第六十二話
家に檸檬ちゃんがやってきた。家って言っても勿論みかちゃん家なんだけど、檸檬ちゃんが男の人と一緒にやってきた。てゆーか、この人見たことある!!!
「……あの、お笑い芸人の、ザグリサブレの餅丸さんですか??」
と僕が玄関で対面して早々、興奮気味に話しかけると、定番ボケをかましてくれて、つい拍手してしまった。「存在がユルまるい、マスコットの餅丸で〜す」って。補足して置くと、ザグリサブレはツッコミの鳩ヶ谷さんがかなり世間に向けて尖ったことを言うけれど、それをボケの餅丸さんがまーるく収めてくれるバランスの取れた良いコンビなのだ。
「何で!?私のときは全然知らなかったのにぃ!!」
その時はみかちゃんが僕にドルオタ暴露してなかったし、僕が個人的にお笑い好きだから、あの時はだいたい見るものと言えばお笑い番組かニュース番組だった。だから今になって、お笑いと音楽番組が同時にやっているとチャンネル争奪戦になる。
「ふふっ、ごめんなさい。僕、ザクリサブレさんのネタ動画が大好きで、よく見させてもらってるんです!」
「わあ、ありがとうございます!」
「ふふっ、特に郵便配達員のネタがすごい面白くて……」
「ポスト、ポスト、Where is POST.」
「あははっ、それです!そのリズム感がクセになっちゃうんですよね〜!」
僕と餅丸さんで盛り上がっているというか、僕が一方的にテンション高くなって話していると、檸檬ちゃんがちょっぴり拗ねた様子で
「兄ちゃんまだ帰ってこないの?」
って聞いてきた。前々から言っていたように、みかちゃんは今病院に行っていて、もうすぐ帰るくらいの時間だ、けどまだもう少しかかるみたいだった。
「何か飲みますか?」と暇を持て余している僕は二人に聞き、檸檬ちゃんにはオレンジジュースを、餅丸さんにはお茶を、リクエストに沿って出した。お茶菓子もない家で、まあみかちゃんのチョコレートは別だけど、僕ができるもてなしはこれくらいだった。餅丸さんから頂いた手土産開けていいのかわかんないし。三人でテーブルを囲んで、僕が大人ぶってアイスコーヒーを飲んでいると、檸檬ちゃんから「苦そうに飲むね!」ってからかわれた。この苦さもみかちゃんが好んでいるのだとしたら美味しい。
「ところで、二人はここへ何しに来たんですか?」
「それは、兄ちゃんが帰るまでは秘密だよっ!」
って彼女は楽しそうに笑う。檸檬ちゃんもみかちゃんのこと、すごい好きだよな。
「檸檬ちゃんも、大概ですね」
「何が?どういう意味?」
笑顔で聞いてくる時点で、察してんじゃん。
「どうしたらそんなに仲が良い兄妹になれるんですか?」
「仲良いかな?普通だと思うけど……」
何処が?僕の感覚では異常に思える。
「そうですか?僕の兄は僕に対して、他人行儀に無視してきますよ」
「何で!?こんな可愛い弟を?!!」
檸檬ちゃんの弟になった覚えはないけど、檸檬ちゃんは僕のことを弟扱いしてくれているんだと思った。「ただいま」とみかちゃんの声が玄関からしてきた。僕はすぐさま玄関に駆け寄って行った。ビニール袋を持ったみかちゃん。お茶菓子を買ってきてくれたんだ!僕はそれを受け取ってからみかちゃんにおかえりのハグをした。
「お帰りなさい。検査はどうだったの?異常はない?」
「大丈夫だよ、いつも通り」
薬飲めば症状は安定している。ただ良くもなっていない。ずっとこの肺炎に付き合っていかなきゃいけないのかな?みかちゃんの苦しそうな咳、聞いてるとこちらまで息が詰まる。リビングに入っていったみかちゃんは、餅丸さんにどうもと会釈して、
「檸檬の兄の塩 蜜柑です」
ってしっかりと自己紹介した。と思えば、お茶菓子を用意している僕の元へ寄ってきて、「あの芸人さん知ってる?」って小声で聞いてきた。「僕、何度も見せたことあるよ?みかちゃん笑ってたじゃん」きっと、酒のせいで覚えてないなコレ。
「お笑い芸人をやっております。ザグリサブレの餅丸、改め本名、望月 徳之助と申します。この度はお招き頂きありがとうございます」
本名全く知らなかったし、いつもと雰囲気が全然違う。みかちゃんが来てからさらに緊張しているのがこっちにも分かる。
「それで、本日はどのようなご用件で?」
「それは……私はただ今、檸檬さんと真剣にお付き合いさせて頂いておりまして、私は彼女の努力家で何事も一生懸命な姿に強く惹かれ、生涯にわたって彼女を愛し続けることを心に誓い、先日、私から彼女へプロポーズを致しました。その結果、ありがたく承諾してもらって、ね?……だからその、ご家族の方からも私たちの結婚を認めて頂けないでしょうか?」
檸檬ちゃんと餅丸さんが幸せそうに左手の薬指にはまった指輪を僕達に見せて、お互いに見つめ合って照れ笑いをしている。
「……嫌です」
え、きっぱり言った!!!あのみかちゃんが?!!
