ただの天空領主なんだが、Sランク冒険者ってのはやっぱりどこかおかしい奴のようです。<<前編>>
「大変です!大変ですよ、シェルバーラさん!」
それは本当に大変なことだった。
人類の敵。大災厄の化身。何事もやり過ぎる俺の部下であるラファリア・エーデンラルトさんは滅多に大変と言う言葉を使わない。俺の領地を空中に浮遊させた時も、給金の使い道がわらしべ長者……貧弱みたいになった時も、ワープゲートを神話の中で語られる大空洞へ繋げた時も、やり過ぎてしまった、の一言で片づけやがる逸材だ。
おかげの俺の蚤の心臓には剛毛が生え、ちょっとやそっとの事では驚かないようになってしまった。人間の適応力は恐ろしい。だから今回も、大変だと聞きつつもきっと何とかなるだろうとどこか高を括っていたのだ。
俺は少しばかりタメを作り、天空の領主たるに相応しい威厳を漂わせてからやり過ぎる部下、ラファリアさんに問いかけた。
「……何が、大変なのかな?」
蒼と碧の双眸を大きく見開き、整った眉を軽く吊り上げながら執務室の扉を開けて入って来た可憐な少女の、その健康的な薄紅の唇が開く。
「王国軍が、攻めてきました!」
「ああ何だ、そんなこ……は?……はい!?今、なんて?」
「王国軍総勢四万が攻めてきました!」
「はぁあああああああああ!?!?」
俺は余裕の態度を百八十度変えて執務室の扉をぶち破る。そしてすぐさま、ラファリアさんが設置した地上へと通じるワープゲートへ飛び込んだ。
抉れた大地を背に設置された地上のワープゲートの先は、開けた平野だ。森林ばかりのうちの領土と比べると肥沃なその土地を見て、これまで思っていたことは羨ましい。ただそれだけだった。
だが今は違う。その平野にあるのは絶望だ。
遠くに見える大量の影。王国の旗を風に靡かせながら、平野を埋め尽くして威風堂々と進む大軍。元田舎領主の俺なんかでは見たことがない人の人の人の波。
王国の正規軍の目標は間違いなく俺かラファリアさんだ。心当たりがあり過ぎる。
こんなことになるなら領土が空に浮かんだことも、その経緯も俺の上の公爵に報告しなければよかったのだろうか。
いや、どちらにしろこうなっていたんだろうな。
「どうします?やっちゃいますか?」
俺は涙を流しながら、他愛もなくそんなことを言ってくる部下に頼み込む。
「駄目だからな。今回は、やり過ぎた、は無しだからな!」
「分かりました!ではやり過ぎない程度にこう、ゴキッと」
「確実に殺っちゃってる音だよ!俺の部下、武闘派すぎるよぉ!」
急死した父から領主の座を継いで間もない俺には、全く人脈がない。資産も、政治的な手腕もない。凡百な俺には正直言って、このような状況で打つべき手が一つも思いつかない。
仕方なくラファリアさんにワープゲートの使用制限をかけてもらい、一日三人だけそこを行き来できるようにして、俺は天空の領地に引き籠ることにした。
その内、王国からの使者がやってくるだろう。その要求を聞いて、どうするか判断するしかない。
自分の処理能力を圧倒的に越える出来事に、俺はどこか投げやりな気持ちでいた。
そうだ、この時の俺は何の覚悟も出来ていなかったんだ。俺にとってはやり過ぎる部下でも、世界にとってラファリアさんは"人類の敵"。そんな存在を一伯爵が部下にするっていっても、世界が許してくれるはずもない。
そのことを、あまりに軽く考えていたんだ。
「ここで野営をするだけで、干上がるもんなのか?向こうはワープゲートを使えるんだろ?」
地上のワープゲートの近くで野営している王国兵の一人が、空に浮かぶ巨大な土塊を見上げながらそう言った。彼らがここで野営を始めてから十日。王国軍は用意してきた対空攻撃手段が完全に無効化されることを確認するやいなや、使者を出すこともなくただじっと待ち構え始めた。
