最終章(第10話):21世紀の光の中で、不条理な血のバトンは繋がれる
お化粧をする私の手が、完全に止まっていた。
鏡の前で、私は岩崎軍曹が九八式軍衣の胸ポケットから取り出した、端っこがボロボロに擦り切れた一枚の古いモノクロ写真を凝視したまま、身体を硬直させていた。
白無垢の着物を着てはにかむように微笑んでいる女性。私の実家の仏壇の横に飾られている、若い頃の私の『ひいおばあちゃん』その人の姿。
「……鉄蔵さん。この女性、佳子さんは……私のひいおばあちゃんです」
感情のダムが決壊したように、私の目から一雫の涙がポロリと溢れ、頬を伝って床に落ちた。
ベッドの横に浮いていた軍曹は、略帽の奥の目を丸くして、呆然と私を見つめた。
『う、嘘だろ……? 佐倉殿、それは本当のことか……ッ!?』
「嘘なんか言いません。私の実家は旭川です。お仏壇にこれと全く同じ遺影がありますし、古いアルバムでも何度も見ました……」
私が涙を拭いながら答えると、岩崎軍曹はカチコチの強面をこれ以上ないほどに歪ませ、驚愕と大パニックで叫んだ。
『ってことは、俺は佐倉殿の、ヒイおじいさんになるのかッ!? 待て、俺は、俺はゆうべも、さっきの朝も、自分のひ孫になるおなごのおっぱいもお尻もガッツリ触ってしまったぞ……ッ! 帝国陸軍の軍曹として、人道的にそれは本当にいいのかッ!?』
「いいわけないでしょバカ!!」
私は怒鳴りながらも、目から溢れ出る涙が止まらなかった。
現実の歴史において、ひいおばあちゃんである佳子さんは、戦後に別の男性と再婚している。鉄蔵さんが阿寒の冷たいレンガの底で一人きりで死線を彷徨っている間、現世のひいおばあちゃんは別の人生を歩んでいたのだ。
ただ、鉄蔵さんと過ごしたあの『たった一日の結婚生活』の中で、宿っていた大切な命のバトン――鉄蔵さんの血のディテールは、確かにひいおばあちゃんの手によって、現代の私へと21世紀に繋がれていた。
「きっと、ひいおばあちゃんが……佳子さんが、私たちを引き合わせてくれたんだわ……」
私が泣きながら呟くと、岩崎軍曹は三十年式弾薬盒のベルトを軋ませ、深く、静かに項垂れた。
『……そうか。戦死の公報が入って、佳子ちゃんも覚悟を決めて、必死に戦後を生き抜いてくれたのだな。俺の血を、繋いで……』
軍曹のカーキ色の軍衣が、ビジネスホテルの窓から差し込む朝の光に溶けるように、ゆっくりと半透明に透け始めていく。自分の愛した人が戦後を生き抜き、そして目の前にいる愛おしいひ孫に巡り会えたことで、80年間彼をこの現世に縛り付けていたカチコチな未練が、優しく解き放たれていくのが分かった。
『……だが、佐倉殿。貴様と出会えて、本当によかった。ありがとうな。……これでようやく、俺も戦友たちの待つあの世にいけると思うよ』
「鉄蔵さん……」
消えゆく28歳のヒイおじいちゃんの姿に、私は胸を締め付けられ、ただただ大号泣していた。
すると、岩崎軍曹は最後に、その強面をいつもの救いようのないニヤニヤ顔へと戻し、どストレートにこう言い放った。
『最後に、冥土の土産に、両方のおっぱいを吸わせてくれないか?』
「――この、どこまでもバカな軍曹めがァァァァァァァァッッッ!!!!!」
私は涙で視界を濡らしたまま、右手の掌に霊感パワーをフルに込め、渾身の力で岩崎軍曹の顔面めがけて最後の物理ビンタを振り抜いた。
――ガッ。
しかし、私の右手は、激しく空を切った。
……そこには、もう誰もいなかった。
朝の光が差し込むビジネスホテルのシングルルームには、わずかな『ピース』のタバコの残り香と、カチコチに張り詰めていた戦線の終わりを告げる、静かな静寂だけが残されていた。
「……さようなら、鉄蔵さん」
私はベッドの横の何もない空間を見つめたまま、ただひたすらに、涙が止まらなかった。
21世紀の釧路の朝、ピンクのハスラーの鍵を握りしめながら、ミリタリー知識ゼロの廃墟女子大生・佐倉萌の夏休み道東一人旅は、時空を超えた愛と不条理の戦線を戦い抜き、これ以上ないほどに美しく、エモい結末を迎えるのだった。
(第一章・阿寒川河口トーチカ 完)




