精霊の森の紅蓮地獄
宿場町での防衛戦を終え、人々の救護と防壁の補強を見届けた第7小隊は、翌朝、次なる作戦目標である国境『境界大城門』を目指して進軍を開始していた。
見通しの良い主街道を進めば、国境沿いに配備された帝国の長距離砲台や偵察網に隊の動きを察知される危険がある。そこでアルスたちは、街道の東側に広がる大森林地帯――『精霊の森』の古道を通る隠密ルートを選択したのだ。
本来であれば、太古の巨木が幾重にも重なる樹冠で頭上を覆い、清冽な湧水と精霊の息吹に満たされた聖域である。森の集落にはエルフや亜人の民が静かに暮らし、二百年戦争の最中にあっても、境界の平穏を辛うじて保ち続けているはずの場所だった。
だが、樹海の外縁へと差し掛かった小隊の足を止めたのは、地平を覆い尽くす不吉な黒煙の柱だった。
宿場町から敗走した帝国の残党が、追撃を遮断する焦土作戦として、自爆兵器の火炎術式を見境なく撒き散らして森を焼き討ちにしたのだ。
逃げ惑う住人たちの悲鳴と、樹木が爆ぜる不気味な地鳴りが、焦熱の風に乗って容赦なく吹きつけてくる。
「全員、急ぐぞ! 逃げ遅れた人を一人でも多く森の外へ逃がすんだ!」
アルスの号令とともに樹海へ踏み込んだ瞬間――大気が爆ぜる轟音と、肌を灼く猛烈な熱波が、突入した彼らを真正面から叩きつけた。
木漏れ日と静寂の聖域であった森は、今や見る影もなく紅蓮の業火に呑み込まれていた。天を衝く黒煙が昼の太陽を覆い隠し、樹冠を舐め尽くす猛火が、赤黒い壁となって行く手を塞いでいる。
「――ひどい……。森が、精霊たちが泣いています……!」
白魔導士のエレアが、愛用の聖木杖を胸元で強く抱きしめながら悲痛な声を上げた。
舞い散る火の粉と熱風の渦の中、行き場を失った下級精霊たちの微かな燐光が、まるで千々に砕け散る星屑のように明滅しては消えていく。その気配は、森そのものが苦悶の悲鳴を上げているかのようだった。
「帝国軍の野郎どもめ、とんでもねえ置き土産を残してくれやがったな! 退路を断つために魔導兵器を自爆させて、見境なしに火炎術式を撒き散らしやがったんだ!」
重斧使いのガウェインが、身の丈ほどもある大盾を構えて苦々しく舌打ちする。
彼らの視界の先、燃え盛る樹木が倒れ込む小道では、森の集落で暮らしていたエルフや亜人の民、さらには逃げ場を失った森の小動物たちが、火煙に巻かれながら逃げ惑っていた。子を抱いた母親が足をもつれさせて倒れ、炎の壁に退路を塞がれた老人たちが絶望の声を上げている。
「全隊、救助を最優先とする! 一般兵は森の外縁で延焼を防ぎ、避難民の誘導路を確保! ガウェイン、エレア、セリア、僕に続け! 逃げ遅れた民を森の外へ逃がすんだ!」
第7小隊の隊長、アルスは太陽長剣を抜き放ち、声を張り上げた。
「でもアルス隊長、火の回りが早すぎる! 煙で前方の視界が完全に遮られてて、どの道が生きててどこが塞がってるのか判別できない!」
上空から愛馬フェザー号を巧みに操り、低空へと舞い降りた天馬騎士セリアが叫ぶ。彼女の端麗な顔にも黒い煤がつき、天馬の白い翼が熱風に煽られて激しく羽ばたいていた。
消火など到底追いつかない規模の火災だ。一歩進むべき道を誤れば、小隊ごと炎の袋小路に閉じ込められ、一網打尽に焼き尽くされる。
「くそっ、風向きが乱れて……! どうすれば……!」
焦燥に駆られ、歯を食いしばるアルスの肩に、不意に、ずしりと重い掌が置かれた。
「――慌てるな、アルス」
低く、鋼のように落ち着いた声音。
銀の半面仮面をつけ、漆黒の外套を揺らして進み出たのは、客員指南役のヴェルだった。
引き締まった体躯から放たれる気配は、この炎熱の嵐の中にあってなお、絶対零度の静寂を保っている。
「ヴェル殿……!」
「焦燥は視界を狭め、判断を鈍らせる。お前が揺らげば、救えるはずの命も零れ落ちるぞ」
