第17話 エドヴァルトの報告書
ヴェルディア帝国の首都は、深い夜の静寂に沈んでいた。
活気あふれる港湾都市の一角に位置する帝国情報局本部は、灰色の石造りで威圧的にそびえ立っている。
小さく穿たれた窓は外部の光を一切漏らさず、建物全体が外界との完全な遮断を意図した設計になっていた。周囲には完全武装の警備兵が絶え間なく巡回を続けており、蟻一匹たりとも通さぬ厳重な警戒態勢が敷かれている。
その地下深くに位置する執務室は、地上よりもさらに一層の沈黙に支配されていた。
石壁が音を吸い込み、空気そのものが凝固しているかのようである。
◇
エドヴァルト・シュタイナーは、狭く簡素な机の前に座り、ペンを握っていた。
魔導照明が放つ冷たい青白い光だけが、彼の手元を照らし出している。ペンの先端が羊皮紙の上を走る音が、沈黙の部屋に規則正しく響き渡る。その音は、彼の思考の密度を象徴するかのように、一定のリズムを崩すことなく続いていた。
表情は硬く引き締められている。
瞳には疲労と、それだけでは説明のつかない感情的な揺らぎが見え隠れしていた。ペンを走らせるたびに、肩がわずかに強張る。これは単なる事務作業ではない。自分自身の失敗を、一字一句、正確に記録するという苦しい作業なのだ。
羊皮紙に記された文字は、冷徹で客観的だった。
対象はレオポルト・ヴァイスハルト男爵。評価は極めて優秀。推測および予想される以上の政治的手腕、経済的戦略眼を備えている。現状として、従来の工作手法はすべて無効化されており、推進してきた政策の根本的見直しが必須である。
エドヴァルトはこれまでの工作の失敗を淡々と記録していった。だが、その筆致の奥には、職業的な冷徹さだけでは覆い隠せない感情の揺らぎが、確かに混在している。
◇
技術協力の拒否。
帝国の技術者派遣という甘い毒を、あの男は「自国の職人育成を優先する」という大義名分で、あまりにも鮮やかに弾き返した。
それは単なる拒否ではなかった。こちらの意図を完全に見透かした上での、計算し尽くされた否定だった。帝国の技術力がどれほど優れているかを十分に理解しながら、それでもなお断った。あの即断の速さは、合理的判断というよりも、最初から答えが決まっていたかのような確信に満ちていた。
商人ギルド内部の工作における失敗。
ギルド内部の不満分子を特定し、接触するまでに二週間を費やした。周到に準備を重ね、内部から瓦解させるはずだった。ところが、工作員がギルド内で最初の一手を打ったその翌日に、あの男は在来の流通経路そのものを切り替えてしまった。
予定された防御ではない。こちらの手段を完全に無視し、まったく別のルートを開拓するという奇策だった。偶然でこれほど的確なタイミングが重なることは、あり得ない。
職人の引き抜き工作における失敗。
帝国側が金に糸目をつけない条件を提示したにもかかわらず、一人として応じなかった。あの男が職人たちに提示したのは、待遇改善と信頼の醸成という目に見えない資産だった。金銭の五倍の魅力を、言葉と誠意だけで作り上げるなど、工作員の常識では説明がつかない。
◇
エドヴァルトはペンを置き、机の上で両手を組んだ。
その指先が微かに震えていることに、彼自身は気づいていた。だが、あえて目を逸らした。
天井を見上げて、深く長いため息をついた。
「……まるで、未来を見ているかのようだ」
独り言が、冷たい石壁に吸い込まれていく。声は低く、自分自身への問いかけのようでもあり、また自分自身への警告のようでもある。
「こちらの思考を先読みし、最善の手を打ってくる。しかもそれが毎回だ。一度ならば偶然と言える。二度ならば洞察力と言える。だが三度、四度と続けば、もはや別の説明が必要になる。……あるいは、この男は私の手口を知り尽くしているのか。帝国情報局の教範でも読んだことがあるとでもいうのか」
椅子の背にもたれ、組んだ両手を額に押し当てた。
「技術協力の件では、通常であれば三ヶ月は検討に要するはずだった。帝国側の技術優位性は圧倒的であり、合理的に考えれば受諾する以外の選択肢は存在しない。それは客観的な事実だ。……だが、あの男は即座に断った。理由も明確だった。自国の職人育成を優先する、と。聞こえは美しいが、あの時点でそれが正しい判断だと確信できる根拠がどこにある」
声が低くなった。
「帝国の技術力を知らぬ者ならば、無知ゆえの拒否もあり得よう。だが、あの男は帝国の技術力を十分に理解した上で断ったのだ。つまりこれは、技術力の問題ではなく、帝国の意図そのものを見抜いていたということに他ならない」
指で額を叩いた。鈍い音が、石壁に跳ね返る。
「商人ギルドの工作もそうだ。内部の不満分子を特定し、接触するまでに二週間を費やした。人選を誤らぬよう、性格分析まで行った上での周到な準備だった。確実にギルド内部から瓦解させるはずだった。……ところが、我々が動く前に、あの男は在来の流通経路そのものを切り替えた」
拳を握りしめた。
「偶然か。いや、偶然であれば、ここまで的確なタイミングにはならん。我々の接触者がギルド内で最初の一手を打ったその翌日だぞ。まるで、我々の動きを一手先まで読んでいたかのようだ」
立ち上がり、壁に掛かった王国の地図の前に歩いた。地図に描かれた都市や街道の線を、目で辿る。
「職人の引き抜きに至っては、もはや説明がつかない。帝国が提示した報酬は、王国の平均的な職人の年収の五倍だ。金銭的にはこれ以上ない条件だった。にもかかわらず、一人として応じなかった。一人もだ」
声が強くなった。
「あの男が職人たちに何を提示したのか。待遇改善と信頼の醸成。……言葉にすれば簡単だが、それが金銭の五倍の魅力を持つことは、通常の人間関係ではあり得ない。あり得ないことが現実に起きている。それは、あの男が何か、我々の理解を超えた何かを持っていることを意味する」
その言葉は、エドヴァルト自身が直面している脅威の本質を正確に言い当てていた。
相手は単なる地方貴族ではなく、帝国の精鋭工作員すら上回る戦略眼を持つ、得体の知れない存在である。その確信が、少しずつ、しかし確実に、彼の思考の根底を侵食し始めていた。
「私はこれまで、十七の任務を遂行してきた。成功率は百パーセントだ。……いや、百パーセントだった。この任務に至るまでは」
窓のない壁を見つめた。灰色の石肌には何の模様もなく、ただ無機質な表面だけが広がっている。
「初めてだ。これほどまでに、相手の手のひらの上で踊らされている感覚は。あの男と対峙するたびに、自分が透明な箱の中にいるような錯覚に陥る。こちらからは壁に見えているものが、向こうからは丸見えなのだ。……いや、錯覚ではないのかもしれん。実際に丸見えなのかもしれん」
◇
エドヴァルトは報告書を再度手に取り、丁寧に整理した。
羊皮紙の端を揃え、封筒に入れ、蝋で封をする。そして机の引き出しから、青く輝く宝石を取り出した。
伝声石。
帝国情報局の中でも、限られた者だけに所有が許される貴重なマジックアイテムだ。魔力を通すことで遠距離通信を可能にするこの石は、触れるたびにその冷たい重みが指先に伝わる。
エドヴァルトが魔力を込めると、石が淡く発光し始めた。光の色が深い藍色から透明な白へと変わるにつれ、彼の意識も伝送の準備態勢へと切り替わっていく。
「報告書を送信する」
声が石に吸い込まれ、遠く離れた帝国本部へと送られていった。自分の声がどこか別の場所へ消えていく感覚には、何年経っても慣れることができない。
「……対象の能力評価を、再度上方修正する必要がある。従来の評価基準では、この男を測ることができない。報告書に記載した通り、あらゆる工作が無効化されている現状を踏まえ、作戦方針の根本的転換を具申する。……以上」
◇
数日の沈黙が続いた。
その間、エドヴァルトは宿舎の窓から王都の夜景を眺めることが多くなっていた。
建設途中のデパートの輪郭だけが、月光に照らされて暗闇の中に浮かび上がっている。あの建物が完成すれば、この王国にもたらされるはずの新しい秩序が、帝国の覇権にどのような影響を及ぼすのか。彼は何度も何度も、同じ思考の輪を辿っていた。
「あの建物は……ただの商業施設ではないな」
窓枠に手をかけ、呟いた。
「あの男が作ろうとしているのは、建物ではない。思想だ。透明性、公平性、民衆の自立。……それらが一つの形となって、あの建物の中に凝縮される」
声が低くなった。
「もしあれが完成し、実際に機能し始めたら……この王国の民衆は、もう二度と以前の状態には戻らない。権力者に従うだけの羊ではなく、自分の足で立ち、自分の目で選び、自分の声で語る民になる。そして、そのような民衆を擁する王国は、帝国にとって……」
言葉が途切れた。
その先を口にすることは、帝国工作員としての自分を根底から否定することに等しかったからだ。
◇
そして、五日目の深夜。
伝声石が不気味に赤く明滅し始めた。
エドヴァルトは即座に石を手に取った。赤い光が脈動するたびに、彼の心臓も同じリズムで打つ。通信相手は上官だ。返答が来たということは、本国からの正式な指示が下されるということを意味する。
上官の声が、石を通して響いてきた。
その音声からは、感情のすべてが削ぎ落とされている。純粋な命令のための声。人間の温度を意図的に排除した、機械のような響きだった。
「シュタイナー大佐。報告書は受領した。内容は……不満足だ」
エドヴァルトは黙って聞いていた。反論も弁明も、この段階では無意味であることを知っている。
「貴官のこれまでの実績は承知している。十七の任務における完璧な成功率。それは帝国情報局の誇りであった。だが、この任務における成果は、帝国の期待を大きく下回っている。対象の能力が高いことは理解した。だが、それは言い訳にはならん。帝国は結果を求めている。過程や事情ではなく、結果をだ」
「……了解しています」
エドヴァルトの声は抑制されていた。感情を押し殺す訓練は、入局以来何百回と繰り返してきたが、今夜ほどその訓練が必要だと感じたことはなかった。
「次の段階へ移行せよ。……食糧危機を誘発しろ」
エドヴァルトの右手が、わずかに硬直した。指先が伝声石の表面を強く握りしめ、爪が白くなる。
