エピローグ
1
僕が目を覚ますと、そこは機械に囲まれた薄暗い部屋だった。
ディスプレイの青白い光だけが、夜更けを際立たせるみたいに漂っている。
壁際の時計は、すでに夜の十時を回っていた。
「せーんぱい!」
威勢の声が、僕の鼓膜を幾度となく刺激し続ける。
「先輩、起きてくださいってば!」
肩をユサユサと揺すられて、僕は夢の底から無理やり引き戻された。
目の前にいたのは、黒いゴムでまとめたポニーテールを揺らす後輩だった。
その仕草に、なぜか胸の奥がざわつく。懐かしい気持ちが一瞬だけ、疼いた。
「ん……こ、ここ……?」
「どこって……オフィスですよ。先輩、また机で寝落ちしてました」
「……あ、あぁ……そ、そうか……」
情けない返事をすると、後輩は小さくため息をついた。
静まり返った部屋には、僕たち二人しかいない。
冷たい機械音だけが、現実に戻ったことを告げていた。
「……先輩、泣いてましたよ」
「え……?」
「目の端。……大丈夫なんですか?」
言われて頬に触れると、確かに乾いた跡があった。
胸の奥にまだ、あの夢の余韻が残っている。
「えっと……なんか、懐かしい夢を……見てた、みたい」
「夢?」
「うん……でも、よく覚えてなくて。じ、事故で記憶をなくした頃の……そんな夢だった、ような……」
僕が口ごもると、後輩は一瞬だけ僕を見つめ、言葉を探すように黙った。
けれど、すぐに少し照れくさそうに笑ってみせる。
「じゃあ……いい夢だったんですね。なら、私が起こしたのは正解かもしれません」
冗談っぽく言いながら、彼女は自分の荷物をカバンにまとめ始める。
その姿が、なぜか“あの夢の中の子”と重なって見えた。
「とりあえず、プログラムの改修は終わりました。チェックだけお願いしますね」
「う、うん……わかった。ありがと」
「それじゃ、私は帰ります。……先輩も、また事故なんてしないでくださいよー」
黒いゴムでまとめたポニーテールが小さく揺れて、後輩は手を振りながら出口に向かう。
ドアが閉まる音がして、部屋の中に再び静寂が戻った。
僕は机の上に置いてあった、飲みかけのエナジードリンクを手に取る。
口に含むと、すっかり気が抜けてぬるくなった炭酸が舌にまとわりついた。
「……ふぅ」
パソコンの前に向き直り、キーボードに指を置く。
打鍵音が夜の静けさを刻むたびに、夢の断片がふいに頭をかすめた。
――顔も名前も思い出せないのに、確かにそこにいた女の子。
僕を叱って、支えて、笑ってくれた……誰か。
胸の奥が妙にざわつく。
思い出そうとしても、指先からすり抜けていく。
「……よし、今日は僕も……早く帰ろう」
呟いた声は、打ち終えたリターンキーの音にかき消された。
2
僕が記憶喪失だと知ったのは、今から一年前の夏のことだった。
当時僕は地元のスカイラインを一人でドライブしていた時、峠の下り坂でブレーキが故障してしまい、そのまま転落事故を起こしていたらしい。
本来なら死んでいてもおかしくないその事故からの生還を、僕は医者の説明で初めて知った。
目を覚ましたあの時は、まさに最悪だった。
重たいまぶたをゆっくり持ち上げると、白い天井と無機質な蛍光灯の光が目に入った。
規則的な電子音が耳に届き、左腕には点滴の管が繋がれている。
喉は乾き、声はかすれ、身体中が鉛のように重かった。
「……ここ、は……」
掠れた声に反応するように、枕元のナースコールが鳴っていた。いつの間にか、自分で押していたらしい。
間もなく、ドアが勢いよく開き、白衣姿の看護師が飛び込んでくる。
「新崎さん!? 意識が戻ったんですか!」
驚きと安堵が入り混じった声。僕は圧倒され、何も返せずに目を瞬いた。
――どれくらい時間が経っただろう。検査や処置を経て、病室には二人組が訪ねてきた。
「……やっと目を覚ましたか」
落ち着いた低い声。長身の男が、硬い表情のまま僕を見下ろしていた。
その隣には、胸を張って明るい笑みを浮かべる女性が立っている。
「あ、あの……」僕はおそるおそる口を開いた。「すみません。お二人は僕の、お知り合いでしょうか……?」
女性は一瞬、目を丸くした。けれどすぐに小さく息をつき、無理にでも笑顔を浮かべる。
「……そっか。やっぱり覚えてないんだね」
彼女はそれ以上深くは問わず、ぱっと声を張った。
「じゃあ改めて! 本当に“はじめまして”だね!」
明るさを崩さないまま、彼女は胸を張る。
