表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
哭島列車と五骸童子 ―死者を悼む歌の見立て殺人―  作者: 神谷利休|アコンプリス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/11

第一章 哭島列車に乗る

 雨は、駅の屋根を一枚ずつ剥がしていくような音を立てていた。

 九月の終わりに降る雨だった。

 夏の熱を洗い流すには遅すぎ、秋の冷たさを連れてくるには早すぎる。けれどその雨は、ただ季節の境目から来たものではなかった。もっと冷たく、重く、海の底から戻ってきたもののように、ホームの端から端までを斜めに濡らしていた。 夏の熱を洗い流すには遅すぎ、秋の冷たさを連れてくるには早すぎる。そんな中途半端な季節の雨は、海から吹き上げる風に混じり、ホームの端から端までを斜めに濡らしていた。

 線路のあいだに溜まった水は黒い。駅舎の灯りを映しても、底を見せない。まるでその下に、線路ではない別のものが沈んでいるようだった。

 真壁彰は、改札の手前で足を止めた。

 古い駅だった。

 駅舎の壁は一部だけ塗り直され、自動改札機も新しいものに替えられている。だが、屋根を支える梁や柱には、昔の湿気がそのまま残っていた。人が長く使い、長く忘れ、また急に思い出した場所の匂いがする。

 濡れた木材。

 錆びた鉄。

 潮を吸ったコンクリート。

 その中に、まだ新しい看板のインクの匂いだけが浮いていた。

 改札脇に、縦長の案内板が立っている。

 深い藍色を背景に、銀色の線路が海へ向かって伸びていた。その先に黒い島影が描かれている。

 ――哭島列車、復刻記念運行。

 下部には、小さくこうある。

 ――哭島再生プロジェクト。

 再生。

 真壁は、その二文字を見て眉を寄せた。

 死んだ場所に、よく似合う言葉ではない。

「最初からそんな顔で行くのかよ」

 背後から声がした。

 振り向かなくても、誰かわかる。二階堂壮也だった。濃紺の傘を畳みながら、軽く水を払っている。スーツはほとんど濡れていない。こういう時、二階堂はいつも妙に隙がない。

 本人は特別なことをしているつもりもないのだろうが、濡れ方にまで品が出る人間というのはいる。

「どんな顔だ」

「再生プロジェクトって文字を見ただけで、三人くらい取り調べそうな顔」

「してない」

「してる。しかも、けっこう本気で」

 二階堂は笑っていたが、視線は看板ではなく駅全体を見ていた。

 改札前に集まっている関係者。ロープで区切られた動線。腕章をつけた運営スタッフ。端に立つ記者らしい男。案内板の前で足を止める者たちの表情。

 二階堂は、言葉よりも先に場の流れを見る。

 それは癖というより、仕事で身についた防衛反応に近い。警視庁の広報にいるとはいえ、二階堂は現場を知らない人間ではない。むしろ、現場を知りすぎた人間が、表の言葉を扱うようになったのだと真壁は思っている。

「九条は」

 真壁が聞くと、二階堂は顎でホームの方を示した。

「もういる。展示パネルに捕まってる」

「またか」

「捕まってるっていうより、捕まえに行ってる感じだけどな」

 真壁は改札を抜けた。

 ホームには、復刻された列車が停まっていた。

 古い車両を模した外観だが、塗装は新しい。深い藍色の車体に、細い銀のライン。窓枠は丸みを帯び、車内から漏れる灯りは柔らかい。先頭部には、小ぶりな丸いプレートが掲げられていた。

 哭島列車。

 かつて本土と哭島の対岸を結んでいた短い支線を、観光用に一部復活させたものだという。線路は海沿いの崖を走り、終点は「哭島駅」と呼ばれている。

 ただし、駅があるのは島の中ではない。

 正確には、哭島の対岸に突き出した小さな岬の先端にある駅だった。そこから島へは、干潮時だけ姿を現す旧連絡橋を渡らなければならない。潮位が上がれば橋は海に沈む。風が強まれば、渡ることも戻ることもできなくなる。

