三十三話
本日の講義では、ミュジィエクブスとディマの恋愛事情について教えていただきましたわ。理解できたのは、とにかくノバティー伯爵の前で油断してはならないということ!
確かにディマの法律では重婚も不義密通も許される場合があるのですが、そんなディマだからといっても、あの方ほどの節操なしはそうは居ないとか。当たり前ですわよね!
ヴァーミナスはまだ帰って来ていないようですわ。きっと重大なことが起こったのでしょう――早く帰って来て、何があったのかを私に教えてくださればよろしいのに。
貴重な勉強の時間を使ってしまうけれど、気分転換でもしないとやってられませんわ。すぐに戻るつもりで、最近ご無沙汰だった午後の散歩に出ると――件のノバティー伯爵が現れました。
唐突に、それでいて、友人に偶然出会った風を装って。
「やあ。奇遇だね、アンヌ」
「近寄らないでくださいな。お散歩はもう終わりですわ、転」「転移」
なんっ?! 割り込まれた――転移した先は、私のお部屋のある階の廊下でした。ノバティー伯爵の向こうに、プレートがかかったドアが見えています。
「腕に自信がありますのね……私の転移に割り込むなんて、危険極まりない行動ですわ」
下手をすれば、体が半分ずつ分かれて転移しますわよ。なんてタイミング、そして技術……ディマ国三本の指に入る、と言ったレプケの言葉を実感します。
「うん。危ないことをしてでも、アンヌ様に聞いてもらいたいお話があるんだ――でも、お部屋には招いてもらえそうにないね?」
「当然ですわ。三メートル以内に近づいたら、城中の方々を呼びますから」
「ふぅん。警戒心は持てるんだね――なのに、ヴァーミナスを疑わないのは何故?」
「ヴァンスを疑う? 何を仰っているの、まるで騙しているのを知っているような言い草ですこと」
ジェリアータにもらった防毒、浄化作用を持つ白い扇を広げて、今日はあの匂いに惑わされないようにします。きちんと勉強し直しましたから、易々と懐には入らせませんわ。
「騙してるんだよ。ヴァーミナスは――君はたくさんの疑問を持たなくてはいけないのに……この檻の居心地が良過ぎて、そんなことにも気づかないのかな? それとも気づけない?」
この檻、と言って両腕と羽を広げたノバティー伯爵はカジュアルなおへそまで切り込んだ、薄紫のシャツを着ていました。その姿、言葉に……心が騒ぐ。
耳を貸してはいけないのに……。
ヴァーミナスが、私を騙している――? 恐ろしく、それでいて聞かなければならないような、嫌な感覚に襲われます。
窓の外を見ると、半透明の防護壁が目に入りました。
「ここが檻、と仰りたいの? 私は自分から望んでここに来ましたのよ」
「そう仕組まれた……とは思わない? 思えないのかな? 人の言葉や文化に精通した使用人、一緒でなければ外出も禁止……軟禁と言っても良いと思うけどな?」
仕組まれた――仕組まれた。何を仰るの。言わなければ、そんなことはないと。
「あなたは――何故そう思うの?」
口から零れたのは疑いでした。
「ダメだよ。パティって呼んで。でなきゃ君の質問には答えないから」
知りたい――知らなければ。知りたくない……全部が本当の気持ちで。騙されている? 仕組んだ、ことなら――。
「あの、あの侮辱を言わせたのはヴァーミナスだと仰るの?」
「パ・テ・ィ。これ以上は近づかないし、その質問にも答えてもいいよ? だから、僕をパティと呼ぶんだ、アンヌ」
クリスタルの瞳が――自ら光を放つように煌きました。魅了だわ……! 防御と異常回復を咄嗟にかけて、自分に異常状態がないことを……ない。
「ほら、私の体にはなんの異常もありませんわ! やっぱりあなたの仰ることは嘘ですのよ!」
違う。違うわ……そう思いたいだけ。私はもう、ヴァーミナスを疑ってる――。
「だから本当なんだよ、美しいアンヌ。ヴァーミナスがいくら人そっくりに化けたって、あれは魔族だよ? ディマっていうのはね、出会いが強姦だって惚れさせれば合法になるような連中の国だ。この城の防護壁だって……罪人の魔力を搾り取って維持してるんだよ?」
それは、信じ難いけれど事実だと今日学んだこと。罪人の話は知りませんでしたけれど……。
「何が仰りたいの……パティ」
もう、知りたい気持ちに逆らえませんわ。居心地の良い檻――不自由を感じさせない使用人、気配りしてくださる貴族……食事の習慣のように、『伏せられている何か』が他にあったって、不思議ではない。
「やっと呼んでくれたね。良いかい? ヴァーミナスは僕と同類なんだよ。欲しい物の為なら何だって犠牲にする。その中には、アンヌの誇りだって含まれてる。勇者へ抱くその憎しみは……本物かい?」
「私の誇りさえ……?」
私の憎しみは本物なの? いいえ、本物よ。だって、こんなにも憎いもの! 異常だってなかったわ。だから――だから?
