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帝國の命運  作者: 藤原秀光
激動の八月篇
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第19話 / 報道狂騒局 (昭和二十年八月十日)

 まだ終焉を迎えたわけではない。軍事課予算班長稲田中佐は陸相訓示後、地下防空壕を立ち去る際に上司の陸軍大佐荒田興功軍事課長(陸士三十五期)と共に阿藤陸相を訪ねた。


 策がある。へし折られた精神の再建を図る為、稲田は策を練った。陸相訓示の布告である。士気の昴揚、軍内ならず陸相の熱意を世に知らしめる。ポツダム宣言受諾という名の講和の姿勢と敢闘精神を盛り込んだ和戦両様の備えありとして、戦闘態勢を顕示すべきとの考えがあった。


「課長殿。一つ策があります」


 落ち込む素振りすら見せない。本土決戦思想に自信がある稲田中佐らしい身の切り換え方だ。打ち明けられた荒田課長は即座に二つ返事で快諾した。


「よし、稲田。閣下の下へ行くぞ」


「ハイッ!」

 

 稲田は威勢よく返答すると、二人は口一文字に結ぶ阿藤陸相の下へ向かった。


「閣下。お話がございます。稲田の発案を受けたのですが、翌朝の新聞紙面に閣下の談話を掲載してみてはいかがでしょうか。今この省部内に於いてではなく、拡く()らせることで我が軍はより統制され、動揺収束が図られるでしょう。士気向上も発揮されると思います」


「恐れ多くも陸戦の武人精神を大いに奮わせられるお役目は大臣閣下以外に居られません。この稲田の考え、如何でしょうか」


 退場時に気落ちしている将校の後ろ姿とやらを見つめていた阿藤陸相には思うところがあった。彼らの奮起する材料を欲していた。陸軍は一糸(みだ)れず、和戦両様だ、と彼らに伝えても、発奮材料に欠けている部分を憂慮していた。


「それは過度な期待だな。しかし、稲田。君はあの場でよくも考えていたな。課長が吞むのならいいではないのか。稲田の発案ならば、君が起草して呉れ。荒田課長に取り次いで貰いなさい」


「ありがとうございます。すぐさまに取り掛かります」


 稲田は軍事課に戻ると、蒸し暑さと省内に漂う退廃的雰囲気を切り裂くように筆を走らせた。これほどまでに筆が進むと中々に面白い。


(諦めるなよ、諦めるな……)


 稲田は米英支蘇の主要四か國を相手取り、敗色濃厚となった戦況を過去に重ね合わせた。元軍襲来と湊川の戦いである。元軍襲来から皇御國を救った宰相北条時宗を支えた「莫煩悩」、「驀直進前」の仏教思想。そして負け戦と分かり切っているものの、湊川で足利軍と刃を交え、敗死した忠勇無双の士なる楠木正成の姿、弟・楠木正季が遺した「七生報國」に代表される楠公精神。これらを陸相から訴えられて、武器を持ち、起たぬ者は居ない。

 

 先哲に学べが如く、未曽有の状況を乗り越える為に闘魂を訴える檄文を起草した。最早、地下壕内の陸相訓示とはかけ離れた、戦意昂揚を作用しかねない過激な迄の檄文に仕上がった。


 稲田中佐は荒田軍事課長に自信満々に提出した。熱の籠った「陸相訓示」の草案に荒田はニンマリとした笑みを浮かべた。きっと軍内は沸き立つであろうと思った。


「いいではないか。すぐに大臣閣下らにご決裁を得るよう努めてみるよ」


 稲田草稿を承認した荒田課長は間もなくして、陸相の部屋を訪れたが、十四時から予定の閣議へ向かわれ、(もぬけ)蛻の殻であった。陸軍次官若松只一中将(陸士二十六期)、梅津参謀総長らも聖断を受け、軍事運用や軍紀統制、非常の際の動きなどを練るに至り、荒田課長は決裁を得られず程なくして引き返すしかなかった。


 荒田課長が軍事課に戻ると「課長。突然のところよろしいでしょうか」と、部外者の将校に声をかけられた。声の主は内閣情報局情報官の親林朝省陸軍大佐(陸士三十七期)である。下村宏内閣情報局総裁の談話が今晩のラヂオ放送と翌朝の新聞で発表されることを知り、駆け付けた次第であるという。


「それで、総裁の談話が何だ?」


「総裁閣下の談話について内容如何は不明ですが、同時に阿藤閣下の談話も発表されるべきかと思いました」


「思いました……か。個人的見解を述べに来たのだな?」


「いえ、陸相閣下の談話を発表すべきです。陸軍側も意思表示をすべきです。総裁談話は國民に向けて、陸相談話は國内外の将兵に向けてです。士気に関わりますし、陸軍一体の再認識を図るべきです。今、行われている閣議で情報局総裁の談話が練られている筈です」


