ACT26・UNLUCKY TROUBLE
「ウィルラントへ?」
ラネットが聞き返したのは、神野家のリビングでのことだ。ロディマスが、ラネットの一時帰国を促したのだ。
「なんでよ。願いの欠片収集もこれからだっていうのに」
「懐中時計の魔力を開放してしまっただろう。これから長く滞在するつもりなら、あって困る能力ではない」
懐中時計には、緊急回避に使用する魔法が込められている。いざという時、身を守る手段が断たれてしまうのはまだ幼くも学生身分であるラネットには必要不可欠な能力、らしい。
「面倒くさいなぁ・・・」
そう言いながら、ラネットはレトルトカレーを頬張った。
「むぐ。もぐ。もう。じゃあ、・・・一旦帰るかぁ」
渋々、といった様子でラネットは一時帰国の決意を固めたようだ。
「じゃ、そういうわけだから。ま、明日のは戻ると思うけど」
ラネットは元々ここの人間ではない。
一瞬。
ほんの僅か瞬きほどの時間。
光太朗の心の中に、寂しいという感覚が湧き起きてしまったのは気の迷いだろうか。
「じゃあ、ラネットちゃんはウィルラントに帰ってるんだ」
朝。登校の道すがら。
最近では投稿途中の公園付近で合流するのが常となっている。
光太朗の食生活を心配した、百合花の手作り弁当を受け取るのも兼ねてだ。
学校で手渡すのは無理だ。まだ慣れない。顔から火が出るくらいに恥ずかしい。だからわざわざ道を逆側に戻ってまで手渡している。
しまいには、母親からも娘のいつもとは違う行動を指摘された。
母親の要らない勘ぐりに対しても、友人の食生活を心配から来る行動だと力説。
母親は娘の行動を笑顔で見守るだけで、それを咎めることもしなかった。・・・きっと、その頭の中では壮大な勘違いが働いているに違いない。
それはともかく。
「神野君」
隣の同じ歩幅出歩く光太朗に聞く。
「・・・ラネットが家にいた時、その、お風呂とかどうしてたの?」
異世界人とはいえ、食事を取らないで平気なはずではなく、お風呂にだって入る。現にニアがそうなのだから。
「俺とは鉢合わせしない時間帯に入っていたらしい」
ロディマスの魔法で、風呂場の扉を厳重に施錠もしていたらしい。
ついでに言うと、身につけていた衣服の洗濯も、速乾魔法により何の問題もないのだという。
とは言え。
年頃の男と女のひとつ屋根の下は、百合花にとって、なんとも言えないもやもやを引き起こすわけで。
今のところ百合花が懸念する爛れた状況というのは起きていないみたいだが。
そんな穏やかではない気持ちを抱きながら、百合花は光太朗の後に続くのであった。
懐かしさを抱くには、それほど時間は経っていない。
だが、その優しい眼差しを宿した顔を見た時、異世界に身を置くラネットの胸の中の不安と共に安堵の息を漏らしたのは確かだ。
「やあ、良く帰ってきたね」
透けるような銀髪を称えた、優しい微笑み。
ラネットの通う魔法学園の教師、イングラム・グリフィス。
ウィルラントでも最高位の称号、賢人の地位を持つ、学園の教師を兼任する魔法使いでもあった。
イングラムはラネットの憧れだ。
その身に宿す博学の知識は勿論。誰に対しても分け隔てない、物腰の柔らかな紳士。現存する全ての魔法も習得しているという噂も嘘には感じられない、間違いなく天才。いや、天才という言葉でも言い表せない、稀代の大魔導師だ。
ラネットは懐から懐中時計を取り出す。彼の受け持つ生徒全て手渡した、緊急回避用の魔法の込められた懐中時計。それは生徒たちの試験達成の成功を望む、イングラムの魔法と祈りを込めたお守りでもあった。
「早速使ってくれたんだね」
「お陰で、いい願いの欠片が手に入りました!」
嬉しそうに、ラネットはローブの裾からロープに連なる小瓶の中からひとつを見せる。なみなみと満ちた、柔らかい輝きを放つ液体。
それを手にし、イングラムは表情を明るくさせる。
「凄いですね。これほどまでの輝きを放つ願いの欠片は見たことがない」
