表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/18

第18話 穀物価格の異常

 王都の中央市場に朝霧が立ちこめていた。


 石畳の隙間から湿った冷気が立ちのぼり、並び始めた人々の足元をじわりと冷やしている。普段であれば荷車の軋む音と威勢のよい売り声が重なり合い、活気に満ちた朝を迎えるはずの場所だった。


 だが今朝、市場を支配しているのは沈黙である。


 商人たちは腕を組み、荷台の前で互いの出方をうかがっていた。値札を掲げる手が、どの店先でも止まったままになっている。買い手たちの列はじりじりと前ににじり寄るものの、誰ひとりとして最初の一声を上げようとしない。


 まるで空気そのものが凝固したかのように、広場全体が息を殺していた。



 市場の北側、色褪せた日除け布の下で穀物を扱うハインリヒ・ベッカーの店先に、最初の異変が現れた。


 三十年この場所で商いを続けてきた男である。日焼けした額に深く刻まれた皺は、幾度もの不作と豊作を見届けてきた歳月の証だった。


 その手が今、値札の上で小さく震えている。


 彼は木炭の欠片を握りしめ、古い数字を消し、新たな数字を書き入れた。


 銅貨八枚。


 先週まで銅貨三枚で売られていた小麦一ポーチェルの値段が、わずか七日間で三倍近くに跳ね上がっていた。


 隣の乾物屋を営むエルマ老婦人が、その数字を二度見した。顔から血の気が引いていくのが、傍目にもわかった。


「ハインリヒさん、その値段は本当なのかい」

「本当も何も、仕入れ値がこうなんだ、エルマさん。俺だって書きたくて書いてるわけじゃない。木炭を握る手がこんなに震えたのは、女房を亡くした朝以来だよ」

「だけど先週はまだ三枚だったじゃないか。たった七日で三倍なんて、あたしの六十年の記憶にもないよ。大飢饉の年だって、倍にもならなかった」

「俺の三十年にもない。卸元のシュヴァルツが言うには、南部街道の穀物がごっそり買い占められたらしい。東の河川輸送も同じだと。どこに問い合わせても返ってくるのは同じ答えだ。在庫がない、と」

「買い占めって……誰がそんな真似を。個人でできることじゃないだろう」

「わからん。だが金の出所が尋常じゃないことだけは確かだ。シュヴァルツの野郎、三十年の付き合いで初めて声を震わせてた。あの強面がだぞ。よほどの相手なんだろうよ」


 ハインリヒは声を落としたが、その低い声には噛み殺しきれない怒りが滲んでいた。


 エルマは乾いた唇を舐め、自分の店の棚に目をやった。乾物の在庫もいつまで持つかわからない。胸の奥にざらついた不安がこびりつき、剥がれようとしなかった。



 値札が掲げられた瞬間、周囲の空気が変わった。


 それまで沈黙を守っていた群衆のあいだに、さざ波のようなざわめきが広がっていく。最初はささやき声だったものが、やがて怒号に変わるまでに、さほど時間はかからなかった。


「銅貨八枚だと。冗談じゃねえぞ」


 群衆の中から、ひときわ太い声が上がった。


 声の主は四十がらみの男だった。日に焼けた肌、節くれだった大きな手、擦り切れた革の前掛け。石工か鍛冶の下働きか、労働で鍛えられた体躯を持ちながら、その目には追い詰められた獣のような切迫が宿っている。


 男はゲオルク・ヴェーバーと名乗った。


 彼は空になった財布を片手で握りつぶすようにしながら、もう一方の手で値札を指差した。指先が白くなるほど力が入っている。


「俺は毎朝ここに来て、女房と子ども三人のために麦を買う。日当は銅貨十二枚だ。先週までなら三枚で麦を買って、残りで野菜と薪を賄えた。ぎりぎりだが、なんとか回っていた。だが八枚だと。八枚払ったら、残りは四枚だぞ。四枚で野菜と薪と、末の子の薬代をどうしろってんだ」

「昨日は二枚だったじゃねえか。なんで今日は三枚なんだ。おかしいじゃないか、こんなことが」


 隣に立っていた別の石工の男が、吐き捨てるように言葉を重ねた。


「おかしいもなにも、毎日値段が上がってるんだぞ。一昨日が二枚、昨日が二枚半、今日が三枚。明日は四枚になってるかもな。来週には、俺たちの一日の稼ぎがパン一個で消えちまう」

「馬鹿言え、そんなことになったら生きていけねえだろ」

「生きていけねえから言ってんだよ」


 ゲオルクの声は最初こそ怒りに満ちていたが、言葉を重ねるにつれ、その底にある恐怖が滲み出してきた。喉仏が上下するのが目に見えた。


「俺には女房と子どもが三人いる。三人だぞ。先月だって楽じゃなかった。末の娘が熱を出して、薬師に銅貨二十枚払った。女房は夜なべで繕い物をして、なんとか足しにしてくれた。それでも食卓にはパンがあった。毎朝、焼きたてのパンを子どもたちに出してやれたんだ。だがこの値段が続いたら……」


 彼は言葉を切った。


 喉の奥で何かが詰まったように、一瞬だけ顔を歪め、それから歯を食いしばった。


「続いたら、俺の家の食卓からパンが消える。五つの娘に、明日から麦粥も出してやれなくなるかもしれねえ。毎朝、あの子が両手でパンを持って頬張るんだ。小さな口いっぱいに頬張って、笑うんだ。あの笑顔が……消えるかもしれねえんだ。そんなことが……そんなことがあっていいのかよ」


 最後の一言は、もはや怒りですらなかった。祈りにも似た、切実な問いかけだった。


 周囲の人々が静まり返る。


 ゲオルクの言葉が、そこにいる誰もの胸にある同じ恐怖を代弁していたからだ。老婆が皺だらけの手で目頭を押さえ、若い母親が胸に抱いた赤子をきつく抱き寄せた。赤子だけが状況を知らず、小さな欠伸をしている。


「買い占めよ」


 別の主婦が、切迫した声を上げた。声が裏返りかけていた。


「誰かが裏で、小麦を全部買い占めてるのよ。これはね、組織的な工作なんだ。そうに違いないわ」

「組織的って、誰がそんなことを」

「分からないわよ。でも、こんな急激な値上がりが自然に起こるわけないでしょう。私は二十年以上この市場で買い物をしてきたけど、こんなことは一度もなかった。戦争の時だって、ここまで酷くはなかったわ」


「あたしもそう思う」


 別の主婦が声を重ねた。彼女の目は赤く充血しており、昨夜ろくに眠れなかったことがうかがえた。


「昨日、いつも買ってる穀物屋のおじさんに聞いたの。そしたら、帝国の商人が来て、倉庫の中身を全部持っていったって。全部よ、全部。一粒も残さず」

「帝国の商人だと」

「そうよ。しかも、市場価格の倍の値をつけて買い取ったんですって。そんな大金を出せるのは、帝国の後ろ盾がある連中しかいないわ」


 その言葉は、波紋のように市場全体に広がっていった。


「そんな馬鹿な……」


 杖にすがった老人が震えていた。その体の揺らぎは、年齢による虚弱さだけではなく、精神的な動揺をも映し出している。皺だらけの手が杖の握りを白くなるまで掴んでいた。


「誰が……一体誰が、俺たちを飢えさせようとしてるんじゃ……。こんなことをして何になるんだ」


 老人は杖で地面を叩いた。乾いた音が広場に響く。


「儂は七十八になる。この街で生まれ、この街で育ち、この街で働いてきた。先の飢饉の時も、大火の時も、この市場は生き延びた。商人たちが助け合い、民が分かち合い、どうにか乗り越えてきた。だが、今回は違う。今回は、誰かが意図的にやっている。人の手による災厄だ」


 声が震えた。


「天の怒りなら跪いて祈ることもできよう。だが人の悪意には……どう祈ればいい。それが……何よりも恐ろしいのじゃ」

「じいさんの言う通りだ。天災なら耐えられる。だが、人間が人間を飢えさせようとしてるんだぞ。それがどれほど悪辣なことか……」



 ハインリヒは値札の前に立ったまま、ゲオルクの顔をまっすぐに見つめていた。


 その目には、商人としての冷徹さではなく、同じ街に暮らす者としての痛みがあった。唇の端がかすかに歪んでいる。三十年の商人人生で、こんな顔をしたことはなかった。


「あんたの言うことは正しい、ヴェーバーさん。俺だって値を上げたくはない。女房にも今朝、泣かれたよ。お前まで人でなしになるのかって。だが仕入れ値が上がった以上、このまま売れば俺が潰れる。俺が潰れたら、明日からここに麦を並べる人間がひとりいなくなる。それはあんたにとっても損なんだ」

「分かってる……分かってるんだ、ハインリヒさん。あんたを責めてるんじゃねえ。あんたも被害者だってことくらい、俺にだって分かる。だが、じゃあ誰を責めればいい。誰に怒りをぶつければ、俺の娘は明日もパンを食えるんだ。この拳を振り上げたって、殴る相手が見えねえんだよ」


 ゲオルクは拳を握りしめた。


 その手は小刻みに震えていた。爪が掌に食い込み、うっすらと血が滲んでいることに、本人は気づいていなかった。



 商人たちもまた、悲鳴を上げていた。だが、その悲鳴は被害者としてのそれであり、同時に絶望と無力感の表れでもある。


「俺たちだって被害者だ」


 パン屋の主人が、怒号を浴びせかけてくる客たちに向かって叫び返した。額に青筋が浮いている。カウンターの上には焼きかけのパンが三つだけ残されていた。昨日の半分、一昨日の三分の一の数だった。