「私は五十島奈菜! で、横にいる仏頂面が黒崎拓也。通称たっくん!」
「……たっくん言うな」
黒崎と呼ばれた男が、不機嫌そうに眉を寄せた。
奈菜は続ける。
「私たち、大学の学生委員会ってサークルで一緒だったの。海斗が一年生の時、私が半ば連行して勧誘したの、覚えてない?」
「……勧誘……」
言葉を繰り返してみても、記憶は霞んだまま。胸の奥にぽっかりと穴が空いていくような感覚だけが広がった。
「お前が委員会に入ったのは、奈菜に捕まったからだ」
黒崎先輩が肩をすくめる。
「俺たちはお前の一学年上。つまり、お前の先輩ってわけだ」
「……そう、ですか……」
奈菜先輩はほんの一瞬だけ寂しげに目を伏せたが、すぐに明るさを取り戻した。
「ま、いいよ! これからまた一から仲良くなればいいんだから!」
「……ありがとう、ございます」
けれど僕は途方に暮れるように二人を見比べ、思わず声をこぼした。
「身近な人たちの記憶も、今の僕には無いんですね……。これから僕は、どうしたらいいんでしょうか……」
不安がにじんだ声に、奈菜先輩は困ったように視線を逸らし、代わりに両手をぱんと打ち鳴らす。
「わたし、ちょっとジュース買ってくる! 二人で仲良く話しててね!」
黒崎先輩が「は?」と眉をひそめる間もなく、奈菜先輩は足音も軽く病室を飛び出していった。
残されたのは僕と黒崎先輩。
静かな沈黙のあと、黒崎先輩が低く問いかける。
「……記憶がない、ってことか」
「はい……」僕はうなずいた。「名前が“海斗”ってことだけは分かるんですけど……他は、ほとんど……」
言いながら、情けない自分の声に胸が痛む。
黒崎先輩は腕を組んでしばらく考え込み、やがて真っ直ぐに僕を見た。
「さっきの答えだけど、……お前、パソコンは得意だったはずだ。プログラミングとか、知識はまだ残ってるんじゃないか?」
「プログラミング……」
霞の奥で、その言葉にだけ確かな手応えを感じた。
「……なんとなく、体が覚えてる気がします」
黒崎先輩は小さくうなずき、短く言い切った。
「だったら、それを活かせばいい。……実は俺、大学を出て警察官になった。今はサイバー犯罪対策課にいる。お前の力を試す場所なら、そこが一番かもしれない」
「警察……」
思いがけない言葉に、僕は目を見開く。驚きと戸惑いが入り混じりながらも、胸の奥に小さな灯がともった。
その時、病室の扉が開き、奈菜先輩が両手にジュースを抱えて戻ってくる。
「ただいまー! ほら、オレンジとアップル、どっちがいい?」
「……新崎は、どっちにする?」
黒崎先輩が僕に問う。
僕はオレンジジュースを選んだ。
黒崎は僕にジュースを手渡すと、彼は一番最後に余ったリンゴジュースにストローを刺す。僕は紙パックの冷たさを手に感じながら、胸の奥にまだ消えない不安を抱えていた。
けれど――。
奈菜先輩の明るさと、黒崎先輩の静かな強さに、ほんの少し救われてもいた。
あの日の再会こそ、記憶を失った僕が再び歩き出す理由になったのだ。
3
カタカタ、と部屋の奥に打鍵音が響いていた。
僕のいるのは、田んぼに囲まれた郊外の大きな警察署の一角――サイバー犯罪対策課。
夜十一時を過ぎ、建物全体がしんと静まり返っている中で、この部屋だけが青白いモニターの光を残している。
「……ふぅ」
クラッカーの動きを封じ込め、証拠も揃ったところで、背もたれに身を預けて深く息を吐く。
窓の外を見れば、街灯に照らされた一本道の向こうに田んぼが広がり、その先には真っ暗な山影が沈んでいた。
都会の雑踏とは無縁の、音も匂いもない田舎の夜。
だからこそ、キーボードを叩く音だけがやけに大きく響いていた。
時計の針は十一時を回っている。
後輩はとっくに帰り、署の他の部署もすでに消灯しているらしい。
残っているのは、蛍光灯の白い光と機械の唸る音――そして僕だけ。
「……今日はもう帰ろう」
独り言を落とし、パソコンの電源を切る。
画面が暗転すると同時に、胸の奥に残っていたざわめきもまた、闇に飲まれていく気がした。
あの日から一年。
記憶は戻らないままだけど、こうして僕は、この田舎の署の一室で、自分の居場所を見つけ続けている。
署を出ると、夜風が肌を刺した。
時計はもう十一時を過ぎている。駐車場に停めてあった軽自動車に乗り込むと、フロントガラス越しに遠くの山影がぼんやりと見えた。