「王国の穀物を買い占め、価格を高騰させろ。飢えた民衆の怒りが、革命の火種となる。手段は問わぬ。帝国の利益こそが、すべての行動の正当性である。分かるな、シュタイナー」
数秒の沈黙のあと、エドヴァルトは問い返した。
「……閣下。確認させていただきたい。この命令は、情報局長官の承認を得たものですか。食糧危機の誘発は、民間人に対する直接的な攻撃に該当します。通常の工作権限の範囲を超えているのではないかと……」
「無論だ。長官直々の命令だ。権限の問題はすでに決裁済みだ。シュタイナー大佐、貴官に選択の余地はない。三ヶ月前に与えた期限は、すでに半分が経過している。残りの時間で成果を出せなければ、貴官の処遇については……改めて検討することになる」
「処遇、とは」
「左遷か、あるいはそれ以上だ。帝国は、無能な工作員を養う余裕はない。……分かっているな、シュタイナー」
「……了解しました」
「それから、もう一つ。食糧危機の誘発に際しては、帝国の関与を一切悟られるな。あくまで市場原理の結果として、自然に価格が高騰したように見せかけろ。王国側が帝国の工作だと特定できる証拠を残した場合、貴官は即座に切り捨てる。帝国は、貴官を知らないと宣言する。……そういう任務だ。最初からそうだった」
「承知しています。……最初から、そういう契約です」
その言葉は、自分自身に言い聞かせるように響いた。
「よろしい。次の報告は二週間後だ。成果を期待する」
通信が切れた。
赤い光が消え、伝声石は再び無音の宝石に戻った。部屋には、石壁の冷気だけが残っている。重苦しい沈黙が、天井から降りてくるように部屋全体を覆った。
エドヴァルトは命令の内容を、一言一句、完全に理解していた。
だが、理解することと、それを受け入れることは、まったく別の問題だった。
◇
立ち上がり、窓のない壁に向かって歩いた。
ここは地下だ。窓はない。外の様子を窺うことはできない。見えるのは灰色の石壁だけであり、その暗い表面の向こうに、かつての自分の記憶が埋もれている。
幼い日々の飢え。母親の痩せ細った顔。兄の冷たくなった体。
すべてが、食糧不足というたった一つの悪によって引き起こされた悲劇だった。
帝国に拾われた彼は、その悲しみから逃れるために、帝国のためにすべてを捧げることを選んだ。帝国のためならば、あの過去に向き合う必要はないと、自分に言い聞かせてきた。
だが今、その帝国のための行動が、同じ飢えを、同じ悲劇を、この王国の民衆にもたらそうとしている。
「……食糧危機か」
呟きは、自分自身への確認なのか、自分自身への反発なのか、本人にも判別がつかなかった。
「それは、最も効果的で、最も卑劣な手段だ。戦場で剣を振るうより、はるかに多くの人間を苦しめることができる。しかも、手を汚した実感がない。数字の上で穀物を動かすだけで、何千もの家族が飢える。……それを、効率的と呼ぶのか」
声は次第に低くなり、最後にはほとんど聞こえないほどの囁きになっていた。
「母さんは……あの冬、パン一切れのために、三日間雪の中を歩いた。膝まで積もった雪を掻き分けて、隣村のパン屋まで。そして帰ってきた時には……もう自分の足で立てなくなっていた。手の中に握りしめたパンだけが、まだ温かかった」
壁に拳を押し当てた。石壁の冷たさが、骨の芯まで染みる。
「兄さんは、俺に自分の分の麦粥を譲ってくれた。お前の方が体が小さいから、お前が食べろと言って。……次の日の朝、目を覚ましたら、兄さんはもう冷たくなっていた。あの時の兄さんの顔を、俺は一生忘れない。穏やかな顔だった。弟に食べさせることができたから、満足して死んだのだと……そう思いたかった」
拳に力がこもり、石壁の表面に擦り傷が残った。
「あの時、俺は誓ったはずだ。二度と、誰にも、あんな思いはさせないと。……帝国がその力をくれると信じた。帝国のために働けば、あの悲劇を繰り返さない世界が作れると。帝国の秩序が、飢えのない世界を実現すると、本気で信じていた」
声がかすれた。
「だが、今、俺がやろうとしていることは何だ」
壁から手を離し、自分の掌を見つめた。工作員としての訓練で鍛え上げられた、無駄のない指。人を欺き、情報を盗み、社会を操作するための道具として磨かれてきた手だ。
「……同じことだ。罪のない人間から食糧を奪い、価格を吊り上げ、民衆を飢えさせる。母さんと兄さんを殺した、あの飢餓を、今度は俺自身の手で作り出すのか」
椅子に座り直した。
机の上には、命令を拒否する手段が存在しないという現実が、物理的な重さとなってのしかかっている。帝国工作員として生きることを選んだ時点で、彼は自分の意思を手放すことを暗黙のうちに承知していたのだ。それが契約だった。命令に従い、結果を出す。それ以外の選択肢は、最初から用意されていない。
「……だが、命令だ」
声は静かで、そこには諦めと、怒りと、悲しみが溶け合っていた。
「それが、帝国工作員の務めなのだから」
伝声石を机の上に戻し、その冷たい表面を見つめた。青い宝石の奥に、何かが映っているような気がした。だが、それは光の反射にすぎない。
「命令を拒否すれば、俺は消される。別の工作員が送り込まれ、同じことが行われる。俺が拒否しても、結果は変わらない。……変わらないのなら、俺がやるしかない。少なくとも、俺なら……被害を最小限に抑えることができるかもしれない」
自分に言い聞かせる言葉は、自分を納得させるためのものではなかった。自分を強制的に動かすための、力技だった。心が動かないなら、理屈で体を押すしかない。
「……嘘だな。今の言葉は、自分への言い訳だ」
苦い笑いが漏れた。
「被害を最小限に抑える。そんな余地がこの命令のどこにある。徹底的に、完全に、と言われたのだ。手段は問わぬと。……俺は、ただ従うだけの犬だ。鎖に繋がれた犬が、ご主人様の指差す方向に吠えるだけだ」
やがてエドヴァルトは立ち上がり、次の行動のための準備を始めた。
感情を箱に詰め、鍵をかけ、心の奥底に押し込む。それが、彼の生き延びてきた方法だった。
◇
数日後の午後。
王都の商業地区に近い帝国公館の広間に、異なる顔ぶれが集まっていた。およそ二十名ほどの人物たちである。
表向きは友好的な貿易商として王国内で活動する商人たちだ。だが、その実態は、エドヴァルトの指揮下に置かれた帝国の工作員であり、彼らは商売という名目のもとで帝国の利益を追求する駒として機能している。
それぞれが王国内に根を張り、現地の言葉を流暢に話し、現地の商慣習に精通している。誰一人として、外見から帝国の人間だと見抜くことはできないだろう。
広間の中央に設えられた壇上に、エドヴァルトが立った。
その瞳は冷徹で、表情から感情の一切が拭い去られている。一人の苦悩する人間から、帝国の代理人へと切り替わった姿だった。下方に集まった商人たちは、その視線に晒されるたびに、背筋がわずかに強張るのを感じずにはいられない。
「諸君、次の任務だ」
声は低く、しかし広間の隅々まで届くだけの明瞭さを保っている。
「本国より新たな指令が下された。これまでの間接的な工作から、直接的な経済攻撃へと段階を上げる。……心して聞け」
広間を見渡し、一人ひとりの顔を確認した。誰の目にも不安の色がある。だが、同時に、命令に従う以外の道がないことも、全員が理解していた。
「王国の穀物を買い占めろ。徹底的に、完全に、すべての供給源から穀物を回収する。それが今回の任務だ」
商人たちの間に、微かな波動が走った。不安と、戸惑いと、そしてほんのわずかな背徳の期待が混在する空気が生まれる。
「市場価格の一・五倍の値をつけ、あるだけの小麦、大麦、ライ麦を買い漁ること。農民からの直接買い付け、卸売業者との交渉、穀物倉庫からの引き上げ。すべての在庫を完全に掌握し、市場から穀物を消滅させるのだ。一粒たりとも王国側の手に残してはならん」
壇上を歩きながら、さらに続けた。
「具体的な手順を説明する。まず第一段階として、王都周辺の主要な穀物倉庫五ヶ所をすでに特定済みだ。各倉庫の在庫量と管理者の情報は、諸君の手元に配った封筒に入っている。各自、担当する倉庫に対して、明日の夜明けと同時に買い付けを開始しろ」
声を落とした。
「価格交渉は迅速に行え。相手が渋ったら、即座に一・五倍を提示する。それでも渋るなら、二倍まで上げてよい。金に糸目はつけない。帝国の資金力を、存分に見せつけろ」
年配の商人が手を挙げた。この男は王国内で十年以上の活動歴を持つベテランで、顔には商売で鍛えた老獪さが刻まれている。
「大佐、農村部の買い付けについてはいかがなさいますか。王都の倉庫を押さえたとしても、周辺農村からの新たな供給を止めなければ、穴の開いた桶に水を注ぐようなものです。倉庫を空にしても、翌週には農村から新しい穀物が運び込まれる」
「良い質問だ。第二段階として、王都から半日の行程内にある農村への買い付け隊を編成する。五名一組で十の村を同時に回る。農民には、今年の収穫分だけでなく、来季の分まで先物買いの契約を持ちかけろ。来季の収穫を市場価格の一・二倍で買い取ると約束すれば、農民は喜んで契約するはずだ。目の前の確実な利益を、将来の不確実な市場に優先させるのは人間の本能だからな。これにより、短期的にも長期的にも、王都への穀物供給を遮断できる」
別の商人が挙手した。鋭い目つきの中年の男で、王都の流通事情に精通している。
「卸売業者との関係はいかがいたしますか。王都の主要な卸売業者は三名。彼らを味方につければ、流通そのものを根元から押さえられます。小売への供給が止まれば、市場は数日で干上がる」
「すでに接触済みだ。三名のうち二名は、帝国からの報酬で懐柔できる見込みがある。金で動く人間は、より多くの金で動かせる」
エドヴァルトの声がわずかに硬くなった。
「残りの一名、ヴォルフガング・ケラーという男だが……こちらは頑固でな。ヴァイスハルト男爵と密接な関係にある。この男は避けろ。無理に接触すれば、こちらの動きが男爵に筒抜けになる。……ケラーを除いた二名から在庫を買い上げるだけで、市場供給量の六割を抑えられる計算だ。六割が消えれば、残りの四割では到底需要を賄えない。価格は自動的に跳ね上がる」