「さあなぁ。まぁ、ワープゲートでの物資調達なんてたかが知れているだろう。それに元はただの田舎の一伯爵領。食料の備蓄とか大してないんじゃないか?あんな高地でまともな植物が育つとも思えないし、水源もないだろうし、意外と兵糧攻めは悪くないのかもな」
「なるほど。領民が蜂起すれば、もしかしたら音を上げるかもしれないな。にしても、"人類の敵"とやらにここまでさせるロキャスティナ伯爵ってのはどんな奴なんだろうな?」
「俺たちのような一兵卒には想像もつかない、悪魔みたいな奴なんだろうさ。きっと"人類の敵"よりも、な」
そう言って肩を竦めた王国の兵士に同調するように、周りの者たちも次々に頷き始める。噂に尾ひれはつきもので、すでにシェルバーラの人物像は人間離れした、それこそ魑魅魍魎に近い存在だと広まっているようだった。
そのように盛り上がる兵士たちの中央を、黒い装束に身を包んだ女が横切った。
闇に溶け、闇で生まれるように。輪郭が蜃気楼の如く揺蕩い、変化し、瓦解したかと思えばまた結合する、定形を持たぬその女。目を奪われる神秘的な光景が彼女から生み出されていたが、話し合う兵士の誰一人たりともその姿には気付いていない。
女は切れ長の赤い目を細めて、上空を見やった。空を覆う岩盤の天蓋のその先に、彼女のターゲットはいる。
王国からの交換条件が暗殺者まがいなものであったのは業腹だが、その対象が世の平穏を乱さんとする純粋悪の伯爵ならばやむを得まい。
夜空に一つ嘆息を吐きだし、女はすぐにその姿を消した。
自室で目覚めた俺が真っ先に目にしたのは、やたら厳めしい暗黒の全身鎧だった。
両肩部から伸びる漆黒の長い棘。頭部の両端部から生える二本の赤黒い角。平べったなVの字型に伸びる胸部の角ばった装飾。どこからどう見ても、悪の権化と呼ぶにに相応しい禍々しい鎧。
それは、就寝前には絶対になかったものだ。つまり誰かがこの鎧を用意して就寝中の俺の居室に置いたわけで、その心当たりは一人しかいない。
「ラファリアさん。この鎧は何なのかな?」
誰もいない空間に一人ごちる様に言うと、すぐさま居室をノックする音が発せられた。いつものことだ。地獄耳なんて軽く凌駕する聴覚を持ったその人物が、失礼します、と前置いてから入って来ると俺の心臓は嫌な予感で高鳴った。
「はい!こちらの鎧は暗黒龍の鱗とアダマンタイトをメインとして、サブに深淵瀑布の虚水、世界樹の樹皮、一つ目海獣の眼を添えて作った一品。その名も『伯爵絶対守護鎧』になります!」
「完成品より素材の名称の方が恰好いいんだが」
酷すぎるネーミングセンスだ。
料理の紹介をする様な気軽さで俺に説明したラファリアさんが、ヘンテコな名前の鎧を自慢げにチラリと見た。俺は鳴かず飛ばずの冒険者として活動していた時期もあったが、その元冒険者でもほとんど聞いたことのない素材の数々は多分、詳細を聞かない方がいいやつだ。きっととてつもなく貴重な素材なんだろうが、それが『伯爵絶対守護鎧』なるダサすぎる名前の鎧の材料に使われているのは不憫で仕方がない。
「王国軍が乗り込んでくる可能性を考えて、ご用意させて頂きました。ただ伝説級の魔術や武器の攻撃を受けると、皮膚がピリッとしてしまうのは避けられませんでした。本当に申し訳なく思います」
「何もわからないけど、なんか凄い防具なのは分かった。これで俺に何と戦えと?」
伝説級の魔術や武器?そんなの幾ら王国でも滅多に用意できるはずがない。あと、寝起きドッキリじゃないんだから、俺が寝ている間にこの鎧を俺の居室に置いたことを申し訳なく思って欲しい。
