(37) 月下の王女
夜風が、庭園を静かに撫でる。
燭台の炎が、淡く揺らいだ。
サイラスは喉を動かした。
何かを言おうとした――。
ただし、それは声にならず、短い吐息に変わる。
彼は低く呟いた。
「……リナ様。」
「……っ!」
リナの目が、一瞬だけ驚きに見開かれた。
すぐに、唇の端がくいっと上がる。
「なーんか、妙にかしこまった呼び方じゃない?」
彼女はくすくすと笑い、悪戯っぽくウィンクする。
「昔みたいに呼んでくれたらいいのに。」
「ほら――“マミー様”とかさ?」
サイラスの眉間に、ピクリと皺が寄る。
低く、淡々と答える。
「……あの頃は、蒼月の聖女の名前を知らなかっただけだ。」
「ぶはっ!!」
リナは、腹を抱えて爆笑した。
「ちょっ、待って……ッ! まさか……そんな理由!?」
「アンタ、本気で“マミー”が私の名前だと思ってたの!?」
「ぷ、はははっ!! もうダメ、笑いすぎてお腹痛い……!」
石卓に手をつき、涙目で笑い続けるリナを、サイラスはじとっとした目で見つめた。
「……言うんじゃなかった。」
彼は深々と溜息をつく。
心底、後悔した。
「……でもね。」
リナの笑い声がふっと止まり、彼女は夜空を見上げた。
そこには、いつもの戯けた表情はなく――
どこか言葉にしがたい、淡い感慨が滲んでいた。
「本当は、ずっと期待してたんだよ?」
「――いつか、アンタが本気で“マミー”って呼んでくれる日が来るのを。」
サイラスの動きが、止まった。
無意識に息を呑み、リナを見つめる。
その蒼い瞳は、相変わらず軽やかな笑みを湛えていた。
だが――
その奥には、微かに “期待” が滲んでいた。
彼女は、冗談を言っているのか?
それとも――
静寂が落ちる。
ふと、リナの視線が動いた。
彼女は、サイラスの左耳を見つめる。
月長石のピアス――。
仄かな光を帯びた、青白い輝き。
それを見た瞬間、リナの目が、微かに揺れた。
彼女の唇が、何かを言いかけるように動く。
――けれど、言葉にはならなかった。
「……さて。」
リナは、何事もなかったかのように微笑む。
そして――
「サイラス、夜が綺麗だよ。この瞬間、よく覚えておきな。」
サイラスの瞳が、かすかに揺らぐ。
その名前――
彼女は、彼の“本当の名前”を口にした。
リナは、最初から分かっていたのだ。
彼が エドリックではないこと を。
そして――
彼の「本当の素性」さえも。
しかし、リナはそれ以上は何も言わない。
それが、“彼女なりのやり方”なのだろう。
彼女は、すべてを風に流すような気まぐれさで歩いた。
月光に照らされた背中は、自由そのものだった。
先ほどの言葉が、ただの戯言であるかのように――。
しかし、微かな風が吹き抜けた瞬間。
彼女の言葉だけが、静かに残り、波紋のように広がっていく。
――これが、世間が知らない蒼月の聖女の本当の姿。
神聖さなんて欠片もなく、どこか気まぐれで――
そして、妙に手強い。
サイラスは、軽く目を伏せる。
風に乗る彼の呟きは、誰にも届かないまま、夜の闇に溶けていった。
彼は、答えを求めていた。
――リナなら、何かを教えてくれるはずだと。
ただし、
結局、彼は何も得られなかった。
サイラスは、静かに息を吐く。
ゆっくりと手を上げ、深いフードを目深に被った。
影が顔を覆い、月光から彼の表情を隠す。
――これは正式な訪問ではない。
無駄な騒ぎは避けなければならなかった。
足音を抑えながら、静かに庭を後にする。
このまま誰にも気づかれずに去るつもりだった。
だが――
石段の前で、思わず足を止めた。
そこに、一人の少女がいた。
細身の体を月光に照らしながら、静かに佇む影。
長く伸びた銀白の髪は、淡い青紫の光を帯び――夜空の星のように揺らめいていた。
整った顔立ち。
そして、幼さを残しながらも、すでにその身には 王族の威厳と気品 が滲み始めていた。
エレノア・エスティリア。
十五歳になった王女。
――もう、彼の記憶の中の「ただの少女」ではなかった。
サイラスの胸に言葉にできない感覚が広がる。
彼女の美しさに一瞬目を奪われた。
それ以上に、彼女がここにいることに驚いた。
「……この方は?」
エレの声は驚きを含まず、穏やかで落ち着いている。
まるで、彼の存在をすでに受け入れているかのようだった。
彼女は静かにサイラスを見つめていた。
サイラスは、一瞬だけ沈黙した。
しかし、すぐに唇を緩め、薄く微笑む。
「……迷子の使節だ。」
低く、静かな声。
エレの瞳が微かに揺れ、ふっと笑った。
「この庭は、それほど広くはないのに。迷子になるなんて、不思議ですね?」
その笑みは夜風のように優しく、どこか懐かしい。
(……サイラス、夜が綺麗だよ。この瞬間、よく覚えておきな。)
リナの言葉が、不意に脳裏をよぎる。
サイラスは、無意識に息を詰めた。
“この瞬間を、覚えておけ”――。
その意味を、彼はまだ完全には理解していなかった。
しかし――
目の前の光景が、確かに彼の記憶に刻まれていくのを感じた。
エレが、ふと視線を向けてくる。
彼の顔を、じっと見つめた。
その瞳が、一瞬だけ何かを捉えたように揺れた。
すぐに――
彼女は何事もなかったかのように、微笑む。
「そろそろ、行かないと。」
彼女の声は、軽やかで自然だった。
まるで、ここでの出来事など、たいした意味はないかのように。
振り返ることもせず、足取りも迷いなく――
ただ、風に乗るように。
彼女は、何も聞かなかった。
彼の名も、正体も、目的すらも。
まるで何も期待していないかのようだった。
――ただの偶然の出会い――。
「ねえ。」
突然、エレの足が止まる。
彼女はくるりと振り向き、軽くウィンクした。
「ここで私を見たこと、誰にも言わないでね?」
その声にいたずらっぽい響きを込めて、彼女はそのまま背を向けた。
月光に溶けるように軽やかに、風のように何も残さず。
サイラスは動けず、ただ彼女の背中を見送った。
闇の奥に消えるまで――。
風が静かに吹き、彼はそっと指先を耳に伸ばす。
月長石のピアスが冷たい感触とともに変わらぬ光を湛えていた。
「……はぁ。」
サイラスは、小さく息を吐く。
そして、フードの端を掴み、再び深く被った。
影が、彼の顔を覆う。
何もなかったかのように。
何も、変わらなかったかのように。
ただ、この夜、彼の心の奥で一つの決意が生まれていた。
――まだ気づいていないだけだ。
(……最後の選択は、アンタたち自身が決めるんだよ。)
リナの声が、風に乗り、静かに響き続けた。




