家族とは
程なくして、優貴が操る車は、社員寮の近くに静かに停車した。
進が礼を言って降車すると、優貴が助手席の窓を開けて声をかけてくる。
「それじゃあ、進君。私は帰るよ」
「え? 寄っていってくれないんですか?」
「そうしたいのは山々だが、正直な所、昨日から殆ど寝ていないから眠くて仕方ないんだ。悪いが今は一刻も早く帰って寝たいんだ」
そう言うと、優貴は盛大に口を上げて欠伸をした。
進の経過を聞く為に病院に残った優貴は、進が目を覚ますまで付きっ切りで看病していたのだ。
その事実を思い出し、進は反射的に腰を九十度折り曲げて謝罪の言葉を口にする。
「すみません。俺の為に……」
「それについては気にするなと言ったぞ」
「ですが、優貴さんには俺の為に何から何までやってもらって……本当にいくら感謝しても足りないくらいなんです」
優貴がいなければ、進の人生は、あの全てを失った日で終わっていた。
それだけではない。安易に犯罪行為に手を染めようとした時、金欲しさに自棄になっていた時、舞夏と歩が攫われた時、その全てで優貴が道を指し示してくれたから、今こうして笑っていられるのだ。
進にとって、優貴はまさに救世主と言っても過言ではなかった。
「俺、こんなにも沢山の幸せを優貴さんから貰ったのに、何一つとして返せていない。何かお礼をしたいのに、何にも出来なくて……俺……」
頭を下げたまま、進は静かに涙を流し始めた。
この恩は決して忘れない。いつか必ず返して見せます。そう誓うのは簡単だが、そんな言葉をいくら並べた所で意味はない。
優貴には心から感謝しているのに、今の進は、何もない所為で感謝を形として返せない事が、自分が子供で何の力もない事が悔しくて堪らなかった。
進が腰を曲げたままの姿勢でいると、
「進君。顔を上げるんだ」
いつの間にか、優貴が進の目の前に立っていた。
優貴の言葉に進が顔を上げると、
「え?」
優貴に力強く引っ張られ、ふくよかな胸の中へと引きずり込まれた。
「え? ちょ……優貴さん!?」
柔らかな肢体と、長い髪からの芳しい香りに、緊張の余り身動き一つ取れない状況に進が陥っていると、優貴は進の耳元へ口を寄せて囁く。
「進君、私は君が好きだ。愛していると言ってもいい」
「え、ええ!?」
突然の優貴からの告白に、進は目を瞬かせる。
憧れの人からの熱い抱擁だけでなく、想いを告げられるという事実に、進の動悸は体全体が震えているのではないかと思うくらい早く、強く打ち始める。
「え……あ、あの……ぼ、ぼぼぼくも……」
このままでは脳がオーバーヒートして、シナプスが焼き切れてしまうのではないかと思うくらい混乱している進に、優貴が真摯な表情で告げる。
「進君、私は君を大切な家族だと思っている。そうだな、出来の悪い弟、といったろころか?」
「へ? え……弟?」
間抜けな声を出した進の言葉に、優貴はゆっくりと頷く。
「ああ、弟だ。嫌か?」
「え、あ……嫌……じゃないです」
「そうか、よかった」
進の答えを聞いて、優貴はほっとした様に胸を撫で下ろした。
しかし、そんな優貴とは対照的に、進はどんよりと沈み込んでいた。
少し考えれば、前にも同じ様な事を言われたのだから、優貴の言葉が恋人を指してはいないと気付けたはずなのに、勝手に勘違いして舞い上がってしまった。
進は、勝手な勘違いをしていた事を優貴に悟られないように気を取り直すと、彼女に笑いかける。
「でも、びっくりしました。突然、愛しているなんて言われたから」
「フフ、すまない。驚かせてしまったか?」
「はい、驚きました。でも、突然そんな事を言うなんてどうしたんですか?」
「ああ、実は君に大切な事を教えてやろうと思ってな」
優貴はようやく進を解放すると、車のボンネットに腰掛ける。
進に断りを入れてから胸ポケットを漁ると、中からタバコを一本取り出して咥える。
火をつけ、一気に吸ってから勢いよく紫煙を吐き出すと、優貴は話を切り出す。