壇上の端まで歩き、全員を見下ろした。
「その後、価格が十分に高騰したところで、少量ずつ放出する。最初の一・五倍ではなく、さらに倍の値、つまり市場価格の三倍での販売を目指す。利潤を最大化し、同時に民衆の不満を最大化する。それが帝国の意図だ」
「放出のタイミングについて、具体的な指示はございますか」
「市場価格が通常の三倍に達した時点で、少量ずつ放出を開始する。一度に大量を放出してはならん。少量ずつ、高値で出す。民衆は飢えに耐えかねて、三倍の価格でも買わざるを得なくなる。人間は空腹の前では、理性を失う。その心理を利用するのだ。利潤と民衆の不満を同時に最大化する方法は、これが最も効率的だ」
商人たちは黙って頷いた。
誰もが、この作戦の本当の目的を理解していた。穀物を売って利益を得ることが目的ではない。この王国を内側から崩壊させることが、真の狙いなのだ。
「承知しました」
規則正しい返答が広間に響く。
だが、一人の食料品商が躊躇いがちに手を挙げた。その動きは慎重で、同時に勇気を振り絞った行為にも見える。周囲の視線が彼に集まった。
「大佐、一つ……お尋ねしてもよろしいでしょうか」
エドヴァルトは無言で頷いた。
「しかし……それでは民衆が飢えるのでは。暴動が起きるかもしれません。そうなれば、王国全体が不安定化し、我々の商売そのものが成り立たなくなる可能性も。我々は商人の仮面をかぶって活動している以上、商業基盤が崩壊すれば、隠れ蓑を失うことにもなりかねません」
食料品商は言葉を選びながら続けた。その声には、工作員としての冷静さと、一人の人間としての良心がせめぎ合う音が混じっている。
「私は……この王国で十五年商売をしてきました。顧客の中には、毎朝パンを買いに来る顔なじみの家族がいます。名前も知っている。子どもの名前まで知っている。彼らが飢える姿を……その、直接目にしながら商売を続けるというのは……」
別の商人が小声で制止した。
「おい、やめろ。大佐の前で余計なことを言うな。命令は命令だ」
「いや、言わせてくれ。これは商売の範疇を超えている。食糧を武器にするなど、商人の倫理に反する。帝国の商人としてではなく、一人の人間として、俺はそう思う。少なくとも、この場にいる者の中にはそう感じている者がいるはずだ。……俺だけじゃないだろう」
広間に鋭い緊張が走った。何人かの商人が視線を逸らし、何人かは食料品商の言葉に小さく頷いた。
エドヴァルトはその商人の方へ向き直った。
空気が凍る。
「それが、目的だ」
声は氷のような冷徹さを帯びている。だが、その底流に、かすかな、しかし確かな悲しみの響きがあったことに気づいた者がいたかどうかは分からない。
「民衆の不満を限界まで煽り、その怒りの矛先をデパート建設へと向けさせる。新しい秩序の象徴となるあの建物に対する民衆の信頼を崩壊させ、建設計画そのものを破綻させる。その結果として、この王国は内側から瓦解し……帝国に吸収される。それが、上位者の命令であり、我々の任務だ」
エドヴァルトの視線はその商人を貫いている。だが、見ているというよりも、その奥にある自分自身の良心を、力ずくで黙らせようとしているようだった。
「君の気持ちは理解する。十五年の商売で築いた関係を壊すことへの抵抗感は、人間として当然のものだ。俺も同じ人間だ。その感情が分からんわけではない」
一瞬だけ声が柔らかくなった。だが、すぐに元の冷徹さが戻った。鉄の仮面を、意志の力で嵌め直したのだ。
「だが、それは帝国工作員としての君に許された感情ではない。我々は商人ではない。商人の仮面をかぶった兵士だ。……戦場で敵に同情する兵士がどうなるか、知っているだろう。味方を危険にさらし、任務を失敗させ、最終的には自分自身も殺される。ここでも同じことだ」
食料品商は唇を噛み、俯いた。拳が白くなるほど握りしめられている。
「……理解しています。大佐」
「ならば、それ以上の言葉は不要だ。……だが、君の疑問には答えておく。それが指揮官としての務めだからな」
エドヴァルトは広間全体に向けて声を上げた。
「革命の土壌を作る。それこそが、帝国の本来の意図だ。王国の自滅を促し、帝国への併合を自然な流れとして実現させる。この一連の工作は、すべてそのためのものだ。我々は剣を振るっているのではない。種を蒔いているのだ。不満という種を、飢えという肥料で育てている」
一呼吸を置いた。
「併合が完了すれば、帝国の統治の下で、この王国の民衆にも帝国の恩恵がもたらされる。帝国の食糧供給体制は王国の比ではない。帝国の農業技術、流通網、備蓄制度。それらが導入されれば、この王国は二度と飢饉に苦しむことはなくなる。……短期的な苦痛は、長期的な安定のために必要な過程だ。そう理解しろ」
自分自身にも言い聞かせるように。
商人たちは息を呑み、黙り込んだ。食料品商は顔を伏せたまま、もう何も言わなかった。彼もまた、命令には逆らえない駒の一つにすぎないことを、改めて突きつけられたのだ。
だが、別の若い商人が静かに声を上げた。まだ二十代半ばと見える、線の細い男だった。
「大佐。一つだけ確認させてください。……この作戦中に、万が一、王国側に我々の正体が露見した場合、帝国は我々を保護してくれるのでしょうか。身柄の安全は保障されるのでしょうか」
広間が静まり返った。
全員が同じ疑問を抱いていたのだ。だが、誰もそれを口にする勇気がなかった。この若い商人が、その沈黙を破った。
エドヴァルトは一瞬、沈黙した。上官の言葉が脳裏をよぎる。
――帝国は、貴官を知らないと宣言する。
「……帝国は、任務を完遂した者を見捨てはしない」
その言葉は、嘘だった。
エドヴァルト自身がそれを知っている。露見すれば切り捨てられる。帝国は体面を守るためなら、工作員の命など塵のように扱う。だが、この場で真実を語ることは、作戦の遂行を不可能にする。恐怖に怯えた駒は動かないからだ。
「だが、露見しないように行動することが、最も重要な大前提だ。各自、行動には細心の注意を払え。帝国との繋がりを示す証拠は一切残すな。取引はすべて現金で行い、文書記録は残さない。連絡は対面のみ。伝声石の使用は私に限定する」
声を落とした。
「……万が一のために言っておく。捕まった場合、自分の口から帝国の名を出した者は、帝国に戻ってからも処罰の対象になる。沈黙を守れ。それが自分自身を守る最善の方法だ」
若い商人は小さく頷いた。だが、その目から不安の色は消えていなかった。
◇
エドヴァルトは壇上の中央に戻り、全員に向かって最後の言葉を告げた。
「諸君、迷うな。これは帝国の繁栄のための任務だ。弱き王国は、強き帝国に管理されるべきであり、それこそが長期的には民衆のためにもなる。混乱の中での秩序こそが、帝国が提供できる最高の価値である。……疑うな。ただ、命令に従え」
声を落として付け加えた。
「明日の夜明けが、作戦開始だ。各自、封筒の中の指示書を熟読し、一字一句違わず実行しろ。……二週間後には、この王国の市場から穀物が消える。それが、我々の成果として帝国に報告される。……各自の働きに期待する。以上だ。解散」
数秒間の沈黙が落ちた後、全員が一斉に声を合わせた。
「承知しました」
命令は下された。あとは実行するだけの世界へ、全員が足を踏み入れたのだった。
◇
商人たちが一人、また一人と退出していく中、あの食料品商が最後に立ち止まり、エドヴァルトの方を振り返った。
広間には二人だけが残っている。
「大佐……一つだけ。大佐ご自身は……この命令を、正しいと思っておられますか」
エドヴァルトは一瞬、その商人の目を見つめた。
商人の瞳には、答えを求める切実さがあった。自分の行動を正当化してくれる言葉を、上官の口から聞きたかったのだろう。
ゆっくりと目を逸らした。
「……正しいかどうかは、帝国が判断する。我々が判断することではない。……行け」
食料品商は深く頭を下げ、広間を後にした。その足音が遠ざかり、完全に消えるまで、エドヴァルトは微動だにしなかった。
一人残された壇上で、両手を机に突いて、うなだれた。
「……正しいと思っているか、だと」
声は、もう誰にも聞かせるつもりのない、ただの独り言だった。
「そんなことは……俺自身が一番聞きたい」
◇
翌日の夜明けとともに、王都の穀物市場に異変が起き始めた。
帝国商人たちが、組織的かつ一斉に市場へ押し寄せたのだ。
彼らの行動は散発的ではなく、明確な計画に基づいた一大作戦である。各人が担当する倉庫や業者のもとへ迷いなく向かい、まるで地図上の目標を一つずつ消していくように、穀物を買い漁り始めた。
「この小麦、全部もらうよ。在庫の全量だ。いくらだ」
「おいおい、全部って言われてもな。まだ朝一番だぞ。これから他の客も来るんだが……」
「市場価格の一・五倍を出す。今この瞬間に、倉庫の中身をすべて売ってくれれば、即座に代金を払おう。現金だ。手形じゃない。この場で、金貨を数えて渡す」
売り手は目を丸くした。
「い、一・五倍だと。本気で言ってるのか。この量で、そんな値をつけるなんて……何か裏があるんじゃないのか。こんなうまい話、聞いたことがないぞ」
「裏も表もない。帝国では穀物の需要が急増していてな。本国への輸出用だ。良質な穀物を大量に確保する必要がある。値段は惜しまん。……どうだ。今日中に決めてくれれば、この条件で買う。明日になれば、他の業者のところへ行くことになるが」
「そ、そりゃあ……一・五倍ならば断る理由はないが……。本当に、全量を一・五倍で買い取ってくれるんだな」
「マルクス金貨で即金だ。数え間違いがないよう、立会人も連れてきている。さあ、商談成立でいいか」
「……分かった。売るよ。こんな条件、二度とないだろうからな。すぐに運搬の手配を頼む」
別の場所でも、同様のやり取りが繰り広げられていた。
「大麦はあるか。ライ麦はどうだ。あるだけ全部が欲しい。品種は問わない」
「あるだけ全部か。そりゃまた豪勢な話だな。……うちにある分で、およそ五百ブッシェルだが。そんな量、一度に買う客なんて初めてだぞ」
「五百ブッシェル、すべて買う。一・五倍でどうだ。即金で支払う」
