(100) 銀翼の騒乱
酒場の重たい扉が開かれた瞬間、濃密な酒の香りと喧噪が一気に押し寄せてきた。
ここは太陽街区の洗練された空気とはまるで別世界——貴族的な上品さは一切なく、代わりに荒くれ者たちの生の熱気に満ちていた。
粗野な傭兵たちが大声で談笑し、隅の方では酔っ払った冒険者たちが戦利品の分配で口論している。異国風の衣装をまとった商人が、身元の怪しい者たちと何やら紙をやり取りする姿も見える。
「思ったより騒がしき場所よな。」
サイラスは周囲を見回し、口元に薄い笑みを浮かべながらつぶやいた。
エレもまた、じっと周囲の様子を見ていた。流浪の身であった頃、彼女が消息を得るために潜り込んだ数々の場所を思い出させる風景だった。
だが、彼女の視線は最終的にバーカウンター近くの掲示板に向けられた——そこには数多くの懸賞金付き指名手配書が貼られており、賞金首となった傭兵や盗賊、失脚した貴族の名前まで並んでいた。
三人は店内の隅の席に腰を下ろす。
木製のテーブルにはシンプルなオイルランプが灯り、仄かに揺れる明かりが落ち着いた空気を作り出していた。
料理をいくつか頼んだ後も、周囲からの視線は絶えなかった。
ちらりと見るだけの者もいれば、あからさまに警戒心と好奇の入り混じった目で彼らを観察する者もいた。
「……この格好じゃ、目立つのも無理ないわね。」
ヴェロニカは椅子の背にもたれ、腕を組んで呟く。
サイラスは自分たちの服装に目を落とした。
正式な貴族装束ではないが、この場にいる者たちと比べれば、明らかに「綺麗すぎる」。
エレの銀白の髪と氷のような青い瞳もまた、否応なしに注目を集めていた。
「ふむ、最初より“襤褸でもまとえ”と忠告すべきだったな。」
彼は軽く眉を上げ、皮肉交じりに言う。
「望むなら、秘密機関が“ならず者用の衣装”を用意してしんぜよう。」
ヴェロニカが冷笑を浮かべる。
「秘密機関と言えば……」
サイラスは彼女を見やり、ニヤリと笑う。
「君、秘密機関に属しておると言ったな? 興ある話を聞かせてはくれぬか?」
「……帝国の機密を探るつもり?」
ヴェロニカは目を細め、嘲るように返す。
「ただの興味さ。」
サイラスは肩をすくめ、酒杯を回しながら続ける。
「たとえば……潜入任務で他国の王室に忍び込んだり? あるいは誰かの閨を監視したり?」
ヴェロニカは笑みを浮かべたまま応じる。
「秘密機関の仕事は、“密報を集める”だけにあらず。“密報をどう流すか”、それが本質よ。知られるべき密報は拡散し、知られてはならぬ密報は——跡形もなく消される。」
「ほう、そは誠に興趣深きことよ。」
サイラスは酒杯をテーブルに置き、ふと声のトーンを変える。
「じゃあ……“蒼月の聖女”の行方、君たちは知ってるのか?」
その名前を口にした瞬間、ヴェロニカの表情がわずかに強張る。
予想していなかった問い——それが彼女の反応にはっきりと出ていた。
エレもまた、驚いたように彼を見つめた。
彼が、まだあの件を覚えていたことに。
「……調べたことはある。されど、成果は得られなんだ。」
ヴェロニカはそう答えたが、その語調は曖昧だった。
「“成果が得られなんだ”のか、あるいは“表に出せぬ”のか。」
サイラスは静かに問い返す。
「その二つの違いなど、時に意味を持たぬ。」
ヴェロニカはそう言って目をそらした。
エレはそっと唇を噛み、言葉を飲み込んだ。
彼の記憶の中に、いまだ自分の母の存在が消えていないことが、胸の奥を温かく締め付けた。
だが、サイラスはそれ以上追及せず、月長石のピアスをそっと指でなぞりながら、ぽつりと呟く。
「……惜しむべきかな。」
その一言に、ヴェロニカは返す言葉を持たなかった。
◆
場の空気が変わり、会話はやがて軽口に戻る。
だがその矢先——酒場の奥から、酒瓶を手にした粗野な男たちがふらつきながら近づいてきた。
「おいおい、こんな酒場に、貴公とお嬢ときたか……」
「特にこの嬢、美しすぎて酒を飲む前に酔いそうだぜ?」
彼らの軽薄な視線がエレに注がれる。
サイラスは動かない。顔を片手で支えたまま、ただニヤリと笑っていた。
「……カイン様は、実に余裕よな。」
ヴェロニカが小さく呟き、席を立つ。
「お嬢よ、そんな貴公の護衛なぞやめて、俺たちのとこ来ねえか?」
酔っ払いが笑う。
だが、その次の瞬間。
チン——
銀色の閃光が走り、男の手首に浅い切り傷が走った。
「次、口を開いたら——その口、使い物にならぬぞ。」
ヴェロニカは静かに剣を下ろす。
男たちはその殺気に押され、睨みつけながらも黙って立ち去った。
ヴェロニカは席に戻り、まるで何事もなかったかのように酒を一口。
「……見事なり。」
サイラスは拍手しながら微笑む。
「そなた、わざと我に事を任せしな。」
ヴェロニカは鋭く睨む。
「君を信頼しておるゆえよ。」
サイラスはそう言って、にやりと笑った。