「あ、ちなみに命じれば独りでに動きます。衛兵としても使えますよ!」
「動くの!?こんな首なしの衛兵がいる領主の館なんて絶対にないよ!?魔王の居城かな?」
「はい、動きます!そこらのドラゴン程度なら武器が無くても倒せると思います」
「そこらにドラゴンなんていないんだけど!?」
目覚めて一発目から何故こんなぶっ飛んだ会話をしなければならないのか。とは言え、せっかくラファリアさんが用意してくれたものだ。俺が使わないにしても、遊ばせておくのは失礼だろう。
「どんな相手だろうと絶対に殺めないようにして、領地や館の巡回をしてもらうように出来るかな?最近増えたとは言えうちの領地には衛兵があまりいないから、そうしてくれるととても助かる」
「はい。了解しました!あ、でもいつか着て頂けると嬉しいです」
「うん……考えておくよ」
ラファリアさんには申し訳ないが、正直これはあまり趣味の良いデザインとは言えない。こんな恐ろしい全身鎧を装備するのはそれこそ魔王や邪神の類だろう。一地方領主ごときではその重みに耐えきれそうにはない。
制作者の命令を受けた漆黒の鎧が、俺以上の威厳で歩き始める。いっそあの鎧の方が領主に相応しいんじゃないだろうか。
そんなことを思いながら俺は、領主としての仕事に取り掛かるべく年季の入った服の袖に手を通した。新しく仕立てるような懐の余裕はないし、父から受け継いだ数少ない遺品の一つを縁起が悪いと捨てることは出来ない。
身なりを整えて適当に朝食をとる。薄い味のスープと固いパンは、とても貴族らしい食事とは言えないかもしれないが、俺の身の丈にはあっている。冒険者をしていた頃は、これでさえ御馳走と言えるような粗末な食事ばかりだったからな。
だがこのまま食料が安定して確保できなければ、そんな粗末な食事でさえも御馳走と言えてしまうような飢えに領民が襲われることになる。その問題に対処するため数日前からラファリアさんが何やら開墾らしきことを行っているようだが、今日まで俺は他の用事で忙しくしており報告書をさっと眺めただけで現地に行くことなく済ませていたのだ。
今日はその視察を行う予定だ。
流石に今すぐ食料が確保できるわけではないだろうが、あの規格外の部下の事だ。その可能性も考えて、自慢げな表情に備えておくとしよう。
「……あのラファリアさん?これ、何ですかね?」
調教済みケルピーに跨って村の方へと向かっていた俺は、当然その巨大な物体群に気が付いてはいた。
だがあえて。そうあえて無視していたのだ。もしかしたら俺の脳が見せた幻覚かもしれない。そんな一縷の望みをかけて。
勿論そんな儚い望みが叶うはずもない。だから俺はその巨大物体に手をあてながら、いつも通りに隣で太陽のような笑みを浮かべる少女にそう聞いた。
「はい!これは村民や元王国特務部隊の皆さんと一緒に育てた、私たちの自信作です!」
「わぁ、一つ一つが家よりでっかい。農作物って言うよりもはやNO作物って感じだね」
その巨大物体を農作物と宣った部下に、俺は溜息をついて見せる。確かに食料の備蓄は喫緊の問題だ。ラファリアさんの万能結界とやらが張られている我が領地は、例え高度が高くとも植物が育つ環境にある。その上、育ちも早い。もう意味が分からない何でもありの結界に環境が守られている。とは言えまさかお出しされるのが、人を逆に喰らいそうなほど大きな作物とは予想もしていなかった。
と言うか俺の領土の村民や元誘拐犯たちは、なんで俺より平然とこの状況を笑顔で受け止めている上に、ラファリアさんに手を貸しているわけ?