「小麦が手に入らねえんだ。帝国商人が法外な値段で根こそぎ持っていきやがる。俺たちにだって選択肢なんかねえんだよ」


 パン屋の主人は拳でカウンターを叩いた。木の表面にひびが入った。


「分かってくれよ。俺だって値段を上げたくて上げてるんじゃねえ。仕入れ値が三倍になってんだぞ。三倍の仕入れ値で、元の値段で売ったら、一日で店が潰れる。家族が路頭に迷う。俺だって、お前らと同じ側の人間なんだ。怒りの矛先を間違えるなよ」


「こっちも同じだ」


 隣の肉屋の主人が声を合わせた。血の染みがついた前掛けを握りしめている。


「飼料の値段が上がってるから、肉の値段も上がる。全部繋がってるんだよ。穀物が消えれば、家畜の餌もなくなる。家畜が減れば、肉も卵も乳も全部なくなる。このままじゃ、市場全体が死ぬぞ」


 パン屋の主人は声を落とした。怒りが燃え尽き、その下にあった恐怖がむき出しになっていた。


「俺のじいさんの代からこの店をやってる。六十年だ。六十年間、一度も店を閉めたことがなかった。飢饉の年も、疫病の年も、戦争の年も、ずっと開け続けた。……それが、今度ばかりは……」


 声が枯れていく。


「在庫なんてもうねえよ。明日には……明日には店を閉めるしかねえんじゃないか。閉めたら最後、もう二度と開けられない気がする。六十年分ののれんが、たった一週間で消えちまう。そうなったら、俺の家族は……じいさんに、なんて顔向けすりゃいいんだ」


 彼は言葉を失った。


 隣で聞いていた若い職人が、パン屋の肩にそっと手を置いた。


「おっさん……。俺たちは敵同士じゃねえ。敵は別のところにいる。帝国の商人だ。あいつらを何とかしなきゃ、俺たちは共倒れだ」

「だが、どうやって。俺たち庶民に何ができる。相手は帝国だぞ。金も権力も、俺たちとは桁が違う」

「……分からねえ。分からねえけど、このまま黙って飢え死にするつもりはねえ」


 不安は伝染するように広がり、怒りは増幅していった。


 市場全体が、一つの生き物のようにうめき始める。その声は石畳に染み込み、壁を伝い、路地裏へと流れ出して、やがて王都全体を覆い尽くすかのようだった。



 市場の片隅に立つ細身の青年が、この一部始終を見つめていた。


 フードの下から覗く鋭い目は、群衆の表情を一人ひとり記録するかのように動いている。日除け布の影に溶け込むようにして立つその姿を、誰も気に留めなかった。


 青年の名はルーカス。レオポルト・ヴァイスハルト男爵の屋敷に仕える情報収集の担い手である。


 ルーカスは市場を離れると、裏通りを足早に進んだ。石畳を叩く靴音が朝の静寂に小さく響く。彼の頭の中では、すでに報告の文面が組み上がりつつあった。穀物価格の急騰。民衆の動揺。商人たちの困惑と悲鳴。そしてその背後にある、意図的な買い占めの気配。


 靴音のリズムが、思考の速度に合わせて早まっていった。



 屋敷に戻ったルーカスは、執務室の扉を三度叩いた。


「入れ」


 低く落ち着いた声が返ってくる。


 レオポルトは窓際の机に向かい、数枚の書簡に目を通している最中だった。朝の光が銀灰色の髪を淡く照らし、その若い顔立ちに似つかわしくない深い思慮の影を落としている。書簡を持つ指は長く、インクの染みが第二関節のあたりについていた。昨夜も遅くまで執務をしていたのだろう。


「閣下、中央市場の報告です」


 ルーカスは感情を排した声で告げた。背筋を伸ばし、一語ずつ正確に区切る。


「小麦の価格が一ポーチェルあたり銅貨八枚まで上昇しました。先週比で二・七倍、十日前と比較すれば三倍に迫る勢いです」

「南部街道の卸売商三軒が在庫を完全に吐き出しています。東部河川経由の穀物船も、港に着く前に荷が売約済みになっている状況でした。買い手の正体は依然として確認できていませんが、資金規模から見て個人の力ではありません。国家か、それに準ずる後ろ盾を持つ組織の関与が疑われます」


 レオポルトは書簡から顔を上げなかった。だが、その目が文字の上を滑る速度がわずかに落ちたことに、ルーカスは気づいていた。主人の癖を、彼はよく知っている。


「民衆の反応は」

「動揺が広がっています。今朝、市場で石工の日雇い男が声を上げました。ゲオルク・ヴェーバーという名です。日当では家族を養えなくなると訴え、周囲の多くがそれに同調する空気がありました。暴動とまではいきませんが、あと数日この状態が続けば、市場の秩序が保てなくなる可能性は十分にあるかと」

「具体的には、どの程度の混乱でしたか」

「怒号と嘆きが入り交じり、商人と買い手のあいだで一触即発の場面もありました。ただし、現時点では物理的な衝突には至っておりません。民衆はまだ怒りよりも恐怖のほうが勝っている状態です。しかし、恐怖が臨界点を越えれば、一気に暴発する危険がございます」


 レオポルトはようやく書簡を机に置いた。


 椅子の背にもたれ、天井を仰ぐ。その目は天井の木目を見ているようで、実際にはもっと遠くの何かを見据えていた。瞳の奥で、いくつもの思考が並列して走っているのが感じ取れた。


「三倍か……予測より早い。帝国の工作員は焦っているのかもしれないし、あるいは我々の対応速度を試しているのか。どちらにせよ、猶予は少ないな」


 独り言のようにつぶやいてから、レオポルトは視線をルーカスに戻した。灰色がかった瞳に、冷えた光が宿っている。


「マルクスに連絡を取れ。南部の農村ネットワークからの直接買い付けを前倒しする。それから、王宮の宰相府に書簡を送る準備をしてくれ。備蓄穀物の放出許可を申請する。文面は私が書く」

「承知しました。それと閣下、もうひとつ」


 ルーカスはわずかに声を落とした。周囲に人がいないことを確認するように、一瞬だけ視線を廊下の方へ走らせた。


「市場にいた商人ハインリヒ・ベッカーという男が、卸元から聞いた話として、買い占めの資金が南方から流れてきていると語っていました。南方というのは……」

「帝国との接点がある地域だな」


 レオポルトは静かにうなずいた。その表情に驚きはなかった。むしろ、自分の描いた筋書きが現実によって裏付けられたことへの苦い確認のような色が浮かんでいる。


「やはりエドヴァルトか……あるいは彼の上官か。いずれにせよ、食糧を武器にするという手段は、剣で攻めるよりも残酷だ。刃で斬られれば痛みは即座に来る。だが飢えは違う。じわじわと体を蝕み、判断力を奪い、人の理性を削り取る。理性を失った民衆は、やがて王への不信に変わる。不信は憎悪に変わり、憎悪は暴動になる。それが帝国の狙いだろう」


 レオポルトは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。


 窓の外には、王都の屋根が朝日を受けて赤く輝いている。赤い屋根の下で暮らす何万もの人々の、今日の食卓を思った。あの市場に立っていた男、ゲオルク・ヴェーバーの震える拳を思い浮かべる。会ったこともない男の怒りと恐怖が、窓越しの陽光に溶けて伝わってくるような気がした。


「ルーカス、あの市場で声を上げた男……ゲオルクと言ったか」

「はい。石工の日雇いで、妻と子ども三人。末の娘は五つだそうです。先月、娘が病を患い、薬代で家計が圧迫されたとも話しておりました」

「彼のような人間を守るために、我々は動く」


 レオポルトの声には静かな決意が宿っていた。それは激情ではなく、冷えた鉄のような意志だった。


「穀物の価格を元に戻すだけでは足りない。二度とこのような操作が通じない仕組みを作る必要がある。一時しのぎでは、同じことが繰り返される。帝国は何度でも手を変え品を変え、仕掛けてくるだろうからな」


 声を引き締めた。


「まずは目の前の火を消す。供給路の確保と備蓄の放出。次に、商人ギルドとの価格安定協定の締結。長期的には王国独自の穀物備蓄制度の設立を王に進言する」

「すべて同時に進めるのですか」


 ルーカスの問いに、レオポルトはかすかに口元を緩めた。笑みとは呼べない、しかし硬い表情がわずかに和らいだ程度の変化だった。


「同時でなければ間に合わない。帝国はこちらの対応を見て次の手を打ってくる。後手に回れば、取り返しがつかなくなる。一手でも遅れれば、あの市場に立っている人々の食卓から明日のパンが消えるんだ」


 ルーカスは一礼して執務室を出た。


 廊下を歩きながら、彼は先ほどの市場の光景を思い返していた。ゲオルクの震える拳。ハインリヒの苦渋に満ちた表情。老婆の涙。母親に抱きしめられた赤子の無垢な寝顔。それらすべてが、これから始まる戦いの重さを物語っている。


 剣も魔法も用いない、しかし人の命を直接脅かす攻防が、ここに幕を開けようとしていた。穀物という、もっとも身近で、もっとも根源的な武器を手にした者たちとの闘いである。



 市場では、ゲオルクがまだ立ち尽くしていた。


 結局、麦は買えなかった。財布の中の銅貨を何度数えても、八枚には足りない。五枚と銅の半欠片がひとつ。それが彼の全財産だった。


 重い足取りで市場を出ると、自宅へと続く細い路地に入った。壁に挟まれた薄暗い道を進むと、古びた木造の長屋が見えてくる。漆喰が剥がれ、柱は傾き、雨漏りの染みが壁面に茶色い模様を描いていた。


