宵闇の湿地帯の死闘
精霊の森の焼け跡で救い出した民とロイを後方の防衛部隊へと無事に送り届け、第7小隊が再び進軍を開始して一日。日が傾きかけた頃、国境地帯の乾いた岩場が途切れ、低地へ下る傾斜の縁で、アルスは小隊に小休止を命じた。
眼下に広がるのは、見渡すかぎり灰色の濃霧に覆われたドルカス湿地帯である。冷たい風が吹き上がるたび、湿った泥と腐植土の饐えた匂いが鼻を突いた。
隊列の中ほどでは、これまでの戦闘で傷を負った兵たちが、仲間の肩を借りて腰を下ろしていた。動ける兵は、その傍らで黙々と装備を締め直している。
「全員、靴紐を結び直せ。泥に足を取られて靴を持っていかれたら、それだけで歩けなくなる」
アルスは自ら膝をつき、長靴の革紐を足首から脛にかけて二重に締め上げ、泥除けの麻布をきつく巻きつけた。解けないよう結び目を金具の裏へ押し込み、指先で張りを確認する。
「ガウェイン、重装甲の草摺の留め革を一段緩めておいてくれ。泥水を吸うと革が縮んで腰を痛める。予備の油布を脛当てに巻いておけば、泥の吸着を幾らか防げるはずだ」
「おう、手際がいいな隊長。士官学校じゃ泥遊びの講義でもあったのかよ」
「野営教本に書いてあったんだ。実戦で役に立つとは思わなかったけれどね」
アルスは苦笑しながら、今度はエレアの前に屈み込んだ。
「エレア、毒消し草の小袋は全員に配れたかい?」
「はい。湿地のヒルや毒虫に効く乾燥草を、一人二袋ずつ革帯へ留めました。水で濡らして傷口に押し当てれば、毒の回りを抑えられます」
「助かるよ。セリア、上空の風向はどうだ」
「風は北西からだけど、低空は霧が巻いてて気流が乱れてるよ。フェザーの蹄に泥がこびりつかないよう油を引いてあるから、足を取られずに低木を蹴って飛び上がれるよ」
「頼む。……決して一人で突っ込まず、歩幅を合わせて進むんだ。霧が濃い。万一はぐれた時は、湿地を抜けた先の北の高台を合流地点とする。いいな」
小隊の装備を隅々まで点検し終えたアルスの背後で、黒衣の客員指南役ヴェルが腕を組み、静かにその様子を見届けていた。銀の仮面の奥で、わずかに満足げな呼気が漏れる。
「準備を怠らぬ者は、泥濘でも命を拾う」
ヴェルの短い言葉に、アルスは小さく頷いた。立ち上がって隊員の顔を見渡し、霧の底へ視線を落とす。
「……行くぞ」
アルスの号令を受け、第7小隊は身を引き締め、濃霧が澱む低地へと一歩を踏み出した。
傾斜を下るにつれ、岩場に残っていた日の名残は霧に呑まれて消えた。足元が乾いた岩から湿った土へ、土から泥へと変わり、あたりは夜の暗さに沈んでいく。
水面から立ち上る腐泥の臭気と、青白く揺らめく燐光が、視界を塞ぐ乳白色の濃霧を不気味に照らし出していた。
ドルカス湿地帯。一歩足を踏み入れれば、底の知れない泥濘が膝まで獲物を呑み込もうと吸い付いてくる、魔の沼沢地である。
「くそっ……! 足が抜けねえ! 泥が鎧にまとわりついてきやがる!」
前方を警戒していたガウェインが、苛立たしげに悪態をついた。大柄な体躯と重装甲が災いし、一歩進むごとにずぶりと深い泥の中へ沈み込んでいく。豪傑自慢の彼でさえ、この悪路では思うように身動きが取れない。
「ガウェイン、焦るな! 無理に引き抜こうとすると余計に沈む!」
