第十六話『M102:泥を裁つ翡翠の糸』
カーテンの隙間から差し込む陽光が、寝静まった部屋に黄金の線を引く頃、スバルは目を覚ました。
そういえば、ユキ姉が「明日またこの居酒屋に来て頂戴」という言葉が、微かな果実の香りと共に脳裏をよぎる。朝食を済ませたら、リセを連れて顔を出すとしよう。
身支度を整え、隣室の扉を叩く。
「リセー?朝だぜ、いつまで夢の中にいるつもりだ?」
ノックしながらドアに向かって問いかける。
ガタン、ドアの奥から何かが落ちるような音が聞こえた。
大丈夫か?リセの野郎。
ギィィと、乾いた音を立てて扉が開いた。
「だ、大丈夫か?」
現れたリセの顔色は、陶器のような平時の白さを通り越し、まるで幽界の住人のように青ざめている。
「ん?ああ、問題ないよ。ただの二日酔っうぷ……」
「本当に大丈夫か?ユキ姉の所には俺だけで向か――」
遮るようにリセが震える手を挙げる。
「……いや、寧ろユキ姉の所に行った方が良い、とゆうことで肩貸してくれないかい?」
口元を押さえ、今にも崩れ落ちそうなリセの姿に、スバルは呆れを通り越して溜息をついた。
「はぁ、しゃあねえ。ちょっと我慢しろよ」
背中と膝裏に回した腕を通して、リセの華奢さを再確認した。
衝撃を与えないよう、静かに、かつ確実に重心を自分に引き寄せる。
「ちょ、ちょっと何やってるんだい!?」
顔を真っ赤にして、手で顔を覆うリセ。
「肩貸すったってお前と俺の身長差じゃこっちのが良いだろ?」
そう悪戯っぽく言った後、殴られるかもと思い静かに歯を食いしばる。
しかし、返ってきたのは予想に反して、消え入りそうな抗議の声だけだった。
「で、でも……っ!」
「でも?」
「……っ、もういい」
反論の言葉を飲み込み、彼女はそれ以上何も言わなくなった。
「じゃあ、行くか。恥ずかしいなら流泥受容で隠してやるから」
スバルの提案に、リセは顔を覆ったまま、何度も小刻みに頷いた。
「第四層:『流泥受容』」
発動されると二人を覆うように円形状の幕が広がっていく、スバルはリセの顔が外から見えないよう、彼女の胸元の泥を濃く調整した。
そのまま宿を出て、朝の活気に満ちた街を進む。道行く人々が、奇妙な魔術の球体が行き過ぎるのを不審げに眺めていたが、腕の中で縮こまっているリセがその視線に気づくことはなかった。
居酒屋に到着し、術を解いてリセを降ろそうとした、その時。
まるで計ったようなタイミングで、ユキ姉が店の扉を開けて現れた。
「二人ともおはよ♪ 朝っぱらから随分と熱烈な見せつけじゃないの。やるわねぇ」
二メートルを超す巨躯を揺らし、満面の笑みで軽口を叩いてくる。その圧倒的な圧には、何度会っても慣れる気がしない。
「おはようござ――」
「んっんん?」
言葉を遮るような咳払い。そう言えば、昨夜敬語はやめて欲しい的な事を言われてたな
「ごめんごめん、まだ慣れなくって。おはようユキ姉」
「うんうん、よくできました♪所でリセちゃんはどうしたの?」
「んぷ……ただの二日酔いだよ」
スバルの腕から力なく降りたリセの顔は、朝よりは幾分マシだが、依然として不健康な蒼白さを保っている。
「お酒弱いのにいつも飲み過ぎよリセちゃん、お茶目で可愛いけど程々にね」
「そうだぞ?突然笑い出したと思ったら、急に寝たり……別人かと思ったぜ」
「うっ……しばらくは自重するよ……」
「さて、じゃあ行きましょうか」
「行くってどこに?」
「昨日、言い忘れていたわね。訓練場よ。まあ、訓練場と言っても、ただの広大な平原なんだけど」
そう言い残し、迷いのない足取りで歩き出したユキ姉の背を追い、二人は未知の荒野へと足を踏み出した。
◆◆◆
「さて、ここが私達の訓練場よ」
ユキ姉が立ち止まった先には、遮るもの一つない無辺の平原が広がっていた。
「本当に……ただの平原だな」
スバルが呆気にとられた声を漏らすと、ユキ姉は茶目っ気たっぷりにリセを指差した。
「リセちゃんは、あそこの二本の樹の傍にいて頂戴」
その直後だった。
歩き出したリセの体が、重力を無視してふわりと宙に浮いた。否、浮いたのではない。陽光を吸い込むほどに漆黒の細糸が彼女を絡め取り、吊り上げたのだ。
糸は生き物のように編み上げられ、瞬く間に揺り籠となってリセを樹の間に固定した。
「これが私の星屑、『M102:紡錘星縷』よ」
「紡錘星縷……あの黒い糸を操るのが根源か?」
スバルは息を呑んだ。タイヨウやリセ以外の能力を間近で見るのは初めてだったが、その糸が放つ威圧感は尋常ではない。
「ええ、そうよ。私の星屑は黒い糸の生成と操作ができる能力、シンプルだけどとっても強いのよ?
