない。雨は完璧に防げた。
だが、全身がきな粉をまぶしたおはぎのように、茶色い粉でコーティングされていた。
髪の毛も、まつ毛も、制服も。全てが茶色い。そして、全身から濃厚なキノコ出汁の匂いを漂わせている。
「……はぁ、はぁ……」
先輩が膝に手をついて荒い息をするたびに、口からプハッと茶色い煙が出る。
「……菌田さん……これ……どうすんの……」
先輩が泣きそうな目で私を見た。
私は自分の姿を見た。私も同じく茶色い。
お揃いだ。
ペアルックならぬ、ペアスポアだ。
「素敵です、先輩」
私はハンカチを取り出し、先輩の頬についた粉を優しく拭おうとした(が、伸びて余計に広がった)。
「見てください、私たちは今、同じ胞子を浴びて、同じ匂いをまとっています。これは生物学的に見れば、受粉……いえ、融合したも同然です」
「……クリーニング代、請求していいかな?」
「もちろんです! その制服、私が持ち帰って手洗いします! 煮沸消毒して、この胞子からキノコを培養してみせます!」
「絶対に返してね!? 培養しないでね!?」
先輩は必死に自分の服をパンパンと叩いたが、微細な胞子は繊維の奥まで入り込んでおり、叩けば叩くほど香ばしい匂いが周囲に拡散するだけだった。
駅のホームのアナウンスが流れる。
周囲の乗客たちが、鼻をつまんで遠巻きにしている。
「……電車、乗るのキツイなぁ……」
先輩が遠い目をした。
「大丈夫です先輩。私が隣で、匂いの元として堂々と胸を張っていますから」
「何の解決にもなってないよ……」
先輩は力なく笑った。
その笑顔は、茶色い粉のせいか、いつもより少し枯れたように見えたが、私にとっては最高にセクシーだった。
雨はまだ降り続いている。
私の『万年アンブレラ』は、役目を終えて湿気を吸い、ずっしりと重くなっている。
まるで、私の重すぎる愛のように。
「また雨が降ったら、一緒に入りましょうね先輩!」
「……次は折り畳み傘、5本くらいカバンに入れとくよ……絶対……」
先輩の拒絶の言葉も、私には「次はもっと準備万端で迎え撃つよ」という愛の駆け引きにしか聞こえなかった。
梅雨はまだ始まったばかり。
私たちのジメジメとした、しかし熱い関係は、カビのようにどこまでも増殖していくのだ。
「ふふふ、菌糸が疼く……!」
駅のホームに入ってきた電車の風圧で、先輩の体からまたボフッと茶色い粉が舞い上がり、私は幸せな咳き込みをした。