アルスは小隊長として声を張り上げながら、自らの足元を慎重に見極めた。太陽長剣の柄を握る掌には、じっとりと冷たい汗が滲んでいる。刀身に微かな黄金の燐光を灯してみるものの、立ち込める深い霧に光を呑み込まれ、わずか数歩先すら判然としない。
「アルス隊長、ごめん……! 上空からの偵察を試みてるけど、霧が濃すぎる上に水没樹の枝が邪魔で、フェザーの視界が確保できない!」
頭上から、悔しさを滲ませたセリアの凛とした声が降ってくる。愛馬である天馬フェザー号の手綱を巧みに捌いているが、湿地特有の入り組んだ巨木の枝と濃霧に阻まれ、天馬騎士本来の機動力を発揮できずにいた。
じとじととした闇の中、ぴちゃり、と水面を叩く不吉な音が響いた。
ひとつではない。十、二十と、湿った足音が周囲の泥濘から無数に湧き上がってくる。
「囲まれたぞ! 水面の下だ!」
ガウェインの叫びと同時に、泥水が激しく跳ね上がった。
現れたのは、黒褐色の鱗に覆われた湿地の魔獣――『マッドリッパー』の群れ。さらにその背後には、闇に紛れて刃を構える影の帝国シルヴァニアの潜伏兵たちの姿があった。
「グルアアアッ!」
ぬめりとした体表を持つ巨大な蜥蜴のような魔獣が、泥を蹴立ててアルスへと飛びかかってくる。鎌のように鋭い前脚が、夜気を切り裂いて迫る。
視界の端では、エレアが聖木杖を掲げていた。二度、三度と展開された神聖結界の光が、マッドリッパーの別個体の爪や激しい泥飛沫を弾き返し、仲間たちを守っている。背後を信じたアルスは、眼前に迫る魔獣を睨み据えた。
「させるかッ!」
アルスは泥に足をとられながらも、体幹を捻って太陽長剣を振るった。黄金の軌跡が宙を裂き、魔獣の胴体を浅く切り裂く。だが、足場が沈み込んで踏ん張りが利かず、本来の踏み込みの鋭さが出ない。仕留め損ねた魔獣が、泥飛沫を撒き散らしながら再び跳躍する。
「小癪なトカゲ野郎が! 隊長から離れろ!」
ガウェインが大盾で魔獣の突進を受け止め、横から重斧を豪快に振り抜いた。分厚い刃が魔獣を叩き潰すが、泥に足を取られて体勢を大きく崩してしまう。その隙を見逃さず、泥水の中から飛び出した帝国の工作兵が、ガウェインの無防備な背後へと肉薄した。
「しまっ――」
凶刃がガウェインの首筋へ届くかと思われた刹那、漆黒の外套が夜霧を裂いた。
黒衣の客員指南役――ヴェルだった。
足を取られるはずの泥濘の上を、まるで乾いた平地を滑るかのような超絶した歩法で駆け抜ける。漆黒の双極魔剣が一閃した。目にも留まらぬ速さで放たれた一撃が、工作兵の武器ごと胸板を正確無比に両断する。
「ぐあッ……!」
崩れ落ちる敵を一瞥もせず、ヴェルは低く重厚な声で告げた。
「足元の泥を意識しすぎるな。重心を腰に落とし、足裏全体で泥の反発を受け流せ」
「た、助かったぜ指南役! だが言うほど簡単じゃねえ!」
「慣れろ。死にたくなければな」
ヴェルは短く冷徹に言い置いて、漆黒の外套を翻して別の敵へと向かった。その卓越した剣技と索敵眼は、視界を奪う霧の中でも一切の狂いを見せない。アルスの背後に迫っていた別の魔獣も、ヴェルがすれ違いざまに放った逆袈裟の一撃で瞬く間に沈黙した。
(すごい……どうしてあの人は、こんな暗闇と悪路の中で正確に動けるんだ……?)
