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哭島列車と五骸童子 ―死者を悼む歌の見立て殺人―  作者: 神谷利休|アコンプリス


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第二章 嘘を吐いた舌は海へ

 最初に声を出したのは、八尋美緒だった。

「いや……」

 悲鳴というほど大きくはない。むしろ、声になる前に喉で折れたような音だった。彼女は両手で口元を押さえ、展示車両の入口から動けなくなっている。

 その後ろに、久我山峻介が立っていた。

 太い首を縮め、信じられないものを見る目で床を見ている。だが、顔色が変わっているのは、死体を見たからだけではないように真壁には見えた。

 久我山は、汐崎千広が死んだことに驚いている。

 そして、それと同じくらい、壁に書かれた文字に怯えている。

 牧野奏子は一歩下がった位置で壁に手をついていた。顔色は悪い。だが、その目だけは妙に冴えている。記者だった人間の目だ。人が死んだ場面でさえ、何が起きたかを見逃すまいとする目。

 深町静真は、汐崎の遺体ではなく、九条雅紀を見ていた。

 その視線に気づいた真壁彰は、腹の底に重いものが沈むのを感じた。

 始まった。

 殺人ではない。

 疑いの流れが、始まった。

「下がってください」

 二階堂壮也が、いつもより低い声で言った。

「全員、展示車両の外へ。床を踏まない。壁に触らない。写真も撮らない。スマホを出した人は、今すぐしまってください」

 その言い方は丁寧だった。

 けれど、逆らう余地はなかった。

 麻生郁馬が、ほとんど反射のように胸元のスマホへ手を伸ばしかけていた。二階堂の目がそちらへ向く。麻生は、笑ってごまかすように手を引っ込めた。

「撮りませんよ」

「撮りそうに見えたので」

「職業病です」

「今は治してください」

 二階堂の声は柔らかい。だが、言葉の端に刃があった。

 麻生はそれ以上何も言わなかった。

 真壁は遺体の周囲を見た。

 汐崎千広は、展示車両の奥、連結部へ向かう少し手前で倒れている。右肩を下にして横向きに崩れ、左手が胸元に置かれていた。右手は口元へ伸びている。喉を押さえようとしたのか、口から出る血を拭おうとしたのか。

 指先には赤黒いものがついていた。

 床には血。

 だが、見た目ほど多くはない。

 壁の血文字は派手だった。

 ――嘘を吐いた舌は海へ

 ――五骸童子

 その血文字の方に、人の目は引っ張られる。

 遺体よりも、文字へ。

 事実よりも、意味へ。

 真壁は、そのことが気に入らなかった。

 死体より先に説明が立っている。

 誰かが、そう見せようとしている。

「九条」

 真壁は低く呼んだ。

 九条は遺体から目を離さない。

「触らずにどこまで見える」

「外傷は口腔内が中心。舌は切除されてる。けど、舌を切ったことが直接の死因かはまだ言えない」

「出血死じゃないのか」

「それにしては床の血が合わない」

 二階堂が横に来た。

「少ないってこと?」

「派手に見せてるわりに、流れ方が浅い。舌を切られて生きていたなら、もっと乱れる。もっと飛ぶ。もっと汚い」

 九条の言葉は淡々としていた。

 その淡々さが、場にいる人間たちをさらに不安にさせることを、九条はわかっていないわけではない。わかっていて、変えない。死体の前で語尾を柔らかくすることに意味を感じていないのだ。