 つまり哭島は、今でも閉じる島だった。

 十七年前の失踪事件以来、島を訪れる者はほとんどいなかった。

 それを、観光資源にする。

 死んだものは、いつか展示になる。

 真壁はそう思ったが、口にはしなかった。

 ホームの一角に、事件を紹介するパネルが並んでいる。半透明の防水カバーがかけられ、雨粒が表面を滑っていた。

 そこに、九条雅紀が立っていた。

 傘は閉じている。

 肩に雨が落ちている。

 本人は気にしていない。

 白に近い薄い髪が少し湿り、額に張りついていた。細い指がパネルの端を押さえ、文字を追っている。九条は何かを見る時、単に目を通すのではなく、相手を黙らせてから読むようなところがある。

 紙でも、死体でも、現場でも、同じだ。

「濡れるぞ」

 真壁が言うと、九条は目だけ動かした。

「もう濡れてる」

「なら屋根の下に入れ」

「この説明、変だ」

 返事になっていなかった。

 二階堂が真壁の横に並び、パネルを覗き込んだ。

「お、始まった。乗る前から?」

「説明が先に死んでる」

「表現が最悪」

 九条は気にせず、パネルの下段を指した。

 そこには、十七年前の「哭島五人失踪事件」についての概要が書かれていた。

 平成二十一年八月。哭島を訪れていた若者五人が、嵐の夜に行方不明となった。島内および周辺海域を捜索したが、遺体は発見されなかった。のちに、海難事故と判断された。島に残る童歌と事件を結びつけた噂が広がり、一時は怪異譚として報道されたが、公式には事故として処理されている。

 その横には、五人の写真が並んでいた。

 若い男が三人。女が二人。どれも、笑っているか、笑う少し前の顔だった。

 写真の下に、名前。

 さらにその下に、古い童歌が載っていた。

 真壁は、その文字を黙って読んだ。

 ひとつ、嘘つき舌を海へ

 ふたつ、聞かぬ耳を灯へ

 みっつ、押した手を崖へ

 よっつ、見た眼を祠へ

 いつつ、祈らぬ心を土へ

 五行だけだった。

 童歌というには、あまりに冷たい。

 子どもが口ずさむには、意味がありすぎる。

「悪趣味だな」

 二階堂が言った。

 九条は、写真の並びを見ている。

「この順番、童歌の順番じゃない」

「順番?」

 真壁が聞く。

「写真の並び。説明文では、五人は同時に消えたことになっている。でも、古い新聞や島の記録を見る限り、遺留品にまつわる話には順番があったはずだ」

「遺体は出ていないんだろ」

「ああ。だから変だ」

 九条は童歌を見た。

「死体が見つかっていない事件にしては、死に方の説明だけが妙に具体的だ」

 雨音が強くなった。

 ホームの向こうで、運営スタッフが参加者に乗車を促している。雨具を着た駅員が、関係者用のリストを確認しながら頭を下げていた。

 招待制の復刻記念運行。

 報道関係者、島の関係者、遺族、再開発プロジェクトの担当者、資料館職員。

 死者の周りに集まる者たちの顔ぶれは、いつも似ている。

 語る者。

 整える者。

 撮る者。

 忘れたふりをする者。

 真壁は、展示パネルの端に小さく載っている一文に目を止めた。

 ――哭島では古くから、死者が失った五つの骸を取り戻すという「五骸返し」の伝承が残る。

「五骸返し」

 真壁が声に出すと、九条が頷いた。

「舌、耳、手、眼、心。器官というより、行為の象徴だな」

「嘘をつく、聞く、押す、見る、祈る、か」

 二階堂が言う。

「やっぱり悪趣味だ」

 九条は、少しだけ目を細めた。

「順番がある歌は厄介だ」

「何が厄介なんだよ」

「順番があるだけで、人は次を信じる」

 二階堂は、その言葉を聞いて黙った。

 真壁も返事をしなかった。

 九条の言い方は淡々としていたが、妙に引っかかった。

 順番。

 次を信じる。

 そういうものは、事件の中で何度も人を間違わせる。最初に見つかったものを最初に起きたことだと思い、最後に聞いた言葉を真実だと思い、誰かが置いた名前を、そのまま犯人の位置だと思い込む。

