5:シャルシャ(5)
アルベリオはそれからも毎日のように、地下牢に来た。
本やクッション、おやつを持参するので、シャルシャの狭い地下牢は物で溢れた。
牢の前にある廊下にも絨毯が敷き詰められ、本棚や机、椅子、ソファが置かれ、まるで少年の居室であるかのようなありさまだ。
カンテラが幾つも壁に下げられ、夜も本を読むことができるようになった。
「昔ここは、囚人用の牢だったんだって」
アルベリオは物語が好きだった。
見知った話を、シャルシャが聞いていようといまいと、ずっと語り続けた。
「昔、戦争が多かった時代に、捕虜をここにたくさん入れていたらしい。拷問して、敵の情報を喋らせたんだって。ほら、鎖を繋いだ輪が壁に残ってるでしょう?」
鉄格子に近づけたソファに座って、アルベリオは牢の壁を指さす。
床に敷いたクッションの上に寝そべっていたシャルシャが、身体を起こしてそちらを見ると確かに、壁に金具で止められた輪がある。
「この牢の床はその頃、血が乾くことはなく、恨みながら死んだ人たちが幽霊になって徘徊し、王族を呪い殺したっていう噂があるんだ。シャルシャは何か見た?」
シャルシャはクッションの下にある絨毯をめくって、石畳を眺めた。
血の跡は見当たらないが、石と石の間にある漆喰にはわずかに黒い汚れがあった。これが血だとしても不思議ではない。……黒カビかもしれないけれど。
アルベリオは、怖がらせようとして話しているわけではなさそうだ。期待に満ちた彼の顔を、シャルシャは少し呆れた気持ちで見返す。
「幽霊なんて信じてるのか?」
だが、そんなものはいないと言い切れるほど、シャルシャは人生経験を積んではいなかった。
「そういえば昔、奴隷商人の雇った水夫たちが幽霊を見たと騒いでいたことはあったな」
奴隷商人とはシャルシャを売り飛ばした悪い奴なのか、なぜ水夫たちはシャルシャを助けなかったのか、アルベリオは知りたがった。
奴隷商人は奴隷を運んで、王国の港から港へ、船を使って移動していた。どこから奴隷を仕入れていたのか、詳しいことはシャルシャも知らなかった。『奴隷』は働き手を求める王国の農家から需要があり、どの港にも奴隷市があった。
大勢の買い手の前に立たされた時のことを、シャルシャはまざまざと思い出す。
少し年上の女の子たちが男たちに値踏みされ、買われていった。その野卑た視線が恐ろしかった。
奴隷商人に雇われていた水夫は、安い給料しかもらえず、それも賭け事で失ってしまっていた。与えられる食事は少なく腐りかけで、奴隷たちの方が良いものを食べていたぐらいだ。
逃げ出そうとした水夫が殴り殺されることは、日常茶飯事だった。そんな世界で、どうして他人を助けようと考えられるだろう。
航行中のある夜、一人の水夫が『死んだ仲間が泳ぎながら船を追ってくる、月に照らされた波間に顔が見えた』と言い出した。すると他の男たちも、確かに見た、と怖がり始めた。
奴隷船は、帆を一杯に張って風を捉え、幽霊から逃れるためにまっ暗な海面を疾走した。
「やっぱり、幽霊はいるんだ」
アルベリオはシャルシャの話を面白がった。
「酔っ払いのたわ言だ」
シャルシャは、なぜこんな話をしてしまったのかと不思議に思いながら否定した。
水夫たちは、ラム酒ばかり飲んでいた。酔っ払いは嘘を吐いたり、筋の通らないことを繰り返し話して怒り出したりする。幽霊だって、酒が見せた幻覚に違いなかった。
「人は、死んだらそれまでだ」
「友達のエイブラムが、幽霊をみたことがあるって言ってた」
アルベリオはソファから身を乗り出し、声を潜めて言う。
「夜中にふっと目を覚ますとね、耳がキーンってなって、何か来るって思った途端に身体が動かなくなったんだって。目を開けると──頭の上辺りに、何か浮かんでたんだ」
「何かって、何だ?」
シャルシャは思わず尋ねた。
「人形みたいに見えたけれど、怖くてすぐに目を瞑ったので、よくわからなかったらしい」
「酒でも飲んでたんじゃない?」
シャルシャは、そのエイブラムが何者か、何歳なのかも知らないので、適当に言った。
友達がいるのならこんな牢になんて来ないで、そっちで遊べばいいのに、と思う。
「エイブラムは、酒なんて飲まないよ。公爵家の息子で、とってもお堅い奴なんだ。冗談も言わないから、これは絶対に本当の話なんだ」
公爵家などと言われても、シャルシャにはピンとこない。
「それだけじゃ幽霊とは言えないな」
幽霊がいるのか、いないのか。
それは、二人の間ではたびたび討論される重大事項となった。
その後アルベリオは幽霊を目撃したという話を集めた本をたくさん持ち込んできたが、シャルシャはそれを全て嘘だと決め付けた。
「全部が嘘じゃないと思う。これだけたくさんの人が嘘を吐くなんて、考えられないもの」
アルベリオはそう主張した。
根拠もなく、書かれたことをそのまま信じるなんて。
(人間が嘘を吐く動物だって知らないのか?)