 深町が、静かに言った。

「ずいぶん、早くわかるんですね」

 九条は顔を上げた。

「見ればわかる」

 その言葉が、空気を冷たくした。

 二階堂が深町を見た。

「深町さん」

「何でしょう」

「さっきも言いましたけど、今、誰を見て話しています?」

「私は、専門知識の話をしているだけです」

「専門知識がある人間全員を、今ここで順番に疑うつもりですか」

「疑う、とは言っていません」

「言わなくても、置いたでしょう」

 深町は口を閉じた。

 それ以上言えば、自分の言葉の方が疑われると察したらしい。元医師という肩書きの人間が、法医学者へ向ける視線。その構図は、場にいる者全員に見えている。

 真壁は、九条の横顔を見た。

 九条は何も言わない。

 反論もしない。

 自分に疑いが向いたことを、ただ事実の一つとして受け取っている。

 それがまた、まずい。

「乗務員を呼んでください」

 二階堂が八尋に言った。

 八尋は一瞬遅れて頷き、通路を戻った。足音が震えている。

 列車は走り続けていた。

 床下から、規則的な振動が伝わってくる。窓の外は雨と海で、どこにも逃げ場はない。車内には十数人。汐崎はその中の一人だった。そして今、死んでいる。

 真壁は、遺体から少し離れた床に目を落とした。

 靴跡がいくつかある。

 汐崎のもの。発見時に駆け寄った者のもの。展示車両の床材は濃い色で、濡れた靴跡は目立ちにくい。だが、汐崎が倒れている場所から数歩手前に、水滴の筋があった。

 水。

 真壁は、汐崎が席を立つ時にボトルを手にしていたことを思い出した。

「水のボトルは」

 真壁が言うと、二階堂がすぐに周囲を見る。

「床にはないな」

 九条も、倒れた汐崎の周辺を目だけで追った。

「持ってきていたはず」

「ああ」

「見当たらない」

 凶器より先に、水のボトルが消えている。

 真壁はその事実を頭に置いた。

 乗務員が駆けつけた。顔面が蒼白だった。二階堂が手短に状況を伝え、車両の封鎖、運転席への連絡、警察への通報を指示する。

「最寄り駅で停車できますか」

 二階堂が聞いた。

 乗務員は通信機を握ったまま、答えに詰まった。

「この先、通常の停車駅は哭島駅になります。ただ、現在は海沿い区間でして、緊急停止自体はできますが、避難誘導が難しく……」

「つまり、止まれても降りられない」

 真壁が言うと、乗務員は辛そうに頷いた。

「はい。安全に降車できるのは、終着駅です」

 終着駅。

 その単語が車内に落ちた。

 今はもう、観光の響きではない。

 そこまで、この死体と一緒に走るということだ。

「到着まで」

 二階堂が聞く。

「三十分ほどです」

 三十分。

 短いとも長いとも言えない。

 人が疑いを育てるには、十分すぎる時間だった。

「全員、ラウンジ車両へ戻ってください」

 二階堂が言った。

「移動は一人ずつではなく、まとまって。展示車両には、真壁、九条、俺、乗務員以外は入らないでください」

 久我山が不満げに眉を寄せた。

「あなたが仕切るのですか」

 二階堂は、少しだけ笑みを作った。

「仕切りたい人が他にいれば譲ります。ただし、現場保存より上手くやれるなら」

 久我山は黙った。

 そのやり取りを、牧野奏子がじっと見ていた。

「警察の方なんですね」

 牧野が言った。

 二階堂は軽く会釈する。

「警視庁の二階堂です」

「広報の方だと聞いていましたが、ずいぶん現場に慣れている」

「慣れたくはないんですけどね」

 牧野は二階堂の答えを記憶するように目を細めた。

 真壁は、それも覚えた。

 この女は、言葉を拾う。

 拾った言葉を、あとで別の形にする。

 やがて、参加者たちはラウンジへ戻った。展示車両の入口には乗務員が立ち、二階堂が位置を決める。九条は、遺体を触らない範囲で確認を続けていた。

 真壁は、壁の血文字に近づいた。

 血の乾き方は、まだ完全ではない。だが、汐崎の口元の血と同じものかどうかは、今は判断できない。文字は丁寧ではない。むしろ、わざと乱しているように見えた。

「左手に見えるか」

 真壁が聞くと、九条は壁を見た。

「見せたいんだろうな」

「お前もそう思うか」

「左手で書いたように見える、じゃなくて、左手で書いたように見せている。線の迷い方がわざとらしい」

 二階堂が、二人の会話を聞きながら肩をすくめた。

「その会話、外に聞かせたくないな」

「なぜ」

 九条が本気で聞いた。

 二階堂は九条を見た。