「何でよぉ、良いじゃん!!」
って檸檬ちゃんが少し不満げになりながらもおねだりするように可愛らしくそう言った。
「ダメなものはダメ。檸檬はまだ二十歳にもなっていないんです。まだ世間を正しい視野で見られない子供なんです。だから将来が不安定な貴方のような人に、私の妹は申し訳ないですが任せられません」
それって、隣にいる僕のことも、まだ世間を正しい視野で見られない子供って言いたいの?そんなの、僕の母さんと言ってること同じじゃん。将来が不安定なのは、みかちゃんだって一緒じゃん。確約された未来なんて誰も持ってない。だからこそ、支え合って今を大切に生きていこうって、そうお互いに暗黙の了解で分かりあってたじゃん。
「けれど、私は、檸檬さんのことを真剣に愛して……」
「檸檬のことを愛してくれる人はいくらでもいます。特段、何故、貴方じゃないといけないんですか?」
教師みたいに感情なく淡々と喋っている。
「兄ちゃん、酷っ!!!」
「何言っても良いよ。だけど、結婚はしないで」
「みかちゃんのバカ!!!」
「は?何で馨が怒るの??」
「母さんみたいに、年齢で決めつけないでよ。僕も檸檬ちゃんも、子供じゃない。それに、心から愛せる人は特別だって、分かんないの?」
自分でも、何故こんなにも他人事で怒っているのかが分からない。でも、みかちゃんに関しては他人事じゃなくて、みかちゃんだけは身内で僕の血と肉で、恋人だから、馬鹿みたいな真似は到底許せなかった。僕しか愛せないって、言ってくれたじゃん。
「馨はまだ知らない、知らなくていい。結婚がどれだけ人間を不幸にするかを。理想像に囚われすぎては現実を憂い、現実を受け入れられても諦念を抱えながら生きることになる。これが世間一般の幸せだとしたら、あははっ、狂ってるんじゃない?」
あ、みかちゃんはこんなにも僕に愛してるって言ってくれたのに、僕と結婚する気はさらさらないんだ。そのことでまた一つ、みかちゃんとの隔たりを感じた。
「意味わかんない!!兄ちゃんは結婚するのが怖くて逃げてるだけじゃん!!!誰とも結婚したことないくせに、端っから不幸だなんて言わないで!!!」
檸檬ちゃんがみかちゃんに怒鳴るなんて、想像もしてなかった。兄妹喧嘩、そんなのは僕とは縁のないことだったから、こういう言い争いも何だか羨ましい。
「じゃあ、結婚のメリットって何?付き合ってるだけじゃダメなの?」
「私、将来は子供が欲しいの。そのために結婚して、家族になって、お互いに精神面でも金銭面でも支え合って生きていきたいの」
「……へえ、それで、仕事は?」
みかちゃんが無理矢理、笑顔を作った。子供が欲しいって、檸檬ちゃんが言ったのに対して、何だか恐怖を思い出したように、目を泳がせてから。
「できる限り、続けたいとは思ってるよ」
「アイドルという職業柄、結婚は難しいと思うけど、そのことに関して、"彼氏"さんはどうお考えで?」
「それは、正直、難しいと思います。なので、結婚のことを公にするつもりはないです。けれど、檸檬の生きたいように生きて欲しい、というのが僕の願いであり、僕の幸せですので、どうするのかは檸檬次第で」
「その、呼び捨てで言うの、やめてもらってもよろしいでしょうか……?」
みかちゃん、そういう細かいところにキレるのやめて。カップルだから、許してあげて。
「あっ、すみません」