 順番は、証拠ではない。

 それでも人は、順番に弱い。

「九条先生ですね」

 背後から、女の声がした。

 三人が振り向くと、紺色のレインコートを着た女性が立っていた。年齢は三十前後。濡れた髪を低い位置でまとめ、白いブラウスの襟元まできちんと整えている。

 声も表情も静かだった。

 静かすぎる、と真壁は思った。

「白井透子と申します。哭島資料館で学芸員をしております」

 名札にもそう書かれていた。

 白井透子。

 九条は軽く会釈した。

「九条です」

「展示をご覧いただいていたので」

「説明文を書いたのはあなたですか」

 九条がいきなり聞いたので、二階堂がわずかに眉を上げた。

 白井は一拍置いてから答えた。

「一部は。全体はプロジェクト側の監修も入っています」

「五人の写真の順番は、誰が決めたんですか」

 白井の表情が、ほんの少しだけ止まった。

 止まった、というほどではない。

 呼吸の位置が変わった程度だ。

 だが、真壁にはわかった。

 九条も気づいている。

「失踪届の受理順に近い形です」

「近い?」

「古い資料ですので、完全には一致しません」

「童歌の順にはしなかった」

「観光展示としては、刺激が強すぎますから」

 二階堂が穏やかに笑った。

「刺激が強いものを展示している自覚はあるんですね」

 白井は二階堂を見た。

「あります。だから慎重に扱っています」

「慎重に扱うって、つまり見せ方を選ぶってことですよね」

「資料は、そのまま出せば真実になるわけではありません」

 白井の声は静かだったが、そこには固いものがあった。

 真壁はその言葉を覚えた。

 資料は、そのまま出せば真実になるわけではない。

 正しい。

 だが、正しすぎる言葉は時々、人を隠す。

「雨具は、島に渡ってからも必要になります」

 白井はそう言って、ホーム脇に積まれた黒いレインコートを示した。

「旧迎賓館や灯台へ移動する際は、こちらを使っていただきます。風が強いので、フードは深くかぶってください」

 二階堂が、積まれた雨具を見た。

 同じ形。

 同じ色。

 同じ丈。

「全員、同じものですか」

「はい。運営側で用意しました。参加者の人数分と予備があります」

「名前を書く欄は?」

「ありません。短時間の移動用ですので」

 二階堂は何気ない顔で頷いた。

 だが真壁には、その目が少しだけ細くなったのがわかった。

 同じ雨具。

 フード。

 雨。

 暗がり。

 落とし物をしても、誰のものかすぐにはわからない。

 顔を隠すものが、最初から用意されている。「それと」

 白井は、ホームの端に停まる列車へ目を向けた。

「展示車両の連結部には、古い構造を残した部分があります。安全上、触れないようお願いします。とくに排水用の小窓は開かないよう固定してあります」

 九条がわずかに反応した。

「排水用の小窓?」

「昔の車両の名残です。今回の復刻に合わせて装飾として残したものです。実際には使えません」

「装飾に、排水口を残したんですか」

「哭島列車らしさ、だそうです。島の古い施設は、海へ水を逃がす構造が多いので」

「施設?」

「旧迎賓館や診療所跡にも、古い排水路が残っています。今はほとんど塞がれているはずですが」

 白井はそう言った。

 はず。

 その言い方に、真壁はわずかに引っかかった。

 自分の判断ではない、と線を引く言い方だった。 運営スタッフの声が響いた。

「皆様、まもなく発車いたします。ご乗車をお願いいたします」

 白井は軽く頭を下げた。

「車内で、あらためてご説明します」

 そう言って去っていく背中を、九条は見ていた。

「今の人、何か知ってるな」

 二階堂が小声で言う。

「何か、じゃないだろ」

 真壁が言うと、二階堂が横目で見た。

「じゃあ何」

「順番」

 九条が、ぽつりと言った。

「たぶん、あの人は順番を知っている」

