4:シャルシャ(4)
少年が貸してくれたその本は、未知の大陸に辿り着き、国交を開くことに成功した一人の貴族が著した海洋冒険記だった。
彼が漂流の末に辿り着いた国には、モンスターと呼ばれるさまざまな生き物が生息していた。エルフ族の魔法、竜人族の技術力、獣人族の力、そして人族の知力で互いに支え合ってようやく生きていける、とても危険な土地だ。
始まったばかりの貿易で王国にもたらされるのは、モンスターの肉や角、南方産のフルーツ、コーヒーなどだという。王国からは小麦や油、酒が大陸へ渡っていた。
まだ謎の多い国だが、貿易がもっと盛んになれば様々なことがわかってくるだろう、とその本では締めくくられていた。
「不思議なのはね、カプリシオ大陸から船で運ばれてきたお肉は、氷みたいに冷たいんだ」
銀髪の少年は、本には載っていない情報を教えてくれた。
「赤い石のついた道具で魔法をかけているんだって。魔導具っていうんだよ」
シャルシャが黙ったまま相づちも打たないのに、少年は構わず喋り続ける。
「赤い石が白くなったら、もう使えないんだ。すごく貴重なのに、もったいないよね。その赤い石、どこで手に入るのかなぁ? 知ってる?」
知るわけがない。
ふるさとの国があることだって知らなかったのだから。
返事もしないシャルシャのことを、少年は気にする様子もない。
「石をもう一度赤くすれば、使えるはずだって父上は言うんだ。食べ物を凍らせることができれば、とても便利になる。遠くに運べたり、何日も保存できたりね。そうすると、食べ物の少ない地域でも生きていけるようになるし、国が豊かになるって」
まるで良いことを語っているかのようだったが、シャルシャにとってこの国が豊かになろうと貧しくなろうと、関係がなかった。少年はまだ十かそこらで、そんな彼女の気持ちには気づかない。
「作物が豊かに実る年もあれば、天気が悪くて麦がほとんど穫れずに、餓死者が出る年もある。食糧を凍らせて保存すれば解決するかもしれない。僕はこの国の王子だから、できるだけたくさんの国民を幸せにしてあげないといけないんだ」
その国民に、目の前にいるシャルシャは含まれていない。
だから、彼の話は不愉快なだけだ。
そんなことに思い至るはずもない幼い王子を、シャルシャは冷たい目で見た。
「これ、返す」
シャルシャは、昨日少年が置いていった本の二冊を、鉄格子越しに突き出した。
一つは、平凡な少年が仲間たちと一緒に悪い魔女をやっつけて、国を救う話。
もう一つは継母に命を狙われたお姫様が、逃げ込んだ森の中で龍と出会い、一緒に継母を返り討ちにする話。
「もう読んだの? 早いね」
受け取った少年は、目を輝かせる。
「面白かったでしょう? 僕、何回も読んだんだ」
こんなのが好きなのか、と心の中で思いきり貶した。
仲間なんて。
現実では、簡単に誰かと仲間になれたりしない。
人を売り飛ばして幾ら儲かるか考える大人ばかりで、子どもは殴られないようにするのに必死で、他人のことを気にかけるような馬鹿は一人もいない。
本当にいたとしたら、そんなお人好しはすぐに死ぬ。
逃げ込んだ先に、偶然人間の言葉がわかるような龍がいるのも有り得ない。
ご都合主義過ぎて、シャルシャはむかついた。
登場人物たちの脳天気な会話を読んでいると、シャルシャは気分が滅入るばかりだった。
「僕も友達と冒険の旅をしたいな。この城を出て、こっそりと街を探検していたら、魔法の地図を拾って、悪者に追いかけられて、街の少年たちがそれを追い払うんだ。僕たちはその魔法の地図に従って、赤い石を見つけに行くことにする。面白そうでしょう?」
脳天気に語る少年の幸せそうな表情に、シャルシャは『永遠に分かり合えそうにないな』と思った。
「ねえ」
シャルシャは、少年を追い払う良い方法を思いついた。
思わず、猫なで声になってしまう。
「探してるみたいだよ」
と、高い窓の方を指さす。
「「「アルベリオ王子殿下!」」」
遠くから、幾つもの声が重なって聞こえている。
「うわぁ」
少年の顔から夢見がちな表情が消えた。
「違う。あれは僕を探している声じゃないよ。うん、気のせい気のせい」
「嘘をつくな」
どうやら少年は、何かから逃げてきているようだった。
「さっさと行けよ」
「今日は、ここには君の名前を訊きにきたんだ。目的を達しないと帰れないのさ」
少年は悪ぶった笑みを浮かべた。
「勉強が嫌だとか、剣の訓練が嫌いだとかいうことじゃない。これは崇高な任務なのだ」
「あ、そう。私はシャルシャだ。これでもうここにいる理由はなくなったな。さあ行け」
シャルシャは追い払う手つきをして見せた。
「シャルシャか!」
少年は嬉しそうに笑った。
「僕はアルベリオだ! 互いに名乗りを上げたから、僕たちはもう友達だな」
「は? 人間の友達など要らない! 二度と来るな」
とうとう我慢の限界がきて、シャルシャは怒鳴りつけた。
人間のくせに。
ここに閉じ込めている王族の一人のくせに、何が友達だ。
「じゃあまたね、シャルシャ!」
まるで懲りていない様子で、少年は立ち上がり、牢の扉に向かう。
人に名前を教えたのは、生まれて初めてだとシャルシャは気づいた。
奴隷商人にも、面会に来る王にも、ここに食事を運ぶ使用人にも、教えたことはない。
皆彼女をエルフと呼んだ。
『シャルシャ様』
ふるさとの森で、優しく自分を呼んでくれた声を思い出す。
名前を教えたのは失敗だったと、シャルシャは感じた。
彼女の声がかき消されてしまう。
そんな気がして、胸が締めつけられるような痛みに襲われた。
(帰りたい。私の国へ……ルファンジアが私を呼んでくれた、あの森へ)
牢の扉が閉まって、冷たい音が響いた。
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