2-3 僕の真実
その日は、夜明けと同時に丘に上った。
遅れてやって来たリイには驚かれたけれど、一分一秒でも長くリイの音楽を聴いていたくて、調弦を急かすように曲をねだった。
空には雲一つなく、見下ろす街には春霞がかかっている。
リュートの音色は光の粒へと姿を変えて、この世の優しさを全て集めたかのような美しい景色に滲んでは消えた。
そして、こんな風に。
リイの命も消されるのだろうか。
僕の気持ちだけがすっきりしないまま、僕たちは最後の自由時間を迎えた。
明日、リイはこの世界の向こうへ、僕は旅の続きへと歩き出す。
――本当に良いのか。
迷う必要すらない迷いに捕らわれて、心ここにあらずの僕。
拗ねた口調でリイが話しかけるまで、曲が終わったことにも気付かなかった。
「素敵だねって、今日は言ってくれないの?」
「え……?」
「やっぱり、楽器が違うと駄目かしら」
初対面のリイが僕の求めに応じたのは、それまで、よく動く指や楽器そのものの価値を誉め称える人間が多かったからだという。
あの華やかなリュートは、春を言祝ぐ明るい曲にとても合っていた。
今、同じ曲を聴いても何も言わない僕は、リイを落胆させてしまったようだ。
「ごめん、そうじゃないんだ。楽器に頼らなくてもリイの音楽は変わらず素敵だよ」
「言わせたみたいで悪いわね」
くるりと表情を変えたリイに責める様子はない。
生気を取り戻した古いリュートのボディを撫でて、愛おしげに言葉を紡ぐ。
「この子もね、随分と綺麗な声を出してくれるでしょう。今日で最後なのが申し訳ないわ」
最後。
リイの口から聞かされて、僕の視界には白い火花が散った。
指先に感じたのは季節外れの静電気だろうか。
「途中で放り出してしまうけれど、私を覚えていてくれるかしら」
「……そりゃあ、覚えてるに決まってるでしょ」
だって、放り出されるんだから。
意地悪く続けると、リイは困ったように笑う。
「そうよね、確かにそうだわ」
「でしょ?」
一緒に笑うことで、僕は、僕の中で起こりつつある異変に蓋をした。
指先に残る痺れは、未だ消えない。
「もう一曲、あと一曲やってくれよ!」
「お前、さっきからそればっかりじゃねえか。お前のリクエストは締め切ったってよ!」
――うるさい。
「もう聴けなくなると思うとさあ!」
「うるさい、がたがた言うな!」
――うるさいのはお前もだ。
「なあ、リエナ!」
――いい加減にしろ、雑魚どもが!
僕がテーブルを叩いて立ち上がる前に、銀の盆で連中の頭を叩いたのは店の女将だった。
良い音を立てて一発ずつ、遠慮の欠片もなくやっておきながら、女将はしれっと盆が凹んでいないか確かめている。
「いってぇ……」
「なんで俺まで……」
「ついでだよ。リエナはあんたらのためだけに弾くんじゃないんだ。我が儘言うなら出て行きな」
満員御礼の店内からぱらぱらと拍手が上がった。雷を落とされた二人組は、決まり悪そうにしながらも店を出ない。
リイの音楽は、神や魔のみならずその才能を妬む者さえも魅了する。誰も彼も、リイの最後のリュートが聴きたくて小さな居酒屋に集まっていた。
手早く調弦を終えたリイが、二人組に微笑みかけた後で視線を流す。すると、遠慮していては順番が来ないとばかりにあちこちで手が上がった。
その様子を、僕は白けた気分で眺めていた。
「リエナはちょっと休憩! ほら、あんたらはグラスが空になってるよ。酒の追加はいいのかい?」
ちょうど、リクエストを三曲まとめて弾き終えたところで、女将が声を張り上げた。
夢が覚める。
僕も、詰めていた息を吐き出した。
喧騒を取り戻した店内に酒やら料理やらを注文する声が飛び始め、今日のために臨時で雇われたアルバイトが慌てて動き出した。その中には、リイからリュートを教わっていたあの娘の姿もある。
――さぞかし安堵してるんだろうね。
愛想笑いを浮かべながら客の対応に飛び回る娘を、僕はじっとりと目で追った。
耳に入ってくる方々の会話も気に入らない。
リイのリュートを褒めちぎる連中は、酒の力も相まって、「魔王の花嫁」にするのはもったいないと言い出した。
言葉どおりの意味だなんて思ってもいないだろうに、俺が嫁に貰いたいだのとほざいている。
勝手すぎる。
リイをそんな立場に追いやったのは誰だ。
そんな連中に手を振りながら、リイは僕のテーブル向けて歩いてくる。
――ああ、この娘は真正の馬鹿だったっけ。
思い出した現実に、そうでなくとも雷鳴轟く僕の機嫌はだだ下がった。
そんな時、リイは必ずこう言うのだ。
「難しい顔してどうしたの? 私は大丈夫よ? 心配してくれてありがとう」
心配なんかしていない。
僕は怒っているのだ。リイの人生を好き勝手に決めた連中にも、すんなりと受け入れたリイにも。
この世の全てに。
「ねえ、言葉もないほど感動してくれたの?」
心配そうにリイが僕を覗き込む。
――そうか、これが「心配」という感情なんだ。
僕はようやく思い至った。
リイがこの台詞を口にする時、僕はいつも、今のリイのような眼差しをしていたのだと。
手の中で、陶器のカップが鋭い音を上げた。