アルスは息を呑みながら、胸元にある父レグルスが残していった日輪のペンダントを無意識に握りしめた。幼い頃に見上げた父の背中。その偉大な幻影と、今目の前で圧倒的な強さを見せつける仮面の指南役の姿が、一瞬だけ重なって見える。
だが、見惚れている暇はなかった。
次々と湧き出る工作兵の槍が、泥の中から鋭く突き出される。アルスは必死に剣で受け流すが、足を取られて体勢が流れたところへ、横から飛来した投げナイフが二の腕を深く裂いた。
「くっ……!」
「アルス様ッ!」
悲鳴のような切迫した声とともに、泥飛沫を上げて駆け寄る小さな人影があった。
エレアだ。
彼女は純白の法衣の裾を泥水で真っ黒に汚しながら、躊躇することなくアルスの傍らへと駆け寄り、その泥濘の中に膝をついた。
「エレア、前に出ちゃ危ない! 下がっていろ!」
「嫌です! アルス様が怪我をしているのに、下がっていられるわけがありません!」
エレアは毅然と言い放ち、片手で聖木杖を泥に突き立てると、もう一方の手でアルスの血に汚れた手を強く握りしめた。杖の先端に埋め込まれた神聖な宝玉が、淡く清らかな光を放ち始める。
「大いなる星樹の息吹よ、痛みを拭い、光の加護を満たせ――『ルミナス・ヒール』!」
エレアの祈りとともに、温かな光の粒子がアルスの傷口を包み込んだ。
じわりとした心地よい温もりが広がり、引き裂かれた皮膚と筋肉が瞬く間に塞がっていく。先ほどまでの痛みが嘘のように引いていくのを感じ、アルスは目を見張った。
けれど、治癒を終えたエレアの額にはびっしりと玉の汗が浮かび、肩で激しく息をしていた。
周囲を見渡せば、前線で肩口を強打していたガウェインも、彼女の治癒によって傷を塞がれていた。低空を舞うセリアも、エレアが先回りして展開した神聖結界に幾度も救われている。泥に足を取られながら小隊全員の命を繋ぎ止めるため、エレアは自らの魔力を削り続けていたのだ。
「お嬢ちゃん、すまねえな! おかげで腕が動くぜ!」
ガウェインが重斧を構え直しながら叫ぶ。
「はい……! お気をつけて、ガウェインさん!」
エレアは気丈に微笑んで応えたが、立ち上がろうとした足が泥に絡まり、ふらりと身体を傾かせた。
「エレア!」
アルスは咄嗟に腕を伸ばし、彼女の細い肩をしっかりと抱きとめた。
泥に塗れた籠手越しにも伝わってくる、彼女の華奢な身体の震え。魔力の過剰な消費による疲労は明白だった。
「無理をするな、エレア。顔が真っ青じゃないか……」
アルスが眉を寄せて気遣うと、エレアは泥にまみれたアルスの胸甲にそっと額を預け、震える吐息を整えながら困ったように微笑んだ。法衣の裾は泥水を吸って重く鉛のようで、幾度も放った神聖結界の反動でその指先は氷のように冷たくなっていた。
「アルス様こそ……小隊長だからって、みんなを守ろうと気負って、一番無茶をしています。傷は治せても、腕の鎖帷子があんなに裂けて真っ赤に染まっていたんですよ?」
「それは……僕がみんなの盾にならなきゃいけないからだ。もう塞がったんだし、どうってことない」
「私の役目は、その盾を支えることです。だから……どうか私に、無理をしないでなんて言わないでください」
エレアが胸甲からゆっくりと顔を上げた。
至近距離で見つめ合う。泥に汚れた彼女の白い頬。幼い頃、怪我をして泣きべそをかいていた自分に、いつも優しくハンカチを当ててくれた少女の面影が、今の凛とした面差しに重なる。
なにか言わなければと思うのに、言葉が出てこない。アルスはただ、その頬から目を逸らせずにいた。
だが、感傷を断ち切るように、湿地の奥から水音と軍靴の足音が重なり合って響いてきた。
「アルス隊長! 東側の水路から、帝国の増援部隊が接近してる! このままじゃ完全に包囲される!」