 列車に乗り込むと、外観よりも内装の方がさらに作り込まれていた。

 木目調の壁。

 深緑の座席。

 真鍮色の金具。

 荷棚には古い旅行鞄を模した装飾が置かれ、窓際には小さなランプがある。

 観光列車としては、よくできている。

 だが、車内のいたるところに事件資料のパネルや複製品が置かれていて、旅情と追悼が妙に混じっていた。

 通路脇の展示ケースには、当時の切符、島の古地図、失踪者の所持品の複製、新聞の切り抜きが並んでいる。奥のラウンジ車両には、関係者のための席が用意されていた。

 参加者は十数名。

 その中心に立っていたのが、汐崎千広だった。

 四十代前半。背は高く、薄いグレーのスーツがよく似合っている。髪は短く整えられ、眼鏡のフレームも細い。清潔感のある顔立ちだが、表情はどこか薄い。笑っても、笑いが顔の上だけに留まっているように見えた。

「本日はお足元の悪い中、お集まりいただきありがとうございます」

 汐崎の声はよく通った。

「哭島再生プロジェクトの汐崎千広です。今回の復刻運行は、単なる観光企画ではありません。十七年前の出来事を風化させず、地域の歴史として継承し、未来へつなぐための――」

 真壁は、そこで聞くのをやめた。

 未来へつなぐ。

 まただ。

 何でも未来につなげれば許されると思っている声だった。

 二階堂が隣で小さく息を吐く。

「顔」

「何だ」

「今、汐崎さんの首根っこ掴みそうな顔してる」

「してない」

「してる。継承って単語に反応しすぎ」

「嫌いなんだよ」

「知ってる」

 二階堂は軽く言ったが、目は汐崎から離していなかった。

 汐崎の挨拶が終わると、参加者同士の簡単な紹介が始まった。

 白井透子。哭島資料館の学芸員。

 久我山峻介。哭島保存会会長。六十代半ばの男で、腹回りは重いが、声は大きい。島の観光化にもっとも積極的な人物らしい。

 牧野奏子。元新聞記者。五十代。細い目と、口元に残った職業的な癖が印象的だった。人を見る時、相手を一人の人間ではなく、記事の中の役割として切り取っているような目をする。

 深町静真。元医師。十七年前、哭島の診療所にいたという。痩せた男で、指が長い。九条が法医学者だと知った瞬間、ほんのわずかに顔を背けた。

 宗像恵。遺族代表。四十代前半の女性。失踪者のひとりが兄だったという。喪服ではないが、黒に近い服を着ていた。背筋は伸びているのに、指先だけが時々震える。

 八尋美緒。哭島駅の管理スタッフ。二十代後半。島で生まれ育ち、潮流や旧道にも詳しいという。島の浜には、風向きと潮の具合で思わぬ場所から漂着物が流れ着くことがあるらしく、その話をする時だけ、彼女は妙に実務的な顔になった。きびきび動くが、関係者の間に入る時だけ少し表情が硬くなる。

 常盤怜。灯台管理人。三十代後半。口数が少なく、鍵束を腰に下げていた。灯台、祠、旧道の管理を任されているらしい。

 由良一華。失踪者遺族。まだ若い。十七年前に兄を失ったと紹介された時、彼女は小さく頭を下げただけだった。

 そして、麻生郁馬。

 映像作家。哭島のドキュメンタリーを撮っているという。柔らかい笑みを浮かべているが、目線は常に人の表情を探っていた。カメラは構えていない。だが、見ている。撮っていない時でも、撮る人間の目をしている。

「濃いな」

 二階堂が小声で言った。

「何が」

「顔ぶれ」

「事件関係者だからな」

「そうじゃなくて。誰も、ただ招かれた顔をしてない」

 真壁は黙って周囲を見た。

 確かにそうだった。

 汐崎は場を制御したがっている。白井は資料の奥に何かを隠している。久我山は昔話を嫌がっている。牧野は話したがっているが、話す順番を選んでいる。深町は九条を避けている。宗像は汐崎を見ないようにしている。八尋は島そのものを怖がっている。常盤は鍵の重さを気にしている。由良は誰かが名前を呼ぶたび、わずかに肩を揺らす。麻生は、その全部を見ている。