 云い方を「思う」から「べき」と変え、親林大佐は阿藤大臣に近しい荒田軍事課長に対し、陸相談話発表の要あると力説した。


「今先ほどウチの稲田中佐が起草した大臣談話の文案があるのだが、多忙を極めておられるが故に閣下らのご決裁を得られなかった。今この時間に直談判なんて到底できないだろう」


「うぅ……そうですか。稲田中佐も同様に考えていたとは、互いになんとも悔しい結果です。失礼いたしました」


 肩を落としながら親林大佐は軍事課を退出した。荒田は、彼の言動から何かやりかねない危うさを憶えた。


 当の稲田も彼らの会話を聴き流してはいなかった。訓示の速やかなる発表ができないことを知り、やや落胆した。ましてや文官の考える談話に軟弱性を孕んでやいないか、不安を抱いた。早急に仕上げたのだから、まさしく「適時」である発表機会を失うには勿体なさに苛まれた。


 荒田課長は稲田中佐を自机に呼び出した。


「悪いが、閣下には取り合えなかった。だから発表の段取りは確保できない。一旦、君に原稿を返すよ」


「はい。陸相談話が発表されるには今日がいい機会でしたが、出直しましょう」


 稲田中佐は自席に戻ると、草稿を改めて一読した。


 (ポ宣言受諾の御聖断が下り、動揺しかねない我が組織には安定せしめる為に速やかなる大臣訓示の発表は俺も必要に思う。和戦両様の構えをより促し、敢闘精神の減退を防がねばならないが)


 やがて荒田課長が軍事課から席を離れると、図ったかのように親林大佐が稲田中佐の下へ現れた。


「稲田。キミの草案とやらを見せて呉れないか? 私は何とか今晩に総裁談話と並立するよう頑張る。十九時からのラヂオ放送に、それに明朝の新聞掲載だ」


 上司の決裁なく発表する独断行為に稲田中佐は身を退きたくもなったのだが、親林大佐の本気具合に押され、これを好機であると捉え、草稿を渡した。


「ど、どうか……」


「ありがとう」


 先ほどの肩落とす姿から一変、親林大佐は意気揚々と急いで駆けて行った。大佐は陸軍報道部に戻ると、草稿を印刷にかけ、すぐさま各報道各社へ配布した。上司である報道部部長上田昌雄少将(陸士三十一期)の知らないところで大佐は動き回った。


 まるで台風の如し。迅速なる親林大佐に周囲は巻き込まれた。下村宏総裁、阿藤大臣共々泡を食らった格好だ。


 親林大佐の要求を受けた報道各社は情報局、内閣、外務省に問い合わせした。ポ宣言受諾というのに、布告内容はどうも戦意を駆り立てるかのような文章に照会した。


 連絡を受けた迫水久常内閣書記官長は掲載ストップを図る為に内閣情報局の下村宏総裁の下へ向かった。情報局の方でも局員らが下村総裁に向かって、掲載を止めるべきとの言葉を浴びせていた。


「総裁閣下。我々が先ほどの閣議で取り決めた閣下の談話と相反する内容ではないですか。ここは各社へ新聞掲載を取り止めるよう強く求めます」


「えぇ。書記官長、でも阿藤大臣の名で書かれているからと云う。陸軍報道部からの要請です」


「では、先ほどまで我々の閣議に出席されていた阿藤さんの仕込み刀だったという訳ですか。あの厳しい表情でいて、実はこの奇策を練っていたとは……いや、阿藤さんはそのような方ではない。どうせ陸軍の過激派による行為ではないかと思います。いずれにせよ、速やかに掲載取り止めに舵を切ってくださいよ。頼みます」


「分りました。すぐに阿藤さんに相談してみるか……」


 下村総裁は阿藤大臣に架電し、協議を図った。阿藤大臣は混乱をきたし、申し訳なくも何とか報じるよう頭を下げた。


「この度はすみません。どうにか明日の朝刊掲載をお願いいたします。どうにか……」


 下村総裁の心中には、現状に反発必至であろう陸軍将校に過度な刺激を与えてはならない恐れと、私情を汲んでやるべきなのかどうか、思いが交錯していた。御前会議から間もなくしての発表であるから阿藤大臣の手で練られた文言ではないことを確信した。


 突き上げを食らうことを恐れているだろうか、それとも将兵が喜ぶなら、という武人の情けをかけてやっているのか。阿藤大臣にも、苦渋の決断であろうと思いを馳せる。


 最早仕方ない、と下村情報局総裁は呑むしかなかった。


「何だよ、それ。大臣の名で書かれた布告だァ? 閣下の名を騙った行為だ。承服せんよ」


 やがて吉積軍務局長の耳にも部下の独走の件が入った。吉積局長は朝の陸相訓示の後に自らの口で、陸軍は一糸(みだ)れず、統制を保つ旨を要請していた。此度の独走はそれを反故されたかのように思えた。許してならないとして、報道を取り止めるよう血走ったが、新聞の印刷時間に間に合わなかった。


 印刷された新聞には「全軍将兵に告ぐ」と記された陸相談話が掲載されていたのだった。

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