ラネットは、言い得ぬ喜びが心の奥底から湧き出るのを感じた。イングラムに褒められることは、この魔法学校に通う生徒にとって、テストで良い点を取るよりも誉れなことだ。
イングラムは早速、手渡された懐中時計を両手の中に収め、静かに息をを吐く。
大気の流れすらを止めるような、重々しい雰囲気。
時間を止めるほどの質量の魔力を、こうも簡単に行使できるイングラムはやはり、驚嘆に値する人間だ。
魔力の込め終えた懐中時計をラネットの手渡し、
「頑張って下さいね」
そう言って、イングラムはラネットの頭を優しく撫でたのだった。
日が高く登った頃。
時間は今は昼食時。
百合花の手作り弁当を掻き込む光太朗を見て、小清水はその顔にニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
「ゆりちゃんの手作り愛妻弁当も板に付いてきたねぇ」
その言葉に、百合花はあからさまに顔を真っ赤にさせて反応し、
「誰が愛妻よっ!」
と反論。
昔のパン食だった頃は、屋上が定位置だったのに、弁当は教室で無遠慮にも広げるものだから、百合花にとっては生き恥にも等しい。
お互い街の平和を守るヒーローとして、会議と称して屋上を集合場所として会っていたのだが、幸か不幸か、最近はアンチホープ、ダスター共にその活動のなりをひそめている。それが不気味ではあるが・・・。
百合花は光太朗に作った弁当よりも一回り小さいものを食べている。中身のおかずも、それこそ縮小させた、鏡写しのような。それも、小清水にとっては格好の的であるらしい。
この辱めも、あのラネットとかいう女の子が目的を達成し、ウィルラントに帰るまでの辛抱だ。
小清水の追求を躱しながら、百合花は弁当を食べ進めるのであった。
僅かな間だ。
家に自分以外、そして叔母以外の第三者がいたのは。
家の電気を点け、周囲を見渡す。リビングに人の気配はない。
食事のストックは、まだまだ涼香の用意してくれている物がある。だが洗濯は別だ。
いかに涼香に負担を、迷惑を掛けていたのだと思うのと同時に、その行為のありがたさを心の底から感じている。
洗濯は、やろうと思わなければいつまで経っても洗濯籠に蓄積するばかりだ。そういうクセを付けないためにも、どんなに身体がダルかろうとこまめに回すのが鉄則だ。
風呂を沸かそうと風呂場に向かう。
引き戸をに手を掛け、開ける。
光太朗の思考が停止した。
その奥は、浴室に続く脱衣所であるはずだ。そこに、ありえない人物がいる。
ラネットだ。
肌色の上に、萌黄色の下着を身に纏って、呆けた顔をこちらに差し向けている。着替え中か、脱ぐ前か。
いや、上気している様子から見ると、風呂に入った後なのか。
そんな思考を。
ラネットの絶叫が寸断した。
テーブルを挟んで、片腕で頬杖を突きつつ、ラネットが怒りでその表情を歪めている。
「最低!信じらんない!」
「帰ってきてるなんて、わからなかったんだ!」
光太朗の必死の弁明。
「明日には戻る、って言ったでしょ!」
言ってたかもしれないけど、そんなのいちいち覚えているかよ。それに、そもそもここは光太朗の家では無かったのか。
「警戒を緩め、施錠を怠ったこちらの落ち度だ」
ロディマスが、相変わらずそこが指定席のように、ラネットのカバンに身を収めながら言った。
ラネットの怒りは、その表情が示す通り、収まる気配はない。
不穏な空気の流れる中、家の中にチャイムが鳴った。
未だラネットの鋭い視線を背に受け、光太朗は玄関に向かう。
戻ってきたその後に引き連れたのは、百合花だった。
リビングに入るなり、百合花はその息の詰まるような重い空気に気付いた。
「・・・何か、あったの?」
ラネットは、視線を百合花に定め、口を開く。
「この変態痴漢野郎に着替えを覗かれたの。あんたも気をつけたほうがいいわよ」
「それは不可抗力だって言ってるだろ! それにちゃんと済まないって誤ったはずだ!」