「お前が左利きだからだよ」

 九条は黙った。

 ほんの一瞬だったが、沈黙した。

 真壁はそれを見ていた。

 九条は、ようやく自分がどの位置に置かれつつあるのかを理解したのかもしれない。いや、理解はしていた。ただ、それを自分の問題として認めるのが遅い。

「血文字は左手っぽい。切断は医学知識がありそう。舌を切るなんて普通の人間は考えにくい。しかも九条はさっき展示の童歌に食いついていた」

 二階堂は指を折るように言った。

「外から見れば、材料が揃い始めてる」

「俺がやったと思うのか」

 九条の声は平坦だった。

 二階堂は即答した。

「思ってない」

「ならいい」

「よくない。俺が思ってないことと、周りが思わないことは別だ」

 九条は返事をしなかった。

 真壁は展示ケースの下、床の端に小さな紙片が落ちているのを見つけた。濡れてはいない。誰かの資料から破れたものかもしれない。

 拾わずにしゃがみ込み、位置だけを見る。

 印刷された文字が半分だけ見える。

 ――五骸返し異聞。

 真壁は眉を寄せた。

「二階堂」

 二階堂が来る。

「これ」

「触らない方がいいな」

「ああ」

 二階堂はスマホを取り出し、写真を撮った。記録用だ。撮影を禁じた本人が撮るのは矛盾して見えるが、今は現場保存が優先だった。

 九条が紙片を覗き込む。

「展示資料の一部じゃない」

「わかるのか」

「パネルのフォントと違う。古い資料をコピーしたものだ」

「五骸返し異聞」

 二階堂が読み上げた。

「異聞ってことは、別バージョンがある?」

 九条は、壁の血文字を見た。

「童歌が五番までとは限らない」

 真壁は九条を見た。

「さっきは、五番までだった」

「展示ではな」

「隠してるのか」

「隠したのか、省いたのか、知らない。ただ、白井透子は知ってる」

 また白井だ。

 真壁は、ホームで見た彼女の表情を思い出した。

 写真の順番を聞かれた時、ほんのわずかに止まった顔。

 資料は、そのまま出せば真実になるわけではありません。

 あの言葉。

 真壁は連結部の方へ視線を向けた。展示車両の奥には、装飾として残された古い排水用の小窓がある。白井は「固定してある」と言っていた。安全のためだとも言った。

 窓は、腰の高さより少し下にあった。

 丸みを帯びた金属枠。錆び色を再現した塗装。その内側に、黒いゴムのようなものが見える。古い部品を模して作られたのか、本物を残したのかはわからない。

「開くのか」

 真壁が聞いた。

 二階堂が乗務員を見る。

 乗務員は首を振った。

「いえ、開かないはずです。外側からも内側からも固定されています」

「はず?」

「復刻の際に、安全確認は済んでいます。ただ、私は整備担当ではないので……」

 真壁は小窓に近づいた。

 触らない。

 だが、見る。

 金属枠の端に、水滴がついている。車外の雨が入り込んだものか、誰かの濡れた袖が触れたものか。判断はできない。

 九条が横から見て言った。

「そこから何かを捨てたと思うのか」

「可能性だ」

「舌を?」

「そう考えさせたいのかもしれない」

 九条は真壁を見た。

 真壁は壁の血文字へ視線を戻した。

 嘘を吐いた舌は海へ。

 それが文字通りなら、切り取られた舌はこの車両には残っていないことになる。

 では、どこへ行った。

 海へ。

 海へ行ったように、誰かが見せようとしている。

「ラウンジに戻ろう」

 二階堂が言った。

「いつまでも三人だけで現場にいるのもまずい」

「なぜ」

 九条が聞く。

 二階堂は、少しだけ苛立った顔をした。

「だから、そういうところだって」

 ラウンジに戻ると、空気はさらに悪くなっていた。

 誰も席にきちんと座れていない。

 宗像恵は窓際で両手を握りしめている。白井透子は資料ファイルを抱えたまま立っている。久我山は苛立ったように腕を組み、深町は目を伏せていた。牧野は、紙コップの水に手をつけず、ただそこに置いていた。麻生郁馬は落ち着きなく視線を動かしているが、口は閉じている。由良一華は八尋美緒の隣で震えていた。常盤怜は、ラウンジの出入口付近に立っていた。

 鍵束が、腰でわずかに鳴っている。

 二階堂が全員に向き直った。

「警察には連絡しています。列車は哭島駅まで走行を続けます。到着後、駅舎で待機になります。それまで、全員ラウンジ車両から出ないでください。トイレ等で移動が必要な場合は、必ず二人以上で、乗務員に声をかけてください」

