43.そして、彼は更生した
山頂の広い駐車場を通り過ぎる。百台ほどは停められそうな舗装の広場だった。西に開けた視界には日本海が広がり、夕陽の沈む頃ならきっと息をのむほど美しい光景を見せるだろう。
――いや、綺麗な場所だった。
かなにあるはずのない確かな記憶が、胸を締め付けるように訴えかける。嘘じゃない、これは真実なのだと。
だが海斗はハンドルを切らず、駐車場を素通りした。
かなが不思議そうに彼を見つめる中、数十メートル先の小さな砂利敷きに車を滑り込ませる。三、四台ほどのスペースしかないそこに、他の車影はひとつもなかった。
「着いたよ」
エンジンを切ると、海斗は珍しくかなをリードするように言った。
「ちょっと、登ろっか」
その一言にかなは目を見開いたが、反論する理由もなく頷いた。二人して車を降りる。振り返れば、東の空がわずかに明け、地平線の彼方の山々が朝焼けの赤に輪郭を染めていた。
無言のまま、二人は脇に設けられた石段を登っていく。
そして山頂に辿り着いた頃、互いにすでに――現実世界の記憶を取り戻していた。
「ねぇ、かな」
海斗が静かに口を開く。
「なに?」
「やっぱり僕は……全部忘れないとだめなの?」
かなは言葉を失った。
本心では望んでいない。できることなら、ずっと覚えていてほしい。
けれど、それを許せば現実の“かな”の意志を踏みにじることになる。海斗は「もう存在しない自分」という影に縛られ、一生を苦しみの中で生きるだろう。それでは、この夢に託された意味さえ失われてしまう。
だからこそ――。
「そうだよ」
かなは努めて強く断言した。
「カイ君は、私をちゃんと忘れなきゃダメ。そのために、約束してたことがあるでしょ?」
海斗の瞳が大きく揺れる。
「な、なんで……」
「私が見せてた夢なんだから、あたりまえでしょ」
かなは淡々と微笑む。
「……って言っても、さっき山を登ってる間に思い出したばかりなんだけどね」
そう言って、かなは小さなカバンから小型の拳銃を取り出した。それは沙耶が生前遺した品のひとつだった。
海斗は半歩後ずさり、首を横に振る。
「む、無理だよ……できるわけない……」
震える声で繰り返す彼に、かなは声を張り上げた。
「小高海斗!!」
その名を呼ぶ声は山々にこだまし、祈りのように響いた。
やがて彼女は落ち着きを取り戻し、静かに告げる。
「もう時間なんだよ……もう私は、カイ君のそばにいられない」
涙を零しながらも微笑み、再び銃を差し出す。
「だからせめて、あの時の約束を――私を殺すって約束を、果たしてほしい」
海斗は動けず、ただその言葉を噛みしめた。
脳裏に浮かぶのは断片的な記憶。
『私ね、死ぬときは大切な人の手で殺されたいんだ』
『だからもし、私が死んじゃう時が来たら、カイ君が私を殺してね』
無茶苦茶な要求。普通なら拒絶すべき願い。
けれど、あの時の自分は「分かった。約束する」と答えていた。
――逃げたい。だが、それは許されない。
ここまで自分を差し出した彼女を、これ以上裏切ることなどできない。背を向けた瞬間、彼女の願いも、想いも、全部を踏みにじってしまう。
これは僕の罪であり、彼女の願いであり……二人の最後の約束。
海斗は静かに息を吸い込み、銃を受け取った。
「……分かった」
掌にのしかかる重さは、ただの鉄の塊とは思えなかった。冷たいはずなのに、焼けつくように熱い。
握っただけで全身の力が奪われるようで、膝が震える。
それでも視線を逸らさず、かなを見据える。
彼女は泣きながらも微笑んでいた。まるで「大丈夫」と言わんばかりに。
銃口をゆっくりと上げる。
だが腕は重く、指は鉛のように固まって動かない。
――撃てば、彼女はいなくなる。
――撃たなければ、彼女を裏切る。
心臓の音が、ひとつひとつ世界に響いていく。
時間が止まったかのように、風も鳥の声も消えていた。
海斗は唇を噛みしめた。血の味が口の中に広がる。
涙で滲む視界の先で、かなが静かに頷いた。
その瞬間、ようやく指が動いた。銃声が山々に轟き、白煙が空へ溶ける。
そして、かなの身体が芝の上に崩れ落ちた。
「かなッ!」
銃を投げ捨てて駆け寄る。血が芝に広がり、朝日に赤く光を返していた。
「あはは……結構、痛いんだね……」
苦しげに笑うかなに、海斗はただ「ごめん」を繰り返すしかなかった。
「なんで謝るの……? 約束、果たしてくれただけじゃん」
彼女を抱き上げ、強く抱きしめる。抗う声はもうなく、ただ弱く言葉を紡ぐ。
「ねぇ、カイ君……」
涙で滲む視界の中、海斗は彼女の顔を見つめた。
「ちゃんと殺してくれてありがとう。これで貴方の世界から、私は消えられる。そして……私の中で貴方は、永遠に生き続ける」
「かな……」
嗚咽混じりに名を呼ぶ。
東の空から光が差し込み、世界全体が白く滲んでいく。海斗の意識もまた、光に溶けるように薄らいでいった。景色が輪郭を失い、霧に包まれる。
――これが夢の終わり。覚める、その瞬間。
遠のく視界の中、横たわる彼女へ海斗は最後の言葉を残した。
「ありがとう。君のおかげで、生きる意味――やっと見つけたよ」
声に力はなかったが、心の底からの本心だった。
彼女と過ごした時間は儚い夢にすぎない。けれど、その夢があったからこそ、これからの現実を生き抜く理由を得られた。
彼女の微笑みも、涙も、声もすべてが胸に刻まれている。
次に海斗が目覚めた時、彼女の存在は彼の記憶の何処にもいない。
だが彼女の存在が消えてしまっても、心から奪われることはないだろう。
不思議と海斗は、そんな根拠もない確証があった。
光が視界を満たし、世界が白に溶けていく。
彼女の輪郭も、流れた血の赤も、すべてが霞んで消えていった。
それでも海斗の胸には、確かな温もりだけが残っている。
「さよなら、かな……」
心の奥でそう告げた瞬間、音もなくすべてが途切れた。
――夢は終わった。
そして海斗は、彼女から託された最初で最後の愛を抱きしめたまま、この世界から静かに姿を消した。




