(36) 蒼月の聖女
三年前,エスティリア王宮庭園・夜——
夜の帳が降りたエスティリア王宮。
東側の庭園には、静寂が広がっていた。
柔らかな夜風が吹き抜け、甘い花の香りが微かに漂う。
ただし、
この場所に満ちる空気は、かつての華やかさとは程遠いものだった。
サイラスは、一歩足を踏み入れるたびに、違和感を覚えた。
数年前まで、ここは活気に満ちた宮廷の一角だったはずだ。
今は――どこか寂れた影が落ちている。
そんなことを考えながら歩を進めると、突然、耳慣れた声が響いた。
「よっ、エド――いや、今はカインと呼ぶべきかな?」
サイラスは顔を上げる。
月光の下、石造りのテーブルに腰かける一人の女性。
優雅に脚を組み、手には小さな菓子。
銀白色の髪は、肩にさらりと流れ、月光を浴びて青紫の輝きを帯びていた。
そして――
氷のように澄んだ蒼い瞳が、戯れめいた光を帯びて、こちらを見つめていた。
「……そうだな、今の俺はカインだ。」
サイラスは淡々と答える。
その声は静かだったが、僅かに瞳が揺れる。
「……最初から気づいていたのか?」
目の前の女性――莉奈 は、くすりと笑う。
「ははっ、私は聖女だからね! 超能力で分かるのさ――なーんてね。」
冗談めいた調子でそう言うと、彼女は手のひらで石卓をぽんぽんと叩いた。
「まあ、アンタとあの子の縁は鉄板でしょ?
軍学校卒業したって聞いた瞬間、
『ああ、どうせここに来るんだろうな』って思ってたさ。」
気だるげに腕を組むその姿は、すべてを予見していたかのようだった。
サイラスは微かに眉をひそめる。
だが、そのままリナに座る気はなく――
彼の視線は、別のものへと向けられていた。
「……お前、何を食べてる?」
「ん?」
リナは手に持った菓子をひょいっと掲げる。
「異世界版カヌレ(Canelé)。
ただしラム酒抜きだから、ちょっとコクが足りないんだけどね。」
肩をすくめながら、もう一口かじる。
不満げに唇を尖らせた。
「はぁ……この世界、本当にロクなスイーツがない!」
「もしも、マカロンを作れる奴がいたら、私は間違いなく王宮専属パティシエにするね!」
サイラスは、じっと彼女を見つめた。
この女――
昔から、何も変わっていない。
どれだけ時が経とうと、どれだけ世界が変わろうと――。
彼女は、いつだって自由気ままに生きている。
リナはカヌレをひとかじりしながら、ちらりとサイラスを見やる。
「……何その目つき?」
「“この女、やっぱり変人だな”って顔があからさますぎるんだけど?」
「……」
サイラスは何も言わず、ただ無言で彼女を見つめる。
リナはふっと息をつき、手元の菓子を恨めしそうに見下ろした。
「アンタには分かんないでしょ?」
「この世界の食事情が、いかに地獄か!」
彼女は、まるで文明が崩壊したかのような絶望的な表情を浮かべる。
「コーヒーもない、チョコレートもない、醤油もない……」
「おまけに、酒は発酵臭がするやつばっかり……!」
「これ、文明人にとっては生存の危機だと思わない?」
サイラスは小さく息を吐く。
「少しは真面目になれないのか?」
「えー?」
リナはにやりと笑い、悪戯っぽくウィンクする。
「アンタとエレだけよ、私の食への執着をちゃんとツッコんでくれるの。」
「そういうとこ、結構好きなんだけどなぁ。」
エレ……。
その名前が出た瞬間――
サイラスの心に、一瞬の影が差した。
思考が止まり、彼の視線が僅かに彷徨う。
そして、静かに瞼を閉じた。
「さて、それで?」
リナは菓子箱を指先で軽く揺らしながら、軽快な口調で問いかける。
「わざわざこんなところに来たんだから、何か用があるんでしょ?」
サイラスは彼女を見つめる。
その琥珀色の瞳の奥に、深い躊躇が宿っていた。
「……大した用じゃない。」
「ただ、どうしても今のうちに顔を見たかった。」
「もう、二度とここへ来ることはないだろうから。」
「……ふーん?」
リナの眉が、わずかに持ち上げる、口元には小さな笑み。
「つまり、これはお別れってこと?」
「……ああ、そうなるだろうな。」
サイラスは静かに答え、その声にはかすかな重みが混じっていた。
すると、リナの瞳に、ほんの僅かに悪戯めいた光が宿った。
「なら……ちょっとしたネタバレをしてあげようか?」
「つまり、予知ってやつ?」
彼女は意味深な笑みを浮かべると、静かに言葉を紡ぐ。
「本物のエドリック王子から、求婚の使者が送られるわ。」
「――“エレを妃として迎え入れたい”ってね。」
その瞬間。
サイラスの指先が、僅かに動いた。
彼の表情は、ほとんど変わらない。
ただ――
眉間の皺が、ごくわずかに深くなる。
「……それは、良い話じゃないか?」
彼は、感情を抑えたまま、静かに言葉を返す。
「元々、それが最初の決定だった。」
「そうなれば、両国の関係も安定する。」
彼の声は平静だった。
それが、逆にリナの表情に呆れた色を浮かべさせた。
「あーあ……ほんっとに、めんどくさいわねぇ。」
リナはため息をつきながら、肩をすくめる。
「……?」
サイラスは、眉をひそめる。
リナは、そんな彼をじっと見つめると――
「乙女ゲーム風に言うなら、アンタってば設定が盛り盛りの高難易度キャラよね。」
「……は?」
「製作側の贔屓なのか、それともただの嫌がらせなのか分かんないけど、
攻略するのに手間がかかるタイプ。」
彼女は、妙に真剣な表情でぼやく。
サイラスの表情が、さらに険しくなる。
「……何の話だ?」
「ふふっ、やっぱり異世界人には通じないかぁ~。」
リナは肩をすくめ、片手の指をくるくると回す。
そして、彼をじっと見つめながら、さらりと言い放った。
「簡単に言うとね? 私的には、エレの攻略対象はアンタ一択。」
「王太子なんて王道すぎて、つまんないのよ。」
「…………」
サイラスのこめかみが、微かに跳ねる。
完全に、意味が分からない。
この女の言うことを理解しようとするだけ、無駄な気がしてきた。
そんな彼の反応を見て――
リナは、満足そうに 「あはは!」 と笑い出した。
「まぁまぁ、冗談よ。」
彼女は席を立ち、軽く衣服についた菓子のかけらを払い落とす。
そして、月光の下でふわりと微笑んだ。
「……でもね。」
「この世界に『攻略ルート』なんてないのよ。」
「最後に選ぶのは――アンタたち自身だから。」
サイラスは、沈黙したまま彼女を見つめる。
琥珀色の瞳が夜の闇に溶け込むように揺れ、感情は読み取れない。
ただし――
その奥底に一瞬だけ迷いが過った気がした。




