3:シャルシャ(3)
次の日も、いつもと同じ朝が訪れた。
壁の高いところにある窓から光が差し込む。
食事は、鉄格子の下部分に取り付けられた差し入れ口から配給された。
トレイを運んでくる男は、監視役も兼ねている。足を引きずって歩く人で、めったに話さない。
シャルシャはトレイの前にしゃがみ込んで、食事を始める。スプーンはついていないので、スープはパンに浸して食べた。監視役が去った後は一人だから、礼儀作法を気にする必要はなかった──が。
『ちゃんと手は洗いましたか?』
そう問いかける声を、思い出す。
「うん。洗ったよ」
シャルシャは幻の声に、そう応える。
添えられていたミルクを飲むと、口の周りの産毛が汚れた。それをペロリと舌で舐め取る。
『姫様。それはお行儀が悪いです』
遠い記憶の中から、咎める声がする。
『食べた後は、お口を綺麗にしましょうね』
「はいはい」
シャルシャは返事をして、机の上に置いてあるコップとブラシを取り上げた。
その人はよく、シャルシャの母親について話していたように思う。
『お母様にバイバイしましょうね』
『今日はお母様が帰ってくる日です』
『そんなことをすると、お母様が悲しみますよ』
つまり、母親ではなかった。
誰だったんだろう。
風の中、緑色の髪を靡かせて立つその人の顔は、いつも微笑んでいた。
身支度を終えたあと、壁際に積み上げた本を仕分けする。
楽しい話と、悲しい話。
遠い世界の話と、現実の話。
図鑑に、辞書。
旅行記。
悲しい話は嫌いだ。
物語は、つらい現実から離れて夢を見るためのものだと思うのに、そこでも同じ思いをするなんて。
でも楽しい話も、そんなご都合主義の展開は有り得ないと気づいたら、どれもが空虚な希望が詰まったつまらない物語に思えてきた。
図鑑は見ていて楽しいが、自分の目で直接見て確かめることができないので、空しい気分が募る。
旅行記も、自分が行けそうもないのに、自由に各地を歩き回っている話なんて読みたくない。
仕方なく今日は辞書を手に取る。
これが意外に面白かった。
知らない事がいっぱい書いてある。
折れたページの端を伸ばしながら、単語を拾って覚えていく。
ふと、彼女の尖った耳が金属の軋む音を捉えた。
牢に続く扉の開く音だ。
昼ご飯の配給にしては少し早い。
牢の中に時計はないが、シャルシャは窓から差し込む日の角度からだいたいの時刻を把握していた。
石畳の廊下を歩いてくる人の足音が、いつもと同じではなかった。
足を引きずって歩く監視役と、もう一人いる。
シャルシャは、辞書から顔を上げた。
本をたくさん抱えて鉄格子の向こうに現れた少年は、朗らかな笑みを浮かべていた。
「やあ」
その声は、昨日窓から呼びかけてきた子どものものだった。
銀髪に、紫紺の瞳――牢を覗きに来た男と同じ色だ。
シャルシャはがっかりした。
どう見ても、シャルシャをここに閉じ込めた王様の血族だ。
ここから出してくれるはずがない。
少年の後ろには、いつもここに食事を運んでくる男が控えていた。歳は取っているが、元騎士だ。たとえ少年が鍵を持っていて牢を開けることができたとしても、監視役の彼が許さないだろう。
(何が、『助ける』だ)
シャルシャは椅子に座ったまま、再び辞書に目を落とす。
期待なんてしていなかった。
ここから出る日なんて、来ない。
胸の奥がキリキリと痛んだ。
「ごめんね」
少年は悲しげな声で告げる。
「父上──この国の王様に頼んでみたんだけれど、君をここから出すわけにはいかないって。幸せが逃げちゃうって言われたんだ」
(は? 馬鹿なの?)
本気で助けるつもりだったのなら、シャルシャをここに閉じ込めているこの国の王に頼むなんて、一番やっちゃいけないことだ。警戒心を持たせてしまって、他の方法が採れなくなる。
「でもね、今日は君のふるさとの本を持ってきたんだよ。ほら、見て」
(ふるさと?)
シャルシャは興味を引かれて、彼に視線を向けた。
少年が差し出した本の表紙には、中央に獣と同じ耳を持つ人の絵が描いてあった。その左右に、ヘビのような鱗を持つ人と、緑の髪をした人の絵が見えた。
シャルシャは、辞書を置いて立ち上がった。
脚がよろめいた。
自分でも驚くほど、動揺している。
ふるさとの話なんて――初めて聞いた。
『るー、ふぁ!』
彼女を呼ぶ自分の声が蘇る。
牢の中に差し入れられた少年の手から、本を受け取った。
緑の髪を持つ、耳の尖ったエルフの絵は、あの人には似てなかった。けれど記憶の中にしか残っていない顔と違って、そこにははっきりとした形があった。
指で絵を撫でながら、シャルシャは涙をこぼした。
『お昼寝の時間です』
記憶の奥底に眠っていた言葉が、蘇った。
『ルファンジアはもう体力の限界です』
シャルシャに振り回されて、彼女はそう言った。
「ルー、ファ……ルファンジア」
忙しい母親の代わりに、面倒を見てくれていた世話役の名前だ。
ようやく、思い出すことができた。
彼女が愛しげに何度も名前を呼んでくれなければ、シャルシャは自分の名前さえ忘れていただろう。
「ルファンジア……、ルファンジア」
二度と忘れないように、シャルシャは何度も繰り返す。
「私には、ふるさとの国があるのね」
本を抱きしめたまま、長い間シャルシャは涙を止められずにいた。
気がつくと少年の姿はなかった。
差し入れ口の傍においていた空の食器は下げられ、代わりに昼の食事が置いてあった。
食事トレイの横には、少年が持ってきた数冊の本もある。それももしかしたら、シャルシャの国に関連する資料かもしれない。彼女は全て机の上に積み上げると、エルフの絵が描いてある本から読み始めた。
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