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夜が来ても

 それから根本さんは、延々言い訳をし続けた。


 曰く、無理。

 曰く、根本さんはおれには似合わない。

 曰く、人として未熟過ぎるから。

 曰く、もっとひどいんだよ。ものぐさ過ぎて驚くよ杉山君。

 曰く、私だよ?


 曰く、曰く、曰く、曰く。


 目だけを出して、濡れタオル越しに淡々と言い続ける根本さんの声は静かだった。

 反論する気も、説得する気も無かった。

 根本さんが言い募ることの大抵は、とっくに通り抜けた後だった。

 当たり前だろ、こんな地雷。エウーレカした時からずっと考えたわ舐めんじゃねえ。


「そうやって自分を否定してれば、おれが『そんなこと無いよ』って言うと思ってんの?」


 好きな女が無防備な姿で側にいたら触りたくもなるわ。

 聞くのも馬鹿らしくなって抱き締めた体は意外と筋肉質で、そういえばこの女はコピー用紙の入った段ボールを片手で抱えられる女だと思い出したりした。忘れてた。柔らかいけど、かてえ。


「思ってる訳無いだろーが!」


 いきなり抱き締められて硬直している割に、沈黙は僅かな間しか無かった。かてえのは筋肉のせいだけじゃないにしろ、こういう状況でも口はすぐに動くところが根本さんっぽいなといっそ感心する。少しは(ほだ)されるとかしろよ。

 暖房が入っていても、濡れた髪が冷たい。丹前と、そして浴衣越しにじわじわと水気が滲みてくる。それから、おれと同じシャンプーのにおい。


「でもその言い訳、狙ってるとしか」

「うるさいな! ちょっと当たってるけど全部じゃねーわ!」


 おれの胸に強く額を押し付けたままで、顔は全然見えない。地肌や少し見える耳の先が真っ赤になっているのは、のぼせていたからか違うのか。少し鼻声なのは、泣いているからなんだと思う。ずる、と鼻水を啜る音が微かに聞えた。


「杉山君、本当に私のこと好きなの」

「好きでも無い女抱き締めらんねーよ」

「でも杉山君、私に全然容赦無い」

「嫌?」

「うわー、卑怯な質問」


 言いながら、腕を突っ張らせておれから離れる。俯いたまま。


「ティッシュ」


 先回りして渡してやると、起き上がって盛大に洟をかみ始めた。前にもあったな、こんなこと。あの時は手放しで、子供みたいにわんわん泣いていたけど。どっちにしろ洟かむ時に恥じらいなんか見せないのが、根本さんらしいとおれは思う。よく回る口とか。だからこれでいい。


「わ、たしね。私、一度でいいから、誰か、に、抱き締めて欲しかったの」


 やっぱり俯いたまま、小さい声でぼそぼそ話し始めた。涙声。


「ほんと、一度でいいから」


 そしたら死んでもいいって思うくらい。と、聞き取れないくらい小さく続けて。


「私が杉山君のこと好きなのって、屋上で一緒にごはん食べ始めた頃からでね。でも、友達さえいない私が誰かを好きになることはあっても、誰かに好きになって貰えるはずが無いって思ってて。ちょっと優しくされただけで好きになるとか、単純過ぎるなって自分でも思ったし。だから、言うつもりなんて全然無かったし」


 にじり寄った分だけ逃げて行く。


 待て。

 今好きって言ったよな、なあ言ったよな?


「だから杉山君が好きだって言ってくれて、抱き締めてくれて、嬉しかった。だから、もうこれで死ねるなって思ってたの。今」

「…………は?」

「そういうの、重いでしょ。だから止めといた方が」


 *


「いったいなあ!」

「叩いても馬鹿は治らねえだろうがな!」


 言いかけたところで力いっぱい頭引っ叩かれて、死ぬほど驚いた。仮にも一応女なんですけど! 好きだって言われた筈なんですけど! それ叩くか普通!? 手加減無しだったよね今!


「昔のテレビじゃないんだから、叩いたってどうにもなんないわバーカ!」

「馬鹿は叩いても治らねえって言ったばっかなの聞いてねえのか、馬鹿はお前だお前。その耳は飾りか、付いてるだけか。頭は何の為に付いてんだ、ええ!?」

「お前って言うな!」


 痛くて別の意味で泣きながら抗議したのに、お前呼ばわりされた。

 もうやだ、本当にもう(いや)だ。

 素直に喜べないのも、受け入れられないのも、こうして怒鳴ってるのも、杉山君をこんなに怒らせているのも。

 だって私なのに。こんななのに。あんなに奇麗な人と付き合ってた人なのに。

 振り返って欲しかったよそりゃ。でも、そんなの無理って思っているから安心して好きでいられたのに。少しあれって思っても、それなら言って欲しいって思っても、そんなの絶対に無いって、振り向いてくれるなんて絶対に無いって最後には思っていたから期待をすることも出来た。だって私の気持ち知ってたんじゃないの?