「それに、檸檬に決定権を握らせてるみたいですが、それが裏目に出た場合、貴方もちゃんと責任を負ってくれるんですか?檸檬だけのせいに、勿論しないですよね?」
怖っ。圧力で息ができなくなりそう。
「しません!断じてしないです!!」
その圧力を向けられた彼は、閻魔の前の罪人みたいに、自分の身の潔白を命ながらに訴えてるようだった。
「とゆーか、自己管理もままならない貴方に檸檬を幸せにできる気がしないのですが……」
とみかちゃんは丸く太っている餅丸さんを見下すように睨む。
「兄ちゃん!!」
それを檸檬ちゃんが正すように、もう、という感じでテーブルを叩いた。
「そうですね。私のようなデブは檸檬さんとは不釣り合いなのかもしれません。そのような端正なお顔も生憎、持ち合わせていないです。けれど、檸檬さんはそのような僕でも愛してくださるんです。僕と一緒に笑ってくださるんです。そのことで、どれだけ僕の心が救われたか、生きていく勇気が貰えたか、全く計り知れません。でもそれぐらい、僕は彼女のことを命を懸けて、愛しています」
「……すみませんが少し席を外しますね」
煙草だ!!言いくるめられて煙草に逃げた!!!おそらく考えを整理したくてそうしてるんだろうけど、もうみかちゃんの結婚して欲しくないっていうエゴとの戦いな気がする。
「まじ何なの、あの人。私の好きにして良いよ、って散々言ってたくせに、結婚はあんな大反対するとか、本当、意味わかんないんだけど……」
「餅丸さん、大丈夫ですか?」
「あー、すみません。ちょっと怖気付いちゃって」
と誤魔化し笑いをして涙を乾かしてるのかずっと上を向いている。
「みかちゃん、普段はあんな怖い人じゃないんですけどね」
「え、他人行儀に無視されてるんじゃ……」
ってこっち向いて目を丸してる。
「ああ、それは僕の兄の話ですよ」
「え?」
「私と馨くんは従弟!」
「従姉です」
「だから、兄ちゃんと馨くんも従兄弟同士だよ」
「そうなの!?」
「はい。僕の家が家庭崩壊してるんで、こっちに住まわせてもらってるんです」
「そう……」
「あっ、そんなお悔やみムード出さないでくださいよ!そのおかげで、今がとっても幸せですから!!」
僕が自分の境遇を明るく笑いながらに言うと、餅丸さんに
「君は強いね」
って言われた。何処が?って正直思った。僕はただ、逃げただけだ。
「何も強くないですよ。僕も結婚したい相手がいるんですけど、まだプロポーズもできないんです」
「年齢的に?」
「それもありますけど、まず指輪が買えなくて……」
「私が買ってあげようか?」
檸檬ちゃんが暗いムードを変えようと冗談を挟んできてくれた。
「ふふっ、意味ないじゃないですか!ちゃんと自分で働いたお金で買いますぅ」
「へえ、それで馨くんはどんなのをあげたいの?」
「そうですね……んー、やっぱ僕がデザインしたオーダーメイドの指輪をあげたいかな。勿論、僕の好きは入れるけど、普段使いできるデザインで尚且つ高級感のある、誰に見せても『綺麗!』って思わせるような、僕の婚約者の手に最も合う指輪をプレゼントしたいです」
「あははっ、馨くんは良い男だね!婚約指輪は安くていいって男もいるのに、そんな大切に考えてくれるんだ」
って檸檬ちゃんは左手の薬指を眺める。え、もしかして安物?あんなにテレビ出てるのに?