 列車が動き出した。

 床下から、古いように調整された振動が伝わってくる。駅の灯りが後ろへ流れ、雨のホームが遠ざかる。車輪の音は規則的だった。だがその規則正しさが、かえって閉じ込められていく感覚を強めた。

 哭島列車は、海沿いの崖線へ向かって進む。

 車内では、白井透子が展示説明を始めた。

「哭島の五骸返しは、もともとは死者を慰めるための歌だったと考えられています。失われたものを返す。言えなかった言葉を返す。聞けなかった声を返す。手、眼、心――そういったものを、死者が取り戻していくという」

「慰めにしては、随分物騒な歌ですね」

 麻生郁馬が言った。

 軽い言い方だった。

 白井はそちらを見た。

「時代によって意味が変わったのでしょう。島では、海難や崖崩れで遺体が完全には戻らないことも多かったそうです。体の一部だけが見つかることもあった。だから、失われたものを返す、という発想が残ったのかもしれません」

「それを、十七年前の事件と結びつけたのは誰ですか」

 九条が聞いた。

 白井は少し間を置いた。

「当時の報道です」

 牧野奏子が、そこで微かに口元を動かした。

 真壁はそれを見逃さなかった。

「報道、ね」

 牧野が言った。

「何か」

 白井が聞く。

「いえ。報道はいつも便利に悪者になれると思って」

 汐崎がすぐに笑みを挟んだ。

「牧野さんは当時の記事にも関わっておられましたから、色々と思うところがあるのでしょう」

「思うところがあるのは、私だけではないでしょう」

 牧野の視線が、深町に向いた。

 深町は窓の外を見たまま、反応しない。

 宗像恵が、膝の上で手を握りしめる。

 列車はカーブに差しかかった。窓の外に海が見えた。灰色の水面が、雨で泡立っている。遠くに島影があった。低く、黒く、海に伏せた獣のようだった。

 哭島。

 十七年前、五人が消えた島。

 いや。

 九条の言葉を借りれば、五人だけが消えたと説明されている島。

「失礼」

 汐崎が咳をした。

 軽い咳ではなかった。喉の奥に何かが引っかかったような、乾いた音だった。彼は水のペットボトルを取り、口を湿らせる。

 真壁はその仕草を見た。

 喉を気にしている。

 挨拶の時にも一度、汐崎は舌で唇を濡らしていた。緊張かもしれない。だが、妙に目についた。

 宗像恵が、汐崎に向かって言った。

「未来へつなぐ、とおっしゃいましたね」

 声は静かだった。

 汐崎は笑顔を作る。

「はい」

「何をですか」

「哭島の歴史です」

「誰の歴史ですか」

 車内の空気が少し変わった。

 二階堂が視線だけ動かす。九条は展示ケースに目を向けているふりをしながら、聞いている。

 汐崎は丁寧に答えた。

「十七年前に失われた方々の記憶も含めて、です」

「失われた、ですか」

 宗像の声がわずかに硬くなる。

「兄は失われたものではありません。いなくなったんです。誰かが、いなくなったことにしたんです」

「宗像さん」

 久我山が低く言った。

「今日はそういう話をする場ではない」

「では、何の場ですか」

 宗像は久我山を見た。

「列車を飾って、写真を並べて、童歌を展示して、観光客に見せる準備をする場ですか」

 汐崎の笑みが薄くなった。

「誤解があります。私たちは、悲劇を消費するためにこの事業を進めているわけではありません」

「消費かどうかは、消費する側が決めることではありません」

 二階堂が、ほんの少しだけ目を細めた。

 真壁は宗像を見た。

 この女は、怒りを整えるのが下手だ。だが、嘘をついているようには見えなかった。

 汐崎は、再び水を飲んだ。

「十七年が経ちました。感情だけでは、何も前へ進みません」

