世界で一番最後の配達人
世界が終わるまで、あと三日だった。
それでも老人は、いつもと同じ時刻に目を覚まし、いつもと同じように湯を沸かし、いつもと同じように硬い黒パンを薄く切った。窓の外では朝焼けが町の屋根を淡く染めていたが、その光にはもう、明日へ向かう勢いがなかった。空そのものが疲れ果て、ようやく長い役目から解放されようとしているように見えた。
魔法は七年前から少しずつ消え始めた。
最初に消えたのは、子供たちが指先に灯す小さな火だった。次に、畑を潤していた雨乞いの術が効かなくなり、空を渡っていた飛竜は翼を広げたまま地へ降り、二度と浮かばなくなった。王都の学者たちは原因を調べ、神殿の司祭たちは祈り、かつて魔王を討った勇者までが杖をついて世界樹のもとへ赴いたが、誰にも何もできなかった。
世界樹は枯れ始めていた。
根は大地の奥で崩れ、枝は夜ごと星を一つずつ落としているという。
あと三日で、世界は静かに終わる。
それが王都から届いた、最後の公式発表だった。
町の者たちは、もう働いていなかった。
酒場では朝から樽が開けられ、酒を飲めない者まで杯を掲げていた。広場では楽師が壊れかけた笛を吹き、誰かが踊り、誰かが泣き、誰かがその両方をしていた。長年口をきかなかった兄弟が肩を抱き合い、喧嘩別れした夫婦が手をつなぎ、親たちは子供を膝に乗せ、終わりまで何をして過ごしたいかと尋ねていた。
菓子屋は残った砂糖をすべて使った。
花屋は花を無料で配った。
鍛冶屋は炉の火を落とし、店先に椅子を出して、何十年も見慣れた通りをぼんやり眺めていた。
そんな町で、郵便局だけには灯りがついていた。
老人は磨き込まれた木の扉を開け、壁に掛けられた制服へ袖を通した。濃紺の上着は何度も繕われ、肘や肩の色が薄くなっていたが、金色の釦だけは毎晩磨かれていた。彼は鏡の前で襟を整え、帽子をかぶり、使い込まれた革鞄を肩に掛けた。
鞄は空だった。
それでも老人は、いつもと同じように仕分け台の前へ立った。
「おはようございます」
声を掛けたのは、局内の奥で帳簿を束ねていた若い局員だった。新人と呼ばれてはいたが、もう三年も勤めている。世界が終わると知った昨日から、彼は制服を着ていなかった。白いシャツの袖をまくり、机の上に山積みになった書類を紐で縛っている。
「おはよう」
「今日も来たんですね」
「勤務日だからな」
若い局員は困ったように笑った。
「もう、誰も怒りませんよ。休んだって」
「私は私に怒られる」
「自分にですか」
「一番面倒な上司だ」
若い局員は少しだけ笑ったが、その笑みはすぐに消えた。
局内は静かだった。かつては朝になると配達員たちの靴音が響き、宛先を読み上げる声や、荷物を運ぶ台車の音が絶えなかった。戦地からの便りが届いた日などは、窓口の外に長い列ができたものだった。
今はもう、仕分け棚の大半が空だった。
小包も、はがきも、速達もない。
遠方へ続く道は崩れ、駅馬車は止まり、伝書鳥は戻ってこなくなった。
壁の時計だけが、律儀に時を刻んでいた。
老人は帽子を脱ぎ、仕分け台の上に置いた。
「まだ郵便はありますか」
若い局員は紐を結ぶ手を止めた。
「ありませんよ」
「確認したのか」
「昨日、全部見ました。配達済みの記録も、保管棚も、窓口も。もう誰も手紙を出しません」
「そうか」
「そりゃそうですよ。あと三日しかないんです。今から手紙を書いても、相手のところへ着く前に終わってしまう」
老人は何も言わず、空の仕分け棚を眺めた。
若い局員はためらってから、少し声を落とした。
「家族のところへ行かなくていいんですか」
「いない」
「ご親戚は」
「みんな先に逝った」
「では、友人は」
「私より長生きした者はいない」
老人は七十三歳だった。
配達員になって五十五年になる。
雨の日も、雪の日も、戦争の日も、疫病の日も、彼は手紙を届け続けてきた。途中で馬が死んだこともあった。橋が落ち、川を泳いで渡ったこともあった。砲撃の中を腹ばいになって進み、土にまみれた封筒を兵士へ手渡したこともある。