「進君にとって、家族とは何だ?」
「家族……ですか?」
唐突な話だが、きっと優貴の言う「大切な事」と関係しているのだろう。
家族といわれ、進は回答をいくつか思い巡らせるが、その中で最もポピュラーであろう回答を口にする。
「そうですね。やっぱ血縁……ですか?」
「うむ。模範的な回答だな」
進の回答に、優貴は大仰に頷く。
「だが、私はその回答は間違い……とは思わないが、不足している思っている」
「不足……ですか?」
「そもそも夫婦の間に血縁関係はないだろ? 進君の回答では、親子と親戚の間でしか家族として成り立たない事になる」
「……そういえば、そうですね」
夫婦の間には血縁関係がない。その考えには至らなかった。
そう考えると、結婚という契約で家族になるというのは、どこか不思議な感じがした。
「じゃあ、優貴さんにとって家族とは、なんですか?」
「私か? 私にとって家族とは、無償の愛だな」
進の質問に、優貴は澱みなく答えた。
「無償の愛……ですか?」
「ああ、私には血縁と呼べる人はいないのでね。孤児院で育った仲間と、会社の人間が私にとっては家族と言うわけだ。この家族を守る為ならば、誰が相手でも直ぐに駆けつけ、全力を持って助ける……進君も同じじゃないかな?」
「え?」
「君も歩ちゃんの為ならば、何時、何処にでも駆けつけるつもりだろう?」
「それは、モチロンです!」
優貴の言葉に、進は力強く頷いた。
「フフフ、これでわかっただろう。私が君を助ける理由が」
「俺を家族と認めてくれているから、ですね」
「ああ、それこそが無償の愛というやつだ。そして、助けた者は、助けられた者から何て言われたいか。それもわかるだろう?」
「……そうですね」
その言葉で、進は優貴の言いたい事を理解した。
そうだった。歩を助けるのに理由なんて要らない。
そこには打算も計算も一切ない。心から助けたいと思うから、幸せになって欲しいと願うから助けるのだ。
それでどんな苦境に立たされたとしても後悔はしないし、相手を責めたりもしない。
それだけ相手の事が大事だから、愛しているからこそ出来る行為なのだ。
そして、助けた者から受けたいのは謝罪の言葉なんかじゃない。
進は佇まいを正すと、改めて優貴と向け直る。
「優貴さん、ありがとうございました。これからもご迷惑をかけるかもしれませんが、どうか宜しくお願いします」
そう言うと、進は笑顔で優貴に頭を下げた。
家族を助けるのに理由は要らない。そしてそのお返しもいらない。
もし、何か望むなら、それは相手からの感謝の言葉だ。
その一言が貰えるだけで、全ての苦労が報われ、幸せな気持ちになれるのだ。
「ああ、こちらこそ宜しく頼む」
優貴は微笑を浮かべて満足気に頷くと、進を優しくハグした。
優貴の胸に抱かれながら、進は改めて御神楽優貴という存在に畏敬の念を抱いていた。
血の繋がりはなくとも、優貴は家族の絆以上の愛を与えてくれる。
これは恐らく、孤児だった優貴が、家族の愛というものに飢えて育ったからなのかもしれない。だが、そこで腐らずに、自分と同じ境遇の人間を増やさないように活動し、保護した人間に全力の愛を注げるという事が、いかに常人には難しい事なのかは言うまでもないだろう。
自分も将来、こんな人に尊敬されるような、無償の愛を与えられるような大人になりたい。進がそう思うのは自明の理だった。
「優貴さん……俺、頑張ります」
「何をだ?」
「今なら、親父の言っていた正義の味方ってやつが少しは理解出来るような気がするんです。親父の様には無理でも、せめて身近な人、歩と舞夏さんの笑顔だけは守れるような男になります」
「そうか、舞夏の事も守ってくれるのか?」
「当然ですよ」
進は顔を上げると、今日一番の笑顔で告げる。
「だって俺たち、もう家族じゃないですか?」
その言葉に、優貴も満面の笑みで応えた。




