第1話「大陸渡りの男」
「……ぷっ……げぇぇぇっ!!」
潮の匂いが鼻を突く荒波の上。容赦なくうねる波が木造の大型商船を激しく揺さぶる度、船首の甲板縁から半ば身を乗り出した男が、胃の腑の残骸を海原へと撒き散らしていた。
男は全身を分厚く濃い茶色のマントで包み込んでいる。マントの隙間から覗くのは、黒鈍色に光る使い込まれた鎖帷子と、潮風に晒されてひび割れた濃い茶色の革製ズボン、そして無骨な革ブーツだ。長旅の過酷さを物語る風体だが、これから海を渡り未知の大陸で生き抜く戦士の装備としては、いささか軽装に過ぎた。
「アンタ、ずっと乗ってるのに中々なれねぇな」
甲板で索具を調整していた水夫の一人が、呆れたような、しかしどこか親しげな笑みを浮かべて声をかけた。何十日という航海の間、この男がまともに甲板を歩いている姿を、彼らはほとんど見ていない。
「……まぁな。身体が……うえっ……素直なもんでな……」
男は、口元を乱暴にマントの袖で拭いながら、げっそりとした顔で応えた。
旅慣れした者であっても、三半規管の揺れによる生理的な不快感だけはどうにもならないらしい。
再びこみ上げる吐き気に耐えるため、男が甲板縁に縋り付くように顔を上げたその時だった。
水平線の彼方、どんよりと霞む空の境界に、広大な大陸の影が見えた。
(……やっとかよ……あん?)
安堵の息を吐きかけた男の双眸が、鋭く細められる。
大陸側の入り江から、波を蹴立ててこちらへ向かってくる無数の影があった。舳先を黒く塗られたガレー船の群れだ。その数、およそ十艘。それらが扇状に広がり、商船の逃げ道を塞ぐような陣形で急接近してくる。
「なぁ。アンタら。お出迎えでも頼んだのか?」
男は胃のむかつきを無理やり飲み込みながら振り返り、水夫たちに向けて沖合の船団を顎でしゃくった。
「何のことだ?」
訝しげに水夫たちが作業の手を止め、海を見る。次の瞬間、彼らの顔からサッと血の気が引いた。船団のメインマストに掲げられているのは、血濡れた剣を交差させた海賊旗だった。
「!? か、海賊だぁぁ!! 戦闘配備ぃぃぃ!!」
見張り台からの絶叫と、水夫の悲鳴が重なる。銅鑼が乱打され、船上は一瞬にして阿鼻叫喚のパニックに陥った。護衛の傭兵たちが慌ただしく武器を手に甲板へと駆け上がってくるが、相手は十艘。多勢に無勢は誰の目にも明らかだった。
逃げ惑う船員たちの中で、ただ一人、男だけは慌てることなくその様子を眺め、深く長いため息をついた。
「……チッ……面倒臭ぇなぁ……」
ぽりぽりと無精髭の生えた顎を掻くと、男は足元に転がっていた古びた肩下げ袋を無造作に持ち上げた。主の手に触れられた袋が、まるで生き物のようにブルリと小さく身じろぎする。
男はその小さな開口部に腕を肩口までズボリと突っ込み、物理法則を完全に無視した空間から、身の丈ほどもある巨大な『長弓』を引きずり出した。さらに、先端に何やら筒状の塊が括り付けられた奇妙な矢を数本取り出す。
(……んっとに……到着早々……)
愚痴を内心で吐き捨てながら、男は甲板の縁に片足を乗せ、大きく弓を引き絞った。
狙うは先頭を進む海賊船。だが、彼の弓の腕前はお世辞にも良いとは言えない。放たれた矢は船の甲板から大きく逸れ、海賊船の側面に突き刺さった。
「わははは! なんだあのへっぴり腰は! 何処狙って――」
海賊が嘲笑の声を上げた、次の瞬間。
ドガァァァァァァンッ!!