仮面の奥の鋭利な双眸が、アルスを射抜くように見据える。その眼差しには、厳しい指南役としての峻厳さと――胸が締め付けられるほどに深い、無条件の慈しみが宿っていた。
ヴェルは腰の双極魔剣に手をかけることもなく、猛煙が渦巻く樹林へ耳を澄ませた。地鳴りの響きと熱風の対流、火勢の偏りを、研ぎ澄まされた感覚で読み取っている。
「……アルス、前を見るな。煙の奥の地鳴りと、風の通り道を聞け」
「え……?」
「前方三十歩、左の大樹の根元が炭化して軋んでいる。まもなく爆ぜるぞ。道が塞がれる前に右の斜面を切り拓かせろ。熱の上昇気流から見て、脱出路は東の涸れ沢だ。そして――三つ目の角の岩棚に、咳き込む微かな声がする。逃げ遅れた母子だ」
煙に阻まれた状況から、音と熱気の流れを読み切って的確に推し量る指南役。アルスは息を呑んだが、迷っている猶予は一瞬もなかった。ヴェルの言葉を信じ、小隊長として即座に声を張り上げる。
「ガウェイン! 前方三十歩、左の大樹が倒れる! 大盾で右手の斜面を押し広げて退路を作れ!」
「な、なにぃ!? この煙で見え……チッ、隊長の号令だ! うおおおおッ!」
ガウェインが唸りを上げて突進し、大盾を構えて崩れ落ちた土砂と燃えさかる灌木を強引に押し広げた。その刹那、凄まじい爆発音とともに左手の大樹がへし折れ、猛烈な火柱を上げて本道へと叩きつけられた。
巨木が落ちる寸前、ガウェインが押し広げた右手の岩陰へと、避難民の群れが雪崩を打って滑り込む。
「す、すげえ……! 本当に倒れてきやがった……!」
「驚いている暇はないよ、ガウェイン! ――セリア!」
アルスは間髪を入れず上空を仰いだ。
「東の涸れ沢を探してくれ! 岩肌が露出して火が回っていないはずだ。フェザーの風圧で煙を散らし、民に合図を!」
「了解、アルス隊長!」
セリアが手綱を強く引くと、フェザー号が宙を蹴り、純白の翼で濃煙を切り裂きながら東の空へと急旋回した。風圧で濃煙が一瞬だけ吹き払われ、涸れ沢の岩場が露わになる。
「エレア、涸れ沢の入り口に耐火結界を! 熱気と煙を遮断して、民の呼吸を確保するんだ!」
「はいっ! 光よ、災いを退け、命の道を拓いて……聖なる風の帳を――『神聖結界』!」
エレアが聖木杖を天に掲げると、清らかな蒼白い光のドームが展開され、煙に巻かれて倒れ込んでいた民たちを包み込んだ。
仲間たちが次々と道を拓いていく。その背中を見届け、アルスは太陽長剣を正眼に構え直した。
「角の奥に母子が取り残されている……僕が救いに行く!」
ヴェルが静かに、少年の背中を一押しするように告げた。
「前だけを見ろ。背中は私が守る」
「――はいっ!」
アルスは火の粉を蹴散らして三つ目の角へ駆け込み、崩れ落ちていた燃え木を太陽長剣の一閃で叩き割った。岩棚の窪みで幼子を庇って震えていた母親の手を力強く引き、二人を抱きかかえるようにして立ち上がらせる。
「大丈夫です、退路は拓きました! 僕に続いて!」
アルスは熱いものが胸に込み上げるのを感じながら、母子を庇い、結界の張られた涸れ沢へと全力で駆け抜けた。
後方から、重斧を豪快に振り回して炎の残骸を薙ぎ払うガウェインの声が響く。
「ガハハハッ! まったく、指南役の気配りには恐れ入るぜ! アルスの坊主だけじゃねえ、俺たちのことまで背中に目があるみたいに庇いやがる。誰一人かすり傷一つ負わせねえつもりかよ! ……昔のレグルス隊長を思い出しちまうな、おい!」
ガウェインの何気ない言葉に、アルスの胸がどきりと跳ねた。
――父、レグルス。
かつて王国の英雄として名を馳せ、ガウェインが命を預けた男。
寡黙で、厳しく、けれど誰よりも温かく仲間と家族を守ったという父。
(ヴェル殿は……本当に、ただの客員指南役なんだろうか?)