「ひ、一・五倍。……ちょっと待ってくれ。本当にいいのか。この量を、この値段で。何かの冗談じゃないだろうな」
「帝国の信用にかけて、冗談ではない。……他の業者に売る前に、今ここで決めてほしい。明日には、もっと高い値を出す別の買い手が現れるかもしれんが、それは不確実だ。今日の確実な取引と、明日の不確実な期待、商人ならどちらを取る」
「……分かった。売ろう。一・五倍なら、文句のつけようがない」
農民や卸売業者は、提示された高値に驚きながらも、喜んで商品を売り渡した。通常の市場では、これほどの大量買い付けが高値で行われることはまずない。目の前に現れた羽振りの良い帝国商人たちは、天から降ってきた幸運そのものに見えたのだ。
だが、その喜びは長くは続かなかった。
市場全体に広がる混乱の、ほんの序章にすぎなかったのだから。
◇
大量の穀物が、帝国商人たちが手配した倉庫へと次々に吸い込まれていく。
昨日の夕方に十トンあった穀物倉庫が、今朝には五トン、午後には二トンへと減少する。その速度は加速度的で、市場から穀物が消えていく速さは、想像をはるかに超えていた。
水が砂に吸い込まれるように、穀物が市場から消えていく。
そして数日も経たないうちに、市場から穀物が消えた。
在庫不足。供給の途絶。市場の原理に従えば、当然の結果が訪れる。
価格は急騰した。
昨日まで銅貨十枚で買えた小麦が、今日は十五枚。翌日には二十枚へと跳ね上がる。さらに三日後には銅貨三十枚。一週間後には銅貨五十枚という、誰も経験したことのない異常な高値へと達した。
市場には混乱と怒りが、火が燃え広がるように広がっていく。
「どうなってるんだ。なんでこんなに高いんだ。昨日まで十枚だった小麦が五十枚だと。誰か説明してくれよ」
「おい、聞いてくれ。俺の一日の稼ぎが全部パンに消えちまう計算だぞ。食べるだけで一日が終わるなんて、冗談じゃねえ」
「市場に小麦がない。大麦もない。ライ麦すら棚から消えてる。一体どこに消えたんだ。穀物ってのは、突然蒸発するもんじゃないだろう」
「パンが買えないじゃないか。子どもたちにどうやって食べさせるんだ。明日の朝、食卓に何を出せばいいんだ」
母親が泣きそうな顔で叫んだ。その腕には、状況を理解できずにきょとんとした顔の幼い子どもが抱かれている。
「うちには三人の子どもがいるのよ。一番下はまだ五歳なの。あの子に、今日は食べるものがないって、どう説明すればいいの。お腹が空いたって泣くあの子に、何て言えばいいの」
老人が杖を突きながら声を上げた。
「七十年生きてきたが、こんなひどいことは初めてだ。……戦争の時でさえ、ここまで酷くはなかった。あの時は少なくとも配給があった。量は少なくても、必ず何かが手に入った。今は何もない。何もないのに、金だけは取られる」
そして、それは時間の問題だった。
民衆の怒りは、やがて矛先を探し始める。苦しみには原因がなければならない。誰かのせいでなければならない。人はそうやって、怒りの行き場を作る。
若い職人が拳を握りしめた。
「誰かが買い占めているに違いない……。そうだ、あのデパート建設のために、穀物が使われているんだ。あのデパートのせいだ」
「そうだ。あの建設に、どれだけの金がつぎ込まれていると思う。あの金があれば、穀物を何トンも買えたはずだ。ガラスの天井に使う金を、俺たちのパンに回せよ」
「ヴァイスハルト男爵は、きれいな建物を作る暇があったら、俺たちの腹を満たすことを考えろ。空腹じゃ、ガラスの天井なんか見上げる気にもならねえ」
「きれいな建物だと。腹が減ってちゃ、きれいも何もないだろう。飾りより飯だ」
市場の片隅で、そのような声が上がり始めた。
帝国商人たちが仕掛けた工作は、狙い通りに機能していた。民衆の怒りは、本来の原因である帝国の買い占めではなく、目に見える標的であるデパート建設へと向けられ始めたのである。
エドヴァルトの計画は、その通りに進行していた。
◇
一方、王都の商業地区から離れた場所に位置するヴァイスハルト男爵邸の書斎では、別の動きが生まれようとしていた。
執事エーリッヒが、書斎の扉を三度ノックしてから、静かに中へ入った。その足音はいつもより速く、表情にはいつもの穏やかさの下に、隠しきれない緊迫感が浮かんでいる。
「旦那様」
声には、恭しさだけでなく、深い懸念が滲んでいた。
「至急ご報告申し上げます。帝国商人が動きました。市場の穀物を組織的に、かつ徹底的に買い占め、価格操作を行っています。現在、市場価格は通常の三倍以上へと高騰している状況です。昨日の夕方から今朝にかけて、さらに加速しております」
エーリッヒは手元の書類を差し出した。几帳面な筆跡で書かれた報告書には、数字と日付が整然と並んでいる。
「今朝、私の情報網から入った報告によりますと、王都周辺の主要穀物倉庫五ヶ所のうち四ヶ所の在庫がほぼ払底しております。残る一ヶ所、ケラー殿が管理する倉庫のみが辛うじて在庫を保持している状態です。ケラー殿は帝国商人からの買い付け要請をすべて拒否しておられるとのことですが、他の倉庫管理者たちは高値に抗えなかった模様です」
エーリッヒは息をつかず、さらに続けた。
「また、周辺農村部への買い付け隊が確認されております。五名一組の集団が、少なくとも八つの村で目撃されています。先物契約による来季分の穀物まで押さえにかかっている模様で、農民たちは目先の利益に釣られて契約に応じ始めております」
声を落とした。
「……市場では、民衆の間にデパート建設に対する批判的な声が上がり始めております。建設に金を使う暇があれば食糧を確保しろという論調です。……帝国側の狙いは明白かと存じます。民衆の怒りを、旦那様に向けさせるつもりなのでしょう」
レオポルトは執務机から目を上げた。
その瞳には、驚きの色はなかった。代わりにあるのは、予期していた事態がついに現実となったことへの、静かな覚悟の光だった。
「……やはり来たか」
声は低く、それでいて落ち着いている。
机の上には、帝国に関する資料、王国の経済状況を示す数表、そして自分だけが知る第一周目の記録が整理されて並んでいた。この事態が来ることを、彼はずっと前から予見していたのだ。
「エーリッヒ、報告の詳細を聞かせてくれ。帝国商人たちの動き方に、何か特徴的なパターンはあったか。個々の商人が自分の判断で動いているのか、それとも統一された指揮のもとで動いているのか。その区別が重要だ」
「はい。彼らの行動は、明らかに統制されたものです。全員が同じ日の同じ時刻に、一斉に市場に入っております。各人が担当する倉庫に迷いなく向かい、提示する価格もほぼ同一。個々の商人が独自の判断で動いているのではなく、一つの司令塔からの詳細な指示に従っていることは疑いようがありません。……指揮官は、おそらくエドヴァルト・シュタイナーかと。あの男の手口に、よく似た精密さがございます」
「エドヴァルト……お前は本当に、容赦がないな」
エーリッヒはその呟きを聞き逃さなかった。主人の口からエドヴァルトの名が躊躇なく出たということは、この事態が帝国工作員による仕掛けであることを、すでに十分に承知していたことを意味している。
「旦那様。もしや、この事態を予測なさっていたのですか。以前から備蓄を指示されていたのは……」
レオポルトは苦笑した。唇の端がわずかに上がっただけの、控えめな笑みだった。
「予測というより……確信していた。ガラス天井が完成した時から、次の攻撃は経済面から来ると分かっていた。建物は壊せない。政治的な圧力も王の裁定で封じた。技術的な妨害も職人たちの結束で跳ね返した。残された手段は、民衆の生活基盤を揺るがすことだけだ。そして最も効果的なのは、食糧の支配」
声が硬くなった。
「……エドヴァルトは優秀な工作員だ。最も合理的で、最も残酷な手段を選ぶ。それが、あの男の仕事だからな」
「旦那様、対策はお有りなのですか」
「ああ。今回はただ指をくわえて見ているつもりはない。一歩も引かん」
レオポルトは机の上の書類を素早く整理し、立ち上がった。椅子が音を立てて後ろに下がる。その動きは迅速で、そして決定的だった。迷いの欠片もない。
「この事態は、第一周目で経験した悪夢そのものだ。民衆の失望。怒りの拡大。社会不安の増幅。そして、取り返しのつかない崩壊。……だが、今回は違う。今度こそは、その悪夢を断つ。あの時の失敗を、もう一度繰り返すわけにはいかない」
エーリッヒを真っ直ぐに見た。
「エーリッヒ、まず現状を正確に把握させてくれ。ケラー殿の倉庫に残っている穀物の量は」
「私の推算では、およそ三百ブッシェルかと。王都の民衆の消費量から逆算しますと、約一週間分に相当いたします」
「一週間か……。十分とは言えないが、時間を稼ぐには足りる。次に、マルクスの商会が保有している穀物在庫は」
「マルクス殿は先日の打ち合わせの際に、商会の倉庫に約百五十ブッシェルの備蓄があると仰っておりました。ただし、これは通常の商取引用の在庫であり、緊急放出を前提としたものではございません。マルクス殿の了承が必要かと」
「構わない。使えるものはすべて使う。マルクスは必ず協力してくれる。……エーリッヒ、もう一つ。デパートの地下倉庫の状況は」
「先月、先行的に備蓄を開始した穀物が、約二百ブッシェルございます。旦那様が食の砦構想の一環として準備を指示されたものです。品質も良好で、すぐに販売に回すことが可能です」
レオポルトは頷いた。指折り数え、暗算する。
「合計六百五十ブッシェル。王都の二週間分には少し足りないが、帝国の買い占め網に風穴を開けるには十分だ。……よし。方針を決める」
エーリッヒに向かって命じた。
「すぐに王宮へ向かう。エーリッヒ、馬車を用意してくれ。……国王アルフレート三世への緊急謁見を求める。正規の手続きを踏んでいる時間はない。宰相殿への直接の連絡も並行して頼む」
「畏まりました。直ちに手配いたします」
エーリッヒは一礼しかけ、一瞬だけ動きを止めた。何かを言うべきか迷うような沈黙のあと、静かに口を開いた。
「……旦那様」
「何だ」
