第一話 新聞記事の女に婚約者を取られました
婚約者に呼び出された時、私はてっきり結婚式の話だと思っていた。
だって、そうでしょう。
私と彼は幼い頃からの婚約者で、あと半年もすれば正式に結婚する予定だったから。
恋焦がれて夜も眠れないような大恋愛ではない。
でも、穏やかで、約束を守って、私が焼き菓子の最後の一つを食べても怒らない人だった。
夫になるなら、こういう人でいい。
そう思っていた。
だから私は、応接室のテーブルに並んだ艶々の林檎タルトを見て、今日はいい話だと勝手に確信した。
「このタルト、好きなの覚えててくれたんですね」
「ああ」
彼は笑った。
……いや。
笑ったというより、死刑宣告をする人みたいな顔で口角だけ上げた。
(なにその顔。林檎タルトに毒でも入ってる?)
私は警戒しつつ一口食べた。
薄く重ねた林檎は蜜みたいに甘く、端だけが香ばしく焦げている。
さくりと崩れた生地から、温かなバターの香りがふわっと広がった。
「おいしい……」
思わず笑みがこぼれた。
幸せ。
いやほんと、焼きたての林檎タルトって人間を裏切らない。
――婚約者は裏切った。
「エリナ。婚約を解消したい」
「…………」
咀嚼が止まった。
「はい?」
彼は震える手で、一枚の新聞を差し出した。
そこには、知らない少女の肖像画が載っていた。
柔らかな髪を結んだ、可愛らしい女の子。
記事によれば、先日の水害で怪我人の救護を手伝い、その後も被災した子どもたちのために奔走しているらしい。
「……この方と結婚したいんですか?」
「違う!」
ものすごい勢いで否定された。
「僕程度の男が、彼女に相手にされるとも思っていない」
「はい」
「彼女と結婚できるなどとは夢にも思っていない」
「はい」
「手紙を送るつもりもない」
「はい」
「迷惑はかけたくないから、会いに行くつもりすらない」
「はい。……では、なぜ私たちの婚約が消えるんです?」
自分でも怖いくらい冷静な声が出た。
彼は新聞の少女を見つめた。
それはもう、聖画を見る信徒みたいな目だった。
「この記事を読んで……心を奪われたんだ」
「…………はい?」
「こんなにも人のために生きられる人がいるのかと思った。僕は彼女の人生を、一人の人間として、遠くからでも見届けたい」
「…………」
「そんな気持ちを抱いたまま君と結婚するのは、君に不誠実だ」
何を言っているのか、全部わかる。
全部わかるからこそ、何一つわからねー。
「つまり」
私は確認した。
「あなたは、一度も会ったことがない女性の記事を新聞で読んで」
「ああ」
「その人のファンになって」
「……そう言われると軽く聞こえるが」
「ファンになって」
「……ああ」
「そのファン活動に誠実であるために、私との婚約を解消すると」
「本当にすまない」
私は新聞を見た。
少女は何も知らず、紙面の中で爽やかに笑っている。
憎めるわけがない。
だってこの子、何もしてない。
私の婚約者に会ってすらいない。
知らない土地で人助けしただけだ。
それだけでこんな見ず知らずのアンポンタンに陰ながら見初められるなんて、むしろ被害者。
「私、新聞記事に負けたんですか?」
「……申し訳ない」
「本人ですらなく?」
「申し訳ない」
「あなた、彼女に存在を認識すらされてないんですよね?」
「もちろんだ」
「なんでそこだけちょっと誇らしげなんですか!?」
さすがに声が裏返った。
彼はいい人だった。
だから、腹が立つ。
浮気なら思いっきり殴れたのに。
新しい女と抱き合っていたならそれこそ新聞の一面を飾るほど派手に晒し上げてざまぁしてみたかった。
でもこの男は、何もしていない。
他の女へ一方的に感動して、その気持ちを隠して私と結婚する方が失礼だと、わざわざ人生を正直に申告してきただけだ。
(誠実さって、ときどき人を刺すんだな……)
結局、婚約は解消された。
帰宅して、自室のベッドに仰向けになる。
天井が白い。
私の未来も白い。
結婚したら彼の領地へ行くつもりだった。
領地経営を覚えて、家を切り盛りして、そのうち子どもでもできるのかな、と。
私はそのための勉強しかしてこなかった。
それが今日。
新聞一枚で、消えた。
「……私の人生って、一体何なの……」
枕を顔に押しつけた。
泣きたい。
泣きたいけど、悲しいのか腹が立つのか呆れているのか、自分でもよくわからない。
ただ一つわかる。
「もう男に人生預けるなんて、やだ……」
その時、扉が叩かれた。
母が顔を出す。
「エリナ。少しいい?」
「今なら人生相談以外でお願いします」
「ちょうど人生相談よ」
「帰ってください」
「だったら、セレスタ高等学院へ行ってみたら?」
枕から顔だけ出した。
「学院?」
「ええ。半年間の高等教養課程に空きがあるそうよ。あなた、元々成績は悪くなかったでしょう?」
確かに。
結婚するから必要ないと思って、進学しなかっただけだ。
「王侯貴族の方も多いそうよ。今はちょうど、四王国の王子様たちも滞在しているんですって」
「…………王子様」
今日、婚約者を失った女に何を勧めているのだろう、この母は。
私はゆっくり起き上がった。
「お母様」
「なあに?」
「……王子様とか、もう結構です」
――この時の私は、まだ知らなかった。
その学院にいる四人の王子が、私の人生を新聞記事どころではない勢いでめちゃくちゃにしに来ることを。




