(98) 帝都・太陽街区
馬車がゆっくりと止まると同時に、車窓の外から賑やかな人々の声が流れ込んできた。
荘厳で静寂な皇宮とは対照的に、ここ太陽街区には生命の鼓動が満ち溢れていた。
行き交う馬車と人波、絶え間なく響く商人たちの呼び声、笑い声――
空気は活気に満ち、どこか異国の香りすら感じさせる。
ヴェロニカが先に馬車を降り、両腕を組んだまま周囲に鋭い視線を走らせる。
サイラスとエレが続いて降り立つと、彼女は簡潔に口を開いた。
「ここは太陽街区。帝都最大の商業・市民居住区だ。」
エレは目を細めながら街並みに視線を走らせた。
彼女の記憶にある王都とは大きく異なっている。
背の高い建物、広々とした街路、ぎっしりと並ぶ店々に、様々な人々――
中には明らかに異国の衣装をまとった者や、東方系の顔立ちの旅人も混じっていた。
ヴェロニカは歩き出しながら、引き続き淡々と解説を続ける。
「太陽街区は単なる商業地ではない。文化と消息が交差する場所でもある。」
「平民、豪商、冒険者、他国の使節、そして亡命貴族……
ここではあらゆる身分の人間が混在している。
帝国の縮図とも言える場所だ。」
「……隠れ処に適しそうなれば。」
サイラスが軽く笑いながら言うと、ヴェロニカがちらりと横目で睨んだ。
「それはつまり、ここが最も消息の流れが早いということでもある。
どの勢力がどんな動きをしているかを掴むには、太陽街区が最適。」
「そは誠に興味深きことよ。」
エレが微笑を浮かべる。
「では、今日はどこから回るの?」
ヴェロニカは手を上げて前方を指差す。
「まず、この区の三つの要所を案内せん。」
⬛️黄金のバザール
ヴェロニカは二人を連れて、賑わいの絶えない長い通りへと足を踏み入れた。
両脇には数え切れないほどの露店と店舗が並び、色とりどりの旗や布幕が風に揺れ、空気には異国の香辛料と炙った肉の香りが漂っている。
「ここが黄金のバザール。帝都で最も賑やかな市場よ。」
ヴェロニカは淡々と説明を続けた。
「ここでは、各地から集められた珍品が取引されているわ。豪奢な貴族用品から、闇市の違法品、さらには魔導遺物や古代の武具まで、何でも揃っている。」
エレの視線がある露店に止まった。
そこでは老商人が様々な水晶や彫刻のアクセサリーを並べていた。
「この装飾品……デザインが少し、エスティリアに似てるわね。」
彼女が呟くように言うと、ヴェロニカは軽く頷いた。
「不思議ではないわ。帝国と王国の交易は、完全には途絶えたことがないから。」
サイラスの興味は別の方向に向いていた。
彼の視線の先には、一般的な品物ではなく、消息や地図を扱う露店があった。
「ここは消息の交錯する中心地でもあるの。商人、冒険者、裏社会の者たちまで――ありとあらゆる消息が売り買いされている。」
その時――
人混みの中から、ゆったりとした絹のローブをまとった中年の男が現れ、サイラスの姿を見つけて目を輝かせた。
「おや、これはこれは、カイン様じゃありませんか!」
男は笑顔で声をかけ、足早に近づいてきた。
サイラスは眉をひそめ、相手をじっと見つめる。
数秒後、彼の記憶の片隅から名前が浮かび上がった。
「帝都で顔を合わせるとは、思わなかったぜ、ジャラン。」
サイラスの口調は気だるげだが、どこか懐かしさも含んでいた。
東方貿易商会に所属する商人・ジャラン。
ブレスト滞在中、幾度か顔を合わせたことがあった。
「ははっ、黄金のバザールはブレストとは比べ物になりませんよ。ここは各国の商人たちの楽園ですからね。」
ジャランは楽しげに笑いながら言った。
「ところで、カイン様は今回、商い目的で帝都へ?」
サイラスは意味深な笑みを浮かべた。
「まぁ、いい“品”があれば、覗いてみるさ。」
その言葉にジャランの目が鋭く光る。
「ふふっ、カイン様の審美眼はいつもながらお見事。もし興味のある物が見つかれば、ぜひ私にも一声かけてください。」
その様子を見ていたヴェロニカは一言も発さなかったが、その鋭い目は、サイラスと商人の会話をじっと観察していた。
“カイン・ブレスト”という名が、既に一部の商業界では通じる名であることを、彼女は今確信した。
エレはサイラスの横顔を見つめながら、心の中で思う。
――彼がブレストで築いた人脈は、想像以上に深いのかもしれない。
「まだ用がある。続きはまた今度だ。」
サイラスが軽く手を上げると、ジャランは笑顔のまま深く頭を下げた。
「もちろんですとも。カイン様がいつでもお越しいただけるよう、私はここにおります。」
男の姿が人波に消えたのを見届けた後、ヴェロニカが口を開く。
「……ブレストでも、なかなか精力的に動いていたのね。」
「何もしなけりゃ、カビが生えるだろ。」
サイラスは肩をすくめ、軽く笑ってみせた。
「少し話すだけでも、値打ちがあるぜ。」
ヴェロニカはちらとサイラスを一瞥する。
「智ある者なら、この市場に密偵の網を張らん。」
「ほぉ、じゃあ君もここに線を持ってるってことか?」
サイラスが意地悪そうに問うと、ヴェロニカは鼻で笑い、何も言わずに前を歩き出す。
エレはそんなやり取りを黙って見つめながら、心の中で静かに思った。
――サイラスがこの帝都で、どんな消息を掴もうとしているのか。
この街の鼓動は、すでに彼を巻き込み始めている。




