(99) 劇場と酒場
⬛️黒薔薇劇場
黄金のバザールを抜けた先、彼らは一際華麗で精緻な装飾が施された劇場の前にたどり着いた。
彫刻が施された外観と荘厳なアーチ、入口には今夜の演目ポスターが掲げられ、
煌びやかな衣装を身にまとった舞姫たちが脇の出入り口から中へと入っていく。
喧騒の市民たちとの対比が、劇場の空気をひときわ浮き立たせていた。
「ここは《黒薔薇劇場》、帝都で最も有名な娯楽施設のひとつよ。」
ヴェロニカは相変わらず冷静な口調で語った。
「舞姫、楽士、詩人、劇作家……さまざまな演者がここで舞台に立つ。貴族はもちろん、時には皇族も観劇に訪れるの。」
エレは劇場を見上げたまま、ふと遠い記憶に目を細める。
その表情に、どこか懐かしさと少しの影が差していた。
サイラスはその様子に気づき、そっと声をかける。
「どうかした?」
エレは微笑みながら首を振った。
「ちょっと昔のことを、思い出していただけ。」
――流浪の日々。
彼女がかつて身分を隠し、舞姫として身をやつしたことがあった。
この劇場の華やかな匂いは、その記憶を不意に呼び覚ましたのだ。
ヴェロニカはそんなエレの表情の変化を見逃さなかったが、何も聞かずに話を続けた。
「ここは、ただの劇場ではない。密報の網の一部が、まさにここに根を張っておる。」
「密報の網?」サイラスが片眉を上げる。
「そう、特に楽団や劇団の中には、詩や劇の形で密報を伝える手法があるの。」
ヴェロニカの目が鋭く光る。
「表向きはただの恋愛劇でも、その裏には封印された歴史や密約が隠されていたりするのよ。」
「されば、演劇そのものが秘号に非ずや。」
サイラスの口調はどこか面白がっているようだった。
「かもしれないわね。」
ヴェロニカは微かに口元を吊り上げる。
「たとえば――《誓約の祭》なんて演目。」
その名が口にされた瞬間、エレの瞳がかすかに揺れた。
無意識にヴェロニカを見つめてしまう。
ヴェロニカはその反応を見逃さず、意図的に話を続けた。
「黒薔薇劇場でも最も人気のある演目の一つよ。
異世界から来た者と帝国の王族が禁断の恋に落ち、互いの血を交わして、魂を結ぶ“誓いの晶石”を作る――
その絆は永遠であるはずだった。だが、彼らの愛は呪いへと変わった。」
サイラスの眉がわずかに動く。
頭の中には、ヒルベルから聞かされた異世界の血と《晶石の誓い》の話がよぎっていた。
「面白い話でしょう?」
ヴェロニカはどこか挑発するような口調で続けた。
「ただ、この劇は何度も検閲を受けていて、今上演されているものは、元の形とはまるで違うそうよ。」
「つまり……オリジナルがあるってことか?」
サイラスが低く呟く。
「ええ。」
ヴェロニカは意味深に微笑んだ。
「一部の古い劇団には、“改変されていない”台本が今も残っているらしいわ。」
サイラスの唇がゆっくりと上がる。
「そは稀有なる密報よ。」
「それが“帝国らしさ”というものよ。」
ヴェロニカはあくまで冷静にそう返したが、その瞳の奥には、確かに探るような光が宿っていた。
⬛️銀翼の酒場
最後に彼らが辿り着いたのは、一見地味ながらも中からは賑やかな喧騒が漏れ聞こえる酒場だった。
入口には銀色の翼を模した看板が掲げられており、扉の向こうからは豪快な笑い声と酒杯がぶつかる乾いた音が響いてくる。
「ここは《銀翼の酒場》、冒険者や傭兵たちが好んで集まる場所よ。」
ヴェロニカが淡々と説明する。
「個人の依頼を待つ傭兵たちがここで仕事を探すことも多いし、公にはできない密報の取引もよく行われているわ。」
「ほう、興趣そそる場所よな。」
サイラスは興味を隠さず、口元を緩めて言った。
「中に入ってみぬか?」
その提案に、ヴェロニカは冷たい視線を向ける。
「入ってもよいが……何が起きようと、咎め立てせぬこと。『偶然の厄介事』に巻き込まれるのがこの場所なのだから。」
サイラスはその警告を受けてもまったく怯まず、むしろ楽しげに笑った。
だが、すぐ隣にいたエレが少し顔を逸らし、わずかに疲れた表情を浮かべたのに気づくと、彼の表情も柔らかくなる。
「……エレ、少し疲れたか?だったら、中で何か食べて休憩しようか。」
サイラスは声を和らげてそう言い、彼女の目を覗き込む。
エレは一瞬驚いたように瞬きをしてから、小さく微笑んでうなずいた。
「然り、そうしよう。」
ヴェロニカは小さくため息をついた。
この男が一度決めたら聞かないことはよくわかっている。
「……好きにするがよい。」
そう吐き捨てるように言い、彼女も無言で扉の前に立つ。
サイラスは木製の扉に手をかけると、軽く押し開けた。
内側から吹き込む空気は、酒と煙草と汗と、そして冒険者たちの欲望が入り混じった混沌の香り。
三人はそのまま、傭兵、消息屋、そして逃亡者たちの巣窟とも言える、
この《銀翼の酒場》の中へと足を踏み入れた——。