仮面で隠された素顔。卓越した剣技。そして、自分たちを見る時の、あの痛切なまでに優しい光。
もしや、行方を絶った父が、姿を変えて自分を見守ってくれているのではないか――そんな淡い期待が、アルスの胸中をかすめる。
だが、今はそんな思索に耽っている暇はなかった。
「ガウェイン、エレア! 避難路の維持を頼む! セリア、上空からまだ逃げ遅れている者がいないか、生存者の捜索を急げ!」
「了解、アルス隊長! フェザー、もう一度低空を旋回よ!」
「アルス様、結界を広げます! 皆さん、こっちへ走ってください!」
五人の呼吸が、過酷な極限状況の中で見事に噛み合っていた。
ガウェインが大盾で火炎を押し返し、エレアが清らかな光で有毒な煙を浄化し、セリアが空から最短の脱出路を指示し、アルスが先頭に立って民を誘導し、ヴェルが死角からの崩落や自爆兵器の残骸を完璧に断ち切る。
誰一人として足を止めず、誰一人として諦めなかった。
「――集落の民は、確認できた全員を森の外へ!」
セリアの報告が響いた時、突入したアルスたち五人は、ようやく避難民の列を燃え盛る森の際まで送り届けていた。
「はぁ……はぁ……っ!」
アルスはその場に膝をつき、肩で激しく息をした。
煤まみれになった腕、焦げた鎧。全身の筋肉が軋むような疲労感に襲われていたが、草原へ転がり出た人々の姿に、ひとまず胸を撫で下ろす。
激しい消火と救護の末、西の空が赤黒く染まり、夕暮れの残光が森の煙に呑まれ始めていた。森の外縁では、第7小隊の一般兵たちが負傷者の手当てと避難路の確保を懸命に進めている。
避難を終えたエルフや亜人の民たちが、親は子を抱きしめ、友は無事を確かめ合って涙を流している。
「助かった……本当に助かったんだ……!」
「騎士様たちのおかげです……! ありがとうございます、ありがとうございます……!」
森の民たちが、アルスたちを取り囲み、次々と感謝の祈りを捧げてくる。
だが、その輪の中で、一組のエルフの老夫婦だけが、青ざめた顔で燃え盛る森の中心を振り返り続けていた。
「……薬師の子らは。ロイと、リーネは、一緒じゃないのか」
老エルフの震える声に、アルスの背筋が凍りついた。
「森の中心の神殿で、動けない病人の世話をしていた双子じゃ。病人を担架へ乗せて先に逃がし、あの子らは、容態を保つための薬草をみんなに配り終えるまで残ると言って……神殿に留まったのじゃ……!」
アルスは弾かれたように森へ向き直った。黒煙の柱が、エルフの神殿があるはずの方角から、ひときわ濃く噴き上がっている。
「ヴェル殿!」
だがヴェルは、既にその方角を見据えていた。仮面の奥の双眸が、煙のカーテンの遥か奥を貫いている。
「……いる。神殿の最奥、聖泉の祠に、小さな気配が二つ。まだ、生きている」
「なら、今すぐ――!」
駆け出そうとしたアルスの肩を、鋼のように重い手が掴んで引き戻した。
「ならぬ」
ヴェルの声は低く、鋭かった。
「神殿へ渡る石造りの水道橋は、猛火で半ばが崩落している。焦熱の煙が充満する神殿へ今無策で飛び込めば、双子もろとも焼かれて終わる」
「そんな悠長な……! その間に、あの子たちが……!」
「アルス」
仮面の男が、静かに、しかし有無を言わさぬ響きで名を呼んだ。
「焦るな。焦燥は命を奪う。……お前が動揺すれば隊が崩れるぞ。隊長なら、今何をなすべきか自ら道を見出し、号令を下せ」
「――っ!」
「空からの気流、崩れかけた水道橋の足場、神殿内の退路。構造を見極めて隊を動かせ。お前が指揮を執るんだ」
アルスは胸の日輪ペンダントを強く握りしめ、大きく息を吸い込んで前を向いた。
焦りを気迫へと塗り替え、若き小隊長としての声を張り上げる。
「――全員、聞いてくれ! 一般兵はここで避難民の護衛を続け、後送の準備を整えてくれ! セリアは空から気流と進入路の確認! ガウェインとエレアは僕と共に崩れかけた水道橋の足場を押さえる! 火が回りきる前に、必ずあの子たちを救い出すぞ!」
「応ッ!」とガウェインが大盾を構え直し、セリアが「了解!」と天馬を促し、エレアが「はいっ!」と聖木杖を握り締めた。
アルスは焼け落ちていく森を睨みつけたまま、日輪ペンダントを握りしめる指が白くなるほど、拳を固めた。
(待っていてくれ。……絶対に、助け出す)
背後で老エルフの夫婦が肩を寄せ合い、声を殺して祈っている。その脇でヴェルは、拳を固めるアルスの後ろ姿をじっと見つめ、何かを堪えるように右脇腹へ手を当てていた。
黒煙は、なおも夕闇を焦がし続けていた。
(第7話・完 / 次話へ続く)
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森の民を救い出しても炎の檻には幼い二つの命が残り、黒煙の下で神殿への道を探すアルスの拳にはなお救えると信じる力がこもる一方、ヴェルは燃え盛る森を前に少年が抱く無邪気な自負の危うさを見つめていた。
■ 登場人物ステータス(第7話終了時点)
- アルス (20歳):Lv 7 / 第7小隊長・聖騎士(太陽剣・ソーラーブレード)
- ヴェル (40歳):Lv ?? / 客員指南役(真・陽光一閃 / 極光氷結波・双極魔導)
- エレア (19歳):Lv 5 / 白魔導士(フォース・シールド / 治癒魔法)
- ガウェイン (32歳):Lv 12 / 重斧騎士(アイアン・ガード / 鉄壁の大盾)
- セリア (22歳):Lv 11 / 天馬騎士(スカイ・ストライク / 愛馬フェザー号)




