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クワセモノ ― 漂白される理想郷と、胎動する泥濘 ―  作者: くろーばー
第一章:『M3:泥の粥と、一番星の格好付け』
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第二話『M25 ―― 旅立ちの雪解け、休息の境界線 ――』

夜が明け、朝日が雪山を祝福するように照らしていく。そんな「朝」だった。

重い毛布から這い出すように目を覚ますと、囲炉裏の中には、小さな「残り火」が微かに点在していた。昨晩の熱の名残。それは、まるで役目を終えて消えゆく星々のようにも見えた。


不意に、パチリと乾いた足音が響く。

視線を移せば、そこには時折、星屑の如く銀色に輝く黒い髪を跳ねさせた少年――スバルが立っていた。


「さっさと顔洗って、じいちゃんのクソ不味い(どろ)食うぞ」

寝癖のついたままぶっきらぼうに、されど明るく言い放つスバル。けれど、朝日を浴びて無造作に跳ねたその髪の一筋一筋が、僕の目にはどんな宝石よりも鋭い輝きを宿しているように見えた。

昨日よりも少しだけ和らいだ、冬の終わりを告げるような陽気に誘われ、僕はスバルと共に川へと向かった。


山小屋から出ると、昨日より少しだけ、スバルの歩くペースが速かった。

そこで、昨日は僕の歩調に合わせてくれていたのだと気づく。そう自覚した途端、急に面映ゆくなって、僕はわざとスバルの背中から目を逸らした。

照れ隠しに眺めた周囲の景色は、昨日よりもずっと鮮やかに、雪解けの春を孕んでいるように見えた。


川縁に着くと、スバルは迷いなくしゃがみ込み、まだ氷の粒が混じる水に手を突っ込んだ。


「……っ、冷てぇな、今日もよ」

そう言いながら、彼は実に楽しそうに笑った。

まるで刃物のように冷たいはずの雪解け水を、親しい友人とでも遊ぶかのように、豪快に掬い上げて顔に叩きつける。


「ほら、何突っ立ってんだ太陽。お前もやんねーと、寝ぼけた頭が治らねーぞ」

滴る雫を朝日にはじき飛ばしながら、スバルが僕を振り返る。

濡れて束になった彼の黒髪は、先ほどまでの「星屑」のような輝きを捨て、今は研ぎ澄まされた黒曜石のような、重くそれでいて艶やかな光を放っていた。


僕は恐る恐る、川面へ手を伸ばした。

指先が触れた瞬間、心臓が跳ね上がるほどの冷気が走る。


「……っ……冷たっ…」


「ははっ、なっさけねぇなぁ。そんなんじゃ、じいちゃんに笑われちまうぞ」


「うぅ、それはちょっとヤダ」

山小屋の方から、シャルルのくしゃみが聞こえた気がした


スバルは濡れた手で僕の頭を乱暴に、けれど温かくかき回した。

その手のひらから伝わる体温は、氷のような川の水とは正反対で。

ああ、やっぱり。

僕はこの少年の「熱」には、一生勝てそうにない。


川から戻り、古びた木の扉を開けた瞬間、僕たちの目に飛び込んできたのは――朝日の差し込む窓際で、これ以上なく「格好を付けた」シャル爺の姿だった。

小脇にあの重厚な図鑑を抱え、遠くの雪嶺を険しい目で見つめるその姿は、一見すると伝説の賢者のようにも見える。


「……ふ、戻ったか。男の朝は、一冊の知性と、一杯の粥から始まるものじゃ……」

低く、渋みを効かせた声。

あまりに決まりすぎたそのポーズに、僕は思わず感嘆の声を漏らしそうになった。が、隣に立つスバルが、呆れたように鼻を鳴らす。


「……じいちゃん、格好付ける前に、その本直せよ。逆さまだぜ」


「…………。……ん、なんのことじゃ? ワシは今、逆転の発想で世界を観測しておっただけじゃが?」


真っ赤になった顔で、シャル爺は慌てて図鑑を上下にひっくり返した。

その時、勢いよくめくれたページの端に、僕は見てしまった。

六つの星が、幾何学的な紋章と共に描かれた挿絵。

それは、まるで未来の僕をあざ笑うかのように、一瞬だけ、鋭い輝きを放った気がした。


「ほら見ろ、文字も読めてねーじゃねーか。……さっさと座れよ太陽。粥が冷めるぞ」

スバルの言葉に促され、僕は動悸を隠しながら椅子に座る。

あの本に、何が書かれていたのか。

聞こうとした言葉は、シャル爺が差し出した、昨日よりも少しだけ温かい粥の匂いに、優しくかき消されてしまった。


猫舌なのか机に粥を置き、息を整えてからシャル爺はこう言った。


「よいか?二人とも、男はいついかなる時も涙を見せてはならんのじゃ。見せていいのは家族や親友が死んだ時と惚れた女に抱きしめられた時だけじゃよ」

スバルは粥を啜りながら適当に聞き流す。


「じいちゃん、毎朝毎朝飽きもせずよくそんな話ができるよな」


「……しっかりとした格言(おしえ)を残そうとしただけじゃのに.....」

そんなシャル爺の声をかき消すようにスバルが声を発した。


「……で、お前。……帰んなくていいのか?」