 二階の窓から、妻のマルタが顔を出しているのが見える。洗いざらしの布巾で手を拭きながら、通りを覗き込んでいた。


「お帰り。麦は買えた」


 マルタの声は明るかった。まだ何も知らないのだ。


「……ああ、いや。今日は売り切れが早くてな。明日、早起きして並ぶよ」


 嘘をついた。


 舌の上に苦いものが広がった。だが、この顔で本当のことを告げたら、マルタがどんな表情をするか想像できてしまう自分が嫌だった。あの明るい声が途切れ、目から光が消え、背中が小さく縮むさまが、瞼の裏に鮮明に浮かんでくる。


「そう。じゃあ今日は昨日の残りの粥で我慢するしかないね。大丈夫、まだ少しは残ってるから」


 マルタは窓から引っ込んだ。その声に不安の色はなかった。


 ゲオルクは路地の壁に背をつけ、しばらく動けなかった。冷たい石の感触が背中に染みる。


 明日も価格が下がらなかったら。


 明後日も。


 その次の日も。


 考えまいとしても、思考は暗い淵へと引きずり込まれていく。


 五つになる末娘リーゼルの顔が浮かんだ。毎朝、パンを両手で持って頬張る小さな口。パンくずを頬につけたまま笑うあの顔。あの笑顔を守れなくなる日が来るかもしれないという恐怖は、どんな肉体労働の疲労よりも重く、どんな石材よりも硬く、ゲオルクの肩にのしかかった。


 壁から背を離し、軋む階段を上がった。


 扉を開けると、部屋の中には薄い粥の匂いが漂っていた。わずかに焦げた匂いも混じっている。鍋底にこびりついた最後の一杯分を、マルタが懸命にかき集めたのだろう。


 リーゼルが駆け寄ってきて、ゲオルクの脚にしがみついた。小さな体は以前より軽い気がした。


「おとうさん、おかえり」

「ただいま、リーゼル」


 ゲオルクは娘を抱き上げた。小さな体の温もりが腕に伝わる。この温もりを手放すわけにはいかない。何があっても。何があったとしても。


「おとうさん、明日もパン食べられる?」


 無邪気な問いが、胸の奥を抉った。


 ゲオルクは笑顔を作った。口角を上げるのに、全身の力が必要だった。ひどく不器用な、しかし父親としての精一杯の笑顔だった。


「ああ。食べられるさ。おとうさんが何とかするから」


 その言葉が約束になるのか、それとも空手形に終わるのか。ゲオルクにはわからなかった。


 だが今はこの小さな手を握り返すことだけが、彼にできるすべてだった。リーゼルの細い指が、彼の太い人差し指をぎゅっと握る。その力は弱いのに、世界中のどんな鎖よりも強く、彼の心を繋ぎ止めていた。



 王都の貧民街では、状況はさらに深刻さを増していた。


 薄暗い路地裏に、壊れかけた家々が寄り添うように立ち並んでいる。壁の漆喰は剥がれ落ち、窓枠は腐食し、屋根板の隙間から空が覗いていた。そこに住まう人々の多くは、日々の労働によって何とか食いつなぐ身分である。穀物価格が三倍になるということは、彼らの食卓から食事が消えることを意味していた。


 すでに、食事を一日一食に減らす者が増え始めている。さらに、三日に一食という極限の状態に追い詰められている家庭すら現れ始めていた。


 子どもたちの身体が、その変化を敏感に映し出していた。


 かつては無邪気に走り回っていた幼子たちが、今は力なく座り込んでいる。頬のふくらみが削がれ、目の下に薄い影ができ、瞳の光が日ごとに失われていくのが、親たちにはっきりと見て取れた。


 空腹で泣く力すら残っていない子どもの沈黙は、どんな泣き声よりも残酷な音だった。


 飢餓の足音が、確実に忍び寄っている。



 建設中のデパート、その四階。ガラス天井の工事が仕上げの段階を迎えつつある一角で、クララ・ノイマンは窓の外を見下ろしていた。


 公共図書室の予定地は、現在も活発な内装工事の最中である。彼女の心の中には、完成した図書室の理想的な配置が描き出されていた。本棚の配置、読書席の間隔、採光の方向、室温の管理。すべてが完璧に計画されている。夜ごと設計図を広げ、一センチ単位で配置を調整してきた。子どもたちが背伸びしなくても手の届く高さに絵本を並べたい。窓際の席は、午後の光が柔らかく差し込むように角度を計算してある。


 だが、その理想は、眼下に広がる現実によって曇らされていた。


 貧民街の路地が、窓から見えるのだ。かつては活気があった通りでも、今は違う。子どもたちの姿が急速に消えていく。


「あの子たち……」


 クララは窓枠を両手できつく握りしめた。指の関節が白くなるほどの力が込められている。


「昨日も何人か見かけたけど、今日はいない。何日か前に元気に走り回っていた子たちが、もう路地に出てこなくなってる。出る力が、残っていないのだわ」


 彼女の声は震えていた。図書室建設に携わる一人の教育者として、子どもたちの状態変化に対する感度は鋭い。


「先週、あの路地で遊んでいた赤い髪の女の子……確かリーゼって名前だった。あの子が私に聞いたの。図書室ができたら、絵本が読めるのって。目をきらきらさせて。両手を胸の前で組んで、体を揺らしながら聞いてきたの。あの子は今、どうしているのかしら。お腹が空いて、家から出られなくなっているのかもしれない」


 クララは唇を噛んだ。歯の跡がくっきりと残るほど、強く。


「お腹が空いてるんだ。そのために動く気力もなくなっているんだ」


 本を読むことの喜びは、基本的な生存欲求が満たされた後に初めて生まれるものだと、クララは鮮烈に理解していた。マズローの欲求段階を学問として知っているだけではない。目の前の現実が、それを残酷なまでに証明している。


「知識は力になる。教育は未来を変える。私はそう信じてきた。でも……空腹の子どもに本を渡しても、その子はページを食べることはできない。まず食べなければ。まず生き延びなければ。知識は、その後の話なのよ」


 声が震えた。


「本を読むどころじゃない……。このままでは、完成した図書室は誰が使うの」



 彼女は階段を駆け下り、そして駆け上がった。レオポルトの執務室の扉を叩く。返事を待たずに中へ入った。息が上がり、頬が紅潮している。


「男爵様」


 声が裏返りかけた。レオポルトは机から顔を上げ、クララの表情を見た。何か言葉をかけるより先に、椅子を示して座るよう促した。


「申し訳ありません、お忙しいところを。でも、もう黙っていられないんです」


 呼吸を整え、唾を飲み込み、言葉を続けた。


「貧民街で……飢え始めている人が増えています。子どもたちも。みんな、栄養不足で動く気力もないような状態です。このままでは……」


 彼女の言葉は途切れた。だが、その訴えは十分に伝わっていた。クララは呼吸を整え、もう一度口を開いた。


「先週、貧民街の路地で、五歳くらいの女の子が座り込んでいるのを見ました。声をかけたら、三日も何も食べてないって。三日です、男爵様。五歳の子どもが、三日間何も食べていないんです」


 声に力がこもった。


「あの子の腕は、私の親指と人差し指で一周できるほど細かった。肌は青白くて、唇の色が薄くて、目だけがやたらと大きく見えました。……私はその子にお弁当を分けましたが、そんなものは焼け石に水です。あの子と同じ状況の子どもが、貧民街には何十人もいるんです」


 クララの声は次第に力を帯びていった。震えは消えていないが、そこに芯が通っている。


「このままでは、図書室ができても、本を読む子が誰もいなくなってしまいます」


 涙が溜まっていた。それは状況の深刻さへの恐怖であり、同時に自分の無力さへの悔しさでもあった。


「男爵様。私は教育者です。本を通じて子どもたちの未来を変えたいと思って、この仕事を引き受けました。でも、今の私には、本を渡す相手すらいなくなりつつある。……お願いです。何か手を打ってください。図書室の完成が遅れても構いません。まず、あの子たちの命を守ってください」



 レオポルトは、その涙を見つめ、静かにうなずいた。


「分かっています、クララさん」


 その声は驚くほど落ち着いていた。すでに事態を把握し、対策を講じている者の冷静さがある。


「状況は、私も十分に承知しています。市場の異常な値上がり、帝国商人による買い占め、民衆の生活基盤の崩壊。すべてが計画された工作の結果であり、その全容はすでに把握済みです」


 レオポルトはクララに向き直った。机の上の書類には、びっしりと数字と地名が書き込まれている。南部、東部、西部の供給ルートを示す略図も見えた。


「クララさん。あなたの訴えは、私の胸に深く届いています。そして、あなたが感じている怒りと焦りは、まったく正しいものだ。子どもたちの命は、何よりも優先されるべきです。図書室より、デパートより、私の財産より」


 レオポルトは机上の書類の一つを手に取った。


「対策はすでに動いています。今夜にでも、実行に移す準備が整う予定です。民衆を飢えさせるわけにはいきませんから」


 具体的な説明が続いた。


「まず、穀物備蓄部門を新設します。市場価格の三分の一以下の原価で、民衆に穀物を直接販売する。その販売所を、デパートの建設現場の一角に設置します」


 声を落とした。


「……そして、クララさんにお願いしたいことがある」

「私に、ですか」

「はい。販売所では配給制を導入します。すべての民衆に公平に穀物が行き渡るように、一人あたりの購入量を制限する。その管理と運営に、あなたの力を貸してほしいのです」


 クララは目を見開いた。


「あなたは貧民街の子どもたちの顔を知っている。どの家庭が最も困窮しているか、どの子どもが最も危険な状態にあるかを把握している。その知識は、配給の優先順位を決める上で、何よりも貴重なものです」