「これでシェルバーラさんが気にしていた食料問題も、解決したわけですよ!」
そう鼻高々に言ったラファリアさんが唐突に自らの頭を軽く叩き、背を屈めながらスススと寄って来た。その塩らしさを是非ともこの巨大な農作物に分け与えて欲しいものだ。
俺が、手触りの良いさらさらとした金の長髪を靡かせる頭を軽く撫でると、ラファリアさんは表情を緩ませる。時々、幼さを感じさせることのある部下と俺の歳はそう離れてはいないはずなのだが大きな子供が出来た気分だ。
「うん。食料が手に入ったことは本当にありがたいよ……ところで、この農作物はどうやって調理すればいいのかな?」
「……それは、こう……」
すっ、とラファリアさんが分厚い皮に覆われた農作物に正拳突きを喰らわせると、それが食べやすい大きさまで細切れになって用意していた籠の中へと正確に収まっていく。
どんな理屈でそうなるのかさっぱり分からない。唯一分かるのは、そんなことが出来るのはこの規格外の部下だけだと言うことだろう。
「それが出来るのはラファリアさんだけだからね。みんなが気軽に調理ができる大きさだと、よりありがたいかな」
「なるほど。その着眼点はなかったです!シェルバーラさんの助言は、いつもためになりますね。あ、ちなみにこの農作物も命じれば動きます」
「何でどれもこれも他愛無く動くようにするんだい?ロキャスティナ伯領が魔境になっちゃうよ?」
いや、空に浮かんでいることと言い、巨大農作物に負けない大きさの黄金像と言い、ここは完全に魔境だ。そう揶揄されてもロキャスティナ伯爵には否定できない。
そんなことを考えて頭が痛くなってきた俺に、領民の一人が声を掛けて来る。
「伯爵様。ラファリアさん。俺たちは武器を持っても戦場で大した役には立てませんが、この村の皆が丹精込めて育てたこの農作物が、必ずや俺たちの代わりに王国の兵隊を討ち果たしてくれます!どうか、どうか俺たちの思いを受け取ってください!」
俺とラファリアさんの周りに集まって来た領民たちが、互いに頷き合って巨大な農作物に手をあてた後に俺へ熱い視線を向けて来る。彼らからは少しでも力になりたいと言う強き意志が感じられる。
領民が総出で俺を支えてくれている――
なんて、騙されるか。
「なんか良い話っぽくするんじゃないよ!丹精込めて育てたって言えるほどの時間なんてなかっただろ!?それにこんな巨大農作物を戦場で暴れさせてみろ。本当に取り返しのつかない悪評がたつことになるぞ」
「えっ……?実戦投入しないんですか?」
「しないよ!?何でみんなそんなに残念そうなの!?」
やだ、俺の領民好戦的すぎる。牧歌的なところがロキャスティナ伯領の唯一の取柄だったのに。
いや、分かっている。彼らが猛っている理由は間違いなくラファリアさんだ。彼女の存在は領民たちにとっても、代わりがきかないのだ。
既に領民は腹を括ったのかも知れないのに、俺だけがまだ何も決められずに迷っている。
自分でも本当に嫌になる。
ラファリアさんは俺の部下だ。だがそれは、未来永劫そうと決まっているわけではない。他にやりたいことや、俺よりもっと彼女の本質とうまく付き合える人間が見つかった時、自信を持ってそこに送り出せるよう部下を指導するのも上に立つ者の務めだ。
なんて考えたり。
結局のところ、ただの田舎の伯爵であり、何の才覚もない俺は自分に自信がないのだ。ラファリアさんを部下だと認めたのは俺で、彼女もそれを受け入れてくれた。それでも"人類の敵"たる存在が、ただのやり過ぎる部下で収まってくれるのか今更ながら不安で仕方がない。
そう自信を無くしたり。
王国軍が攻めてきたこともあって、特に最近はそんなことばかり考えてしまう。
そんな俺をラファリアさんの無垢な瞳が覗いていて、つい軽く身を退いてしまった。
「……とにかくこの巨大な農作物の事は後回しにするとして、次の作物は手ごろな大きさにしてくれたらありがたいよ」
「分かりました!では手ごろな大きさで動くように」
「動かさなくて良いからね。頼むよ……」
動くものなら何でも楽しく感じる幼子みたいな笑顔を湛えて口を開けた少女に、俺はそう懇願するしかなかった。
その黄金の巨大な像を目にした時、私の心は安堵で満たされた。
領民の住まう民家を睥睨するように建っているその像が、自らの権勢を示す象徴でなくて何だと言うのだろう。
お前たちの行動はつぶさに監視している。抵抗するのなら命を奪う。あの趣味の悪い全身金色の像は無言でそう威圧しているのだ。
それだけではない。魔法によって強化された私の視力が、暗闇の中から巨大な物体を顕わにさせた。像と同じく民家のすぐ近くに建つそれは、それは……なんなの、あれ?