粥を豪快に啜っていたスバルが、ふと思い出したように、けれど避けては通れない問いを投げかけてきた。


「え、……?」

スプーンを口に運ぼうとしていた僕の動きが、ぴたりと止まる。


温かいはずの粥の湯気が、一瞬で冷たい霧に変わったような気がした。


「いつまでもここに居るわけにもいかねーだろ。……街の方じゃ、お前の『葬式』の準備でも始まってるかもしれねーしな」


「……っ、縁起でもないこと言うなよ」


僕は精一杯の冗談で返そうとしたけれど、声は自分でも驚くほど震えていた。

スバルは僕のそんな動揺を見透かすように、空になった椀を置く。


「飯食い終わったら、荷物まとめろ。……麓の、街が見える境界線まで送ってってやるよ」

「……今日、……なの?」


「まあ帰るなら今日じゃろうな。雪が溶け始めて道が悪くなる前でないと危険じゃし」

シャルルはそう言って、僕の目を見ずに粥を啜った。


「……ほらな、じいちゃんもこう言ってる。文句ねーだろ」

スバルが追い打ちをかけるように言い添える。

話を振られたシャルルは、いつもなら「格好付けた」冗談の一つも飛ばすはずなのに、今はただ静かに、使い古された図鑑を撫でながら頷くだけだった。


「……そうだね…帰るよ」

僕は今できる最大限の笑顔を作り、昨日よりもずっと美味しく感じるはずの粥を、無理やり喉の奥へ流し込んだ。

けれど、噛みしめるたびに、この三日間で得た「熱」が、指先から少しずつ零れ落ちていくような気がして。

せっかく温まったはずの胃の奥が、皮肉にもどんどん冷えていくのを、僕は必死に無視し続けた。


開けるたびにギシギシと鈍い音を立てる山小屋のドアを開け、僕はスバルと共に外へ出た。


下るにつれて、雪は情けなく溶け、不格好な土の色が顔を出し始めた。

一歩進むごとに、あの山小屋M3の煙の匂いが遠ざかり、代わりに僕の知っている「退屈な街」の匂いが鼻を突く。


「……おい、太陽。何辛気臭え顔してんだよ、通夜か? それとも誰か死んだか?」

前を歩くスバルが、振り返りもせずに声をかけてくる。

相変わらずトゲのある言い方だ。けれど、その声は雪解けの泥濘を歩く僕の背中を、不思議と温かく押し返してくれる。


「……誰も死んでないよ。ただ、……少し、寂しいなって思っただけだ」

僕が俯きながら答えると、スバルは鼻で笑って、道端の解け残った雪を乱暴に蹴り飛ばした。


「寂しいだぁ? 自分の家に帰るんだぞ。温けえ飯と、ふかふかのベッドが待ってんだろ。……こんなクソ寒い山小屋より、よっぽどマシなはずだぜ?」

スバルの言葉は正しい。正しいはずなのに、僕の心には冷たい風が吹き抜ける。


街に帰れば、僕はまた「天欺太陽」という空っぽの名前を背負わなきゃいけない。期待を反射するだけの、熱を持たない鏡のような毎日に。


「スバルは、……スバルは、街に来ないの?」


「行くわけねえだろ。あんな窮屈な場所、俺には似合わねえよ。……それに、じいちゃんを一人にするわけにもいかねえしな」


スバルが足を止めた。

そこは、雪が完全に途絶え、石畳の道へと繋がる「境界線」だった。

三日前、あんなに憎んでいたはずの街の灯りが、今は檻の入り口のように見えて、僕は一歩が踏み出せない。


「また、山小屋に行ってもいいかな...?」

弱々しく聞く僕の背中をスバルは軽く突き飛ばした。


「当たり前だろ?ほら、さっさと行け、てめぇの家族が待ってる」


少し渋い顔をしてしまったが彼には気づかれていなかった。.....いや、気づいていたのかもしれない。

けれど何も言わなかったのだろう。

なに、これが永遠の別れじゃない。また会いに行けばよいのだ。


「じゃあな、太陽。……元気でやれよ」

「...うん!」

最初とは違う感情で僕は目頭が熱くなるのを感じながらその「境界線」を超えた。

背中に受けていたスバルの「熱」が雫となり、石畳の冷たさに吸い込まれ、消えていく。

それでも、僕は一度も振り返らずに歩き出した。

振り返ってしまえば、今度こそ本当に動けなくなってしまうと分かっていたから。

星々が隠れ、現実が顔を出す「日の出」の時刻。

それを一つの区切りに見立てて投稿しました。

一週間ほどお待たせしてしまい、申し訳ありません。

次回更新まで少しお時間をいただきますが、また星が昇る頃にお会いできれば幸いです。

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― 新着の感想 ―
雪深い山中での幼馴染同士の再会という静かな導入から始まる本作は、互いに変わってしまった現在と、確かにそこにあった過去の絆が、ぎこちない会話や視線の揺れを通して丁寧に浮かび上がり、無愛想で距離を取ろうと…
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