「ねえアンヌ、君はとても大切な言葉を聞いてるはずなんだ。レプケと君が出会ってすぐだよ。彼はなんて言った? 思い出してご覧?」
勇者に侮辱された後、悲しくて悔しくて飛び出しましたわ……レプケと出会って、魔物と勘違いして――魔法を放ちましたわ。そして――そして?
なんと言ったの? レプケは――勇者! あいつが、あの男が居るから……!
「――? お、思い出せない……勇者が、居るから……私を嘲笑ってっ、勇者さえ居なければ……!」
「お優しいアンヌ。君は復讐を企むような性格だったのかい?」
嫌……何故、思い出せませんの? レプケはなんと仰いました? パティは何を言っているの?
――ヴァーミナスは私を騙しているの? まだ地上から帰って来ないあなたは、今何をしていらっしゃるの?
「ち、近づき過ぎですわ! 離れてくださいませっ」
いつの間にか目の前にいたパティに、扇を突きつけて牽制します。こんなに近寄るまで気づかないだなんて……!
「これ以上は止そうか……なんだか僕が悪役みたいだから。それにアンヌ様も、整理する時間が欲しいよね? また今度。バイ、ハニー!」
転移した彼女に払う注意力、なんてものはとうに失われていました。
「ヴァーミナス……あなたは私に何をなさったの? 私は、何を信じれば良いの――」
力の入らない体を引きずって部屋に帰り、ベッドの上に寝転びます。何から考えたら良いのかさえ、どなたかに伺いたいわ。そうだわ、レプケに訊けば! でも、それが真実だったら?
私を騙していて、あの事件を仕組んだのがヴァーミナスだったとして……私はどうすれば良いの? 今の私は、和平の大使にしてヴァーミナスの婚約者。
それが目的だったの? 魔王は、私と和平が目的で、侮辱させた――止めて! こんなこと考えたくない!
いつも通り、そう学習室に行きましょう。新薬の開発が――薬草?