 久我山が言った。

「容疑者扱いですか」

「安全確保です」

「人が死んだのです。安全などもう破られている」

「だからこれ以上破らないためです」

 二階堂の声は落ち着いていた。

 だが真壁には、二階堂がかなり怒っているのがわかった。

 怒りを出さない人間ほど、言葉が正確になる。

「汐崎さんは……」

 由良一華が震える声で言った。

「本当に、殺されたんですか」

 答えたのは九条だった。

「事故ではない」

 短い。

 短すぎる。

 由良の顔がさらに青くなる。

 二階堂が九条を睨む。

 九条は気づいていないふりをしている。

 宗像恵が、ぽつりと言った。

「舌……」

 その言葉に、何人かが反応した。

 童歌の一行目。

 嘘つき舌を海へ。

 誰もが、それを思い出している。

 牧野奏子が静かに言った。

「血文字は、何と」

 真壁は彼女を見た。

「なぜ聞く」

「知っておくべきだと思ったので」

「誰が」

「全員が」

 二階堂が代わりに答えた。

「嘘を吐いた舌は海へ。五骸童子。そう書かれていました」

 宗像の肩が揺れた。

 白井透子は目を伏せた。

 久我山が強く息を吐いた。

「馬鹿馬鹿しい。童歌に見せかけた殺人など、悪趣味にもほどがある」

「見せかけた、ですか」

 牧野が言った。

 久我山が彼女を見る。

「何が言いたい」

「いえ。久我山さんは、童歌そのものではなく、童歌に見せかける行為を馬鹿馬鹿しいとおっしゃったので」

「同じでしょう」

「違います」

 牧野は紙コップを指先で回した。

「童歌を信じていない人の言い方です」

 久我山の顔が硬くなる。

「あなたは信じているとでも?」

「私は、信じていません」

 牧野はそう言ったあと、ほんの少し間を置いた。

「でも、信じている人がいることは知っています」

 白井が、小さく息を吸った。

 真壁はその音を聞いた。

 彼女は今、何に反応した。

 童歌か。

 五骸童子か。

 それとも、信じている人、という言葉か。

 深町静真が、唐突に口を開いた。

「汐崎さんは、死ぬ前に何か飲んでいましたか」

 真壁は深町を見た。

「なぜそれを聞く」

「喉を気にされていたので」

「あなたも見ていたんですね」

 二階堂が言う。

 深町は頷いた。

「医師でしたから。そういう癖は残ります」

 深町は九条を見た。

「元医師でも、喉を気にする人間くらいはわかります」

「汐崎さんは、席にいた時点で喉を気にしていた。水も飲んでいた。展示車両へ行く時も、別の水のボトルを持っていた」

 九条が言うと、場がまた静かになった。

 牧野が聞く。

「別の?」

「席に一本残っていた。持って出たものがもう一本あった」

「そのボトルは」

「現場にはなかった」

 九条の答えに、二階堂が目を伏せた。

 言うなと言うには遅かった。

 これで全員が知った。

 消えた水のボトル。

 舌を切られた死体。

 毒の可能性。

 血文字。

 医学的な所見。

 そして、それを最初から読んでいる九条。

 常盤怜が、低く言った。

「では、毒ですか」

 九条は首を振った。

「断定できない」

「でも、可能性はある」

「ある」

「それを扱える人間は」