だって婚約指輪なんて、好きな人を自分に縛り付けておくための証だよ?それを見た誰かに、この人の結婚相手には経済的にも美的センスでも敵わないって思わせたいじゃん。幸せそうに僕が作った指輪を自慢して欲しいじゃん。
「いいや、僕のエゴです」
「そうゆう美学がある人のが私は好きだよ。徳之助さんも、この婚約指輪のために何箇所も回って何時間も悩んだんだよ。凄いでしょ?」
って得意げに惚気られて、でも不思議と嫌な気はしなくて、手放しに喜べた。だから、もっと聞いてみたくなって、
「お互いのどんなところが好きですか?」
って、ニマニマしながら聞いていた。色々とマニアックなところが出てきたから、僕もみかちゃんの好きなところをマニアックな目線で探してみると、ああ、あれかも。片手間に音楽を聞いているときは大体足の指先でリズムを取っているところとか、酔いながら笑う時の頭が項垂れる感じのエロさが好きだとか、考えてみると色々と出てきて自分が変態じみていると思ったので考えるのをやめた。
少々煙草の匂いを纏いながら帰ってきたみかちゃんは、素っ気なく「良いよ、結婚」って言った。
「え、本当!??」
「でも、檸檬を苦しめるようなことしたら死んでも許さない」
餅丸さんを睨む目が本気のそれで、僕は圧倒されて何故か勝手に身震いしてしまった。
「……あ、ありがとうございます!!絶対に幸せにします!!!」
立ち上がって深々とお辞儀する餅丸さん。絶対はないってゆーけど、これは絶対に、って枕詞に使うの何なん?って、鳩ヶ谷さんの言葉を不意に思い出してしまった。絶対はないってのは、みんなもう周知の事実として"絶対"という強調の言葉を使ってんのに、わざわざ強調に強調するその文字数の分だけ期待を煽って、面白いこと言うたるぞ感出してんのまじウザイねん。大抵の奴はしょーもないこと言ってすべんねん。これ言った奴は罰金刑にしたろかって内心ずっと思っとる。タイムイズマネーなんやで?という鳩ヶ谷さんに対して、餅丸さんは、じゃあこれだけは言っていい?って物腰柔らかく問いかけてから、絶対に今お前は呼吸をしている!!って息をしていることを指摘するだけで笑いを取るんだ。「絶対はあるよ」って。
「ふふっ、おめでとうございます!結婚式には僕らも呼んでくださいねっ!」
って僕が優等生スマイルをすると
「私がアイドル引退後にする予定だから、当分は呼べないけどね〜っ☆」
ってアイドルスマイルで負かされた。
「じゃあ、子供はもっと先じゃないの?」
みかちゃんはまだ結婚に納得してない様子で疑問を投げかけた。
「式はまだ先だけど籍は入れておいて、アイドルも出産するときはお休みもらうから、たぶん大丈夫」
自分に言い聞かせるように大丈夫と言う檸檬ちゃんは何処か不安げだった。そりゃそうだ、僕と一個しか違わないのに、子供を産んで育てる覚悟、それと両立して仕事をやっていく気力と体力を持って、これからの人生やっていかなければならないんだ。バレたらファンの人を悲しませるかもしれない。仕事を辞めることになるのかもしれない。僕の浅い知識ではその不安の深さは計り知れない。それが自分の願望なら尚更、諦めきれないし、やり切れない。身体を壊そうが、無理も承知で選択してしまうんだよな。僕も、みかちゃんとの子供が欲しいと思ったことはある。けど、檸檬ちゃんの欲深さは僕のとは桁違いだ。僕はまだ子供だから、みかちゃんには僕を、僕だけを見て欲しいし、可愛がって欲しい。モラトリアム人間の良いところは子供でも大人でもないことで、子供にも大人にも振る舞えることだ。けど、檸檬ちゃんはそうでは無い。もう一人前の大人で、子供を産もうとしている。
「何でそこまでして、今、子供が欲しいの?」
自分用のマグカップにアイスコーヒーを入れてきたみかちゃんが檸檬ちゃんの目の前にすわって、微笑む。まだ先で良いじゃんって。
「兄ちゃんには分かんないよ。今まで『子供が欲しい』って言ってきた彼女からは散々逃げてきたもんね!」
檸檬ちゃんが少しみかちゃんに対して当たりを強くした。確かにまあ、今産まなくても、三十代で産んでいる人もいるし、極論、子供が欲しいなら養子でも良いわけだ。というか、みかちゃんの彼女の話めっちゃ気になるなあ。
「それは今の話には関係ないじゃん」
「関係ありますぅ!子供が欲しい乙女心を分からない人だから、そんな簡単に彼女を取っかえ引っ変えできる遊び人になれるんじゃん」