私は瞬時に学習室に転移しました。そして記憶を頼りに図鑑を……違う、これでもない……栽培が禁止されている――。
「ありましたわ」
『寄生性ディマンテレイア』魔力を持つ生物の体内に寄生する植物。寄生した生物の思考を誘導して、受粉、繁殖をさせようとするのが主な特徴――別名『火種』。
寄生した生物の魔力を吸って育つ。育つごとに発芽のきっかけになった感情が強まる。特に、同じ株の同種に反応し、良い物から悪い物まで様々な感情を増幅させる。判断能力、認識能力にも一部障害が現れる場合が多い。
自分と相手を同時に寄生させることで、恋を実らせるのに古くから用いられたが、受粉に成功すると効力が切れる。
これに誤って寄生された場合、それを魔法で探知、取り出すことは不可能である。寄生しないディマンテレイアは別項目を参照。
「発芽のきっかけになった感情を、増幅させる……探知も、取り出すこともできない――そんな。そんなのって……!」
この憎しみは植物のせいなのですわ……ヴァーミナスは、私を騙していた――。
不思議と、痛みも憎しみも湧いてきません。そうだわ、昼食会の後にもこんな気持ちに――あれも、勇者の言動も私のように、誘導されて……。
「……だからって赦しませんわよ!!」
湧き上がる憎悪だけが確かなものに感じられて、早く次の手を打とうと決めました。次は和平会談の最中と直後――待っていなさい。根回しは既に始めていますのよ。
散らかしてしまった図鑑を戻して、マスユを呼びましょう。お茶を用意してもらって、幾つかの質問に答えてもらわなければ。
訊く勇気があれば、の話ですけれど……。
「お呼びでしょうか、アンヌ様」
マスユはただのメイドでしょうから、私を騙していたのではなく、主のヴァーミナスに従っていただけ……。
「お茶を用意してちょうだい。お茶菓子もお願いするわ」
笑顔でそう命令すれば、「畏まりました」といつも通りにお茶を淹れてくれました。
いつもであれば私から話しかけるのですが、もはや自分が何を言いたいのかも判然としませんわ。何もわからない……。
「いかがされましたか、アンヌ様。とても暗いお顔をなさっていますが」
「少し……ショックなことがあったの。マスユは、そうね、好きな人はいる? 今じゃなくても良いわ、恋をしたことはある?」
私はまた何を言い出したのかしら。けれど恋患いだと思われた方が、まだ良いような気がしますわ。
「まだ恋というものは理解できていませんが、他種族の方に好きだと言われたことがあります」
「まあ、そんなことが――どうお返事なさったのか、訊いてもよろしくて?」
「はい、丁重にお断り致しました。魔王閣下よりのご命令で、とにかく時間がありませんでしたので」
ヴァーミナスの命令で時間がない? そういえば人間の研究をしていたのでしたわね。
――もしかしたら、ヴァーミナスは昔から私のことを知って居たのではなくて?
今まで私は幾つの疑問に目を瞑って来たのでしょう? 疑いを持ってしまったからには、もう戻れませんわ。ただ信じていた頃には、戻れない――。
「そう……あなたはその方を好きでしたの?」
「いいえ。でも恋人になってみても良いかな、とは思いました」
「意外だわ、理由は?」
「彼が君のためなら魔王にも挑める、と言ってくれたのです。格好良いなぁ、と思いました」
なるほど――死ぬとわかっていて戦える、というのは魔族ならではの口説き文句ですわね。
「そういえば、ヴァーミナスに望むなら勇者の首を持って来る、と言われたことがありましたわ。似ているわね」
「似てはいますが、意味はまるで違いますね。私のものは命をかけられるほどの好きですが、魔王閣下のものは己の強さにかけて愛を乞う言葉です。ディマにおいては、自身の強さで敵わない相手の首を獲ると言うのは自殺行為です。言い出した者は実際に獲りに行かされることが多いので、よほどの自信がなければ口にできない言葉なのです」
それはまた、そうね。当然と言えば当然だわ。つまり、もしあの時に私が「そうして」と言えばヴァーミナスは私の前に勇者の首を差し出すか目の前で拷問にかけた……と。
止めて惜しいことをしたかしら? いいえ! 私の受けた屈辱をヴァーミナスの手で晴らされてしまったら、この憎しみの行き場がなくなってしまう――偽りの、憎しみの。行き場が――。
泣きたい気持ちになって、なのに泣けませんでした。この悲しみは本物かしら? 泣けないのは、寄生されているせいかしら……?