「旦那様は、いつもこのようにして、危機が訪れる前に備えを整えておられます。まるで……未来が見えているかのように。穀物の備蓄を指示されたのは一月も前のことです。あの時はまだ、市場に何の異変もございませんでした」
エーリッヒの声が穏やかになった。
「……その先見の明には、常々驚嘆させられますが、同時に、旦那様のお心の負担はいかばかりかと案じております。すべてを見通しているということは、すべての重荷を一人で背負っているということでもあるのですから」
レオポルトは一瞬、言葉に詰まった。
エーリッヒの洞察が、あまりにも核心に近い場所を突いたからだ。
「……エーリッヒ。俺は、この国の民衆を飢えさせるわけにはいかない。それだけだ。……理由は、いつか話せる日が来るかもしれない。だが、今は……ただ信じてほしい。俺を信じて、ついてきてほしい」
「旦那様のことは、常にお信じ申し上げております。何があろうとも。……では、馬車を手配してまいります」
エーリッヒは深く一礼し、書斎を出た。
その背中が扉の向こうに消えると、レオポルトはしばし一人で立ち尽くした。
第一周目の記憶が、鮮明に蘇る。あの時、自分は何もできなかった。穀物が消え、民衆が飢え、怒りが爆発し、すべてが崩れ去った。
あの悪夢を、もう一度見ることだけは、絶対に許さない。
拳を握りしめ、書斎の扉へと足を向けた。
◇
王宮の謁見室に到着したレオポルトは、エーリッヒが集めた証拠書類の束を携えていた。
帝国商人たちが市場で行った買い占めの詳細記録。取引価格の日別変動を示す表。帝国商館に登録されている商人の名簿と、買い占めに参加した商人の照合結果。組織的な経済工作を証明するためのすべての証拠が、その束の中に揃っている。
国王アルフレート三世は、謁見室の玉座に座っていた。その隣には宰相リヒテンシュタインが控えている。二人の表情は厳格で、緊急の謁見要請という異例の事態に、何か重大なことが起きたことをすでに察していた。
「陛下、申し上げます」
レオポルトは片膝をつき、敬意を示しながら口を開いた。
「緊急の事態でございます。本来の謁見手続きを経ずにお目通りを願いましたこと、まずはお詫び申し上げます。しかし、事態は一刻の猶予もございません。数日の遅れが、取り返しのつかない結果を招く恐れがあります」
「構わぬ。緊急と聞いた。何があった、ヴァイスハルト」
王の声には、すでに緊張が帯びていた。この若い男爵が正規の手続きを省いて駆け込んでくるのは、初めてのことだ。それだけで事の深刻さが伝わる。
「王国の食糧市場に、人為的な危機がもたらされています。帝国商人が組織的に穀物を買い占め、市場価格を異常に高騰させているのです。これは、通常の商取引の範疇を逸脱した工作行為です」
レオポルトは証拠書類を順に広げた。国王の眼前に、帝国商人たちの名簿と取引記録が並べられていく。
「こちらが、過去一週間の穀物取引記録でございます。赤で印をつけた取引が、帝国商人によるものです。ご覧の通り、すべての大量取引が同一日、同一時刻に開始されております。これは個別の商人の判断ではありません。一つの司令塔からの指示に基づいて、同時に動いたことを示しています。自然発生的な買い付けでは、こうはなりません」
別の書類を取り出した。
「こちらは、市場価格の推移を示したものです。帝国商人の介入前は銅貨十枚で安定していた小麦の価格が、わずか一週間で五十枚にまで高騰しております。五倍です。不作や天候不順による価格変動であっても、一週間で五倍になることはあり得ません。これは明らかに人為的な操作の結果です」
さらに一枚の書類を示した。
「そして、こちらが帝国商館に登録されている商人の名簿と、買い占めに参加した商人の照合結果です。二十名中十八名が、帝国商館の登録商人と一致しております。残りの二名も、帝国との取引歴がある人物です」
レオポルトは書類から顔を上げ、王を見据えた。
「陛下。これは人為的な食糧危機です。帝国が、直接的にあるいは間接的に、王国の経済を混乱させるために仕組んだ工作であることは、疑いの余地がございません」
国王の顔色が変わった。書類を手に取り、数字を確認するたびに、その瞳に怒りの炎が燃え上がっていく。
「な、なんだと……帝国が、そのような卑劣な真似を」
声は怒りに震えている。玉座の肘掛けを掴む手が、白くなるほど力がこもった。
「わが国の民を飢えさせようとしているというのか。友好国として条約を結んでおきながら、裏ではこのような汚い手を……。許せん。即刻、帝国大使を呼びつけて抗議する。いや、それだけでは足りん。条約違反として、帝国商人の活動を全面的に禁止すべきではないか。すべての帝国商人を国外追放にしてやりたいくらいだ」
宰相リヒテンシュタインが一歩前に出て、冷静な声で進言した。
「陛下、お怒りはごもっともでございます。しかし、拙速な対応はかえって帝国に外交的な口実を与えることになりかねません」
声を落とした。
「帝国は必ずこう主張するでしょう。これは民間の商取引であり、国家は関与していない、と。商人が高値で穀物を買うこと自体は、法律上は違法ではございません。直接的な抗議や商人の追放は、我が国の方が過剰反応していると国際社会から見なされる危険がございます。帝国にとっては、むしろそれこそが望む展開かもしれません」
「では、ただ黙って見ていろというのか、リヒテンシュタイン。民が飢えるのを、王として指をくわえて眺めていろと」
「無論、そうは申しておりません。ただ、外交と実務は分けて考える必要がございます。外交的な対応は慎重に。しかし、実務的な対策は迅速に」
宰相はレオポルトに視線を移した。
「……ヴァイスハルト男爵。案があるようだな。その顔は、すでに対策を練り上げてきた者の顔だ。聞かせてもらえるか」
レオポルトは頷いた。
「宰相殿の仰る通りです。抗議だけでは解決しません。陛下、帝国は商売という建前を用意しております。彼らは商人として行動しており、政治的な手段のみでの対抗は、外交的な圧力へと転化してしまう可能性が高い。……実効性のある対策が必要です」
一歩前に出た。
「外交的には、宰相殿に帝国大使との水面下の交渉をお願いしたい。公式な抗議ではなく、非公式な圧力です。我々は気づいているというメッセージを伝えるだけで、帝国側の行動に一定の抑制効果が期待できます。すべてを把握している相手に対して、工作を継続するのは心理的に困難ですから」
声を引き締めた。
「……しかし、それだけでは民衆の腹は満たされません。並行して、市場への直接介入が必要です」
国王は身を乗り出した。
「どうすればよいのだ。ヴァイスハルト、案があるなら残さず聞かせよ」
「はい。二つの策を、同時に実行します」
レオポルトの声に力がこもった。
「第一の策。デパート事業の一環として穀物備蓄部門を新設します。市場から適正価格で穀物を買い入れ、それを庶民に原価販売の形で提供するのです。利益は最初から求めません。私が私財を投げ打ってでも、あるいは王国の支援を受けてでも、価格の高騰を食い止めます」
王と宰相が同時に眉を上げた。
「原価販売だと。ヴァイスハルト、それでは大赤字ではないか。事業として成立しないぞ」
宰相リヒテンシュタインが厳しい目で指摘した。
「男爵。貴殿の志は理解する。だが、冷静に考えてくれ。穀物を原価で販売するということは、買い付けにかかった費用が丸ごと損失になるということだ。市場価格が高騰している今、買い付け費用は通常の数倍に膨れ上がっている。貴殿の私財がいかに潤沢であっても、長期的に持続できる策ではない。数週間もすれば資金が枯渇するぞ。善意だけでは、経済の歯車は回らん」
「短期的にはその通りです、宰相殿」
レオポルトは冷静に続けた。
「ですが、民衆の生活を守り、彼らの信頼を得ることこそが、今の王国に必要な最大の投資であると考えます。穀物という基本的な生活必需品が安定供給されるということは、単なる経済問題ではありません。政治的安定をもたらす最大の要素です」
声に力がこもった。
「民衆は、自分たちの生活を守ってくれる者を絶対に裏切らない。帝国がいくら工作を仕掛けようとも、その信頼関係さえあれば、社会的な混乱を最小限に抑えることができるのです。信頼は、金貨では買えません。しかし一度手に入れれば、金貨の何百倍もの価値を持ちます」
宰相の方を向いた。
「宰相殿のご懸念は当然です。原価販売だけでは持続しない。そこで、第二の策を申し上げます。原価販売はあくまで短期的な緊急措置です。これと並行して、帝国の買い占め網を迂回する新たな穀物供給ルートを構築します」
「迂回ルートだと」
「マルクス・シュトラウスの商会が持つ広域流通網を活用し、帝国商人が手を出していない遠隔地の農村から直接穀物を調達します」
レオポルトの目が鋭くなった。
「帝国商人は王都周辺の倉庫と農村しか押さえていない。しかし、この王国の穀倉地帯は南部にあります。南部のシュヴァルツ平野からの直接輸送路を開拓すれば、帝国の買い占め網を完全に無力化できる。さらに東部のアイゼン河沿岸からは水運を利用した迅速な輸送が可能です。西部の山間部にも小規模ながら穀物を持つ農家のネットワークがある。三方向からの供給で、帝国の包囲を逆に包囲するのです」
宰相の目が光った。
「南部、東部、西部の三方向か……。確かに、帝国商人の手が及んでいない地域だ。だが、南部からの輸送には通常二週間以上かかるぞ。東部の水運でも一週間。その間、民衆はどうする。飢えたまま待てと言うのか」
「その二週間を、現在の備蓄で凌ぎます。デパートの地下倉庫に二百ブッシェル、ケラー殿の倉庫に三百ブッシェル、マルクス商会に百五十ブッシェル。合計六百五十ブッシェルで、王都の民衆の約二週間分をぎりぎり賄えます」
声を落とした。
「厳しい数字ではありますが、一人あたりの購入量を制限し、最も困窮している世帯を優先することで、持たせることは可能です。その間に南部ルートを確立し、継続的な供給体制を整える」
さらに一歩前に出た。
「加えて、原価販売の費用についてですが、全額を私の私財だけで賄うつもりはありません。陛下の御名において、王国の非常用備蓄金からの拠出をお認めいただきたい。これは商業上の問題ではなく、王国の安全保障に関わる事案です。帝国による経済攻撃への対抗措置として、正当かつ必要な支出と考えます」