 杉山君は優しい。でも、厳しい。

 嘘や誤魔化しを許してくれない。逃げさせてもくれない。

 期待されてるのかもしれないって、少し思う。多分。人として。けれど、私はその期待を裏切るしか出来ない。そんなのは嫌で。好きだから、でも好きだから自分が許せない。

 それに、一緒にいられたとしても自分でいいのかなって思うだろう。この人、奇麗な人と付き合えるのになって。杉山君がしなくても、私はいつも比べてしまうだろう。

 それを言えなくて、でもそんなこと無いよって言って欲しくて一人でどんどん悲しくなるのが目に見え過ぎてる。杉山君のご指摘通りですよああそうですよ。だからって、私だけ好きだって言ってもらったってきっと安心なんか出来ない。だって私が私を信じたりなんかしないのに。


 好きって言ってもらえて、抱き締めてもらえて。

 死んじゃいたいだろそりゃ。死にたくなるでしょそりゃ。

 それだけでは、多分生きていけないと思うけど。

 人生で起きたとてもいいことの一つを噛み締めている最中に終われたらって。

 続けることは出来ないなら、終わらせられることなら出来るかなって。


「何で面倒臭いの嫌なのか、杉山君聞いたよね」

「うん」

「私の母はね、血を吐いて倒れて病院に運ばれた時には胃癌の末期だったの」


 急いで検査をして、腹を開いてみたら癌に侵されて真っ白になっていた臓器。


「それからすぐ手術して一年もつかもたないかって言われてたのに、手術して十日で死んだわ。あっという間過ぎてびっくりしたわ」


 今でも死んだなんて信じたくない。


「一所懸命に生きた人だったのに」

「だからか」

「うん。死んだら何にも、何にも残らない」

「誰だって消えるだろ、いつか」


 呆れた声がする。そっと近寄ろうとする気配がして、また膝で後ろへ逃げる。

 近付かないで欲しい。これ以上、私を駄目にしないで欲しい。一人で立とうと、次はがんばろうと決めたのに。でも、追いかけて来て欲しいって思っている自分もいて。

 馬鹿じゃないの私。こんな都合のいい考えを持つなんて。普通の、ちゃんと生きている女の人たちみたいに考えていい筈なんて無い。


「そうなんだけど。祈っても、どんなに願ってもどこにも届かないし、神様なんていないって思ったんだよ。誰からも顧みられない私が何をしても駄目なのに、真面目に生きていても何も残らないならどうしたらいいの? 何かしても迷惑な顔をされる位で、誰かの役にも立たない。誰かと何かを成すことも出来ない。そんななら、何もしない方がいい。傷付きたくないし、傷付けられたくない。息をしているだけで精一杯だったのに、それ以上のことなんか。杉山君に出来ることなんか何にも無いんだよ」


 *


「……頭でっかちだわ地雷だらけだわ重たいわ、やらけえけどかてえし」


 始めから遠慮仮借無く深く口腔を味わい尽くした後で杉山の口から洩れた言葉も、同様に情け容赦の無いものだった。初めて他人の腕の中深くに抱かれ、他人の器官に直に触れたばかりの女に言うには大分苛烈なものである。

 けれど、限りなく優しい声だった。


「あのさ、そういうのとっくに通り越してんだよね。おれ」


 追えば逃げるばかりの根本に、短気な杉山は早々に堪忍袋の緒を引き千切った。

 急に立ち上がって根本の後ろへさっさと移動すると、逃げようと今度は前へ動こうとする根本を捕まえて抱き締めた。「逃げても追いかけるからな。家でも会社でも、根本さんが泣いて許してって言っても追いかけるから覚えてやがれ」と脅しながら。

 愛の言葉を囁いている筈の男の台詞としては、大分おかしい。

 杉山に口付けられる前も後も、根本の体は慄きと驚きのあまりとうとう口まで硬直しきっていた。然もありなん。


「何なの根本さん、あんた何様だよ。自分の頭の中だけで捏ねくり回したこと、おれに押し付けて気持ちいい? それで満足?」


 少し身を離し、半渇きになってきた髪の毛をゆっくりと撫でる。


「何考えててもいいわ、おれはおれが考えた通りにするわ。根本さんと同じだろ。おれが何を考えているかなんて、聞かれなきゃ答えらんねーわ。何で好きだって言ったのかとか、こんなところに連れ込んでるのかとかさ」


 何か言おうとするものの、言葉にならないのかすぐに口を噤む。そしてまた何かを言おうとするということを繰り返して口をぱくぱくさせているだけの根本の顔は、まだのぼせているのかと思うほどに赤く。


「根本さんって顔色変わんないけど、本当に恥ずかしいと真っ赤になるんだな」


 おもしれえ―。

 満足げに、声を出して笑う。


「だって」

「だってじゃねえだろ」

「だって」

「あのさ」

「だって……!」


 逆に根本は、また声に涙が滲み始めた。


「理由を言い尽くしたって、伝わんないことなんかたくさんあるんだよ」


 こすり過ぎたせいか、彼女の目や鼻の周りが痛々しい、鮮やかで赤い点がぽつりぽつりと見える。持っていた手ぬぐいでそっと押さえてやると、痛いのか微かに眉根を寄せた。


「分かんないなら分かんなくていい。根本さんが、根本さんの頭の中だけで考えているおれと違うんだってまずは知って欲しい」


 窓の外は午後の濃い金色で、東の空には早くも夜が忍び寄る気配がしている。


「おれのこと、好きだって言ったよな」


 言いながら深く抱き締め直すと、長い沈黙が部屋に落ちた。

 杉山は辛抱強く待ち続ける。


 二人の間に夜が来ても。

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