「何それ、誰の話?」
「はあ?しらばっくれないでよ!!私が中学生ぐらいの頃、彼女と電話で『何で子供なんか欲しいの?』『そーゆーお前、嫌いだよ』って、しょっちゅう口喧嘩してた。その時私聞いたよね?『何でお兄ちゃんは子供欲しくないの?』って。その時自分が何て答えたか覚えてる?」
「子供が好きじゃないから、とか?」
「ううん、『子供がいると女に縛り付けられるから』って。私その瞬間思ったよ。この人は子供を邪魔な存在にしか思ってないんだって」
「……いや、それは、その時の感情で、たぶんそんなこと言っちゃったんだろうけど、今は俺だって、好きな人との間には子供が欲しいとか幸せな家庭を築きたいとか、色々と思うことはあるよ」
子供が欲しい、か。僕とは到底、縁のない話だね。
「へえ、元々子供は好きだもんね。自分の子供が嫌いなだけで」
他人の子供なら無責任に何か言ってもさほど影響がないし、自分の子供じゃないからずっと一緒にいる訳でもないし、薄い愛情だから深く傷つくこともないだろうし……だから、子供が好きでも自分の子供は嫌いって事なのかな。
「じゃあお前は、自分の子供を愛せる自信があるの?」
「自分のお腹を痛めて産む子だよ?愛せないわけないじゃん!!」
「それで、その子を幸せにする自信は?」
「幸せ、って……」
檸檬ちゃんが言葉を詰まらせる。
「俺は自分の子供でも愛さない奴、幸せにできない奴を間近で見てきた。だから、子供が欲しいってのは、ただペットが欲しいみたいな感覚で、一時的に可愛がる対象が欲しいだけなんじゃないの?」
みかちゃんのお父さんはみかちゃんに対してそうだったのだろう。僕の父親だって、本気で僕を育てようとしたかは不明だし、義父は僕を虐待するような奴だった。母さんだって、僕のためって言いながら、自分の理想的な息子像を僕に押し付けてきた。だから、
「……僕はそうは思わないです。いや、そうだとしてもそれで良いと思います。僕がその証拠です」
「何で?何も良くないよ」
トラウマ級の苦しさと恐怖を植え付けられて、他人の顔色ばかり伺って、生きていくのがしんどくなって、青春全部が真っ黒に塗り潰されている。その死にたみを分かってくれるのは、
「僕は僕よりも恵まれた環境で生まれた人に僕の苦しみは永遠に分からないって思うんです。貴方もそうでしょ?みかちゃん」
貴方しかいない。
「……ふふっ、ああそうだね。でも、生まれてきたことを後悔しないような、恵まれた環境が整えられてからのが良いに決まってる」
みかちゃんの言う、恵まれた環境って何だろう。夫婦円満で、子供に愛情を注いで、のびのびと育てて、お金の心配も、孤独の不安も、何もないまま大人にさせてく。僕には、考えられない。僕の母は正直、僕のことを見ていなかったけど、僕に対しての愛情がないわけではなかったと思う。僕は家族が幸せになるために酷く苦しめられたと思ってたけど、その苦しみは僕の幸せのためでもあったと、捨てられた今では思う。過去を美化しすぎだろ、なんて笑えてくる。けど、そうやって正当化してないとやってられない。そうじゃなきゃ、この僕が惨めすぎるから。
「それなら、仕事やめる」
檸檬ちゃんが覚悟を決めたようにそう言った。これにはみかちゃんも開いた口が塞がらないようだった。
「そんな簡単に……」
「簡単じゃないよぉ。ずっと考え込んだ結果。生憎、貯金はあるんだ。アイドルもまだ続けたいけど、子供が欲しいって気持ちのが、やっぱ強いや」
何か吹っ切れたように、もうアイドルじゃないようにそう語る。アイドルオタクのみかちゃんにとってはこれが一番辛いだろうな。
「そこまでしてコイツとの子供が欲しいのか?というか、今じゃなきゃダメなの?檸檬が引退することでどれだけのファンが悲しむのか分かってんの?」
「全部全部、分かってるよ!!!」
と捨て台詞吐いて、檸檬ちゃんは靴も履かずに外へと駆け出して行った。僕はその後を追いかけようとしたけど、みかちゃんに首根っこ掴まれて止められた。そして、みかちゃんは顎をクイッと動かして、「行け」と餅丸さんに合図を送っているようだった。餅丸さんがいなくなった後でみかちゃんは、テーブルに両肘をついて頭を抱えながら深いため息をついた。
「俺、やっぱダメだわ。全然、応援できそうにない……」