突き刺さった矢の先端が突如として大爆発を起こした。
巻き上がった巨大な水柱と、爆発によって生じた無数の鉄片が海賊船の側面を粉砕する。衝撃で木っ端微塵になった船体が傾き、海賊たちが悲鳴を上げて暗い海へと転落していった。
「な、なんだ!? 魔術か!?」
「詠唱はなかったぞ! 構わん、突っ込め!!」
混乱する海賊団に向け、男は淡々と二射目、三射目を放つ。精密な狙いなど必要ない。敵船の何処かに当たりさえすれば、先端に取り付けられた手製の爆薬が広範囲を破壊し尽くす。
さらに船団が距離を詰めてくると、男は弓を放り投げ、今度は袋から拳大の鉄の球――『手榴弾』を取り出した。歯でピンを乱暴に引き抜き、次々と敵船の甲板へと放り投げる。
ズガァァン! ボガァァァンッ!!
耳をつんざく炸裂音と共に、瞬く間に6隻の海賊船が炎に包まれ、海の藻屑と消えた。
わずか数分で半数以上の船を単機で沈めた男の無茶苦茶な戦いぶりに、護衛の傭兵たちすらも口を開けて呆然としている。
だが、海賊たちもただの案山子ではない。
爆炎と黒煙を隠れ蓑にし、生き残った船が商船の死角である後方へと大きく回り込んでいたのだ。
「後ろだ!! 乗り込まれるぞ!!」
傭兵の叫びと同時、ガコンッ!と重い音を立てて鉤縄が商船の縁に引っかかり、数十人の荒くれ者たちが雄叫びを上げて甲板へと雪崩れ込んできた。
「野郎ども! 全員血祭りにあげろ!!」
怒り狂った海賊の群れが、一斉に甲板へと殺到する。
男は短く舌打ちをすると、袋から銀色に輝く異質な武器を取り出した。歯車とクランク、無数の矢が詰まったカセットが組み込まれた手回し式の『連射ボウガン』である。
「死ねやぁぁっ!!」
「……うるせぇよ」
男は無表情のまま、側面のハンドルを勢いよく回した。
ガリガリガリガリガリッ!!
激しい金属音と共に、バネと滑車の力で極限まで加速された鋼の矢が、秒間数発というあり得ない速度で射出される。
先陣を切って飛び込んできた海賊たちは、盾を構える間もなく皮鎧ごと身体を蜂の巣にされ、血飛沫を上げて次々と甲板に崩れ落ちた。装填された五十発の矢が瞬く間に尽き、男の前には血の海が広がる。
しかし、後続の海賊たちがその屍を乗り越え、ついにボウガンの射程の内側――近接の間合いへと踏み込んできた。長柄の斧と曲刀が、男の四方を完全に包囲する。
「もらったぁ!!」
男は空になったボウガンを躊躇いなく手放すと、腰に提げた二本の『小太刀』を抜き放った。
ここからが、この男の真骨頂である。
彼の戦闘スタイルは、騎士のような洗練された剣技でも、英雄のような圧倒的な武威でもない。
無数の死線を越え、生き残るためだけに研ぎ澄まされた「究極の実戦武術」だった。
ガァンッ!!
右から振り下ろされた重い戦斧の一撃を、男は右手の小太刀の「鎬」で受け流し、その威力を完全に殺す。無理な姿勢で振り抜いて体勢を崩した海賊の喉笛を、左手の小太刀が滑るように切り裂いた。
「この野郎っ!」
さらに三人。前方から槍、左右から剣が同時に襲い掛かる。
普通であれば回避不可能な同時攻撃。しかし男は、最小限の歩法で体を捻り、二本の小太刀を交差させて敵の武器の軌道をわずかにズラした。致命傷となる軌道だけを弾き、攻撃の威力を利用して敵同士の武器を絡ませる。
徹底的な「防御メイン」の立ち回り。
自ら大振りな攻撃を仕掛けることは決してなく、相手が隙を見せるその一瞬まで、ひたすらに攻撃を受け流す。そして敵が体勢を崩した瞬間にのみ、容赦なく急所を貫くのだ。
「ぐはっ!」
「あ、足が……ぎゃあっ!」
四人がかりの猛攻を受けながら、男は掠り傷一つ負わない。逆に海賊たちは自らの攻撃の反動を利用され、次々と手首を斬り飛ばされ、膝裏を裂かれ、最後に心臓を的確に穿たれて絶命していった。
泥臭く、しかし一切の無駄を省いたその動きは、死の舞踏のようにすら見える。
やがて最後の一人が首から血を吹き出して倒れ伏すと、甲板には重い静寂が訪れた。