「私が……配給の管理を」

「さらに、販売所の隣に子どもたちのための簡易給食所を併設したい。温かいスープと、パンを一切れ。それだけで、子どもたちの命を繋ぐことができる。その給食所の運営を、あなたに任せたいのです」


 クララの目から涙がこぼれ落ちた。


 だが、それは先ほどまでの絶望の涙ではなかった。胸の奥で何かが灯ったような、温かい涙だった。


「……給食所を。子どもたちのために」

「はい。図書室の完成は遅れません。並行して進めます。しかし、あなたが言う通り、まず命を守ることが先だ。空腹の子どもに本は読めない。ならば、まず腹を満たす。そしてその子どもが元気になったら、あなたの図書室で本を読ませる。……その順番を間違えてはならない」

「本当でしょうか……」


 クララは、その言葉を信じたいと願いながらも、なお不安を拭い去れずにいた。


「本当に、あの子たちを救えるのでしょうか。帝国の工作は、男爵様の個人の力で対抗できるようなものなのですか。相手は一国の組織力を持っています。それに対して、私たちは……」

「大丈夫です。信じてください」


 レオポルトの声には絶対の確信が込められていた。単なる楽観ではない。すでに具体的な対策が組み上がっていることの裏づけがある響きだった。


「帝国の工作は確かに組織的なものです。しかし、彼らには決定的に欠けているものがある。……民衆の信頼です。金の力で市場を支配することはできても、人の心を支配することはできない。私たちが民衆とともにあれば、帝国のどんな工作も、最終的には打ち破れます」


 レオポルトはクララの目をまっすぐに見つめた。その瞳には、窓から差し込む朝日が小さく映り込んでいる。


「あなたの図書室は、必ず完成します。そして、子どもたちはその図書室で本を読むことになる」


 微笑みがその口元に浮かんだ。押しつけがましさのない、静かな微笑みだった。


「リーゼという女の子がいましたね。絵本が読みたいと言っていた子。……あの子に、完成した図書室で最初の一冊を渡す。その日を、一緒に実現しましょう」


 クララの顔に、少しだけ色が戻った。頬を伝い落ちる涙を拭いもせず、彼女は強くうなずいた。


「……はい。はい、男爵様。私にできることなら、何でもします。給食所の運営も、配給の管理も、全力でやらせていただきます。あの子たちのために……いえ、この国の未来のために」


 クララは立ち上がり、袖で涙を拭った。目は赤いが、そこにはもう絶望の色はなかった。


「それと、男爵様。一つだけお願いがあります」

「何でしょう」

「給食所に、小さな本棚を置かせてください。ほんの数冊でいいんです。スープを飲みながら、絵本を眺められるように。……空腹を満たすことと、心を満たすことは、同時にできるはずです。いえ、同時にやらなければならないと、私は思うのです」


 レオポルトは深くうなずいた。


「もちろんです。素晴らしい提案だ。……クララさん、あなたの存在こそが、この事業の心臓です。建物は骨格にすぎない。その中に血を通わせるのは、あなたのような人間なのだから」

「……ありがとうございます、男爵様。すぐに準備に取りかかります」


 クララは深く一礼し、決意に満ちた足取りで執務室を後にした。


 扉が閉まった後、レオポルトは窓の外に目を向けた。貧民街の屋根が、朝日の中で黒々と連なっている。あの屋根の下で、今この瞬間も空腹を抱えて横たわっている子どもたちがいるのだ。



 マルクス・シュトラウスの商会。その奥まった一室は、戦場の指揮所のような緊張感に満ちていた。


 レオポルトが到着したとき、マルクスは分厚い帳簿を前に座っていた。額には汗が浮かび、目の下には濃い隈ができている。卓上には飲みかけの茶が放置され、すっかり冷めきっていた。いつもは身だしなみに気を遣う男が、上着の前ボタンをひとつ掛け違えている。それだけで、この数日間の彼の消耗がわかった。


「マルクス、状況は」

「おう、来たか、ヴァイスハルト。……ちょうどいい。お前に見せたいものがある」


 マルクスは帳簿を開き、数字の並ぶページを指で叩いた。指の腹にはインクの染みがこびりついている。


「……ぎりぎりだ」


 帳簿の上で、ペンを無意識に回している。その動作が、彼の焦燥感を雄弁に物語っていた。


「なんとか三ヶ月分の備蓄は確保した。町中の穀物商人たちに頭を下げて、根こそぎ買い集めてな。俺が頭を下げるなんざ、十年ぶりだ。南部のシュヴァルツ平野からの輸送隊も予定通り動いている。東部のアイゼン河ルートも稼働中。西部の山間部からも少量だが確実に届いてる。……三方向からの供給は、計画通り機能しているぜ」


 マルクスは帳簿の別のページをめくった。ごつい指が、数字の列を辿っていく。


「だが、市場価格が高騰しすぎてる。こっちの資金が、みるみる底をつきそうなんだ」


 帳簿をレオポルトの方へ押しやった。そこには莫大な支出が几帳面な字で記録されている。


「ここを見ろ。南部からの仕入れだけで金貨二百枚が飛んだ。東部の河船輸送の運賃が金貨五十枚。西部の山間部からの荷馬車代が金貨三十枚。それに加えて、王都近郊の農民からの直接買い付けが金貨百枚。……合計で金貨三百八十枚。それが、たった二週間の支出だ。二週間だぞ」


 マルクスは頭をかいた。短く刈り込んだ髪が、指の間でざらりと音を立てた。


「正直に言う。あと一週間もすりゃ、引き出せる金がなくなる。帝国の野郎どもは、本気で相場を操作してやがる。こっちが買い付ける先を片端から押さえて、仕入れ値を吊り上げてくる。まるで、こっちの動きが筒抜けになってるみたいだ」


 マルクスは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。太い首が反り返り、喉仏が上下する。


「しかも奴らの資金力は底なしだ。帝国の国庫が後ろについてるんだからな。俺たち民間の商人が、国家の財力と張り合うなんざ、普通に考えたら無謀だ。……だが、俺は『普通』が嫌いでな」


 かすかに口の端を持ち上げたが、それは笑みと呼べるものではなかった。



 レオポルトは帳簿の数字を一目で読み取った。そして、躊躇なく言い放った。


「私の私財を、すべて投入してください」


 マルクスの目が大きく見開かれた。一瞬、呼吸が止まったようだった。


「お……おい、正気か」


 椅子から立ち上がった。勢いで椅子が後ろに傾き、壁にぶつかって鈍い音を立てる。


「ヴァイスハルト、てめえ何言ってんだ。屋敷の金庫を空にする気かよ。そりゃ破産だ。破産だぞ。貴族の身分じゃありえねえ話だ」


 マルクスは机を回り込み、レオポルトの前に立った。商人の体格は大きく、レオポルトより頭半分ほど背が高い。その巨体が、今はわずかに前のめりになっている。


「いいか、落ち着いて聞けよ。お前の金庫に何枚の金貨がある。俺の見立てじゃ、デパートの建設費用を差し引いた残りは、せいぜい金貨五百枚がいいところだ。それを全部ぶち込んでも、帝国の資金力に対してはすずめの涙だぞ。焼け石に水どころか、焼け山に霧吹きだ」

「足りなければ、領地の一部を売却しても構いません」


 レオポルトの瞳には、揺らぎがなかった。すでに決定を下した者の表情がそこにある。


「領地を」


 マルクスは、その言葉の重さに息を呑んだ。


 貴族にとって領地とは、身分と誇りそのものだ。先祖代々受け継がれてきた土地を手放すということは、社会的な地位を自ら投げ捨てることに等しい。数秒のあいだ、マルクスは口を半開きにしたまま固まった。


「……お前、本当に頭おかしいんじゃねえか」


 マルクスは机に座り直し、深く息をついた。太い指で額を押さえ、しばし黙り込む。


「いいか、ヴァイスハルト。俺は三十年商売をやってきた。その中で、色んな金持ちを見てきた。金を惜しまない奴もいた。だがそれは投資だ。リターンが見込めるから金を出す。……お前がやろうとしてることは投資じゃねえ。寄付ですらねえ。経済的な自殺だ」


 マルクスは顔をしかめた。皺が額に深く刻まれ、普段の豪快な顔つきが別人のように見えた。


「貴族が、民衆のメシ代のために一文無しになるなんて、聞いたこともねえ。常識じゃありえねえ。帝国だったら精神病院に放り込まれるな」

「処刑よりはましだ」


 レオポルトの返しに、マルクスは苦笑した。自分の冗談を相手に返される形になるとは思わなかったのだろう。


「……だが、お前の目は正気だ。狂人の目じゃねえ。覚悟を決めた人間の目だ」


 マルクスは腕を組み、しばらくレオポルトの顔を見つめた。三十年の商人人生で培った人を見る目が、相手の本気を測っている。


「なあ、ヴァイスハルト。一つだけ聞かせろ。なぜだ。なぜそこまでする。お前は貴族だ。領地があり、屋敷があり、何不自由なく暮らせる身分だ。民衆が飢えようが、お前の食卓に変わりはない。そうだろう。なのになぜ、すべてを捨ててまで……」