 その瞬間、真壁の中で何かが低く鳴った。

 感情だけでは。

 前へ進みません。

 死んだ者の周りで、それを言う人間を、真壁は好きではなかった。

「前へ進むって、便利な言葉ですね」

 真壁の声は、自分で思ったより低かった。

 汐崎がこちらを見る。

「真壁さん、でしたか」

「ああ」

「何かご意見が」

「死んだ人間の話を、残った側が扱いやすい形へ変えることを、前へ進むって呼ぶなら便利だなと思っただけです」

 車内が静かになった。

 二階堂が、隣でわずかに息を止めたのがわかった。

 汐崎は微笑を保っている。

「扱いやすい形に変える、とは言っていません。共有可能な形にする、ということです」

「同じだろ」

「違います」

「違わない」

 真壁は一歩も動いていなかった。だが、自分の声が空気を押しているのがわかった。

「死んだ人間は共有物じゃない」

 宗像恵が、顔を上げた。

 汐崎は、少しだけ目を伏せた。

「失礼ですが、あなたは部外者です」

「ああ」

「この島の十七年を、あなたはご存じない」

「知らない」

「なら、言葉には慎重であるべきです」

 真壁は汐崎を見た。

「それを、あなたが言うのか」

 汐崎の目が、初めて笑わなくなった。

 その時、九条が静かに言った。

「やめろ」

 真壁は九条を見た。

 九条は展示ケースの前に立ったまま、こちらを見ていない。

「今ここで言い切ると、あとで邪魔になる」

「何の」

「見る順番の」

 二階堂が苦く笑った。

「九条らしい止め方だな」

 汐崎は、何か言い返そうとしたが、結局やめた。

 久我山が場を取り繕うように咳払いする。

「皆さん、気持ちはわかりますが、今日は追悼と再生の――」

「再生という言葉はやめてください」

 宗像が言った。

 久我山は黙った。

 白井透子だけが、静かに童歌のパネルを見ていた。

 列車は、海沿いのトンネルへ入った。

 窓の外が一瞬で黒になる。車内の照明が反射して、ガラスに乗客たちの顔が浮かぶ。誰もが、自分以外の誰かを見ていた。

 トンネルの中で、汐崎が席を立った。

「少し、失礼します」

 水のボトルを手に、前方車両へ向かう。

 真壁は、その背中を見た。

 二階堂が小声で言う。

「追うなよ」

「追わない」

「顔が追ってる」

「見てるだけだ」

「それを追ってるって言うんだよ」

 九条は汐崎の座っていた席のそばに行き、テーブルの上を見た。そこには資料ファイルと、汐崎が飲んでいた水のボトルが置かれている。さっき持っていったものとは別の一本らしい。

「九条」

 真壁が呼ぶと、九条は水のボトルを見たまま言った。

「喉、気にしてたな」

「お前も見てたか」

「見えるだろ」

「全員が見るわけじゃない」

「だから、見る人間が必要なんだろ」

 二階堂が、二人の間に割って入るように立った。

「今の段階で不穏な会話やめようか。まだ何も起きてない」

 その言葉のあと、ほんの短い沈黙が落ちた。

 まだ。

 何も起きてない。

 列車の揺れが、少し大きくなった。

 トンネルを抜けると、窓の外に海が広がった。雨に煙る海面の向こうに、哭島が近づいている。島の西側に灯台が見えた。細く白い塔。その下には黒い崖。さらに低い場所に、祠らしい赤い屋根が一瞬だけ見えた。

 童歌の言葉が、真壁の中で並ぶ。

 海。

 灯。

 崖。

 祠。

 土。

 地図の上の点のように、島の中で位置を持ちはじめる。

 真壁は展示車両の方を見た。

 前方には、事件資料のパネルが並ぶ車両がある。連結部には、白井が言っていた排水用の小窓があるはずだった。使えない、と彼女は言った。だが「使えない」という説明は、時々、「使わせたくない」という意味にもなる。