情けない自分を責めるように、弱々しくそう吐き出したみかちゃんを、僕は後ろから抱きしめる。応援できなくても良いんだよ。
「それもみかちゃんなりの愛情だって僕は思えるよ」
「ふふっ、馨」
僕が抱きついて耳元でそう言うと、みかちゃんはくすぐったそうに笑った。それが可愛くて、頬にキスするフリをしてイチャついた。
「でも、親がどうであれ、子供は子供でこうやって、自分で幸せを掴めるようになるんじゃん?そんなに心配しなくても、檸檬ちゃんは良い母親になると思うけどなぁ」
「じゃあさ、馨は仕事と育児の両立はできると思う?アイドルなんて、いつ仕事がなくなるか分かんないのに、その期間を育児に充てて良いと思うの?それに、相手だって芸人で、安定した収入は見込めない。ましてや、檸檬は自分の子供が欲しいだけにすら思える。そんな不確定要素が多くても幸せな家庭を築けるって、そんなの机上の空論じゃないかな?」
僕よりも何倍もみかちゃんは檸檬ちゃんの事を考えてて、僕は薄っぺらい慰めの言葉みたいなのを言ってしまったことを後悔した。
「あーーー、ね」
何この軽い同調。自分、使えな。
「そもそも、何で子供なんか欲しいんだろ?」
「僕は、みかちゃんとの子供が欲しいって、たまに思う」
「何で?」
「僕とみかちゃんの歪な合作じゃん?僕の醜さもみかちゃんの綺麗さで相殺された愛おしい子供が産まれてくるんじゃないかなって、期待しちゃうから」
「馨との子供は、ふふっ、想像できないや」
だって、できないんだもん。現実問題。
「あははっ、そうだよね!ああ、僕なんかが良い親になれるはずないのに、何考えてんだか……」
養子を引き取ることも一瞬考えたが、やっぱりやめた。
「ん?馨が毒親になったとしても、俺は馨のことが好きだけど?」
また、変なこと言う。毒親恨んでるくせに。
「ふふっ、僕が子供を殴っても?」
「好きだよ。子供と一緒に泣く馨が見てみたいね」
「あははっ、何で僕まで泣く設定?」
「だって、自己嫌悪で泣いちゃうでしょ?」
「ああああ、やっぱ子供なし!僕だけを慰めて?」
「ふふっ、馨はそういう子だと思ってた」
って得意げに笑う貴方にしてやられた。まあそもそも、子供なんて産めないけど。
「ねえ、みかちゃん」
「何?」
「もしさ、僕が女の子だとしてさ、『子供欲しい』って言ったら、みかちゃんは僕のことを嫌う?」
「んー、嫌いはしないけど、避妊はするよ。しつこかったら嫌うけど」
「そうなんだ……」
「何?ガッカリしてるの?」
って僕の反応を見て、貴方は楽しんでる。
「いや、別に。そこまで欲しくないし」
そこまで子供を欲しくないってのは事実だけど、元カノと同じような対応を僕にもされるんだと思ってしまって、そっちにガッカリしていた。僕は彼の特別じゃないんだって。
「馨だからこれ言うんだけどさ、俺、もうすぐ死ぬじゃん?」
「賞味期限切れ?」
いっつもそうやって彼は自分の死をほのめかしては冗談っぽく笑うんだ。だから僕はうんざりしながら、その冗談に付き合って、死んで欲しくないってその度に泣いている。
「そうそう。だからさ、馨にだけ苦労かけたくないなって思って。俺の寿命がまだずっとあれば、馨との子供、俺だって欲しいよ」
「僕はみかちゃんが残してくれた子供、僕一人でも大切に育てるから」
「ふふっ、馨は馨のお母さんそっくりだね」
僕が、過干渉の母のように馨琉さんを僕に投影して育てあげた母のように、なるんじゃないの?と微笑えまれた。
「でも、だって、寂しいよ!一人になるのは……」
僕の母は馨琉さんが癌で死ぬと知っていて、僕を産んだのだろうか。僕だったら、みかちゃんが死ぬとしても、自分のエゴで子供が欲しい。でもそれじゃあ、子供が可哀想だよね。
「大丈夫だよ、俺がずっと見守ってるから。馨は一人じゃない」
そう僕のことを抱きしめてくれた、この腕の中がやはり安心する。心地よくて何処か懐かしい感じがする。
「みかちゃん、僕から目を逸らしちゃダメだからね」
「分かってる。死んだとしても雲の上から馨が俺以外に現を抜かしてないか監視してるよ」
「ふふっ、そんなこと絶対にないけど」
って僕はにやけながら、みかちゃんの肩に頬を擦り付ける。残暑がまだ残る秋なのに、ずっと触れ合っていたい。
「そう言えばさ、思い出したことがあるんだ」
「何?」
「君が馨くんだった頃のこと」