国王はその言葉を聞き、しばし沈黙した。
玉座の上で背筋を伸ばし、目を閉じて思考に沈む。やがて宰相の方を見た。
「リヒテンシュタイン、どう思う」
宰相は数秒考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「……筋は通っております。短期的な原価販売で民心を安定させ、その間に中期的な供給ルートを構築する。二段構えの戦略です。非常用備蓄金の使用についても、帝国の経済工作への対抗措置と位置づけるならば、前例がないわけではありません。四十年前の南部凶作の際にも、同様の拠出が行われた記録がございます」
宰相は間を置いた。
「……リスクはあります。だが、何もしないリスクの方が遥かに大きい。民衆が飢え、暴動が起きれば、王国の根幹が揺らぎます。その被害は、備蓄金の比ではございません」
宰相はレオポルトに向き直った。
「男爵。一つ確認する。南部からの穀物輸送路の確立は、本当に二週間で可能なのか。希望的な見積もりではなく、現実的に達成可能な期間か」
「マルクス商会のネットワークを使えば可能です。マルクスは南部の農村にもすでに取引先を持っております。新規開拓ではなく、既存のルートの拡大ですから、交渉の時間が大幅に短縮される。二週間あれば、最初の輸送隊を王都に到着させられます。東部の河船はさらに早く、一週間程度で可能です」
「もう一つ。帝国商人が南部ルートにも手を伸ばしてきた場合はどうする。連中が我々の動きを察知して、先回りする可能性はないか」
「その場合に備えて、ケラー殿を通じた商人ギルドとの連携を強化します。ギルドの影響力がある地域では、帝国商人が自由に動くことは難しい。ギルドが門番の役割を果たしてくれるはずです。……ケラー殿には、すでにこの構想をお伝えしてあります。全面的な協力を約束していただいております」
王はゆっくりと頷いた。
怒りが静まったわけではないが、その奥に、状況を打開する意志が固まりつつある。
「……よかろう。ヴァイスハルト、許す。王国を救うために、その案を実行に移してくれ。必要な資金については、王宮からも支援を行う。……頼んだぞ」
立ち上がった。その姿には、王としての決然とした威厳があった。
「非常用備蓄金から金貨五百枚を拠出する。リヒテンシュタイン、手配しろ。……そして帝国大使には、余の名において非公式の警告を伝えよ。我が国はすべてを把握している、と。具体的な抗議は行うな。だが、我々が知っているという事実を、相手に確実に認識させろ。それだけで、連中の手は少しは鈍るはずだ」
宰相が深く頭を下げた。
「直ちに手配いたします。……男爵、もう一つだけ。この対策の進捗については、毎日の報告を求める。王宮としても、状況を常に把握しておく必要がある。何か想定外の事態が起きた場合には、即座に追加の支援を検討する」
「もちろんです。毎日文書にて報告いたします。状況が急変した場合には、直接参上いたします」
レオポルトは深く礼をした。
「陛下、ご許可をありがとうございます。必ず、この危機を乗り越えてみせます。民衆を一人も飢えさせはしません。……陛下のご信頼に、成果をもってお応えいたします」
「ヴァイスハルト」
王が呼び止めた。
「何でございましょう」
「……そなたがいなければ、余はこの事態に気づくことさえなかったかもしれん。帝国の商人が穀物を買い占めていると聞いたところで、それが組織的な工作であると見抜ける者が、この王宮に何人いるか。証拠を揃え、対策を練り、即座に行動に移す。……そなたの存在は、この王国にとっての盾だ。それを、余は改めて認識した」
レオポルトは深く頭を下げた。
「陛下のお言葉、身に余る光栄でございます。……しかし、盾だけでは足りません。この王国には、剣も必要です。帝国の工作を防ぐだけでなく、王国自身が自立した経済基盤を持ち、外部からの干渉に耐え得る力を備えること」
目を上げた。
「……デパートは、その第一歩です。あの建物が完成し、機能し始めた時、この王国は帝国の工作など恐れる必要がなくなる。そういう国を、必ず作ってみせます」
「うむ……。行け、ヴァイスハルト。余は、そなたを信じる」
「御意」
◇
王宮を出たレオポルトは、その足でマルクス・シュトラウスの商会へと向かった。
馬車が石畳の上を疾走し、商会の事務所に着いたのは日が傾き始めた頃だった。飛び込むようにして扉を開けると、マルクスは帳簿を眺めていた。数字の列を指でなぞりながら、眉間に深い皺を寄せている。市場の異常な変動を、すでに嗅ぎつけていたのだろう。
「マルクス、緊急事態だ。すぐに穀物の買い付けを始めてくれ」
突然の訪問と、レオポルトの切迫した声に、マルクスは顔を上げた。インクで汚れた指先が帳簿のページを押さえたまま、相手の顔をまじまじと見つめる。
「おいおい、買い付けって……」
帳簿を閉じ、レオポルトの表情を読み取った。この若い男爵が血相を変えてやって来ること自体が、ただ事ではない。
「こんな時間に血相変えてやって来るとは、穏やかじゃねえな。何があった、ヴァイスハルト。まさか、建物が崩れたとか言うんじゃないだろうな」
「建物は無事だ。だが、もっと厄介なことが起きている。帝国が動いた。穀物の組織的買い占めだ。市場から穀物が消え、価格は五倍に跳ね上がっている」
マルクスは口笛を吹いた。低く、長い音が事務所に響く。
「五倍か。……道理で、今朝の市場報告が異常だったわけだ。俺の商会の仕入れ担当が、どこにも小麦がないって泣きついてきたんだよ。卸売業者を三軒回って、全部空だったと。ここ三十年で一度もなかったことだ」
腕を組んだ。
「帝国の仕業とはな。……やり口が組織的すぎると思ったんだよ。個人の商人が相場を動かせるような規模じゃねえからな」
マルクスは市場の動きに対する嗅覚が鋭い。三十年の経験で培われたその勘は、数字が語る前に異常を察知する。
「今、相場は天井知らずだぞ。銅貨三十枚だ、五十枚だと、まるで狂ったように高騰している。朝と夕方で値段が違う。こんな相場で買い付けなんて、普通に考えたら商人としちゃ狂気の沙汰だ。高値で掴んだ穀物を原価で売ったら、手元には借金しか残らねえ」
腕を組んで、レオポルトの目を見据えた。
「おい、ちょっと待て。俺は三十年商売をやってきたが、こんな相場は見たことがない。通常の価格変動じゃねえ。これは明らかに人為的だ。天候が原因なら、もっとゆっくり上がる。これは一日で跳ね上がってる。……帝国の連中、本気で戦争を仕掛けてきやがったな。剣じゃなく、金で。陰湿な戦いだ」
「構わん」
レオポルトは一歩前に出た。
「俺の私財を全部つぎ込む。王国からの支援金も出る。金貨五百枚だ。……金に糸目をつけず、帝国の買い占めに対抗する。マルクス、お前の力が要る」
マルクスの目が鋭くなった。男爵が私財を全部つぎ込むという言葉は、並ごとではない。何か、極めて重大な覚悟の上での決断であることが伝わってくる。
「私財を全部だと。おいおい、お前、自分が何を言ってるか分かってるのか。デパートの建設費用だってまだ回収できてないんだぞ。融資の返済も残ってる。その上で私財を全部穀物につぎ込んだら、お前自身が破産する。文字通りの無一文だ。……それでもいいのか」
「いい」
レオポルトの返答は即座だった。迷いの欠片もない。
「俺が破産しても、民衆が飢えるよりはましだ。建物は後から建て直せる。金は後から稼ぎ直せる。だが、飢えた民衆の信頼は、二度と取り戻せない。一度失った信頼は、金貨を何万枚積んでも買い戻すことはできないんだ」
マルクスはレオポルトの目を見つめた。
三十年の商人生活で、数えきれないほどの人間の目を見てきた。嘘をつく目、誤魔化す目、虚勢を張る目。だが、今この目の前にある瞳は、そのいずれとも違う。本気だった。命を賭けた本気だった。
数秒の沈黙のあと、マルクスは呆れたように口を開けた。だが、すぐにニヤリと笑った。獰猛な、しかし痛快な笑みだった。商人の勘が、この事業に眠る計り知れない価値を嗅ぎ取ったのだ。
「へっ、とんだお大尽だな。……だが待ってくれ、ヴァイスハルト」
帳簿を閉じた。ぱたん、という音が、決断の音だった。
「俺はただの金の亡者じゃねえ。三十年、この王都で商売をやってきた。この街の民衆は俺の客だ。毎朝パンを買いに来る爺さんも、子どもに菓子を買ってやる母親も、全員が俺の商売を支えてくれた客だ。その客が飢えたら、商売も何もあったもんじゃねえ。客のいない店は、ただの空き家だ」
立ち上がり、壁に掛かった王国の地図の前に歩いた。
「お前が自分の金を全部賭けるってんなら、俺だって黙っちゃいねえよ。そこまで腹をくくってるなら、乗ってやる。商人の意地ってもんを見せてやらあ」
声に力がこもった。
「このマルクス・シュトラウスが市場を駆け回る時が、ついに来たってわけだ。帝国の野郎どもが何を企んでいようが、本物の商売の力ってもんを、骨の髄まで思い知らせてやる」
地図を指で叩いた。分厚い指が、王国の各地を順に差していく。
「いいか、ヴァイスハルト。帝国の連中は、王都周辺しか押さえていない。ここと、ここと、ここだ」
地図上の五つの点を指差した。すべて、王都から半日の行程内に収まる場所だ。
「だが、こいつらは王国の穀物流通の全体像を知らねえ。南部のシュヴァルツ平野の穀倉地帯。東部のアイゼン河沿岸の農村群。そして西部の山間部の小規模農家ネットワーク。俺の商会は、これらすべてに取引先がある。帝国の連中が名前も知らない村の、名前も知らない農家と、俺は二十年来の付き合いがあるんだ。そういう信頼は、一朝一夕じゃ作れねえ」
眼光が鋭くなった。三十年の経験が培った戦略家の目だ。
「南部ルートだけじゃねえ。東部と西部からも同時に穀物を引っ張る。三方向からの供給で、帝国の買い占め網を包囲する。……帝国が剣なら、俺たちは網だ。網は剣よりも多くの獲物を捕る。一本の剣で切れる数には限りがあるが、網は一度に全部を包み込める」
棚から別の帳簿を取り出した。取引先の一覧と、過去の取引量が記されている。