低空を旋回するセリアが、切迫した警告を叫んだ。
霧の奥から無数の松明の灯りが揺らめき、工作兵たちの気配が膨れ上がっていく。この泥濘の中央で大部隊に囲まれれば全滅は免れない。
アルスは唇を噛み、即座に決断を下した。
「負傷した兵を連れて、先に北の高台へ抜けてくれ! ガウェイン、セリア、道を切り拓いてくれ! ヴェル殿、隊と負傷兵たちの護衛を頼みます!」
「なっ、隊長! だが殿はどうするんでえ!?」
「僕とエレアで敵を引きつける! エレアの『神聖な閃光』がなければ、この濃霧と泥濘の中、負傷兵を連れた本隊は追撃を振り切れない。エレアは先ほどからの治療で魔力が底をつきかけている。新たな治癒魔法はもう使えないが、目眩ましの聖光なら放てる。僕が彼女を護りながら時間を稼ぐ。ガウェイン、みんなを頼む!」
「……馬鹿野郎、無茶言うんじゃねえ! だが、隊長の命令なら従うしかねえな! ヴェル殿、行こうぜ! 道をこじ開ける!」
ガウェインが先陣を切って泥を蹴立て、負傷兵に肩を貸す兵たちが列を組んでその背を追う。上空のセリアが低空から浅瀬の確かな足場を指し示し、ヴェルが先頭へ並んで泥濘を切り拓いていく。
去り際、ヴェルは一瞬だけ足を止め、銀の仮面の奥からアルスを振り返った。魔剣の柄を握る手にぐっと力が籠もったが、何も言わずに漆黒の外套を翻し、部隊の盾となって霧の向こうへ消えていった。
残されたアルスは、背後で杖を構えるエレアを守るように立ち塞がった。
「行くぞ、エレア!」
「はい、アルス様!」
迫り来る工作兵たちに対し、エレアが聖木杖を振り抜いて目眩ましの閃光を放つ。白銀の光に目を焼かれた敵が怯んだ瞬間、アルスの太陽長剣が黄金の軌跡を描き、鋭い斬撃で敵の陣形を切り裂いた。
背後から忍び寄る魔獣の気配に、アルスは振り向きざまに太陽長剣を薙ぎ払った。鱗の裂ける手応えが、泥に沈んだ足へ重く返る。
「――退くぞ、エレア」
アルスはエレアの手を取った。松明の灯りが集まる東とは逆の西へ、包囲の綻びを抜けて泥濘の奥へと身を滑り込ませる。追手を西の深い沼地へ引きずり回しながら、夜半の闇に紛れて大きく北へ回り込んだ。
足を泥から引き抜くたび、重心を腰に落とし、足裏全体で反発を受け流す。ヴェルの言葉をなぞって運ぶと、膝まで沈むはずの泥が幾らか浅く感じられた。エレアの歩幅に合わせ、泥の浅い所を選んで進む。
泥を掻き分けて霧の奥へ進み続け、やがて二人は、湿地の北の外れ近く、高台の裾野にぽつりと浮かぶ、わずかな枯れ木の島へと辿り着いた。
周囲は深い泥と濃霧に閉ざされ、追手の索敵部隊が遠くで水を跳ね上げる音が聞こえる。立ち込める濃霧と漆黒の闇に遮られ、高台へ抜ける正確な方角を見失っていた。下手に動き回れば底の知れない泥濘の深みに足を取られ、敵の前に自滅しかねない。あえて足跡をこの島の方角へ残し、敵の追撃部隊を孤島へと誘い込むことで本隊から目を逸らせる。敵が周囲を捜索する間、息を潜めて時間を稼ぎ、夜明けの反撃の機を待つしかなかった。
張り詰めた静寂。冷たい夜風と湿気が、泥水で濡れた肌から容赦なく体温を奪っていく。
敵に居場所を悟られる恐れがあるため、火を焚くことは到底許されない。暗闇の底で、アルスとエレアは枯れ木の根元に身を寄せ合い、息を潜めていた。
脛に絡んだ泥を払うと、泥除けの麻布の縁にヒルが一匹吸い付いていた。アルスは革帯の小袋から乾燥草を取り出し、水筒の水で湿らせて押し当てる。ヒルは身を縮め、ぽとりと泥に落ちた。泥除けの麻布をきつく巻き、革紐を二重に締めていなければ、吸い口は脛の肉まで届いていただろう。
「寒いか、エレア」
「少しだけ……でも、アルス様が隣にいてくれるから、大丈夫です」