「ど、どういうことおっ!?」
神野家のリビングで、百合花の絶叫が木霊したのだった。
光太朗の弁明、ラネットの主張両方を百合花は聞いた。ロディマスの証言も合わせると、ラネットの不注意。光太朗も配慮が足りなかったと痛み分けという落とし所に収まった。ラネットは、未だに納得はしていないようだったが。
「屈辱・・・!イングラム先生に会わせる顔がないわ!」
数時間前。
会ったばかりの教師の顔が浮かぶ。
清廉、で実直な先生の生徒としては、恥ずべき失態。
「イングラム先生?」
「ラネットを始め、魔法学園にて、通う生徒を受け持つ教師だ」
百合花の問いに、ロディマスが答える。
「こんなスケベで破廉恥な男とは、似ても似つかない聖人君子よ」
棘の抜けぬ、厳しい言葉。
今後、浴室前の扉には入室を示す印を設置することを定め、その場は手打ちになった。
「・・・ところで、白崎は何しに来たんだ」
光太朗に聞かれ、百合花は持参したビニール袋をテーブルの上に乗せた。
「博士から差し入れ」
中には、まだ温かい、料理がタッパーに詰まっている。
「アフロディーテ、寂しがってたよ。神野くんに料理を振る舞えていないこと」
アフロディーテの家事能力は本来蛇ノ目に対して発揮されるべきものだ。ただ、食事に関してはまだ若いとは言え、量は確実に先細っている。光太朗の食べる量とは比べるまでもないのだろう。
作りがいに関しては言えば、物足りなさを感じているのだろうか。それは、果たしてメイドロボの矜持だろうか。
久方ぶりのアフロディーテの料理に対しても、光太朗はその表情を嬉しそうにしなかったのが気になった。
由々しき事態だ。
百合花の預かり知らないところで何かが起ころうとしている。
光太朗とラネットの衝突も、転じて距離が縮まる一件になりかねない。そうなれば、神野家は爛れた関係が渦巻く巣窟に・・・。
それはいずれ、ヒーローとしての活動に支障をきたすかもしれない。
ぶるり、と百合花は身を震わせた。
いや。決して光太朗を心配しているわけではなくて。
「ニア」
百合花は傍らの友人の名を呼ぶ。
半黒半白の猫が、目の代わりに尻尾を揺らす。
「お願いがあるんだけど」
その猫は、顔を赤く染めた友人の言葉の続きを待ったのだった。
朝。
光太朗は胸の中の違和感で目を覚ます。
分かり安く重い訳では無いが、そこに乗っかっていれば、確実に違和感となる感覚。
布団をめくって自分の胸元を見る。
そこには。
半黒半白の毛の塊が鎮座していた。
「・・・ニア?」
それは、百合花の友人である猫。
本人は猫の姿をしているが、猫ではないとうそぶく奇妙な存在。人語を介し、意思疎通も図れる。どちらかと言えばロディマスにも感じた感覚だ。
「・・・まだ肌寒い。布団を掛けてくれると助かる」
ああ、ごめん。と、光太朗はその言葉通りに掛け布団を元に戻そうとして。
いや、そうではなく。
「なんでニアがここにいるんだ」
「しばらくここに置いてもらう」
起き抜けの頭では、理解の範疇の外にある言葉だが、冷静になって考えてみる。
「・・・なんで?」
「猫の気まぐれだ」
そう言いながら、光太朗の胸の中で丸くなることをやめようとしない。
それは、自分を猫だと認めたようなものではないのか?
そんなことを思いながらも、光太朗はベッドの中に猫を残して着替えることにした。
通学途中。
光太朗は百合花に自分のベッドに現れた半黒半白の猫の出現を報告した。
光太朗を驚かせたのは、何を隠そう、その指示を出したのが百合花だという。
「ほ、ほら!ラネット、女の子だし!何か困った時のために、というか!」
身振り手振りを交えての心苦しい言い訳。
その言葉に、光太朗はしばらく逡巡し。
「・・・そうだな。なんか困ったことが起きたら頼らせてもらうか」
百合花は、ニアを適当な理由を付けて光太朗の元に向かわせたのを心苦しく思っていた。