「南部のシュヴァルツ平野には、俺の商会の支店がある。支店長のフリッツは腕の立つ男だ。十年前に俺が直接育てた。判断力も交渉力も申し分ねえ。明日の朝一番で伝令を飛ばせば、三日後には最初の穀物隊が出発できる。王都までの輸送は、道の状態にもよるが十日から十二日。……二週間あれば、最初の大量輸送が届く」
マルクスは地図の東部に指を滑らせた。
「東部のアイゼン河沿岸は、水運が使える。陸路より格段に速い。河船で穀物を運べば、一週間で王都に届けられるかもしれねえ。……量は南部ほど多くねえが、緊急補給としては十分だ。最初の一撃として、民衆に穀物が届いているという事実を見せることが重要だからな」
レオポルトは頷いた。
「マルクス、完璧だ。南部、東部、西部の三方向からの供給ルート。帝国がどこか一つを押さえにかかっても、残り二つが生きている。冗長性のある供給網だ」
「冗長性とかいう難しい言葉は分からねえが、つまり一本の綱より三本の綱の方が安心だってことだろ。一本切れても残り二本で繋がってる。商人の常識だ。船荷だって、一隻に全部載せるのは馬鹿のやることだ。三隻に分けて運ぶ。そのうち一隻が沈んでも、残りが届く」
マルクスはニヤリと笑い、壁に掛けてあった上着を羽織った。
「よし。こうしちゃいられねえ。今夜中に手配を始める。フリッツへの伝令、東部の河船業者への連絡、西部の農家組合への発注。……全部、俺の名前で動かす。帝国の連中が俺の名前を聞いたら、少しは震え上がるだろうぜ。マルクス・シュトラウスは口先だけの商人じゃねえってことを、思い知らせてやる」
レオポルトの肩を、分厚い掌でばしんと叩いた。
「安心しろ、ヴァイスハルト。お前が民衆を守るっていうなら、俺がその物流を支える。お前は政治と戦略を担え。穀物を運ぶのは、このマルクス・シュトラウスに任せておけ。……三十年分の信用と人脈、全部ここで使ってやる。溜め込んでたもんを、全部吐き出す時が来たんだよ」
◇
それから数日間で、レオポルトとマルクスが仕掛けた穀物買い付け作戦は、王都の市場を激変させた。
マルクス商会の買い付け代理人たちが、帝国商人たちと同じように市場に殺到したのだ。金に糸目をつけず、残された穀物の買い付けを開始する。
「いくらでもいい。この小麦、買わせてくれ。うちの男爵様の名前で買う」
「おや、あんたもかい。さっきも帝国の商人が来て、同じことを言ってたよ。一・五倍だとか何だとか」
「帝国の商人か。ふん、あいつらとは目的が違う。俺たちが買った穀物は、この王都の民衆に原価で売るんだ。あいつらみたいに、倉庫に溜め込んで値段を吊り上げるような真似はしねえよ。一粒も無駄にしない」
「原価で売るだと。……本当かい。この高値で仕入れた穀物を、利益なしで売るって言うのかい」
「マルクス・シュトラウスの名にかけて、嘘は言わねえ。俺の親方がそう決めたんだ。……さあ、売ってくれるか。この穀物が、明日の朝、この街の子どもたちのパンになるんだ。帝国の倉庫で腐らせるか、子どもの腹に収まるか。どっちがいいか、あんたなら分かるだろう」
「……分かったよ。あんたに売る。帝国の連中にゃ、もう一粒も売らねえ。この街で生まれ育った人間として、そのくらいの意地は見せてやるさ」
別の市場でも、同様のやり取りが展開された。
「価格は問わない。ライ麦を、できるだけ多く頼む」
「ライ麦か。うちにある分は少ないが……百ブッシェルほどだ。帝国の連中にも声をかけられたんだが、あんたたちの話を聞いて、売る先を変えようかと思ってな」
「百ブッシェル、全部もらう。……それから、近隣の農家で在庫を持っている者がいたら紹介してくれ。できるだけ多くの農家と直接取引したい。帝国の買い付け隊が来る前にな」
「ああ、隣村のハンスのところにまだ大麦が残ってるはずだ。紹介状を書いてやるよ。あいつも帝国の連中に売るよりは、地元の民衆のために売りたいはずだ。……あんた、本当にあの男爵のために動いてるのかい」
「ああ。ヴァイスハルト男爵の名前を聞いたことがあるだろう。あの方が、自分の金を全部つぎ込んで、この街の民衆を守ろうとしてるんだ。破産してもいいって、そう仰った。俺たちはその手足だ。あの方の覚悟に応えるために走り回ってる」
さらに別の場所でも。
「大麦はあるか。あるだけ全部買う」
「大麦なら、地下の貯蔵庫に二百ブッシェルある。だが、帝国の商人にも声をかけられていてな。あっちは一・五倍の値をつけてきた。あんたはいくら出す」
「同じ値を出す。必要なら少し上乗せしてもいい。だが、聞いてくれ。帝国の連中が穀物を買い占めているのは、この街の民衆を飢えさせるためだ。あんたの大麦が帝国に渡れば、それが民衆を苦しめる武器になる。あんたの大麦が俺たちに渡れば、それが民衆を守る盾になる。同じ穀物が、売り先一つで武器にも盾にもなるんだ。……どっちに売りたい」
「……あんた、うまいこと言うな。口がうまい奴は信用しねえのが俺の主義だが、今回ばかりは話の筋が通ってやがる。分かったよ。全部あんたに売る。この街で三十年商売させてもらってる恩ってもんがある。帝国の連中に加担するつもりはねえ」
市場は混乱した。
買い手が二つに分かれたのだ。帝国商人と、マルクス商会が、互いに競い合いながら穀物を買い漁り始めた。
その結果として何が起きたか。
帝国商人たちが完全に支配していた穀物市場に新たな勢力が登場し、供給の流れが分断された。完全な買い占めを狙っていた帝国の戦略は、その根幹を揺さぶられたのだ。
◇
さらに、レオポルトが原価販売を開始したことで、事態は決定的に動いた。
ヴァイスハルト男爵邸の地下倉庫が、王国民向けの穀物配給所へと転換された。市場価格の五分の一、場合によっては三分の一の価格で穀物が販売される。
配給所の前で、レオポルトは自ら民衆に語りかけた。朝の光を浴びながら、集まった人々の顔を一人ひとり見つめる。
「皆さん、お待たせしました。本日より、この場所で穀物の原価販売を開始します。価格は、私たちが仕入れた値段そのままです。一切の利益は上乗せしていません。お一人様、小麦五キロまで、銅貨十枚です」
民衆の間からどよめきが起きた。信じられないという顔。疑いの目。だが同時に、藁にもすがりたいという切実さも。
「十枚だと。市場じゃ五十枚するのに」
「嘘じゃないだろうな。本当に十枚で買えるのか。何か裏があるんじゃないか」
「本当です。嘘ではありません。皆さんの生活を守ること、それが私の使命です」
レオポルトは声を張った。
「帝国の商人たちが穀物を買い占め、価格を吊り上げている。それが、今の高騰の本当の原因です。デパート建設のせいではありません。天候のせいでもない。帝国の工作なのです。皆さんの暮らしを破壊するために、組織的に仕組まれた経済攻撃です。……私はそれを、絶対に許さない」
老婆が涙ながらに声を上げた。しわだらけの手が、空の籠を胸に抱いている。
「男爵様……あたしゃ、もう三日もまともに食べてなかったんだよ。孫に食べさせるために、自分の分を削ってたんだ。孫はまだ小さいから、あたしよりもたくさん食べなきゃいけない。……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」
「おばあさん、もう大丈夫です。穀物は十分に用意してあります。焦らなくていい。順番にお買い求めください。……皆さん全員に、必ず行き渡るようにします。一人も漏らしません」
若い母親が幼い子どもを抱いて列に並んでいた。子どもの頬は痩せ、目の下にうっすらと隈ができている。
「男爵様、うちの子、昨日の夜から何も食べてないんです。……先に買わせていただけませんか。この子だけでも……」
「もちろんです。小さなお子さんのいる方は、列の前の方へどうぞ。子どもたちを飢えさせるわけにはいきません。……お手伝いの皆さん、子連れの方とお年寄りを優先してください」
民衆の足は、帝国商人の高値の店ではなく、ヴァイスハルト男爵邸へと向かうようになった。
行列ができた。毎日、朝の鐘が鳴る前から晩の鐘が鳴った後まで、民衆たちが列を成して穀物を買い求めに来た。
その列は、日を追うごとに長くなった。だが同時に、列に並ぶ人々の顔には、絶望ではなく、安堵と感謝の色が浮かび始めていた。
市場は、新たな秩序へと組み替わり始めている。
◇
一方、宿舎で報告を待っていたエドヴァルトのもとに、信じがたい情報が飛び込んできた。
帝国商人の一人が、青ざめた顔で部屋に駆け込んできたのだ。息が上がり、額に汗が浮いている。走ってきたのだろう。
「大佐……ヴァイスハルト男爵が、穀物備蓄部門を新設しました。市場価格に対抗する形で、原価販売を開始しているのです。民衆がそちらに殺到しています」
エドヴァルトは椅子から身を起こした。
「……原価販売だと。詳しく報告しろ。何が起きている」
「はい。男爵邸の地下倉庫が配給所に転換されました。穀物が、市場価格の五分の一、銅貨十枚で販売されています。民衆は全員、我々の店を素通りしてそちらに流れています。我々の店には、もう誰も足を運びません。今朝、一人も客が来なかった店が三軒あります」
「五分の一……。それでは、買い付けにかかった費用すら回収できんではないか。あの男は、自分の金を燃やしているのか。正気とは思えん」
「そのようです。さらに、王宮からの支援金も出ているとの噂がございます。男爵は私財と王宮の資金を合わせて、全額を穀物の仕入れに充てているとのことです。利益を度外視した、完全な持ち出しです」
「な、なんだと」
「それだけではありません、大佐」
帝国商人は唾を飲み込んだ。
「マルクス・シュトラウスという大商人が男爵と連携し、大規模な買い付けを展開しています。帝国の買い占め網に対する対抗作戦を、組織的に展開しているのです。……南部と東部からの新規供給ルートが開拓されている模様です。特に東部からは河船による輸送が始まっており、早ければ一週間以内に大量の穀物が王都に到着するとの情報があります。我々が押さえていない地域から、穀物が流入し始めている」
声を震わせた。