私が知っているそれは、煮て食べるとほのかに甘辛い食物だ。だが、民家と同じ大きさと高さのそれを同じものとして扱って良いのか。少なくとも、私の口に入ることは絶対にない。
人の生き血を啜ってあそこまで巨大化したのかもしれない。だとすれば一体どれだけの無辜の民が弾圧され、生贄になったのだろう。どれだけ彼らは、領主に苦しめられてきたのだろう。
あまりにも悍ましい。怒りで拳が震えるが、私はすぐに心地よい温度の空気を肺に取り込んで己を落ち着かせた。
確かなことは一つ。
この空に浮かぶロキャスティナ伯領の支配者、シェルバーラ・ロキャスティナ伯爵はほぼ間違いなく噂通りの大悪人だ。ならば、その命に届く刃の鋭さを少しも鈍らせる必要は無い。
Sランク冒険者の私だが、本職はあくまで盗賊。スキル<<闇纏天衣>>と<<無形無音>>によってほぼ完全に闇と同化して気配を殺し、瞬きの内に命を奪うことは出来るがそれは本来暗殺者の仕事だ。魔物に対してならともかく、人に対して積極的に使うことを私は望んでいない。
その矜持を粉々にしてくれた王国には本当に腹が立って仕方ないが、巨悪を討つためならば少しは苛立ちも治まってくれる。もっとも、人質を取られている以上、私に選択肢なんてないのだけれど。
幸いにして、影に溶け込んで素早く接近することが出来た領主の館らしき建物には、明かりの一つも灯っていなかった。と言うか、この建物は本当に領主の館なのかな。この領地の中では一番大きな住居と思われるが、それにしてもみすぼらしい。
私の住まいより小さくて手入れが行き届いていないんじゃないかな?これが本当に巨悪の住まう建物なの?それとも敵を油断させるためにわざとこのような外観をしているのかな?
魔力を左目に集中させ、認識を阻害させる魔法やスキルが使われていないかを探るが特に違和感はない。とは言えここには純粋悪ロキャスティナ伯爵の他に、あの"人類の敵"と噂される存在も居るのかもしれないのだ。
今度は右目に魔力を集めて、<<存在感知>>で館内の様子を探る。
スキルによって気配を遮断していたとは言え、私はワープゲートを通って天空の領地に来ざるを得なかった。超一流の術師が相手ならば、私のスキルでも侵入を誤魔化しきれていないかもしれない。
そのことも念頭に入れて、館を強く凝視する。
個室で寝ているらしき人間が一人。館内を巡回している……よく分からない存在が一人。もしかすると<<認識阻害>>の魔法をかけているのかもしれない。とすると、この巡回している人間が"人類の敵"なのだろうか。
とにかく、領主が巡回をしている可能性は低い。ならば一か八か。眠っているらしき領主がいる部屋に忍び込み、一息に殺して脱出する。
暗殺のターゲットはロキャスティナ伯爵と"人類の敵"だが、その両名を一度の奇襲で始末できると思うほど私は自惚れていない。
体を暗黒の中へと溶かして無形となる。この状態の私の侵入を防げる人間や設備は皆無と言ってもいい。
それでも、攻撃の際には姿を成さなければならない。その一瞬の間に防御体勢を整える強者も同じSランク冒険者の中にはいるのだから、世の中は本当に広い。
……血に刻まれていたとしても、私にとっては慣れない暗殺で少し緊張しているのかな。無駄なことは考えるな。相手は極悪人だ。ただ悪を討つための刃になれ。
自分に強く言い聞かせ、私は一気に加速して窓の数ミリの隙間から部屋へと忍び込んだ。
――瞬間、自身の死期を悟った。
無形の私の背後から、何かが伸ばされる。もう百回は死んだと思わされる一瞬の間があり、私は何が起こっているのか少しも理解できないまま肩を優しく掴まれて、強制的に有形へと引き戻されてしまう。
これまで無形から有形になったその瞬間を狙われたことは何度かあった。だが、無形の私に干渉できた奴なんていなかったのに。
どうやったの!?なんなの、こいつは!?
私の肩の上に置かれたその繊手の持ち主は、それは底抜けに明るい声で言った。
「ロキャスティナ伯爵様、お客様がいらっしゃいましたよ!」