 二階堂が一歩前に出た。

「常盤さん。その先を言う前に、考えた方がいいです」

 常盤は黙った。

 場の温度が下がっていく。

 真壁は、舌打ちしたいのをこらえた。

 犯人は、この空気を望んでいる。

 九条が何かを言うたびに、九条が怪しくなる。九条が黙れば、なお怪しくなる。二階堂が庇えば、庇う理由を疑われる。真壁が怒れば、三人で固まっているように見られる。

 よくできている。

 嫌になるほど。

「確認したいことがあります」

 白井透子が言った。

 全員の目が向いた。

「血文字に、五骸童子とあったのですね」

「そうです」

 二階堂が答える。

 白井は少し迷ったように見えた。

「五骸童子という名は、現在の展示には出していません」

「どういう意味ですか」

 真壁が聞く。

「資料館の一般展示では、五骸返しの童歌までは紹介しています。しかし、五骸童子という呼称は、古い異聞にだけ出てくるものです」

「異聞」

 真壁は、展示車両で見つけた紙片を思い出した。

「知っている人間は限られるのか」

「資料館の職員、保存会の一部、再開発資料を読んだ方、それから……当時の関係者は知っているかもしれません」

 久我山が白井を睨んだ。

「余計なことを言うな」

 その言葉は、明らかに強かった。

 白井は目を伏せた。

「余計なことではありません。人が亡くなっています」

「だからこそだ。古い噂を広げれば、混乱する」

「もう混乱しています」

 白井の声が、初めて少し硬くなった。

 久我山は何か言おうとして、やめた。

 二階堂が、そのやり取りを見ている。

 真壁も同じものを見ていた。

 五骸童子という名前。

 久我山は、それを広げられたくない。

 白井は、隠すことに限界を感じている。

 牧野は、知っているが言わない。

 深町は、九条へ疑いを向けた。

 宗像は、舌という言葉に反応した。

 汐崎は、嘘を吐いた舌として殺された。

 では、汐崎は何を嘘ついたのか。

 真壁は宗像へ目を向けた。

「宗像さん」

 宗像はびくりとした。

「さっき、汐崎さんに言っていましたね。兄は失われたんじゃない、誰かがいなくなったことにした、と」

 宗像の顔から血の気が引いた。

 二階堂が真壁を横目で見た。今聞くのか、という顔だった。

 だが、今しかない。

 死体が出た直後、人は余計な防御を作る前に本音をこぼす。

「汐崎さんは、十七年前に何をしたんですか」

 宗像は唇を震わせた。

「私は……」

 久我山が割って入る。

「やめなさい。宗像さんは遺族だ」

「遺族なら、何も知らないとは限らない」

 真壁が言うと、久我山の顔が赤くなった。

「失礼にもほどがある」

「人が死んでる」

「だから何を聞いてもいいと?」

「必要なら聞く」

 宗像が、小さく言った。

「兄は、海に落ちていません」

 場が静かになった。

 雨の音だけが強く聞こえる。

「続けてください」

 二階堂が穏やかに言う。

 宗像は、両手を握りしめた。

「十七年前、兄たちは嵐の夜に海へ出たことになっています。でも、兄は泳げませんでした。海を見るのも苦手で、船にも乗れなかった。嵐の夜に、海へ近づく人じゃない。それなのに、汐崎さんは言ったんです。兄たちが海へ向かうのを見た、と」