人気のない田舎道。街灯が点々と続くだけで、車のライトがなければ周囲は闇に沈んでしまう。
「……まっすぐ帰るのも、なんか……」
思わず独り言が漏れる。
仕事の緊張が解けたせいか、頭が妙に冴えて眠気がこない。
ハンドルを切り、僕は家とは逆方向に車を走らせた。
しばらく走ると、偶然大きな公園の看板が目に入った。
広い駐車場と、その先にひらけた潟の水面が月明かりを反射している。
吐く息が白く、空は珍しく澄み渡っていて、星が散らばっていた。
今日はなんだか、無性に山を眺めたい日だった。
自分が事故を起こし、記憶を失った場所。
それを望めるならどこでもよかったのだが、たまたま見つけたこの公園は、水面を挟んで山全体を眺めることが出来る。まさに海斗が望んだロケーションそのものだった。
エンジンを切り、ドアを開けると、あたりの静けさに包まれる。
耳に届くのは、遠くで水鳥が鳴く声と、風が草を揺らす音だけ。
木製の手すりにもたれかかりながら、自販機で買ったホットコーヒーのプルタブを開けた。
プシュッという音と共に立ち上がる香ばしい香り。
唇をつけて一口飲むと、苦みとわずかな甘さが広がり、冷えきった体に熱が戻っていく。
「……夢、か」
時々、顔も名前も分からない女の子が出てくる夢を見る。
叱って、支えて、笑ってくれる――記憶の中にはいないはずの誰か。
思い出そうとすればするほど、指先からすり抜けていく。
星空の下、湯気と一緒に吐き出した息はすぐに夜気に溶けた。
心の奥に残るざわめきは、コーヒーの温かさでも消えはしなかった。
吐く息が白く夜に溶けていく。
コーヒーはもうぬるくなり、手のひらに残る温度だけが小さな安らぎを与えていた。
「……明日からも、頑張ろう」
独り言のように呟き、缶を飲み干す。
空になったそれを片手に、駐車場へ戻ろうと足を向けた――その時。
「ねぇ、君」
背後から、不意に声をかけられた。
振り向くと、そこには白いトレンチコートに身を包んだ若い女性が立っていた。
厚めの前髪が額を覆い、幼さの残る瞳が真っ直ぐに僕を射抜いてくる。
――見覚えはない。けれど、なぜか他人に思えなかった。
「えっと、僕ですか?」
戸惑いながら問い返すと、彼女は小さくうなずいた。
「そう、君。単刀直入に聞くけど……君、新崎海斗?」
名を呼ばれ、心臓が跳ねる。
「そ、そうですけど……あなたは……?」
言葉を最後まで言う前に、彼女はコートの内側から黒い影を取り出した。
冷たい金属の光――サイレンサー付きの拳銃だった。
「私は――君の殺し屋」
ぱすっ、と空気が抜けるような音が夜に溶けた。
同時に、胸の奥に鋭い衝撃が突き刺さる。
視界が揺れ、呼吸がうまくできない。
膝から崩れ落ちる体をどうすることもできず、世界が遠ざかっていく。
――その時だった。
耳の奥に、確かに誰かの叫び声が届いた。
女の声。強くて、必死で、泣きそうで。
けれど、それが誰なのかを知ることはできない。
ただ、その声だけが最後まで、焼きついて離れなかった。
こんな状況に陥って、やっと気づけたことがある。
それは、――僕の人生は、いつも誰かの中にあった。
そのことだけを、最後にかすかに理解する。
大切なことは、何ひとつ思い出せないまま……。
でもきっと、それが僕なんだ。
……これはある意味、僕らしい最期なのかもしれない。
意識が遠のく中、ふとひとつだけ言葉が浮かんだ。
それが誰に向けたものかは分からない。
ただ、この胸の奥から自然に溢れてきた。
最後の呼吸を絞り出すように――。
――「あり、がとう……」
音も景色も、すべてが遠ざかっていく。
僕はその一言を残して、静かに目を閉じた。
ー完ー
やっと、完結に至りました。
いかにもエピローグは中途半端で唐突かもしれませんが、この終わり方こそこの物語の肝と言っていいと思います。今後、全章を大幅に改稿し、読みやすくしたものを短編として再投稿したいと思います。そして、この物語は、僕が描きたいストーリーのほんの一握りです。短編の改稿と同時に、新たな物語の執筆もしていきたいと思います。
ここまでこれたのは、こんなにも拙い文章でも物語にいいね評価、そしてブックマークと評価をしてくださった方がいたからです。本当にありがとうございました。
今はとりあえず、無事完走できた喜びに浸りながら、美味しいお酒を飲みたいと思います。
また、改稿版でお会いしましょう。