男は小太刀についた血糊を、倒れた海賊の衣服で乱暴に拭うと、チャキッと音を立てて鞘に納めた。そして、周囲を見渡して深く息を吐く。
「……あー、クソ。余計に酔いが回った」
そして再びボウガンを構え『カチッ』という音を立てカセットを変える。
「……気持ち悪りぃから、とっとと死ね」
そう、呟きながら甲板の海賊達を滅多打ちにしていった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
それから約1時間後。
乗り込んできた海賊達は制圧され、生き残った者達は散り散りに逃げ去った。
商船は何とか無事にローデイリア大陸の港町へと辿り着いた。
潮の香りと活気に満ちた港の桟橋に降り立った男の元へ、船長と水夫たちが小走りで駆け寄ってくる。彼らの目には、先ほどまでの怯えではなく、明確な畏敬の念が宿っていた。
船長が、ずっしりと重い革袋を男へと差し出す。
「兄さんのお陰で命拾いしたわ。これ駄賃にしてくれや」
「お! ありがてぇ。そういうの好きだわ」
男はそれまでの無気力な態度はどこへやら、分かりやすく顔をほころばせて革袋を受け取った。中で硬貨のぶつかる心地よい音が鳴る。
「因みに兄さん、名前なんてんだ?」
船長の問いかけに、男はマントのフードをわずかに押し上げ、日に焼けた顔にニヤリと笑みを浮かべた。
「ん? あぁ。ババだ。ソウスケ・ババだ」
日本では馬場 宗介と名乗っていた元大学科学講師。とある研究事故に巻き込まれて、50数年前突如この世界に転移させられた異世界人である。
その名を告げると、歴戦の旅人は軽く手を振り、喧騒に包まれる異大陸の港町へと足を踏み出していった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
活気と喧騒に包まれた港町を、ソウスケはゆっくりと歩いていた。
潮の香りと、様々な香辛料の匂いが入り混じった風が吹き抜ける。大通りには異国情緒あふれる石造りの建造物が立ち並び、道行く人々の服装も様々だった。そして何より目を引くのは、人族に混じって歩く多様な種族の姿だ。
元の世界では決して見ることのない珍しい武具や日用品が並ぶ露店に目を細めながら、ソウスケは屋台から漂う香ばしい匂いに釣られ、一串の焼き魚を買った。
見慣れない魚だが、脂が乗っていて悪くない。
熱々の白身を齧りながら歩いていると、ふいに甘ったるく、艶めかしい声が鼓膜を揺らした。
「そこのお兄さん、今晩はどうすんだい?」
声のした路地裏の入り口に目を向けると、娼婦らしき妙齢の女性が石壁に寄りかかり、豊かな胸を強調するように腕を組んで立っていた。
深いスリットの入った薄絹のドレスは露出が多く、滑らかな褐色の肌を惜しげもなく晒している。だが、ソウスケの視線を引きつけたのは、彼女の頭頂部でピョコンと動いた「猫の耳」だった。ドレスの腰元からは、しなやかな尻尾も揺れている。
(……おぉ……流石、亜人の大陸と言われるだけあるな)
男の性として反射的に鼻の下が伸びそうになるのを、ソウスケは微かな咳払いで強引に収めた。あくまで飄々とした歴戦の旅人を装いながら、魚の串を捨てて足を踏み出す。
「一晩幾らよ?」
「三万ギニーでどうだい?」
猫獣人の女は、ソウスケの品定めをするように上目遣いで微笑んだ。三万ギニー(三万円と少し程)。決して安くはないが、払えない額でもない。
(……情報収集、情報収集……。この街の事情を知るには、地元の人間に聞くのが一番だからな)
誰に対する言い訳か分からない思考を脳内で巡らせ、ソウスケは短く頷いた。
「ご相伴に預かろう」
「やったぁ! まいどぉ!」
満面の笑みを浮かべた猫獣人の女が、ソウスケの腕にふわりと柔らかく絡みついてくる。獣人特有のしなやかな体温と甘い香水が鼻腔をくすぐった。