「大佐、正直に申し上げます。市場での競争は、我々の不利に傾いています。マルクス商会の買い付け代理人たちは、農民に対してこう訴えかけています。帝国に売るな、王国の民衆のために売ってくれ、と。感情に訴える手法は、金銭だけで動く我々には真似ができません。農民たちの中には、一・五倍の値を蹴ってまで我々への売却を拒否する者が出始めています。……率直に申し上げて、現在、我々の計画は完全に破綻しております」
エドヴァルトは机の上の報告書に手を伸ばし、そのまま力が抜けたように手を下ろした。紙が机の端から滑り落ちた。
「……馬鹿な」
愕然と呟いた。
「また先手を打たれた……だと」
立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。三歩進んでは振り返り、また三歩進む。檻の中の獣のような足取りだった。
「原価販売。南部ルートの開拓。東部からの河船輸送。王宮からの資金支援。……すべてが、我々の作戦開始からわずか数日で実行に移されている。数日だぞ。通常、これだけの規模の対策を講じるには、最低でも二週間は必要だ。情報の収集、関係者との調整、資金の確保、物流の手配。それらすべてを数日で完了するのは、不可能に近い。……不可能なのだ。普通ならば」
足を止めた。
「いや、数日ですらない。あの男の行動の速さから推測すると、備蓄は我々が動く前から始まっていた。デパートの地下倉庫に穀物があったということは、この事態を予測して、事前に準備していたということだ。我々がまだ本国からの指令を受け取る前から、あの男はすでに穀物を溜め込んでいた。……一体いつから。いつから、あの男は我々の次の一手を読んでいたのだ」
まるで、こちらの作戦を最初から知っていたかのような、完璧な対抗措置。一つや二つの偶然では説明がつかない精度だった。
「あり得ない。我々の作戦は本国から伝声石で直接伝達されたものだ。盗聴の可能性はない。伝声石の通信は暗号化されている。作戦を知っているのは、この部屋にいた二十名と、本国の上官だけだ。……情報漏洩ではない。ならば、なぜ。なぜあの男は、我々の手を読めるのだ」
壁に手をつき、目を閉じた。
「考えられる説明は一つしかない。あの男は、我々の作戦を知っていたのではなく、我々が何をするかを予測していた。食糧危機の誘発という手段を、こちらが選択する前に、先回りして対策を講じていた。……だとすれば、あの男は帝国の工作手法を、教科書のように理解していることになる。いや、教科書以上だ。教科書に載っていない我々の応用手法まで読んでいる」
この男は、本当に何者なのか。
帝国商人に向き直った。
「……状況を整理する。我々の買い占め網は、南部、東部からの新規供給ルートによって迂回される。原価販売によって、価格高騰の効果は相殺される。そして最悪なのは、民衆の怒りの矛先が変わり始めていることだ。デパートではなく、帝国商人に向き始める可能性がある。……このまま作戦を続行すれば、我々が逆に追い詰められる。身元が割れる危険すらある」
帝国商人が恐る恐る尋ねた。
「では、大佐……作戦は中止ですか」
「……中止ではない。だが、方法を変える必要がある。……下がれ。新たな指示があるまで、目立つ行動は控えろ。特にマルクス商会の買い付け代理人との直接的な競合は避けろ。下手に動けば、こちらの正体が露見する。今は身を潜める時だ」
「了解しました。……大佐、一つだけ」
帝国商人は立ち止まり、言いにくそうに口を開いた。
「あの男爵は、我々にとって本当に危険な相手です。今までの任務で、これほど手強い対象は……正直、記憶にありません。あの方を相手にしている限り、何をやっても裏目に出るような気がしてなりません」
「……分かっている。下がれ」
◇
帝国商人が退出したあと、エドヴァルトは一人、窓へと歩いた。
宿舎の窓から、夜の王都を見下ろす。遠くに、建設中のデパートがある。ガラス天井が、まるで夜空に嵌め込まれた宝石のように、月光を浴びて冷たく、静かに輝いていた。
「レオポルト・ヴァイスハルト……」
その名を呟いた時、声が震えていた。怒りでも恐怖でもない。もっと複雑な、名前のつかない感情だった。
「お前は、一体何者なんだ……」
額を窓ガラスに押し当てた。冷たい表面が、こめかみに触れる。
「十七の任務を成功させた。どんな相手でも、必ず弱点を見つけ、そこを突いて崩してきた。政治家でも軍人でも商人でも、人間である以上、必ず隙がある。……だが、お前には隙がない。いや、隙がないのではない。隙を突く前に、すでに対策が講じられている。まるで、俺の頭の中を歩いているかのように。俺が次に何を考えるかを、俺自身よりも先に知っている」
底知れぬ恐怖と、抑えがたい疑念が、エリート工作員の心を侵食している。
だが同時に、別の感情も芽生え始めていた。それは敵への尊敬であり、そして自分の能力の限界に対する、苦い自覚でもあった。
「……認めよう。俺は、お前に負けている。正面から、完全に、何度も。技術協力、商人ギルド、職人引き抜き、そして今回の食糧危機。四戦四敗だ。……帝国情報局の歴史上、これほどの連敗はおそらく例がない。記録に残せば、俺は局の恥さらしとして語り継がれるだろうな」
苦笑した。自嘲であり、同時にどこか清々しささえ感じる一種の解放だった。
「だが、不思議なことに……憎めないのだ、お前のことが。お前が守ろうとしているもの。民衆の生活、公平な社会、透明な商取引。……それは、かつて俺が……いや、俺の母が、俺の兄が、望んでいたものだ」
声が低くなった。
「飢えのない世界。誰もが公平に扱われる世界。あの村にそれがあったなら、母さんは雪の中を歩かなくてよかった。兄さんは自分の粥を譲らなくてよかった」
目を閉じ、幼い日の記憶を呼び起こした。
雪に覆われた村。煙の出ない煙突。凍りついた井戸。空っぽの食卓。
「母さん。兄さん。あの時、もしあの村にヴァイスハルトのような人間がいたら……お前たちは、死なずに済んだのかもしれない。穀物を原価で売ってくれる人間がいたら。飢えた民衆のために私財を投げ打ってくれる人間がいたら。……あの地獄は、起きなかったのかもしれない」
この王国に、帝国の工作員たちが対抗できない何かが存在している。そしてその何かは、この若い男爵の中に凝縮されている。
◇
伝声石を手に取った。
本国に報告しなければならない。だが、その報告内容は、自分の失敗を認める言葉になるだろう。帝国への報告は、同時に自分の無能さを宣告することでもあった。
「……本国へ、追加報告を送信する」
魔力を込め、伝声石に語りかけた。声は平坦で、感情を押し殺してある。だが、その奥底には、言葉にできない何かが渦巻いている。
「シュタイナー大佐より、追加報告。食糧危機誘発作戦は、対象による即時の対抗措置により、効果を大幅に減殺されている。対象は事前に穀物備蓄を行っていた形跡があり、我々の作戦を予測していた可能性が極めて高い。南部および東部からの新規供給ルートが開拓されつつあり、買い占めによる市場支配は事実上崩壊した。……現時点での対象の能力評価を、再度上方修正する。対象は、帝国情報局がこれまでに対処したいかなる人物よりも、危険度が高い。……作戦方針の再検討を、重ねて具申する。以上」
通信を終えたエドヴァルトは、伝声石を机の上にゆっくりと置いた。
石の表面に残った自分の体温が、みるみるうちに冷めていく。まるで、自分自身の中にあった何かが、通信とともに失われていくかのようだった。
「……これで、俺の運命はどうなるか分からん。左遷か、それとも……」
その先を口にすることはできなかった。口にすれば、それが現実になってしまうような気がしたからだ。
椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
灰色の石天井には染みが一つあり、それがどこか人の顔に見えた。兄の顔のような気もするし、母の顔のような気もする。
窓の外では、月が冷たく輝いているはずだった。この地下室からは見えないが、その光が王都のどこかを照らしていることだけは確かだ。
配給所の前に並んだ民衆が穀物を手に入れ、安堵の表情を浮かべている光景が、見てもいないのに目の奥に浮かんだ。
老婆が孫のために穀物を抱きしめている姿。若い母親が子どもに微笑みかける姿。
それらは、エドヴァルトが奪おうとしたものであり、レオポルトが守ったものだった。
◇
その光景を想像した時、エドヴァルトの胸の奥に、説明のつかない温かさがほんの一瞬だけ灯った。
それは、工作員としての自分が決して認めてはならない感情だった。敵の成功を喜ぶなど、あってはならないことだ。
だが、その温かさは確かにそこにあった。
幼い頃、母の手から受け取ったパンの温もりと、どこか似ている。
エドヴァルトは目を閉じ、その温もりを噛み殺した。
噛み殺したはずだった。
だが、胸の奥の小さな火種は、消えることなくくすぶり続けている。帝国への忠誠と、人間としての良心。その二つが綱引きをしていることに、彼自身はもう気づいていた。気づいていながら、どちらに倒れるべきかを、まだ決められずにいた。
◇
やがてエドヴァルトは目を開き、机の引き出しから新しい羊皮紙を取り出した。
次の報告のためではない。自分自身のための記録だった。
ペンを握り、一行だけ書いた。
――正しさとは何か。
インクが乾くのを待つ間、彼はその六文字を見つめ続けた。
答えは出ない。今夜も、明日も、おそらく出ないだろう。だが、問いを立てたこと自体が、すでに一つの変化だった。
帝国工作員エドヴァルト・シュタイナーは、十七の任務で一度も自分に問いかけたことのなかったその言葉を、初めて紙の上に刻んだのである。
羊皮紙を引き出しの奥にしまい、鍵をかけた。
そして立ち上がり、次の行動のための準備を始める。工作員としての職務は止まらない。命令は命令であり、報告の期限は迫っている。
だが、その足取りは、数日前とは微かに異なっていた。
何が変わったのかは、本人にも分からない。
分かっているのはただ一つ、あの光に満ちたガラス天井の輝きが、暗い地下室の石壁の向こうにも届いているような、そんな錯覚が消えないということだけだった。