 そう思った時、車内の照明が一瞬だけ揺れた。

 誰かが短く息を呑む。

 雨のせいで電圧が乱れたのか。トンネルを抜けた直後の振動か。乗務員が車内の端で通信機を見ている。

「真壁」

 二階堂が呼んだ。

「汐崎さん、遅くないか」

 真壁は前方車両を見た。

 汐崎が席を立ってから、もう十分近く経っている。

 トイレかもしれない。スタッフと話しているのかもしれない。だが、さっきまで場の中心にいた男が、何も言わず戻らないのは不自然だった。

 白井透子も気づいたらしい。スタッフに声をかけている。

 八尋美緒が前方車両へ向かおうとした時、展示車両の奥から、短い悲鳴が聞こえた。

 真壁は反射的に走った。

 二階堂が後に続く。九条も無言で動いた。

 展示車両は、ラウンジより照明が落とされていた。壁には古地図、写真、童歌の解説。通路の片側に展示ケースが並び、奥には連結部へ続く狭いスペースがある。

 その床に、汐崎千広が倒れていた。

 横向きに崩れ、片手が喉元を押さえた形で固まっている。口元から血が垂れていた。鮮やかな赤ではない。黒っぽく、粘り、顎から首筋へ流れている。

 真壁は膝をついた。

「触るな」

 二階堂の声が飛ぶ。

「わかってる」

 真壁は汐崎の顔を見た。

 目は開いている。

 恐怖よりも、驚きが残っていた。自分に何が起きたのかわからないまま、最後だけが来た顔だった。

 九条が横にしゃがむ。

 手袋はない。だが、動きは最小限だった。脈、呼吸、瞳孔。首元。口腔。胸の動き。

 数秒後、九条は低く言った。

「死んでいる」

 背後で、誰かが息を呑んだ。

 白井透子が立ち尽くしている。宗像恵は口元を押さえている。久我山は顔を歪め、牧野は一歩引いたまま動かない。深町静真だけが、汐崎の口元を見て、明らかに表情を変えた。

「何が……」

 八尋が震える声で言った。

 九条は汐崎の口元をさらに見た。

 そして、ほんのわずかに眉を動かした。

「舌がない」

 その言葉は、車内の全員に届いた。

 舌。

 童歌の一行目。

 ひとつ、嘘つき舌を海へ。

 真壁は壁を見た。

 展示パネルの下、白い余白の部分に、赤黒い文字が書かれていた。

 ――嘘を吐いた舌は海へ

 ――五骸童子

 血文字だった。

 誰も声を出さなかった。

 雨音と、列車の走行音だけが聞こえる。

 それまで観光列車だったものが、その瞬間、別のものになった。

 逃げられない箱。

 死体と、血文字と、童歌を載せて走る箱。

 真壁はゆっくり立ち上がった。

 汐崎の死体から、壁の血文字へ視線を移す。

 血の線は、かすかに歪んでいた。右から左へ引いたような筆圧。いや、左手で書いたようにも見える。だが、すぐに決めるべきではない。

 九条は死体を見ている。

 誰よりも近く、誰よりも冷静に。

 その横顔を、深町静真が見ていた。

 そして言った。

「ここまで短時間で、こんなことができる人間は限られますね」

 二階堂の目が、一瞬で冷えた。

「今、誰のことを言いました?」

 深町は口を閉じた。

 だが、もう遅かった。

 視線が動く。

 ほんのわずかに。

 あからさまではない。誰も九条を指差したわけではない。だが、車内の空気は確かに九条へ寄った。

 九条は、それに気づいている。

 気づいていて、顔色を変えない。

 その右手は、まだ膝の上にあった。

 左手だけが、床につかないよう、宙で止まっている。

 真壁は、その手を見た。

 左利き。

 血文字。

 舌。

 法医学者。

 誰かが、もう見せる順番を置いている。

 誰が死ぬか。

 何が切り取られるか。

 誰を見ればいいか。

 誰を疑えばいいか。

 事件は始まったばかりだった。

 だが、もう配置は済んでいる。

 真壁は、血文字をもう一度見た。

 ――嘘を吐いた舌は海へ

 ――五骸童子

 列車は、哭島駅へ向かって走り続けていた。

 終着駅には、まだ着いていない。

 それなのに童歌は、もう始まっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