 レオポルトはその問いに正面から向き合った。


「覚悟の上です。破産することがあっても、民衆を飢えさせることは、私にはできません」


 その声は静かで、それでいて不動だった。大声を張り上げるでもなく、感情に訴えるでもなく、ただ事実を述べるかのように響いた。


「マルクス。関係ないのではなく、関係があるのです。この街に住むすべての人間は、私の同胞です。彼らが飢えるということは、この国が死ぬということだ。そして、この国が死ねば、私の領地も、屋敷も、身分も、すべて無意味になる」


 レオポルトは一歩近づいた。


「民が飢えれば秩序は崩壊します。社会は混乱に陥り、帝国の工作に揺さぶられ、この王国は内側から朽ちていく。そうなる前にこの事態を収拾する。それが、私に与えられた責務です」


 静かに、しかし力強く言い切った。


「それに、マルクス。あなただって同じでしょう。三十年間、この街の民衆を相手に商売をしてきた。彼らが飢えれば、あなたの商売も終わる。だが、あなたがここまで踏み込んでくれているのは、商売だけの話ではないはずだ。……あなたもまた、この街の人間を守りたいのではないですか」



 マルクスは長い沈黙を保った。


 腕を組んだまま、目を閉じている。こめかみの血管がかすかに脈打っていた。


 やがて、彼は目を開き、レオポルトを見据えた。その瞳の中には、商人としての冷徹さと、一人の人間としての感動が入り混じっていた。


「……へっ、分かったよ」


 突然、腹をくくったように笑った。それは命がけの決断を下した者が見せる、乾いた、しかし晴れやかな笑いだった。


「とことん付き合ってやるよ。お前みたいな馬鹿な貴族、初めて見たぜ。いや、馬鹿じゃなくて本気かもな。本気で民を救おうとしてる。三十年商売してきて、そんな人間に会ったのは初めてだ」


 マルクスは帳簿を閉じ、棚にしまった。その動作には迷いがなかった。


「いいか、ヴァイスハルト。俺も腹をくくる。お前が私財を全部投入するってんなら、俺も同じだけ出す。マルクス・シュトラウス商会の内部留保金、金貨三百枚。全額をこの作戦に投入する」

「マルクス、それでは……」

「うるせえ。お前だけに格好つけさせるかよ。俺だって三十年の商人人生を賭ける覚悟くらいあるぜ」


 声に力がこもった。


「……それにな、商人ってのは投資する生き物だ。お前の言う通り、この街の民衆は俺の客だ。客を守ることは、最高の投資だ。リターンは……そうだな、この国が生き残ることだ。国が生き残れば商売は続けられる。最高のリターンじゃねえか」


 マルクスは手を差し出した。


 レオポルトがその手を握り返す。商人の手は大きく、硬く、温かかった。


「やろう。とことんやってやる。帝国の野郎どもに、商人の本気ってやつを見せてやる。お前の決意に、俺の商売の腕で応えてやるぜ」


 マルクスは上着を羽織り、帽子をかぶった。いつもの掛け違えたボタンを直すことなく、勢いよく立ち上がる。


「さあ、時間がねえ。今夜中に追加の買い付け指示を全支店に飛ばす。南部のフリッツにも伝令を出す。輸送ペースを倍に上げろとな。東部の河船は増便だ。金はある。俺たちの全財産がある。……帝国の資金力に勝てるかどうかは分からねえ。だが、負ける前に全弾撃ち尽くしてやる。商人のけじめだ」


 扉に向かいながら振り返った。


「ヴァイスハルト。一つだけ約束しろ。この戦いが終わったら、お前のデパートの一階に、俺の商会の出店スペースを一等地で確保しろ。家賃は友達価格でな。……それが、俺への報酬だ」


 レオポルトは笑った。この日初めての、自然な笑みだった。


「約束します。一等地の最も目立つ場所を、マルクス商会のために確保しましょう」

「よし。それだけ聞けば十分だ。……行くぞ」



 数日後、王都は新たな動きに包まれた。


 レオポルトは穀物備蓄部門の開設を大々的に発表したのだ。通知は王の令状によって全市民に届けられた。市場の掲示板にも、街角の壁にも、同じ内容の告知が貼り出されている。


 建設中のデパートの一角に、急造の木造小屋が建てられた。素朴で、派手さはない。壁板はまだ生木の香りを放ち、屋根には仮の防水布が張られていた。だが、その入口には誰の目にも留まる大きな看板が掲げられている。


 ――穀物備蓄部門 特別原価販売


 太く力強い筆文字だった。それは宣言であり、約束であり、同時に革命的な行為でもある。



 朝、最初の光が差し込む時刻。販売所の扉が開かれた。


 飢えた民衆が殺到した。怒号と歓喜の声が同時に上がり、長蛇の列が形成され、市場全体が揺れた。


「おい、見ろ。パンが一銅貨だ」


 一人の男が大声で叫んだ。信じられないという驚きと喜びが、その声に凝縮されている。


「市場の三分の一だぞ。何だ、このふざけた価格は。いや、違う。このふざけた価格こそが、本来の価格なんだ」


 隣に並んでいた老婆が声を震わせた。


「本当なの……。本当に一銅貨で買えるの……。夢じゃないわよね……」

「夢じゃねえよ、ばあさん。ほら、見ろ、看板にちゃんと書いてある。一銅貨だ」

「ああ……。ああ、神様……。ありがとうございます……。これで孫たちに食べさせてやれる……」


 老婆の皺だらけの手が、胸の前で合わさった。指が震えている。


「男爵様が……男爵様が助けてくれたんだ」


 歓喜の声が連鎖する。人々の顔に、再び笑顔が戻り始めた。


 若い母親が子どもを抱きしめながら泣いていた。


「聞いた? 聞いた、この子。パンが買えるのよ。もう我慢しなくていいの。お母さんが、ちゃんとパンを買ってきてあげるからね……」


 子どもが不思議そうな顔で母親を見上げた。


「おかあさん、なんで泣いてるの」

「嬉しくて泣いてるのよ。……嬉しいのよ」


 列に並んでいた石工の男が、隣の人間に話しかけた。


「なあ、ヴァイスハルト男爵って、どんな人なんだ。こんなことをしてくれる貴族なんて、聞いたことがねえぞ」

「俺もよく知らねえ。だが、デパートを建ててる貴族だろう。若い男爵で、民衆のことを本気で考えてるって噂は聞いてた。……噂は本当だったんだな」

「本当どころじゃねえ。自分の金で穀物を買い集めて、原価で売ってるって話だぞ。利益ゼロだ。下手すりゃ赤字だ。……そんな貴族、この国の三百年の歴史で一人でもいたか」

「いるわけねえだろ。だからこそ、この人は本物だ。……俺は信じるよ。この人についていく」



 だが、希望はすぐに試練に直面した。


 備蓄には限りがある。午前中で、その日の販売分が売り切れてしまったのだ。


「くそっ、売り切れだと」

「え、もう終わり? 朝十時で終わりか」

「何時間も並んだのに。俺の分はどうするんだ」

「朝の五時から並んでたのよ。五時間よ。それなのに、あと三人のところで品切れって……。こんな残酷なことがあるの」

「明日だ。明日はもっと早く来るぞ」

「明日? 今日食べるものがないのに、明日まで待てってのか」


 失望の声がその場を支配した。


 だが、それでもなお、民衆の中には希望の火種が残っていた。明日がある。継続的な供給がある。それだけで、昨日までの絶望とは違うのだ。


 クララが販売所の前に立ち、声を張り上げた。


「皆さん、聞いてください。今日の分は品切れになってしまいましたが、明日は今日より多くの穀物を用意します。南部からの輸送隊が明後日には到着する予定です。供給量は日を追うごとに増えていきます。……どうか、希望を捨てないでください」

「あんたは誰だい」

「私はクララ・ノイマンと申します。この販売所の運営を担当しています。……それから、お子さんをお連れの方にお知らせです。明日から、販売所の隣に子ども向けの給食所を開設します。温かいスープとパンを無料で提供しますので、お子さんたちを連れてきてください」

「無料? 本当に?」

「はい、本当です。子どもたちが飢える姿を、これ以上見ていることはできません。……どうか、明日もいらしてください」



 翌朝、販売所の入口には新たな告知板が掲げられた。


 ――配給制を実施します。一人あたりの購入量を制限し、すべての市民に行き渡るようにします。パンは一人三つまで。穀物は一袋まで。


 レオポルトは自ら販売所の前に立ち、民衆に説明した。朝の冷気の中、彼の息が白く立ちのぼる。


「皆さん、お聞きください。本日から配給制を導入します。一人あたりの購入量を制限させていただきますが、これは皆さん全員に行き渡るようにするための措置です。一部の人間が大量に買い占め、他の方が手に入らないという事態を防ぐためのものです。……全員が平等に、全員が公平に。それが、この販売所の原則です」


 初期段階では、不満の声も上がった。


「三つだけかよ。うちは五人家族だぞ」


 レオポルトが答えた。


「五人家族の方は、ご家族それぞれが列にお並びいただければ、五人分を購入できます。一人あたりの制限ですので、家族全員でいらしていただければ、必要な量を確保できます。……ご不便をおかけしますが、ご協力をお願いいたします」

