Episode 30
パトリックに続いて、私たちも立ち上がった。お父様とアンドレは、黒魔法を使うため王城の魔法学者が用意した部屋に行き、私はパトリックとともに交渉用の資料作りに入る。
「この侯爵の心を動かせるよう、これとこれに目を通して交渉案の作成を頼む」
仕事がどんどん割り振られる。前世を思い出して、懐かしさと緊張感が蘇る。これ、ちょっとでも突っ込まれる隙があるとめっちゃ怒られて、やり直しさせられるやつだ。今回はさらに、自分たちのこれからも大きく関わるから失敗は許されない。集中しなきゃ。
目を閉じて背筋をぐっと伸ばし、深呼吸をする。それからぱっと目を開くと、交渉案の作成に取り掛かった。
――どのくらい時間が経っただろうか。交渉案の作成が一通り終わり、落ちがないか、もっといい条件が提示できないかを見返した。いつの間にか机にティーカップが置かれている。パトリックの従者さんがお茶を入れてくれてたみたいだ。出入りしたのにも気づかないとは、私もかなり集中してたんだな。せっかくだから一口飲む。冷めちゃったけど、香りがよくてほっと心が解れた。
パトリックにちらりと目をやると、一心不乱に何か書きつけている。その鋭い眼光は沢渡部長そのものだ。前世でよく、こうして一緒に残業したな。しばらくお茶を飲みながらパトリックを見ていると、眉間を指で摘まみながらパトリックが顔を上げた。あの仕草、超見覚えがある。ひと段落ついたんだな。
私は作成したばかりの交渉案を手に立ち上がり、パトリックの前に移動した。
「パトリック様、こちら、目を通していただけますか?」
「ああ、お疲れ。すぐ確認するから、その間にそこの書類、国別に整理しといてもらってもいいか?」
「はい、承知しました」
つい最近まで日常だったやりとりに、一瞬自分がイライザだって忘れそうになる。ラブソニの世界で沢渡部長と残業する日が来るとは、想像もしてなかったな。
書類を整理してから、部屋の隅に置かれていたティーセットでお茶を入れる。わぁ、このポット、いつでも適温のお湯が入れられるように魔法が組み込まれてるんだ。薬草があれば、疲労回復の薬湯でも入れたのにな。
パトリックの執務机にお茶を置くと、パトリックが顔を上げて微笑んだ。
「ありがとう。交渉案もよくできてる。ここのとこだけ、こっちの条件も追加しといて」
「わかりました」
私が書類を受け取ると、パトリックはお茶を飲んでふぅーっと長く息を吐いた。
「パソコンないって辛いよな。この問題が片付いたら、この状況どうにかしよう」
「ですね。手書きがこんなに辛いとは思いませんでした」
「ラブソニの世界観って、中世ヨーロッパっぽい感じをベースに現代っぽいアイテムは魔法で賄ってる感じだよな?そのポットみたいに。それなら魔法で何らかの解決策があると思うんだが…。とりあえず今はそれ探してる暇もないしな」
私は腕をぷらぷらさせながら頷く。ずっとペン握ってたから腱鞘炎になりそう。
そんな私をじっと見ていたパトリックが、立ち上がって腕を広げた。
「ん」
「何ですか?」
「充電。早く」
これは…ハグってこと?私は躊躇いながらも、パトリックの前に立った。その瞬間、ぎゅっと抱きしめられる。パトリックの胸に頬を埋めると、いい香りに包まれた。この香り、パトリックのデフォルトなんだな。沢渡部長は、どんな香りだったんだろう。
「――あー、癒される。最高」
私もパトリックの背中に腕を回した。密着度が増して恥ずかしいけど、ぴったりくっつくとなんだかすごく安心する。
「私も…最高です」
思わず正直に告げると、パトリックが嬉しそうな顔をしてちゅっとキスした。安心してたのに油断も隙もない!と睨みつけたら、そのままもう一度、深く長いキスをされた。舌を絡めとられて、足の力ががくんと抜ける。パトリックはそんな私をキスしたまま抱え上げて、ソファに移動した。
「はぁ…ん…」
疲れているせいか、すぐに頭がぼうっとしてきて何も考えられなくなる。貪るようなキスにすっかりとろとろにされていると、やっと唇が離れた。
「可愛い。もっととろけさせてやりたいけど、今はこれで我慢だな」
いやもう…十分とろけてますけど…。手加減しようよ…。
「充電完了。すげぇ元気出た。前世でもこうやって充電できてたらもっと頑張れたな、俺」
「いえ、大丈夫です。前世で沢渡部長にあれ以上頑張られたら、部署の全員が過労死してますから」
パトリックは私を後ろから抱きしめて、髪に顔を埋める。まあ、心は確かにちょっと満たされて元気出た…かも?
「ああ、いい匂い。大城の匂いにちょっと似てるかも。こんな近くで嗅いだことなかったけど。嗅いでみたかった」
「私もさっき、パトリックいい香りって思ってました。沢渡部長の香りはどんなだったのかな、って」
少しの間、私たちは黙ってお互いの存在を噛み締め合う。今の私たちはパトリックとイライザで、前世の二人として抱き合うことは二度とできない。
でも、この世界に転生したから、私たちは思いを通わせることができた。だからこそ、この幸せを絶対に守らなきゃならない。
「よし、もうひと頑張りだな。いけるか?大城…イライザ」
「はい、大丈夫です」
もしかしたら、私と同じことを考えていたのかもしれない。パトリックは最後に、数秒間抱きしめる腕にぎゅうっと力を込めた。ずっとこの腕の中にいられる未来を掴まなきゃ。
「さあ、休憩終わり!」
まるで自分に言い聞かせるように言って私から離れると、パトリックが執務机に向かう。
私も立ち上がってお茶のカップを下げると、さっきの交渉案を手直しすべく、机に戻った。