小刻みに震える唇でそう答えるエレアに、アルスは泥水を被らずに済んでいた肩マントを外し、まだ温もりの残る裏地を彼女の華奢な肩へとそっと掛けた。
「アルス様、これではあなたが凍えてしまいます……」
「僕は鎧の下に着込んでいるし、体も動かしていたから平気だ。それより、少しでも温まってくれ」
アルスが優しく促すと、エレアはマントをぎゅっと抱きしめ、小さく頷いた。
そして、彼女は聖木杖の先端に、ごく僅かな魔力を通した。
ぽう、と柔らかな光が灯る。
それは敵に見つからないよう極限まで絞られた、蛍火のような淡く小さな乳白色の灯火。熱を持たないはずの聖光の輝きが、冷え切った二人の手元と横顔を、じんわりと押し包むように照らし出した。
「綺麗だな……」
「ふふ……私の魔法は、ガウェインさんの斧やセリアさんの槍みたいに敵を倒すことはできませんけれど……こうして、アルス様の足元を照らすことくらいなら、できますから」
エレアの細い指先が、泥で汚れたアルスの頬へと自然に伸びた。
「アルス様、頬に泥がついています……」
指先が肌に触れるか触れないかの距離で、エレアはハッと息を呑んだ。
自分の仕草に気づき、白い頬が一瞬にして朱に染まる。伸ばしかけた手を慌てて引っ込めるエレアの手首を、アルスは思わず掴みそうになり――泥まみれの無骨な籠手が目に入って、寸前で指を止めた。
行き場をなくした手を、エレアは膝の上でそっと握る。触れられそうで、触れられない。その半歩が、どうしても縮まらなかった。
言葉にならない想いだけが、冷たい夜気にほどけていった。
「エレア」
「……はい」
「……昔みたいに、二人だけの時は『アルス』って呼んでくれないか。小隊長とか、アルス様とかじゃなくてさ」
アルスが少し照れくさそうに笑うと、エレアは驚いたように目を丸くし、それから花が綻ぶように微笑んだ。
「……はい、アルス」
「僕、小隊長に任命されてから、ずっと焦ってたんだ。失踪した父さんの背中ばかり追って、立派な騎士にならなきゃ、隊長らしく振る舞わなきゃって、空回りばかりして……。昨日の神殿でも、僕はあの子の手を掴めなかった。救えなかった命の重さに押し潰されそうになって……」
アルスは胸の日輪ペンダントにそっと触れ、自嘲気味に微笑んだ。
「でも、君が泥に膝をついて、必死に僕の手を握って治癒魔法をかけてくれた時……思い出したんだ。僕が本当に守りたいのは、名誉や誇りなんかじゃない。こういう……君とみんなの温もりなんだって」
「アルス……」
エレアの翡翠色の瞳が潤み、聖木杖の微かな光を反射してきらきらと揺らめいた。
「私……アルスの役に立てているでしょうか。足手まといになっていないでしょうか」
「何言ってるんだ。エレアがいなきゃ、僕はとうに折れてる。君が信じて隣にいてくれるから、僕は前を向いて剣を振れるんだ」
「……はい。私、もっともっとお祈りして、強い魔法使いになります。アルスがどんなに遠くへ行っても、その背中に追いつけるように」
二人の距離が、ほんのわずかだけ近づく。
互いの白い吐息が混ざり合い、重ね合わされそうになる影。初々しくも切ない沈黙が、静まり返った湿地の闇を優しく包み込んでいた。
どれほどそうしていたのか。荒かった呼吸はいつしか浅く長いものに変わり、エレアの肩の震えも、もう伝わってこない。濡れた籠手の内側で、指先にようやく血が通い始めた。遠くの水音は霧の底に留まったまま、まだ近づいてはこない。アルスは枯れ木の幹に背を預け、冷えた息をひとつ長く吐いた。
敵は闇雲に追ってきたわけではなかった。濃霧と泥濘に阻まれながらも、索敵兵を扇状に散らし、泥に残された足跡とわずかな水音を頼りに、じわじわと包囲の輪を縮めていたのだ。