「でもよ、子どもが小さくて連れて来られねえ家もあるだろ」

「その場合は、家族構成を申告していただければ、世帯単位での配給も可能です。クララさん、申告窓口の設置をお願いします」

「はい、男爵様。すぐに手配します」


 民衆の間で会話が交わされた。最初はざわついていたが、やがて理解が広がり始める。


「仕方ねえ。みんな腹減ってるんだ。何人もが泣きながら並んでる。その全員が食べられるようにするには、こういう制限が必要なんだ」

「そうだよな。昨日、品切れで買えなかった人たちの顔を見たろ。あの絶望的な顔。……あの顔を見たら、俺だけもっと欲しいなんて、言えねえよ」

「独り占めしようとする奴がいないだけましだ。昨日の市場では、強そうなやつが弱い者を押しのけて穀物を奪い合ってたからな」

「ここは違う。男爵様のところは、全員が平等だ。金持ちも貧乏人も、同じ列に並んで、同じ量を買う。……こういうのが、公平ってやつだよな」

「男爵様は公平だ。俺たちみんなを見捨ててねえ。金持ちだけ、力の強い奴だけが助かるんじゃなくて、全員が助かるようにしてくれてる」


 秩序が、少しずつ戻り始めていた。



 隣の給食所では、クララが子どもたちにスープを配っている。湯気が立ちのぼる大鍋の前に立ち、一人ひとりの顔を見ながら椀を手渡していた。


「はい、リーゼちゃん。温かいスープとパンよ。ゆっくり食べてね」


 赤い髪の少女が、小さな手でスープ椀を受け取った。椀の温かさが指に伝わり、少女の目がわずかに潤んだ。


「おねえちゃん……。これ、本当にもらっていいの?」

「もちろんよ。あなたのために用意したの。……前に、図書室ができたら絵本が読みたいって言ってたわよね」

「うん……。でも、お腹すいてて、絵本のこと忘れてた」

「大丈夫よ。お腹いっぱい食べたら、また絵本のこと思い出せるから。……ほら、あの本棚を見て。スープを飲みながら、絵本を読んでもいいのよ」


 リーゼの目が輝いた。空腹で曇っていた瞳に、小さな光が灯る。


「ほんと……。わあ、絵本がある!」


 少女はスープ椀を両手で抱えたまま、本棚の方へとことこと歩いていった。


 クララは微笑んだ。その微笑みの奥には涙が光っている。こぼさないように、懸命にこらえていた。



 市場全体にも、徐々に安定がもたらされていく。


 帝国商人たちの買い占めは勢いを失い、マルクス商会の供給網との競合によって相場は少しずつ下降し始めた。完全な回復にはまだ遠いが、底なしの転落は止まったのだ。


 だが、人間の欲望は秩序の復活すら食い物にする。


 一部の悪徳商人が、配給された安価な穀物を大量に買い集め、闇市場で高値で転売し始めたのだ。公式な販売所では一銅貨のパンが、裏通りの闇市場では三銅貨で取引されている。その差分はすべて転売業者たちの懐に入る。善意のシステムの穴を突いた、巧妙な搾取だった。


 執事エーリッヒの諜報網は、その動きを見逃さなかった。


「旦那様、報告があります」


 エーリッヒは書斎に入り、単刀直入に告げた。その声は平坦だが、眉間にかすかな怒りの皺が寄っている。


「配給を受けた後、裏通りで三倍の値をつけて売りさばいている連中がいます。組織的な転売業者の一団です。少なくとも六名を特定しており、彼らは互いに連携して行動しています。朝の配給で最大量を購入し、午後には裏通りの闇市場で三倍の価格で販売する。一日あたりの利益は、一人につき銅貨四十枚以上と推算されます」


 息をつかず、さらに続けた。


「彼らの手口は巧妙です。一人が複数の偽名を使い分け、列に何度も並び直して配給量の制限を回避しています。金銭を渡して代わりに並ばせる代理購入者も雇っている模様です。……男爵様の慈悲につけ込み、民衆をさらに搾取しているのです」

「それだけではありません」


 エーリッヒの声が低くなった。


「転売業者の一部が、帝国商人との繋がりを持っている疑いがあります。帝国側が、我々の配給システムの内部崩壊を狙って、転売業者を意図的に送り込んでいる可能性も否定できません」



 レオポルトの表情が変わった。それまでの温和さが一瞬にして消え、冷徹さが現れる。


「転売業者か」


 その声は低く、氷のような響きを持っていた。


「民衆を救うための施策を、さらに金儲けの道具に変える輩か。……下種どもめ」


 目に燃えるような光が宿った。穏やかなレオポルトがこの目をするのは、彼を知る者でも滅多に見たことがない。


「エーリッヒ。六名の身元は完全に特定できているか」

「はい。名前、住所、常用する偽名、代理購入者の一覧まで把握しております」

「闇市場の場所は」

「裏通りの三ヶ所を特定済みです。営業時間は午後二時から日没まで。……旦那様のご指示があれば、いつでも動けます」

「即刻排除しろ。徹底的に、容赦なく」


 エーリッヒは深くうなずいた。その瞳にも、主人と同じ決意が宿っている。


「畏まりました。王都の治安維持隊にも協力を要請いたします。また、配給所の受付に本人確認の仕組みを導入し、偽名による重複購入を完全に防止いたします」

「それだけではない」


 レオポルトの声に、冷たい怒りが込められていた。


「転売業者の一覧を作成し、販売所の入口に掲示しろ。名前と人相を民衆全員に知らせる。……二度とこの街の人間を食い物にできないようにする」

「掲示ですか。……それは、彼らにとって社会的な死刑に等しいですが」

「それだけのことをしたのだ。民衆が飢えている中で、その苦しみを金に変えようとした。……同情の余地はない」


 エーリッヒは一瞬のためらいもなくうなずいた。


「了解いたしました。明朝までにすべての措置を完了させます。……旦那様、もう一つ提案がございます」

「何だ」

「配給所の運営に、民衆自身を参加させてはいかがでしょうか。各地区から信頼できる代表者を選出し、配給の監視と管理を任せる。民衆が自分たちの手で秩序を守る仕組みを作れば、外部からの工作に対する耐性も高まります」


 レオポルトは少し驚いた顔をし、それから微笑んだ。執事の提案が、自分の考えの先を行っていたことへの、素直な感嘆が浮かんでいる。


「……エーリッヒ。それは素晴らしい提案だ。民衆を守るだけでなく、民衆自身に守る力を与える。……それこそが、このデパートの理念に通じるものだ。すぐに実行に移してくれ」

「畏まりました」



 翌日から、組織的な摘発が始まった。


 エーリッヒの指揮下に置かれた調査チームが、闇市場を次々と特定していく。転売業者たちはその場で拘束された。抵抗する者もいたが、治安維持隊の前では無力だった。


 転売業者の名と人相は一覧に載せられ、販売所への出入りは永久に禁じられた。一度でも違法な転売に関わった者には、二度と配給の機会は与えられない。その厳しい処分は、民衆の間に大きな反響をもたらした。


 闇市場は摘発され、隠されていた穀物は正規のルートへ戻された。転売業者たちが秘匿していた備蓄倉庫も発見され、そこに溜め込まれていた穀物の大部分が販売所へ返却されたのである。



 民衆はレオポルトの断固たる姿勢に、深く心を動かされた。


「男爵様は本気だ……」


 一人の老人が、涙を流しながら言った。


「俺たちを守ってくれてるんだ。搾取されないように、公平に扱ってくれてる」

「ああ……。こんな貴族がいるなんてな。生まれてこの方、貴族なんざ俺たちから取り上げるだけの連中だと思ってた。……だが、この人は違う。自分のすべてを賭けて、俺たちを守ろうとしてくれている」

「男爵様のために、俺たちも何かしたい。何ができるか分からねえが……少なくとも、この配給所を守ることはできる。転売する奴がいたら、俺たちの手で見つけ出してやる」

「そうだ。男爵様に任せきりにしてちゃいけねえ。俺たちも自分の街は自分で守らなきゃ」


「子どもたちに、腹いっぱい食わせてやれる……」


 一人の母親が子どもを抱きしめながら声を上げた。その喜びは、単なる食糧の確保ではなく、自分たちが大事にされているという実感から湧き上がるものだった。


「この子が昨日、給食所で初めてスープを飲んだの。温かいスープを飲んで、この子、笑ったの。何日ぶりかの笑顔だった。……男爵様、クララさん、ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」


 レオポルトへの信頼は、日ごとに深まっていった。



 一方、帝国側の陣営では焦りが深刻化していた。


 エドヴァルト・シュタイナーは、宿舎の一室で報告書を握りつぶしていた。羊皮紙が乾いた音を立てて歪む。その手の震えが止まらない。


「……またしても、阻止されたか」


 声は低く、絶望に侵食されていた。報告書の残骸を机に叩きつける。インク壺が揺れ、黒い雫が机の表面に散った。


「原価販売。配給制。闇市場の摘発。民衆自治の導入。……あの男は、我々が仕掛けたすべての手を悉く封じている。しかも単に防御しているだけではない。我々の攻撃を逆手に取って、自分と民衆の結びつきを強化している」


 声がかすれた。


「……攻撃すればするほど、あの男の立場は強固になる。まるで我々の工作そのものが、あの男を育てる養分になっているようだ」


 帝国商人たちを使って買い占めた大量の穀物は、今やただの不良在庫に成り下がっていた。レオポルトの原価販売によって市場価格が落ち着きを取り戻したため、高値で売り抜ける機会を完全に逸してしまったのだ。


「在庫の穀物を市場に放出しようにも、あの男の原価販売が続く限り高値では売れない。かといって原価以下で投げ売りすれば、帝国側の損失はさらに膨らむ。……完全な袋小路だ。我々が仕掛けた罠に、我々自身がかかっている」