「見た?」

「はい。海へ行くところを見た。止めたが聞かなかった。そう証言したと聞いています」

「それが公式記録に?」

「詳しくは知りません。でも、母はずっと言っていました。あの人の証言で、兄は海で死んだことにされたって」

 汐崎千広。

 嘘を吐いた舌。

 血文字は、宗像の怒りと一致している。

 だからこそ、宗像は犯人に見えやすい。

 真壁は、それをすぐには採らなかった。

 見えやすいものは、置かれていることが多い。

「宗像さん」

 二階堂が聞いた。

「汐崎さんが席を立った時、あなたはどこにいました?」

「ここにいました。ずっと」

「誰か証明できますか」

 宗像は周囲を見た。

 由良が小さく頷いた。

「宗像さんは、私の隣にいました」

「ずっと?」

「少なくとも、汐崎さんが席を立ってから悲鳴が聞こえるまでは」

 由良の声は弱いが、嘘をついているようには見えなかった。

 二階堂は頷いた。

「ありがとうございます」

 久我山が不満そうに言う。

「まるで取り調べだ」

 二階堂は微笑んだ。

「そうならないように、全員同じように確認します」

「全員?」

「はい。全員です」

 この言い方は上手かった。

 誰か一人を疑っているのではない。全員を同じ土俵に置く。そう見せることで、場の反発を抑える。二階堂は自然にそれをやる。

 真壁は、二階堂に任せた。

 乗客の行動確認が始まった。

 汐崎が席を立ったのは、トンネルに入る少し前。時刻はおおよそ午後三時四十分。

 宗像と由良はラウンジにいた。

 久我山は白井と展示資料の扱いについて話していた。

 牧野は窓際の席でメモを取っていた。

 深町は一度席を立ったが、トイレへ行ったと言う。乗務員の一人が、トイレ付近で深町を見ている。

 麻生郁馬はカメラ機材のバッグを確認していた。八尋がその近くにいた。

 常盤怜は後方デッキにいた。雨漏りの確認をしていたという。証人はない。

 白井透子は久我山と話していたが、その前後に短時間、資料車両へ行っている。

 九条は展示ケース付近にいた。真壁と二階堂が見ている時間もあったが、ずっとではない。

 真壁は、短い空白を頭の中に並べた。

 誰にも完全なアリバイはない。

 だが、それは走る列車の中では当然でもある。

 全員が近くにいる。全員が見えているようで、死角はいくらでもある。連結部、トイレ、展示ケースの奥、車内照明が一瞬揺れたタイミング。人が移動したと言える隙は、思ったより多い。

 それでも、舌を切り取り、血文字を書き、ボトルを消す。

 十分程度で。

 できるか。

 できるとすれば、準備がある。

 殺人そのものは、この場で始まっていない。

 列車に乗る前から始まっていた。

「汐崎さんは、乗車前から喉を気にしていた」

 真壁が言った。

 全員がこちらを見る。

「誰か、汐崎さんに飲み物を渡した人は」

 沈黙。

 八尋が小さく手を上げた。

「乗車時に、全員へ水を配りました。プロジェクト側で用意したものです」

「同じものか」

「はい。未開封のペットボトルです」

「誰が配った」

「私と、運営スタッフの新倉さんです。新倉さんは今、後方で乗務員と連絡を」

「汐崎さんが持っていた二本目は?」

 八尋は首を振った。

「わかりません。一本ずつしか配っていません」

 では、汐崎が持って出たボトルはどこから来た。

 自分で持ってきたのか。

 誰かにもらったのか。

 それが消えたのはなぜか。

 九条が、低く言った。

「口から入ったものを消したかった」

 まただ。

 言葉が、九条へ戻っていく。

 深町が言う。

「毒ということですか」

「可能性の話だ」

「あなたはずっと可能性ばかり言う」

 九条は深町を見た。

「断定できないことを断定する方が危ない」

「便利な言い方ですね」

「医師だったなら、わかるでしょう」

 深町の頬が強張った。

 二階堂が間に入る前に、真壁が言った。

「深町さん。汐崎さんの死に方を見て、何か思うことがあるんですか」

「ありません」

 早すぎる否定だった。

「本当に?」

「私は、もう医師ではありません」

「喉を気にする人間はわかるんですよね」

 深町は真壁を見た。

 その目には、怒りより恐怖があった。

「私は何も知りません」

 何も知らない。

 そう言う人間ほど、何かを知っていることが多い。

 列車の速度が落ち始めた。

 アナウンスが流れる。

『まもなく、哭島駅に到着いたします。お足元にご注意ください。なお、本日は悪天候のため、駅到着後のご案内に変更がございます。係員の指示があるまで、車内でお待ちください』