息を潜めて寒さに耐えるうち、東の空の底がわずかに白み始めた頃、水音が四方からじりじりと近づいてきた。泥に残した足跡を完全に捉えられたのだろう。霧が揺れ、敵の最後の追撃部隊が枯れ木の島を取り囲むように迫ってきた。
「来たか」
アルスが立ち上がり、太陽長剣を力強く抜き放つ。
「エレア、行くぞ! 一気に高台まで突き抜ける!」
「はい、アルス!」
エレアが立ち上がり、聖木杖を天へ掲げた。残された魔力を絞り出すように、杖の先端が一度だけ強く瞬く。
夜霧が白く裂け、目映い聖光が敵の群れの視界を灼いた。閃光が闇を払った一瞬、立ち並ぶ水没樹の切れ間の先に、北の高台へと続く岩がちな斜面の裾野がくっきりと浮かび上がった。足を止めずに駆け抜ければ、手が届く距離だ。
光が消えると同時に、エレアの膝が折れた。杖に縋った指先が小刻みに震え、額に脂汗が滲んでいる。
「エレア!」
アルスは泥を踏みしめ、光に目を灼かれて隊列を乱した敵の群れの、最も薄い一点へ、太陽長剣を叩き込んだ。
「道を――開けろッ!」
渾身の一閃が立ちはだかる魔獣を両断し、返す刃で背後から迫る工作兵を切り伏せる。敵を倒しきる余力はない。抜けるための隙間だけを斬り開くと、アルスは崩れかけたエレアを抱き起こし、その肩をしっかりと支えて引き寄せた。
「走るんだ、エレア!」
エレアの身体を必死に支えながら、二人は泥濘を蹴破り、高台へと続く斜面を駆け上がった。背後から、立て直した敵の水音と怒号が追ってくる。
足裏に伝わる感触が、粘る泥から砂利混じりの硬い土へ変わる。岩肌の露出した北の高台に出た瞬間、頭上を黒い影が横切った。
天馬フェザー号が低空へ滑り込み、セリアの槍が追ってきた魔獣の鼻先を薙ぐ。岩陰から踏み出したガウェインの重斧が、斜面を這い上がる敵兵を叩き返した。その脇で漆黒の外套が閃き、ヴェルの双極魔剣が、残る工作兵を無言で斬り伏せる。
敵の足並みが乱れ、水音は霧の奥へ引いていった。
「隊長! お嬢ちゃん!」
ガウェインの野太い声に続いて、天馬から飛び降りたセリアが駆け寄ってくる。
「二人とも、無事だったんだね!」
「ああ、何とかなったよ」
アルスはエレアを岩の根元に座らせ、ようやく安堵の息を吐き出した。
合流した岩陰では、先行した兵たちが負傷者を横たえ、手当てを進めている。ヴェルは追手が引いた方角を一瞥し、泥に汚れた外套の裾を無言で払った。
そのとき、東の地平線の彼方から、夜明けの光が射し込んできた。
宵闇を払い、立ち込めていた深い霧を黄金色に染め上げていく朝の陽光。
誰の身体も泥にまみれ、鎧も法衣もボロボロで、疲労は限界に達していた。
けれど、ふと顔を見合わせたアルスとエレアの唇に、自然と柔らかな笑みがこぼれ落ちる。
泥だらけの顔についた朝露が、朝日を弾いて細かく光っていた。
(第9話・完 / 次話へ続く)
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過酷な泥濘の闇を仲間とともに越えたアルスは、朝の光の中でエレアと交わした淡い想いと確かな温もりを胸に、湿地の死線を抜けて光満ちる明日へと歩みを進めた。
■ 登場人物ステータス(第9話終了時点)
- アルス (20歳):Lv 9 / 第7小隊長・聖騎士(太陽長剣・ソーラーブレード)
- ヴェル (40歳):Lv ?? / 客員指南役(真・陽光一閃 / 極光氷結波・双極魔導)
- エレア (19歳):Lv 7 / 白魔導士(神聖結界・フォースシールド / ルミナス・ヒール・治癒魔法)
- ガウェイン (32歳):Lv 14 / 重斧騎士(アイアン・ガード / 鉄壁の大盾)
- セリア (22歳):Lv 13 / 天馬騎士(スカイ・ストライク / 愛馬フェザー号)