私ったら、まだヴァーミナスが騙しているとは決まっていないのに、完全にそうだと決めつけているわ。愚かね……。
「今日の私は、おかしいと思っているでしょう?」
いいえ、ずっとおかしかったのね。ただ気づいていなかっただけで。
思い返してみると、あんなに何度も勇者の侮辱を思い出したり、殺そうとしたり……異常ですわ。
「そうですね……悲しそうになさっているので、とても心配でございます」
「悲しそう――何故かしら。何故悲しいのかもよくわからないのよ。気分が悪い……」
「何か私の用意できる物で、ご所望の物はございませんか? 可能な限りお持ち致します。地上の物でも何でも、仰ってくださいませ」
心配の声音からは形だけでなく、確かな気遣いが感じられました。なんて優しいのでしょう。なんて――。
「なら、シェフ手作りのナッツのクッキーが食べたいのだけど……もしあったら用意してくださる? それから、質問に答えて欲しいの」
「畏まりました。只今ご用意致します、少々お待ちください」
マスユを待つ間、眠いような気持ちを抱えてため息を吐きました。お茶を一口飲んで、これもヴァーミナスの与えてくれた物なのだ、とぼんやり実感します。
「ヴァーミナス……こんなにも今悲しいのは、あなたのせいね。そして、悲しめないのも、あなたのせいだわ」
――例え、あなたが潔白であっても。
「お待たせしました。どうぞ、ナッツのクッキーにございます」
「いつも思うのだけど、本当に仕事が速いわね。こんな我が侭、いつ言うとも知れないのに」
「アンヌ様がお気に召された物でしたら、常に準備してございますので」
どれだけ頭が悪ければ、そんな無駄なことをさせるのかしら。
一口クッキーを齧ると、香ばしさと小麦の香り。噛むほどに渋みも出て、もう一口、と進んでしまいます。
「“常に”は流石に止めて欲しいのだけど、ヴァーミナスの命令なの?」
「それもありますが、私どもはアンヌ様に笑顔で居て頂きとうございます。それ故の行き過ぎた行為でございます」
「……ねえ、もし私の命令とヴァーミナスの命令が相反するものだったら、マスユはどちらに従いますかしら?」
「アンヌ様――お気づきになって、しまわれたのですね?」
気づいた。気づいて居ない。私はまだ、何も気づいて居ない――。
首を横に振ります。別に肯定しても良いのだけれど、きっと私は気づいて居ないのだと思いました。
「何を言っているかよくわからないわ、これは例えばの話よ。でも私に訊かれたら答えづらくて当たり前よね。私がりんごを取ってと言って、ヴァーミナスが与えてはいけない、と言ったらどうなさるの? 本当に、質問のままで考えて欲しいの。やはりヴァーミナスの命令を聞くのかしら?」
それが当然よね。
「私の雇い主は魔王閣下でございますが、主人はアントワーヌ様お一人でいらっしゃいます。いかな咎めを受けようと、結果として首を跳ね飛ばされても、アンヌ様のご命令に従います」
「それは……嬉しいけれど。ずっと仕えていたはずなのに、ヴァーミナスへの忠誠心はないのかしら?」
「そもそも、ディマにおいて“忠誠心”という感情は理解し難いものがございます。ですが、初めてお会いしましたその日、私に芽生えた忠誠心は全てアンヌ様のものでございます。魔王閣下に殺されろとご命令いただいても、ためらいなく従うことをお約束致します」
マスユはほんの少し唇の端を上げて、私を見て笑っていました。今度はきちんと、心のままに涙が出ました。すぐに拭って、見せないようにします。
ヴァーミナスが何を命令しても、マスユは私の味方――こんなに嬉しいことはあるかしら? いいえ、嘘だって構いませんわ。今の言葉だけで、裏切られても許せるくらいだわ。
「ありがとうマスユ。私はあなたのようなメイドに出会えて幸せ者ね。こんな、意地悪な質問をしてしまってごめんなさい。でも本当に相反する命令を下されたなら、あなたはご自分の命を大切に思わなくてはダメよ? 私からの命令。ね?」
「はい、アンヌ様のお心のままに」
完璧な礼をしてから、カップを持って壁際に下がってしまうマスユ。
「そんな端に立って居ないで、こちらに座ってマスユもクッキーを食べましょう? 甘い物はお嫌い?」
私の隣の席を引いて、手招きして呼びます。もっと楽しいお話ができそうだわ、今日のレプケの講義での様子とか。
「お気遣いありがとうございます。大好きですので、恐縮ですがご一緒させていただきます」
マスユの真摯な言葉と思いが、鬱屈としていた気持ちを幾分か晴らしてくれたみたい。
ヴァーミナス。もし私が勇者への憎しみしか持てないのなら、その間だけ、あなたに騙されて居て差し上げるわ。だって、この幸せもまた……あなたのせいですもの。