日の沈み掛かった港町。夕闇が石畳を赤黒く染める中、二人の影は裏路地にある娼館を兼ねた宿屋へと消えていった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
――三時間後。
むせ返るような熱気と、男女の交わった後の濃厚な匂いが漂う薄暗い部屋。
乱れたシーツの上で、一糸まとわぬ姿の二人が横たわっていた。
(…………獣人すげぇ)
天井の木目をぼんやりと見上げながら、ソウスケは心底からの感嘆を漏らしていた。身体の柔軟性、持久力、そして野性的な情熱。どれをとっても人族のそれとは次元が違った。持久力の怪物と自負するソウスケでもタジタジである。
「ふぅ……お兄さん、凄すぎ……。アタシ、壊れるかと思ったよぉ……」
ソウスケの腕に胸を押し当てて絡みつきながら、女は上気した顔で熱い吐息を漏らした。潤んだ瞳が、満足げにソウスケの横顔を見つめている。
「ここの町は初めて?」
「ああ。今日、違う大陸から来た」
ソウスケが何気なく答えると、女は驚いたように猫耳をピンと立てた。
「へぇ! 『大陸渡り』か! 珍しいね」
この世界――アデル(水球)には五つの大陸が存在する。しかし、各大陸を隔てる海には異常な潮流が渦巻いており、大陸間の往来が可能なのは、潮の流れが安定するごく短い期間のみだった。
さらに遠洋には中型帆船を丸飲みにするほどの大型海竜が生息しており、腕利きの護衛や魔術師による強固な防衛策が施された超大型船でなければ、航海そのものが不可能に近い。当然、船賃は庶民ではとても払えない莫大な額になる。
「そんなお金持ちには見えなかった〜。格好も地味だし」
女がクスクスと喉を鳴らして笑う。確かに、使い古した鎖帷子とマントという出で立ちからは、とてもそうは見えないだろう。
「当たりを引いたってことだ」
ソウスケは短く笑うと、枕元の革袋から硬貨を取り出し、規定の額に加えてさらに一万ギニーを女の谷間へと滑り込ませた。
「え? 良いの?」
思いがけないチップに、女が目を丸くする。
「聞きたい事がある。知ってたらで良いんだが」
ソウスケの纏う空気が、微かに変わった。彼が莫大な金を払い、危険な海を越えてこのローデイリア大陸へやって来たのには、明確な理由があった。
それは近年、この大陸の各地で何件か発生しているという不可解な事件。
『町や村の住人が一晩の内に、こつ然と消える』
という現象の調査だった。
(魔法や魔術の類か、それとも……。どっちにしろ、人が集団で『消える』なんて異常だ。もしかしたら、元の世界に帰れるヒントがあるかもしれねぇ……)
僅かな可能性にもすがりたい。五十年という途方もない歳月を経てもなお、ソウスケの中の「元の世界へ帰る」という執念は消えていなかった。
「あ! 知ってるよ、その話。アタシも客から聞いたんだけど、確か先々月も国境近くの小さな村の人達が、まるごと居なくなったって噂になってた」
「……へぇ。その村ってのはここから近いのか?」
核心に触れる情報に、ソウスケの目が鋭く光る。
「んん〜〜……どうだろ。歩きだと、ここから二週間以上は掛かるんじゃないかな?」
「二週間……近くはねぇな……」
馬車や騎獣を使えば縮まるだろうが、それでも数日の距離ではない。ソウスケは顎をさすりながら、今後の道程を脳内で組み立て始めた。
しかし、そんな思案に耽るソウスケの胸板を、女の柔らかな指先がツーッと撫でおろす。
「ねぇ……お兄さん……」
女は甘ったるい声で囁くと、ソウスケの身体に滑らかな肌を密着させ、その耳元に唇を寄せた。
「そんなことよりさ……ね?」
下腹部を熱の籠もった太ももで擦り上げられ、ソウスケは思考を途切れさせた。彼女の尻尾が、誘うようにソウスケの脚に絡みつく。
「ん?……あぁ、そうだな」
ソウスケの口角が僅かに上がる。
今は、この柔らかな感触と熱を楽しむ方が先だ。明日からの面倒な旅を前にした、束の間の休息である。
獣人の女の甘い吐息と、ベッドのきしむ音が再び部屋に響き始め――港町の夜は、静かに更けていった。