 哭島駅。

 車内の全員が、わずかに顔を上げた。

 解放。

 そう感じた者もいたはずだ。

 だが真壁は違った。

 この列車の中で一人が死んだ。血文字は童歌の一行目。五骸童子という名前は、一般展示にはない。汐崎の舌は切り取られ、その行方はわからない。

 これで終わるはずがない。

 むしろ、列車は最初の現場にすぎない。

 島が、本当の舞台だ。

 窓の外に、哭島駅のホームが見えてきた。

 雨に煙る古い駅舎。低い屋根。奥には、黒い山影。海から吹く風が、白い雨を斜めに飛ばしている。

 駅は島内にはない。

 対岸の岬にある。

 けれど、駅名に哭島とついているせいで、そこに降り立つこと自体が、すでに島へ踏み込むことのように感じられた。

 その時だった。

「何か……」

 窓際にいた八尋美緒が声を上げた。

 全員の視線がそちらへ向く。

 列車は減速しながら、海沿いの短い橋梁を渡っていた。窓の下、岩場と波の間に、白い布のようなものが揺れている。

 雨で視界は悪い。

 だが、確かに何かが浮いていた。

 小さな、布に包まれたもの。

 岩に引っかかり、波に打たれている。

 九条が窓に近づいた。

 真壁も見る。

 列車は止まれない。速度は落ちているが、窓の外の景色は流れていく。白い布が一瞬、こちらへ向いた。布の端から、赤黒い筋が海へ溶けていた。

 二階堂が低く言った。

「まさか」

 九条は答えなかった。

 答えないことが、答えのようだった。

 血文字の一行目が、真壁の頭に浮かぶ。

 嘘を吐いた舌は海へ。

 宗像恵が、窓から顔を背けた。

 由良一華が小さく泣き始める。

 牧野奏子は布包みを見ようと身を乗り出し、麻生郁馬はスマホへ伸ばしかけた手をまた止めた。

 久我山は、低く呻いた。

「馬鹿な……」

 白井透子だけは、窓の外を見ていなかった。

 彼女は、ラウンジ車両の床を見ていた。

 いや。

 床ではない。

 誰かの足元を見ていた。

 真壁はそれに気づいた。

 白井の視線の先には、九条の左手があった。

 九条は窓枠に手を添えていた。左手で。

 白井はすぐに目を伏せた。

 ほんの一瞬。

 だが、真壁は見た。

 列車は哭島駅へ滑り込んだ。

 ホームの屋根を叩く雨音が、一気に近くなる。

 扉はすぐには開かなかった。乗務員が運転室と連絡を取り、二階堂が展示車両の封鎖を確認している。

 車内の誰もが知っていた。

 汐崎千広の死体は、まだ車内にある。

 だが、奪われたものはもう、海へ返されているかもしれない。

 五骸童子。

 血文字の怪人は、列車の中で殺しただけではなかった。

 童歌を、実行している。

 やがて、扉が開いた。

 外から吹き込んだ雨風が、車内の血の匂いを一瞬だけ薄めた。

 ホームには、黒いレインコートを着た運営スタッフが数名立っている。全員が同じ格好だった。フードを深くかぶっていて、顔はよく見えない。

 その光景を見た時、真壁は、ホームで白井が言ったことを思い出した。

 全員、同じものです。

 運営側で用意しました。

 参加者の人数分と予備があります。

 二階堂も同じことを思い出したらしい。小さく舌打ちした。

「雨具、今は配るな」

 乗務員に言った。

「全員の顔が見える状態で移動する」

「しかし、外は」

「顔が見える状態で、だ」

 二階堂の声に、乗務員は逆らわなかった。

 駅舎の向こうでは、海が荒れている。

 旧連絡橋の方向に、係員が数名走っていた。風が強くなっている。潮位も上がっている。橋の一部は、すでに波をかぶっているように見えた。

 八尋美緒が運転士から何かを聞き、青ざめた顔で戻ってきた。

「警察は、本土側から向かっています。ただ……」

「ただ?」

 二階堂が聞く。

「潮位が上がっています。旧連絡橋は、あと二十分ほどで通行止めになります。車両を戻すにも、線路点検が必要で……この天候だと、すぐには」

「つまり」

 真壁が言った。

「戻れないのか」

 八尋は唇を噛み、頷いた。

「安全が確認されるまで、駅舎か旧迎賓館で待機していただくことになります」

 旧迎賓館。

 島側にある、宿泊施設として整備された建物。

 参加者たちの間に、低いざわめきが広がった。

 死体のある列車。

 舌の浮かぶ海。

 通れなくなる橋。

 そして、島。

 舞台装置が、ひとつずつ閉じていく。

 真壁は、展示車両の方を見た。

 汐崎の死体はまだそこにある。

 口から血を流し、舌を失い、壁に言葉を残している。

 いや。

 言葉を残したのは、死者ではない。

 生きている誰かだ。

 真壁は、ラウンジ車両に立つ人間たちを見た。

 宗像。

 牧野。

 深町。

 久我山。

 白井。

 常盤。

 八尋。

 由良。

 麻生。

 そして、九条。

 誰かが、順番を置いている。

 誰かが、次を信じさせようとしている。

 列車の外で、雨が激しくなった。

 哭島駅の古い看板が、風にきしむ。

 その音は、誰かが喉の奥で笑っているようにも聞こえた。


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