第二十八話 夢のあと
昨夜、久しぶりに高校時代の夢を見た。終わらないスパー。ロープにもたれて、何度も立たされて。先輩の拳と、冷たい視線。
ベッドの上でうなされて、イザナに起こされて、胸の奥を全部話した。『くだらねぇ』と言いながら『今度そういうのが来たら、全部俺んとこ連れて来い』と、笑ってくれた人。
その翌日の午後。リングの中には、パンチの音と息遣いだけが響いていた。
ジャブ、ワンツー。月代陸のコンビネーションは、いつも通り綺麗だった。綺麗で、教科書通りで、そして——どこか、正解をなぞっている。
「——ストップ」
黒瀬イザナが、退屈そうに片手を上げた。息ひとつ乱れていない顔で、ロープにもたれて陸を見る。
「……月代、今のさ。なんか自分の中で答え出た?」
イザナはリングをトントンと靴底で鳴らしながら近づいてくる。
「お前さ、これが正解なんだろうなって顔で打ってんじゃん」
「……練習で固めておかないと、本番で——」
「それ、頭の固い顧問にでも言っとけよ。俺に言うな」
バシッ、とグローブ越しにガードをはたかれる。軽い音なのに、言葉のほうがよく響いた。
「高校んときもそうだったろ。正しいフォーム、正しい距離、正しいやり方」
イザナは顎でしゃくって、少し距離を取る。
「で、都合よく使われて終わらねぇスパーやらされてたわけだ」
昨夜の話を、そのまま踏み抜く。胸のどこかが、ちくりと痛んだ。
「ここはな――正解はねぇよ」
イザナの目が細くなる。低く、しかしはっきりと。
「当たったら正解。外れたら不正解。それだけ、シンプルだろ」
(……でも、誰も傷つかない正解があればって、どっかで)
相手を傷つけすぎないように。クリーンに、綺麗に。「正しいボクシング」をしていれば、誰も間違わないで済む——そんな感覚が、まだ残っている。イザナが構え直した。
「続きやるぞ。今度、考えた顔して打ってきたら、マジで殴るから」
「さっきから殴られてますけど」
「もっと殴るって意味だよ、優等生」
イザナは一気に前に出てきた。踏み込みが、さっきより半歩深い。
「はい、これが正解のジャブか?」
そう言いながら、陸の放ったジャブを肩で弾き飛ばす。そのまま懐に入って、ボディに重い拳を沈めた。
「……っ!」
上半身を傾けて、陸は思わずクリンチに逃げる。両腕でイザナの背中を抱え込むようにして距離を潰し、動きを止める。耳元で、低い笑い声がした。
「これ、正解の対処か? 百点。危なくなったら抱きついて、時間稼ぎ。……でもさ」
イザナの拳が、背中に回した腕の隙間から、陸の肋骨の横を軽くトントンと叩く。わざと、まだ本気じゃない力加減で。
「お前の中で、なにひとつ答え出てねぇだろ」
図星だった。高校時代のスパー。部長に殴られて、鍛えてもらってるだけですって笑った自分。
(どうしたら正しいかばっかりで——)
「どうしたいかは、まだ一発もぶつけてきてねぇ」
クリンチを解かせるように、イザナの手が肩を押し離す。
距離がまた開く――と安心した、その瞬間。
「――ここではな」
イザナの声が、ぐっと低く落ちた。
「答え見つかるまで殴れ。怒りをガソリンにしろ、月代」
言い終わるより早く、再び踏み込んできた。
距離が、ない。ヘッドギアがぶつかるくらいの間合いで、イザナの息が真正面からかかる。ガードの内側に潜られるたび、陸は肘を締めるタイミングを見失いそうになった。気づけば背中に硬い感触。
ロープが、シャツ越しに当たって、ギシッと嫌な音を立てる。
(詰められた……)
ドッ、と重い衝撃が腹に響く。
「……うっ」
胃の奥が跳ね、肺の空気が押し出される。
陸は反射的に肘を絞り、腹部を守るようにガードを下げた。また次が来る——そう身構えた瞬間。
「目ぇ、離すなっつっただろ」
低く冷たい声が、すぐ耳元で弾けた。
陸の予想を裏切り、イザナの拳が跳ね上がるようにして陸の顔面を捉える。
バチン、と脳を直接揺らすような衝撃。
「あ……っ」
ガードが下がった無防備な顔面に、容赦のない左右のストレートが突き刺さる。避ける間も、立て直す暇もない。ロープに背中を押し付けられ、逃げ場のない至近距離で、イザナの拳が視界を白く塗りつぶしていく。
「ほら、ガード上げろ。俺に打たれっぱなしが正解か?」
煽るような言葉とともに、今度は頬に、額に、鼻先にグローブが打ち込まれる。痛い、なんて言葉じゃ足りない。三半規管がかきまぜられ、上下の感覚が消失していく。
一度下がったガードを必死に持ち上げようとするが、そのたびに隙間を縫って拳が顔を跳ね飛ばす。顔面への連打。
「逃げたい? やめたい? それとも、殴り返したい?」
顎をグローブで無理やり上げられ、強制的に視線を固定される。イザナの瞳はどこまでも冷静に、陸の「殻」が壊れる瞬間を見極めようとしていた。
「正しい答え、探して止まるぐらいなら、間違ってでも振れよ!」
ぶつかりそうな距離で、イザナの笑い声が落ちてくる。
「怒ってんだろ、お前。周りの奴らに。熱くねぇって言った大人にも、鍛えてもらってるだけってごまかしてた自分にも」
心臓がドクン、と跳ねる。
「だったら、ガソリンにしろよ。綺麗な正解に逃げてんじゃねぇ」
イザナはほんの一瞬、顎をがら空きにした。わざと、陸に隙を見せるように。
「殴ってこいよ。正解かどうかなんて、あとで決めろ」
拳がうずいた。高校時代の終わらないスパーの光景が、頭の中で一瞬ぶれる。目の前にいるのは、あの時の誰とも違う。俺の怒りを全部受け止めると言った男だ。
ぐっとマウスピースを噛んで、踏み込んだ。拳が、自分でも驚くくらい素直に前に出る。イザナのガードに当たる重い音。それでも、ちゃんと当たった。
「そう」
イザナの口元が、にやりと上がる。
「それでいいんだよ。外れてもいい。間違ってもいい。ここでは、殴って、殴られて、それで決めろ」
イザナのカウンターが返ってくる。顔が揺れる。痛い。血の味がして、苦い。それでも——さっきより、ほんの少しだけ、恐怖が薄い。
(ここは、高校の体育館じゃない)
一歩、足が前に出た。イザナはそれをちゃんと見ている。
陸はジャブをひとつ突き出した。踏み出した足に、きちんと体重を乗せていくジャブ。間を空けずに、ためらいを捨てたストレートが続く。
イザナはあえてその場から動かず、ガードごと正面で受け止める。ふっと口角を上げたその顔が、グローブ越しの重さを気に入ったと告げていた。
「いい。そうやって前に出ろよ」
イザナは、さらに一歩、踏み込む。ボディに落ちると見せた拳に思わず肘を落とした、そのわずかな隙間を縫って、顎の下から突き上げるアッパー。
陸の視界が白く染まる。膝がガクンと折れかけたのを、イザナの腕が抱き寄せて支える。陸はなんとか両足をキャンバスに押しつけ、イザナの身体にすがるようにして立ち続けた。
遠くで、終わりを告げるタイマーが鳴った。陸はそのまま力なく、イザナの胸に顔を埋め、深く息を吐いた。




