第四十一話 俺と帰るか
馬蹄の音が近づく。
泥を跳ね上げて現れた先頭の黒馬を見た瞬間。
「……シオン殿下?」
黒髪が風に煽られていた。
いつもの完璧な王太子の姿じゃない。
外套の裾は泥で汚れ、馬も汗をかいている。
後ろにはヴァルディアの騎士たち。
(来たーーーー!!)
人生で初めて。
黒髪の監禁王子を見て、心の底から「私の王子様だ」と思った。
シオンが馬から降りる。
離宮側の兵が動いた。
「ここはリュシエール王家の――」
「知っている」
低い一言で、空気が止まる。
シオンは剣へ手を掛けない。
怒鳴りもしなかった。
ただ私を見た。
「エリナ」
「はい」
「怪我は」
「ありません」
「帰りたいか」
「帰りたいです!」
一秒も迷わなかった。
シオンはそこで初めて、私の方へ一歩進んだ。
でも掴まない。
腕を引かない。
差し出したのは、手だけだった。
「俺と帰るか」
「帰ります!」
即答。
(帰る帰る帰る!! 今なら監禁王子の手が救命ロープに見える!!)
私は自分からその手を取った。
大きな手が握り返す。
その瞬間、周囲の兵も使用人も息を呑んだ。
王家の離宮へ招かれた子爵令嬢が。
リュシエールの王子ではなく。
別国の王太子の手を、自分で選んだ。
(待って。これ後世の外交資料みたいな絵面になってない!? 私はただ学院へ帰りたいだけ!!)
「待って」
イヴァンの声。
振り返る。
灰銀色の瞳が、私たちのつないだ手を見ていた。
「彼女は自分で僕を選んだ」
胸が痛んだ。
そうだ。
私は選んだ。
デートも。
キスも。
二度目のキスも。
あれは全部、本当に私がしたかった。
だからこそ苦しい。
シオンは否定しなかった。
「そうだな」
私が見上げる。
「なら――」
イヴァンが何か言うより先に。
シオンが私の手を握ったまま、静かに続けた。
「だが今は、俺を選んだ」
「…………」
(ぐっっっっ)
(何その台詞ーーーー!!)
心臓を正面から刺された。
シオンは過去の私を否定しなかった。
私の選択を「間違いだった」と奪わなかった。
ただ。
今の私が選んだと、言った。
(少女漫画の王子様みたいなこと言うな! 本物の王子様だった!!)
イヴァンはしばらく黙っていた。
やがて、いつものように微笑む。
「……そうだね」
誰も私を引き止めなかった。
門は最初から最後まで、ずっと開いていた。
帰路。
昨夜の雨で小さな石橋の一部が崩れていた。
「迂回しますか?」
「時間がかかる」
シオンが私を見る。
「抱き上げる。嫌か」
「歩けます!」
「震えているぞ」
「…………」
言われて初めて気づいた。
膝が震えていた。
寒さじゃない。
怖かったのだ。
ずっと。
私は唇を噛んだ。
「……抱えてください。お願いします」
次の瞬間。
膝裏と背中へ腕が入る。
「わっ」
身体が浮いた。
(またお姫様抱っこ!! 最近の私、移動手段が王子の腕になってない!?)
「首に掴まれ」
「はい」
両腕を首へ回す。
身体全部が、シオンの胸元へ密着した。
硬い胸板。
外套越しの熱。
歩くたびに揺れる身体。
耳を澄まさなくても分かる、低く強い鼓動。
さっきまで冷たかった指先が、じわじわ温まっていく。
(……安心する)
言うな、と言われた言葉が頭に浮かぶ。
でも今。
本当にそう思った。
「……来てくれて、ありがとうございます」
「ああ」
「どうして分かったんですか?」
「日帰りだと聞いていた」
「……はい」
「夜になっても戻らなかった。それに、お前が俺の印章を持っていたから、離宮側からヴァルディア使節館にも滞在連絡が入った」
「印章が?」
「王太子の印章を預かった人間が予定外に戻らない。確認しない理由がない」
シオンの声が少し低くなる。
「しかも連絡は『本人は自由意思で滞在している』だった」
(怖っ)
今なら、その言葉の意味が分かる。
あの重すぎる印章、ちゃんと救難信号みたいな役に立ってた……!
「それで朝一番に?」
「ああ」
「呼んでないのに」
「そうだな、呼ばれてない」
「え?」
シオンが私を抱いたまま、まっすぐ前を見る。
「それでも来たんだ」
「…………」
(心臓、終了)
今それを言う!?
弱ってる時に!?
しかも私を抱っこしたまま!?
(反則! 恋愛ゲームなら課金スチル!!)
私は顔を隠すように、彼の胸元へ額を押しつけた。
馬車へ乗った瞬間。
全部が切れた。
「……っ」
涙が出た。
「エリナ」
「大丈夫です」
全然大丈夫じゃなかった。
怖かった。
好きになりかけた人が、私には何もしないまま世界を囲っていた。
自分の判断まで信じられなくなりそうだった。
気づけば私は。
向かいへ座るはずのシオンの胸へ、自分からしがみついていた。
「……すみません」
「離れるか」
「嫌です」
即答してから、鼻をすすった。
「今日は」
上着を握る。
「今夜は……離さないで」
長い沈黙。
やがて。
「分かった」
両腕が回る。
一方は背中。
もう一方は腰。
今までより明確に。
逃げる隙間がなくなるほど、深く抱き寄せられた。
(あったかい)
(今だけ。今日だけ。怖かったから)
私はそう思いながら、もっと胸へ顔を埋めた。
耳元へ、低い声が落ちる。
「その言葉、二度目だな」
ぞくりとした。
次の瞬間。
腰を抱く腕の力が、もう一段強くなった。




