探偵駆け出し
残り一分、会場内で声が上がった。
「煙だぁ!」
大きな原田の声だった。やる気が出たのか酔っているだけなのか分からないが、大声は効果的だ。耳元から弥田のカウントが聞こえてくる。
「十秒前」
自分でも時刻を確認したくなるが、無駄な動作は緊張が出かねない。ただ、数が進むのを待った。
「三、二、一」
ゼロ、をかき消すように宴会場はけたたましい警報音に包まれた。「火事だぁ!」という叫び声に会場内は戸惑いが支配したように見えた。
「鳴った」
報告しながらすぐに潮井は動き出した。これからフロア内にいる従業員はどんどん集まってくるはずだ。その前に抜け出してしまわなければ。スタッフルームから荷物を取り、従業員用通路に向かった。いずれ誤作動だったと騒ぎは収まるだろうが、事情を知らない従業員に見られると、今なぜか帰ろうとしている潮井は怪しまれてしまう。
「潮井さん」
息が止まるかと思った。だが、通路にたたずむ人物は事情を知っている面接官だった。
「こちらへ」
面接官は階段の踊り場まで潮井を連れて行った。
「急ぎと伺っているので制服の返却は後日で結構。ただし、絶対に外で見られないでください」
「分かりました」
潮井は目の前で全身を覆うバイクスーツを上下に着て見せた。
「扉を出てすぐ右手が近道です」
面接官に礼をして先を急ぐ。言われた通りに進むと誰にも会わず外に出ることが出来た。とめて置いたバイクからフルフェイスの方のヘルメットを被って、潮井は川へ直行した。
現場へ近づいていくとバイクのエンジン音に加えて、別の大きな音も聞こえてきた。何かトラブルの可能性も考えて目を凝らしながら進んだが、騒がしい割に通行人が焦っている様子はない。道路の端にバイクを停めると、工事らしき音が聞こえた。
音の大きさのわりに工事車両が一台も見当たらないのが不思議だったが、ひとまず弥田が待っているはずの船へ向かう。だんだんと工事の音が強くなって外すなと言われてなくてもヘルメットを外したくないほどだ。弥田の用意した作戦に見当がついた。
何隻か並ぶ中でプルプル水面を揺らしている船に近づいていく。これは伊達井のものと種類が違うが、きっと知った顔がいるはずだと中を覗いた。
「よっ!」と唇が動き、座っていた弥田はこちらに手を挙げた。時間を確認すると、慎重に船から降りて潮井の隣にやってきた。
「こんくらい近くないとォ、聞こえないよねェ!」
彼は耳栓をつけて鼓膜を守っていたので、潮井は頷きを返事の代わりにした。
「そうそう喋んなくていいからァ! 依頼人出てくるまで待ちィ!」
弥田が隣の船を指差した。アラームが鳴っているのかすら判別できなかったので、試しに触れる位置まで行くと、うっすら嫌な音が聞き取れた。納得して戻ろうとしたとき、伊達井の船から人が降りてきた。
「え……」
レイだった。彼女もまた弥田の所へ向かおうとしたのだろう。だが、間に立つ怪しい男の存在に二の足を踏まされていると船体に映る自分の姿で想像がついた。潮井はさっさと弥田の後ろまで移動し、有能な上司が片付けてくれることに期待した。
警戒しながらも急ぎ足で寄ってきたレイに弥田はまず笑いかけ、次に文字を打ち込んだスマホの画面を見せた。
「証拠の内容は確認しましたね?」
レイが頷く。
「少し先にバイクが止めてあります。乗って、そのまま交番へどうぞ」
弥田が手を差し出してきたので、潮井はバイクの鍵を渡した。レイが不審そうに見つめているが、弥田は有無を言わさず鍵を握らせた。
「私の助手です。早く行って」
その文字でレイはこの場を立ち去った。バイクが道路を走って行くのを見ると、弥田は潮井に船へ乗るよう促した。
「出発するからァ、ちょっとずつ音量下げてェ!」
潮井は中に積まれた大きなスピーカーの近くに座らされ、弥田の操縦で変わる景色に合わせてつまみを回した。やがて無音になると弥田が耳栓を取ったのが見えた。
「俺のヘルメットも、脱いでいい?」
「どうぞーお疲れだったね」
「依頼は完遂したと思って良いんかな」
「そうだね、最終結果はどうあれウチの仕事はここまで。顛末も気になる?」
「そりゃ俺も知り合いも関わってるから」
「数日待てば報酬ついでに依頼主のカオリさんが教えてくれるさ。同席する?」
この先の話を出されて潮井は驚いた。この業務を持ってアルバイトは終了、明日からは銀行勤務に戻る認識だった。弥田の中では違ったのだろうかと考えていると、彼が続けた。
「オレはどっちでもいいよ! せっかく成果をあげた会社に戻らないのはもったいないし。まあ、顔の知られてない助手も欲しいんだけどね」
「スカウトされてんだ、俺」
探偵事務所に転職、と考えた時ふと疑問がわいてきた。
「今回は調査費の代わりにバイトしてたけど、普通に働いたらいくらもらえるんだ?」
「ちょっと、計算してみないと分かんない。人雇ったことないからさ……」
「なら、即転職は無理だな。せめて試用期間を設けて条件のすり合わせをしないと」
「じゃあそうしよ! 次の休日までに仮の契約案作っておくから相談しよう」
忙しすぎる期間が終わったと思ったのに、もう新たな予定が入ってしまった。だが、潮井にとって考える価値のある提案だった。
数日後、自宅から乗り慣れたバイクにまたがって潮井は弥田の事務所へやってきた。閉ざされたドアの前でインターホンを鳴らす。一呼吸待つと返事と共に鍵が開いた。
「失礼、助手が来ていまして。ど~ぞ~」
余計な靴が無いので来客ではなさそうだと思いつつ部屋に入ると、弥田が通話を終えたところだった。
「カオリさんから今日の店と時間、指定されたよ」
「じゃあさっそく俺も仕事か。早く契約の話も進めたいな」
「今から書式を整えるから、そう焦らないで。お昼ご飯でも買ってきなよ二人分」
「それは経費?」
「とりあえずおごって」
解消しなければならない問題がすぐに湧いて出てくる。仕方なく、友人との食事と思って外に出ることにした。
「あ! これあげるっ」
ポンッと弥田が投げ渡してきたものを捕まえる。
「いちいち面倒だから。紛失厳禁ね」
「分かった。二十分はかけずに戻ってくる」
外に出て玄関のドアを閉めると、自動でカチッと施錠された音がした。受け取った合鍵は帰ってくるときの為に自分のキーケースの中へしまった。本日のバイトは業務に含まれないらしい、買い出しから始まった。