シャルシャは、相手をしているのが面倒くさくなった。
そもそもいつから、こんな会話をする関係になったんだ?
友達にでもなったつもりでいるのか?
(ほんと、馬鹿だな)
これ以上続けると、そんな本音が漏れそうだ。
「あー、はいはい。そういうことでいいよ。ユーレイはいるみたい、多分ね」
投げやりにシャルシャが応じると、アルベリオは目に涙を浮かべながら帰っていった。
「泣くほどのこと?」
シャルシャは困惑して思わず呟いた。
「アルベリオ王子殿下は、先年お母上を亡くされたんだ」
いつもひっそりと控えているので、そこにいることさえ意識しなくなっていた監視役が、突然ぼそりと呟いた。
「いつか幽霊になって会いに来てくれると、願ってらっしゃるのだろう」
「……だから何?」
シャルシャが鋭く投げ付けた言葉に、監視役は返事をしなかった。
踵を返してゆっくりと去って行く足音は、怒りとも悲しみともつかない響きを帯びていた。
(閉じ込められている私が、どうして閉じ込めている人間のことを気遣ってやらなきゃいけないの?)
急に、シャルシャも泣きたくなった。
(私には、母親の記憶も無いのに……)
今まで自分を可哀想だと思ったことはなかった。
生きているだけで、自分は幸運だと思っていた。
一緒に囚われていた奴隷の中には、死んだ者も多かったから。
言葉にできない感情が胸の奥で膨れ上がっていく。
それが哀しみなのか怒りなのか、自分でもよくわからなかった。
「嫌い」
シャルシャは、声を出して言ってみた。
「自由に太陽を見ることができるくせに。美味しいものを食べて、友達もいて、新しい本だっていくらでも買ってもらえるくせに。友達だなんて……有り得ない!」
アルベリオを見ていると、自分が不幸だと思えてくる。
それが嫌だった。
(──アルベリオが悪いわけではないと、わかっている。私はただ、彼を見ていると酷く惨めな気分になるの)
アルベリオのように屈託なく誰かに笑いかけることなんて、自分にはできそうにない。
誰もいなくなった牢で、シャルシャは好きなだけ涙を零した。
次の日、アルベリオは来なかった。
せいせいする、と思ったシャルシャだったが、誰もいない牢の静けさが、なぜか重く、耐え難いように感じられた。
あの王子の立てる騒音に、いつの間にか慣らされてしまったようだ。
残念なことにさらに翌日になると、アルベリオは何もなかったかのようにやってきて、鉄格子の外にあるソファで寛いだ。
そして、いつもと変わらない様子で話しかけてくる。
「蜂に刺されちゃった。見て!」
シャルシャは振り返ることもしなかった。
心底どうでもいい。
(いないと静か過ぎて落ち着かないけれど、来たら来たで、鬱陶しい……)
「蜂のお尻だけが刺さって、ドクドク動いて、凄かったんだよ!」
シャルシャは、ちらりとそちらを見た。
突き出されたアルベリオの腕の上に、蜂の下半身が刺さっていた。服の上からだからか、アルベリオは少しも痛がっていない。
ミツバチは、一度刺すとはらわたが取れて死ぬ、と図鑑に書いてあったことをシャルシャは思い出した。
「巣を守るために、命がけで刺すんだ。騎士の鏡だね」
アルベリオは目を輝かせて針を見つめている。
「気持ち悪い……」
そう呟くと、シャルシャは読みかけの本に視線を戻した。
(集団のために、個が命をかけるなんて。たった一人で生きている私にはわからない世界だ)
それからも毎日、無視されようが、うるさいと文句を言われようが、アルベリオ王子は牢の廊下に陣取った。
やがて、家庭教師が地下にまでアルベリオを追ってくるようになった。
教師はアルベリオを地下から連れ出す代わりに、灯火と机を増やして、そこで授業を始めた。数学、地理学、博物学、天文学、歴史、文学の授業が行われるのを、シャルシャは興味深く聞き入った。
三角関数を利用して大きな距離を測る方法。
無限にある素数。
火山が造り出す地形と石。
褶曲する土地と、そこから出て来る化石。
月が太陽を隠す間の、昼の夜。
知らないことがこの世の中にはたくさんあり、その不思議さがシャルシャの胸を打った。
(勉強ってこんなに面白いのに。どうしてアルベリオは嫌がるんだろう)
アルベリオはいつも思索に耽るような目をしていて、授業の内容にほとんど注意を払っていない。鉄格子の中にいるシャルシャの方がよほど内容を理解していた。
「そんなこともわからないの?」
シャルシャは先生の質問に答えられないアルベリオに、きつい言葉を投げかけた。
「こんなのが王子様だなんてね。この国、大丈夫?」
「僕は、本気を出したら凄いのさ……多分ね?」
アルベリオはヘラヘラと笑いながらそう返したが、彼が本気を出すことはその後も無かった。
少しだけ賑やかな日々が、過ぎていく。
ある日シャルシャは、着替えの時に窮屈さを感じることに気づいた。
何年も幼女のまま変わらなかった身体が、少し大きくなったようだ。
彼女の止まっていた時間が、ようやく動き始めていた。
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