 拳を机に叩きつけた。


「失敗だ。……完全な失敗だ」


 エドヴァルトの声は自分自身への叱責であり、同時に深い絶望の表れでもあった。


「四度目の失敗。技術協力、商人ギルド、職人引き抜き、そして食糧危機。……四戦四敗。帝国情報局史上、最も無様な記録を更新し続けている。このエドヴァルト・シュタイナーがだ」


 自嘲的に笑った。口の端だけが歪む、寒々しい笑みだった。


「かつては帝国の刃と呼ばれた男が、たった一人の男爵相手に一度も勝てていない。……笑い話だな。いや、笑い話にすらならん。悲劇だ」



 伝声石を起動し、本国へ報告を入れることを余儀なくされた。石の表面に手を当てると、かすかな魔力の振動が掌に伝わる。


「シュタイナー大佐より、定時報告。食糧危機誘発作戦の現状を報告する。……結論から申し上げます。作戦は失敗しました」


 エドヴァルトは淡々と事実を述べた。声から感情を削ぎ落とす技術は、長年の訓練で身につけたものだ。


「対象は作戦開始前から備蓄を行っていた形跡があり、我々の動きを予測していた可能性が極めて高い。原価販売の導入、三方向からの供給ルートの構築、配給制の実施、闇市場の摘発。すべてが組織的かつ迅速に実行されました。……我々の買い占めた穀物は不良在庫と化しており、投資回収の見込みはありません。帝国側の損失は金貨七百枚以上と見積もられます」


 返ってきたのは、予想通りの冷酷な叱責だった。


「失望した。以後の対応を期待する。……次の工作で結果を出せ。さもなくば、お前の席はないと思え」


 エドヴァルトは無表情のまま答えた。


「了解しました」

「シュタイナー。貴官の能力を疑っているわけではない。だが、帝国は結果を求める組織だ。過程も努力も、結果がなければ意味を持たない。……貴官にはまだ時間がある。だが、永遠ではない。それを忘れるな」

「忘れておりません」


 通信が切れると、エドヴァルトは机に突っ伏した。


「……くそっ」


 その叫びは工作員としての無能さへの怒りであり、自分自身への深い失望でもあった。拳が机の表面を叩き、先ほど散ったインクの雫が飛び跳ねた。


 顔を上げ、天井を見つめる。石造りの天井には染みがいくつもあり、人の顔のように見えるものもある。以前もこの染みを見上げたことを思い出した。あの時は母と兄の面影を重ねた。今はただ、虚ろな模様にしか見えない。


「席がないと思え、か。……つまり次に失敗すれば、俺は処分される。帝国に戻ることも許されず、この王国で切り捨てられる。帝国は俺を知らないと宣言し、俺は行き場のない亡霊になる。……それが帝国工作員の末路だ。最初から分かっていたことだ」


 窓の外に目を向けた。建設中のデパートが月光の中に浮かんでいる。ガラス天井が反射する光は、冷たく美しい。あの天井の下に、民衆のための販売所と給食所があるのだ。


「レオポルト・ヴァイスハルト……」


 その名をつぶやいた時、声が震えた。恐怖であり、敬意であり、そして自分自身への問いかけでもあった。


「お前は、本当に民衆のために動いているのか」


 エドヴァルトはその答えを知っていた。


「答えは分かっている。あの男は本気だ。私財をすべてつぎ込み、領地すら売る覚悟で民衆を守ろうとしている。……それは帝国がどれだけ金を積んでも買えないものだ。人の心を動かす力。あの男にはそれがある」


 椅子に座り直し、両手で顔を覆った。指の隙間から漏れる息が、かすかに震えている。


「……俺は、悪魔にでもなったつもりか」



 エドヴァルトの胸中に、工作員としては致命的な疑念が広がっていた。


 自分は飢えに苦しむ民衆を意図的に作り出そうとした。レオポルトは私財を投げ打ってそれを救った。同じ人間であるはずなのに、歩む道は完全に逆方向だった。


「あの配給所に並ぶ民衆の列を、俺は遠くから見た。母親が子どもを抱いて泣いていた。老人が震える手でパンを受け取っていた。……あの人々を飢えさせようとしたのは、俺だ。あの涙を流させようとしたのは、俺だ」


 掠れた声が石壁に吸い込まれていく。


「母さん。兄さん。もし今、お前たちが俺を見たら……何と言う。飢えた人々を作り出す仕事をしている俺を、お前たちは許すか。……許すわけがない。俺自身が、許せないのだから」


 帝国の工作員としての誇りと、人間としての良心の間で、エドヴァルトは引き裂かれそうになっていた。


「だが、帝国に逆らうことはできない。逆らえば俺は消される。そして別の工作員が来る。もっと冷酷な、良心など持ち合わせていない工作員が。……俺が辞めても何も変わらない」


 拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。


「……本当にそうか。本当に、何も変わらないのか。それは……俺自身への言い訳ではないのか」


 その問いに、答えることができなかった。


 以前、羊皮紙に書いた六文字が脳裏に浮かぶ。


 ――正しさとは何か。


 あの時立てた問いの答えは、まだ見つかっていない。



 同じ頃、ゲオルク・フォン・エッケルト伯爵もまた歯噛みしていた。


 先の謹慎処分が解けた彼は、すぐさま王宮へと参内し、国王アルフレート三世に訴え出た。豪奢な衣服を纏い、金の留め具を光らせ、しかしその目は暗い炎に燃えている。


「陛下。この上なき失敬を申し上げます」


 唾を飛ばしながら、ゲオルクは熱弁した。玉座の前に立つ彼の影が、大理石の床に長く伸びている。


「ヴァイスハルトの行為は、王権への冒涜です。民衆に媚び、自らを救世主と見立てて振る舞うなど言語道断。その結果として民が王よりも彼を崇めるようになれば、国家の秩序は完全に崩壊しますぞ」


 一歩前に出た。


「考えてもみてください、陛下。あの男は何をしたか。穀物の原価販売。配給制の導入。給食所の設立。……これらはすべて、本来であれば王権が行うべき施策です。それを一介の男爵が私的に実行している。これは何を意味するか。民衆に対して、王は何もしてくれないがヴァイスハルトは助けてくれるというメッセージを発しているのです」


 声はさらに高くなった。


「すでに市場では、民衆がヴァイスハルトの名を呼んで感謝の言葉を口にしています。『男爵様が救ってくれた』と。陛下の御名ではなく、ヴァイスハルトの名が民衆の口の端に上っているのです。これは由々しき事態です。民の忠誠が王ではなく一臣下に向けられるなど、王国始まって以来の異常事態と言わざるを得ません」



 王アルフレート三世は、玉座で深く溜息をついた。その表情には疲労と、何かしらの確信とが混在していた。白髪の交じった髭を撫で、ゲオルクをまっすぐに見つめた。


「だがゲオルクよ。彼は実際に民を救ったのだ。余が手をこまねいている間に、彼は私財を投げ打つ覚悟で民衆の生活を守った」


 声を硬くした。


「ゲオルク。そなたに問う。そなたは、あの食糧危機の最中に何をした。民衆が飢えに苦しんでいる時、そなたはどこにいた。そなたの屋敷の倉庫には十分な穀物があったはずだ。だが、そなたがそれを民衆に分け与えたという話は、余の耳には一切入っていない」


 ゲオルクは一瞬、言葉に詰まった。顔がわずかに強張る。


「それは……それは、そのような施策は王権が行うべきものであり、臣下が勝手に……」

「ヴァイスハルトは、余に事前に報告し、正式な承認を得た上で行動した。余の名において、王宮からも資金を拠出している。つまり、あの施策は余の承認の下で行われたのだ。……そなたの論は、前提が間違っておる」

「それは……」


 ゲオルクは言葉を失いかけたが、すぐに食い下がった。


「今はそうかもしれません。ですが、増長した民衆はいずれ王権に牙を剥きます。民衆の支持は王権への脅威となるのです。陛下、歴史をご覧ください。民衆の英雄が現れた時、その英雄が次に何をするか。王権に取って代わろうとするのです。ヴァイスハルトが今は忠臣であったとしても、五年後、十年後に同じ忠誠心を保っている保証はどこにもありません。民衆の支持を背景に王位を狙う……そのような事態が起きてからでは遅いのです」



 宰相リヒテンシュタインが静かに口を挟んだ。その声には、長年の政治的経験に裏打ちされた重みがある。


「伯爵の懸念も一定の理解はできます。歴史上、臣下が民衆の支持を得て王権を脅かした例は確かに存在いたします」


 ゲオルクの目が光った。


「宰相殿もお分かりになるでしょう……」

「しかし」


 宰相はゲオルクの言葉を遮った。穏やかだが、有無を言わせぬ声だった。


「レオポルト男爵は、すべての行動を事前に陛下へ報告し、正式な承認を得ております。彼の忠誠心に疑いの余地はございません」


 宰相はゲオルクの方を向いた。


「伯爵。歴史上の反逆者たちに共通する特徴を、私は長年研究してまいりました。彼らに共通するのは、隠密に行動し、王権の承認を得ずに独自の権力基盤を築こうとしたことです。……ヴァイスハルト男爵の行動はその正反対です。すべてを公開し、すべてを報告し、すべてを陛下の承認の下で行っている。これほど透明な臣下を反逆者と見なすことは、論理的に無理がございます」


 宰相はさらに続けた。


「むしろ、伯爵に申し上げたいことがある。この食糧危機の際、保守派の貴族の中で、民衆を助けるために動いた方が何名おられましたか。……私の知る限り、一名もおられません。ヴァイスハルト男爵が民衆の信頼を得ているのは、彼が行動したからです。行動しなかった者が行動した者を非難する。それは果たして正当な批判と言えましょうか」