……リセちゃんから、貴方の能力も似た系統だと聞いたわ。早速、実戦形式で見せてもらおうかしら」
先ほどまでの柔和な笑みが消え、ユキ姉の瞳に鋭い戦士の光が宿る。スバルは背筋に走る戦慄で悟った。
リセがこの人を勧めた本当の理由は、この圧倒的な「格」の差にあるのだと。
「望むところだ! 怪我しても恨みっこなしだぜ!」
虚勢を張りつつ、スバルは全神経を研ぎ澄ます。相手はリセが認めた手練れだ。
出し惜しみは死に直結する。
同時顕現――二層『泥岩装武』四層『流泥受容』!」
「ふふ、いいわ。泥臭くてとっても素敵よ?……でも、駄目ね。密度も練度も、まるでお話にならない」
指先から黒糸を滴らせ、ユキ姉が静かに距離を詰める。その瞳には、獲物を定める猛禽のような情熱が燃え盛っていた。
「変形態――『泥岩の槍』! 糸で何をする気か知らねえが、手加減なしで行くぜ!」
スバルは泥岩を鋭利な尖端へと固定し、地を蹴った。
――なんでだ?なんで動かねえ!?
「死んでも知らねえぞ、ユキ姉ッ!!」
渾身の一撃。槍は確実に彼女の腹部を捉えた――はずだった。
「だから言ったでしょ。全然足りないって」
衝突の刹那。硬質な泥岩の槍が、まるで微塵切りにされた野菜のように、音もなく崩壊し、パラパラと土塊に還った。スバルは目を見開く。
視線を一瞬たりとも逸らしていなかったはずなのに、彼女が何を仕掛けたのか、その片鱗すら捉えられなかった。
「今度は、こちらの番ね。――オラァッ!」
放たれたのは糸の術式ではない。岩石を削り出したかのような、剥き出しの鉄拳。
しめた! それなら『流泥受容』で無力化できる!
反撃の好機と確信した瞬間、絶望が奔った。スバルの守護を司るはずの流泥が、まるで水面に突き入れられた熱い鉄のごとく、その拳を素通りさせたのだ。
雄牛の膝頭ほどもある巨大な拳が、スバルの腹部を深々と抉る。
次の瞬間、世界から重力が消失した。吹き飛ばされた自覚すら追いつかぬまま、流れる景色が超速の線となって背後へ消えていく。
「……っ、が……お、げぇぇッ!」
逆流する胃液と血の混じった鉄錆の味。内臓が背骨に押し潰され、全身を焼火箸で掻き回されるような激痛が神経を焼き切る。
「情けないわね。いい、スバルちゃん? 確かに貴方は、有象無象の一般人よりは動けるわ。でも、それだけ。宝の持ち腐れなのよ。使い手がこれじゃ、星屑が泣いているわ」
深く、底冷えのするような溜息が耳に届く。
それを最後に、スバルの意識は深い闇の底へと沈んでいった。
14話で泥を舐めきったスバルが、次に直面するのは『練度の暴力』。ユキ姉という巨大な重力を前に、彼がどう足掻くのか見届けてください!
さて今回は、M102(りゅう座)が昇ってくる時間に合わせ投稿いたしました!
もし、ユキ姉面白い女(?)だと思ってくださいましたら【リアクション】や【ブクマ】お願いします!