 ゲオルクの顔が赤くなった。


「宰相殿、それは……」


 王がうなずいた。その動作は決定的であり、これ以上の議論を許さない重みを持っていた。


「余はヴァイスハルトを信じることにした。……ゲオルク、そなたもこれ以上の邪推はやめよ。無用な軋轢は、王国に損益をもたらすだけだ」


 王は立ち上がった。玉座から一歩踏み出し、ゲオルクを見下ろす。


「そしてゲオルク。そなたに忠告する。ヴァイスハルトを非難する暇があるならば、そなた自身が領民のために何ができるかを考えよ。貴族の責務は、領民を守り、導くことだ。……それを忘れた者に、他の貴族を批判する資格はない」

「……はっ」


 ゲオルクは不承不承引き下がったが、その所作は機械的であり、心はそこにはなかった。



 廊下に出た後、ゲオルクは歯を食いしばってつぶやいた。大理石の柱の影が、彼の歪んだ表情を隠している。


「宰相め……。あの老人もヴァイスハルトに取り込まれたか。王も宰相も、あの男の甘言に惑わされている。……このままでは、保守派の立場はますます弱くなる。いや、保守派だけではない。この王国の伝統的な秩序そのものが、あの男によって破壊されるのだ」


 邸宅に戻ると、彼はまっすぐ書斎に入り、扉を閉め、鍵をかけた。


 窓の鎧戸も下ろす。蝋燭の灯りだけが、狭い部屋を揺らめく影で満たした。


「正面からでは勝てぬ。王は完全にヴァイスハルト側についた。宰相も同様だ。上奏文も謁見での直訴も、もはや効力がない。……ならば、裏から動くしかあるまい」


 ゲオルクは机の引き出しから、一通の手紙を取り出した。帝国の紋章が押された封蝋が施されている。以前から温めていた手札だった。


「帝国の工作員、エドヴァルト・シュタイナー。あの男との連携は、かねてより模索していた。……今こそ、その時だ。帝国と手を組む。王国の内部から、そして外部から、ヴァイスハルトを挟み撃つ」


 腹の底で黒い炎が燃えていた。蝋燭の揺らめきに照らされた彼の顔は、影と光が半々に分かれ、まるで別人のように見えた。


「見ておれ、成り上がりめ。……必ず足元を掬ってやる。お前の人気も、お前の地位も、お前の生命も、すべてを奪ってやる」


 新しい羊皮紙を取り出し、ペンを走らせ始めた。インクが紙の上を滑る音が、静まり返った書斎に響く。


「まずはエドヴァルトへの密書だ。帝国の工作と、保守派の政治力を合わせれば、ヴァイスハルトを二方向から追い詰めることができる。食糧危機を乗り越えたとしても、次の一撃はもっと致命的なものにする。……今度は、奴が決して防ぎきれない手を打つ」


 その言葉はつぶやきであり、誓いであり、復讐の宣言でもあった。


「王に見限られた。構わぬ。王を動かせぬなら、王を迂回する。帝国の力を借り、ヴァイスハルトを物理的に排除する。……あの男さえいなくなれば、すべては元に戻る。この国は、我々保守派が守ってきた秩序の下に戻るのだ。……必ず」


 ペンが羊皮紙の上を走り続けている。蝋燭の炎が、一瞬だけ大きく揺れた。



 建設現場。


 夜間の工事用照明が、構造物を白く浮かび上がらせていた。


 レオポルトはオスカー・ブラウエルと並んで、完成間近のガラス天井を見上げている。百枚のガラス板が格子状に組み合わされたその天井は、月光と照明光の反射によって宝石のように輝いていた。虹色の光が内部に降り注ぎ、足元の石畳にまだら模様の光彩を落としている。


「先生、間に合いそうですね」

「ああ。あと一月もあれば、内装も含めてすべて終わるはずだ」


 オスカーは満足げに髭を撫でた。白い髭に、ガラス天井の反射光が青く映り込んでいる。


「ガラス天井の耐久テストも全項目合格した。外壁の仕上げも九割方終わっている。内装は……クララ嬢の図書室を含めて、あと三週間といったところか。カールの奴が仕上げの刻印を任せてくれと言っとるが、あいつの腕なら問題ないだろう。よく育ったもんだ」


 オスカーはレオポルトの方を向いた。職人の目が、若き男爵の顔を観察するように細められる。


「お前、食糧危機の対応で寝てないだろう。顔色が悪いぞ。目の下の隈がひどい。職人が言うのもなんだが、体を壊したら元も子もない。……建物は儂とカールたちに任せて、少しは休め」


 レオポルトは微笑んだ。だが、その瞳の奥にはまだ消えぬ警戒の色がある。


「ありがとうございます、先生。ですが、まだ休むわけにはいきません。帝国の圧力は、まだ終わったわけではないのです」


 オスカーもまた、その現実を理解していた。


「ああ。それは分かっている」


 腕を組んだ。太い腕の筋肉が、月光の下で影を落としている。


「食糧危機は凌いだようだが、あの帝国の連中がこれで引き下がるとは思えん。六十年も生きていれば分かる。追い詰められた獣は最も危険だ。……次に何が来るか、儂にも予測はつかんが、建物に対する直接攻撃の可能性は考えておかねばならん」



 レオポルトは建設現場全体を見渡した。照明に照らされた骨格が、夜の闇の中に白い城のように浮かんでいる。


「先生の仰る通りです。食糧危機は回避した。だがエドヴァルトはまだ諦めていないはずだ。今のところ彼は経済的な工作に集中していた。だが追い詰められた工作員が次に選ぶ手段は、さらに過激で、さらに直接的なものになるかもしれない」


 レオポルトの推察は冷徹だった。


「破壊工作か。あるいは暴力団を利用した建設現場の妨害か。革命勢力への資金提供によって王国内部から混乱を引き起こす手もある」


 一つ一つの可能性を挙げていく。


「さらに言えば、ゲオルク伯爵の動きも気にかかります。謹慎が解けた後、王宮で直訴を行ったようですが退けられた。……追い詰められた権力者が、帝国と手を結ぶ可能性がある。内と外からの挟撃。それが最も厄介な筋書きです」

「……それは深刻な脅威ですな」


 オスカーは静かに言った。


「この建物に、一年以上の歳月と、何百人もの職人の汗が注ぎ込まれている。一度の破壊工作で、そのすべてが灰になりかねん。……そんなことは、儂の命に代えてもさせるわけにはいかん」

「だからこそ、警戒を強化する必要がある」


 レオポルトはオスカーを見つめた。


「先生、次の段階への準備をしてほしい。建設現場の警備体制を強化すること。重要な機器や資材は盗難や破壊から守ること。職人たちの安全を最優先とすること。……すべてが重要です」

「具体的に何を求める」

「まず夜間の警備を二交代制から三交代制に変更してください。現場の出入り口は暗証を設けて部外者の侵入を防ぐ。資材倉庫には鍵を二重に掛け、管理責任者を明確にする」


 声を落とした。


「……そして先生、職人たちに不審者を見かけたら即座に報告するよう、改めて周知してください。以前の放火未遂の件もあります。同じことを二度起こすわけにはいきません」

「承知した。すぐに対策を講じよう」


 オスカーは決然と答えた。


「警備体制の強化は明日から実施する。カールに現場監督を任せている時間帯も巡回を増やす。資材倉庫の管理は信頼できるベテラン職人を専任で配置しよう」


 間を置いた。


「……それから、レオポルト」

「はい」

「お前に一つ言っておく」


 オスカーはガラス天井を見上げた。虹色の光が、老職人の白い髭を七色に染めている。


「この建物は、もはや儂のものでもお前のものでもない。この街の民衆のものだ。あの配給所に並ぶ人々、給食所でスープを飲む子どもたち、市場で『男爵様が救ってくれた』と話す老人たち。……全員のものだ。だから守る。儂の六十年のすべてを賭けて、守り抜く」


 レオポルトは深くうなずいた。


「ありがとうございます、先生。……先生と一緒にこの建物を作れて、本当に良かった」

「やめろ、辛気臭い。まだ完成もしてないのに、そんなことを言う奴があるか。……完成してから言え。その時は、儂も泣くかもしれんがな」


 オスカーは照れ隠しに髭を撫でた。その手つきが、いつもより少しだけ優しいことに、レオポルトは気づいていた。



 レオポルトは夜空を見上げた。


 満月が静かに世界を照らしている。その光は柔らかく、温かく、そして同時に厳粛だった。ガラス天井を透過した月光が、建物の内部に虹色の模様を落としている。


 あの光の下で、明日もクララが子どもたちにスープを配り、ハインリヒが値札の前で苦悩し、ゲオルク・ヴェーバーが娘のためにパンを求めて列に並ぶのだろう。


 レオポルトの心の中に、静かな、しかし消えることのない決意が燃えていた。


 誰も犠牲にしない。誰も飢えさせない。そして、誰も失わせない。


 その決意は鋼のように固く、炉の奥で赤く熱された鉄のように静かに燃えている。一人の男の意志が、この王国の夜空の下で、月光と混じり合うようにして灯っていた。


 王都の空に雲が流れていく。月はときおり翳り、ときおり顔を出し、眠りにつこうとする街を見守り続けていた。


 穀物価格の異常は収束に向かいつつあるが、本当の嵐はまだ先にある。帝国の影と、内なる裏切りの芽が絡み合う、その先に待つものを、レオポルトはすでに見据えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