彼の妻は二十年前に亡くなり、娘も孫もいなかった。
だから最後の日に会いたい相手を尋ねられても、老人には思い浮かぶ顔がなかった。
若い局員は視線を落とした。
「でも、仕事だって、もう」
「一通でもあるなら、私の仕事は終わらない」
「一通もありません」
「なら、確かめよう」
老人はそう言うと、局内の奥へ向かった。
若い局員は慌てて後を追った。
「どこへ行くんです」
「保管室だ」
「昨日見ましたって」
「お前が見た」
「同じでしょう」
「見た人間が違えば、見落とすものも違う」
保管室は局舎の一番奥にあった。小さな窓しかなく、昼間でも薄暗い。古い帳簿、配達記録、宛先不明で戻ってきた郵便、差出人のわからない荷物。長い年月の中で行き場を失ったものが、埃とともに眠っていた。
若い局員は鼻を押さえた。
「こんなものを今さら調べるんですか」
「郵便局は、郵便を捨てる場所ではない」
「でも、何十年も前のものばかりですよ」
「何十年経とうと、届けていないなら未配達だ」
老人は棚を一段ずつ確かめた。箱を下ろし、中身を確認し、帳簿と照らし合わせる。手は皺だらけだったが、動きに迷いはなかった。
若い局員はしばらく立っていたが、やがて諦めたように隣の棚を調べ始めた。
「本当に頑固ですね」
「配達員は、少しくらい頑固でなければ務まらん」
「少しくらいですか」
「私の場合は、やや多い」
昼を過ぎても、何も見つからなかった。
外からは笑い声が聞こえた。誰かが酒瓶を落とし、大きな歓声が上がった。世界の終わりを祝っているのか、恐れているのか、もう区別はつかなかった。
若い局員は床へ座り込んだ。
「ありませんよ。やっぱり」
「まだ引き出しが残っている」
「そこは壊れて開かないんです」
部屋の隅に、古びた書類机があった。下段の引き出しは木が歪み、半分ほど開いたところで止まっている。
老人は膝をつき、両手で取っ手を握った。
「手伝え」
二人で引いた。
引き出しは軋み、埃を吐き出しながら、ゆっくりと開いた。
中には何もないように見えた。
だが老人は、奥に指を差し入れた。
紙の感触があった。
引き出しの裏板と底板の隙間に、一通の封筒が挟まっていた。
老人は破らぬよう慎重に引き出した。
黄ばんだ封筒だった。
角は潰れ、表面には薄い染みが広がっていた。それでも宛名は読めた。
北部戦線、第三歩兵隊。
エドガー・ロウ兵士殿。
若い局員が息を呑んだ。
「北部戦線って……」
「ああ」
「五十年前の戦争ですよ」
老人は消印を見た。
戦争が終わる、わずか二日前の日付だった。
封は開かれていない。
差出人の名は、マリア・ロウ。
老人は封筒についた埃を、袖でそっと払った。
若い局員が小さく言った。
「その兵士なら、もう亡くなっています」
「そうだろうな」
「五十年も前です」
「そうだな」
「では、どうするんです」
老人は返事をしなかった。
黄ばんだ封筒を両手で持ち、宛名を確かめ、消印を確かめ、それから静かに革鞄を開いた。
空だった鞄の中へ、手紙を入れる。
「捨てましょう」
若い局員が言った。
「届ける相手は、もういません」
老人は鞄の蓋を閉じた。
「配達されていない郵便は、まだ郵便だ」
帽子をかぶり直す。
そして、五十年間待ち続けた一通を肩に掛けた。
世界が終わるまで、あと三日。
最後の配達が、始まった。
郵便局の扉を閉めると、老人は一度だけ振り返った。
磨き込まれた真鍮の取っ手。長年風雨に耐えてきた木の扉。窓辺に置かれた鉢植えはとうに枯れ、壁に掛けられた郵便受けには、もう誰も手紙を投げ入れない。
それでも、そこは郵便局だった。
誰かの「届けたい」を預かり、「届いてほしい」へ変える場所。
老人は帽子のつばを軽く押さえ、小さく会釈をすると、石畳の道を歩き始めた。
町は、不思議なほど穏やかだった。
世界の終わりを前にした町が、こんなにも静かなものだとは思わなかった。
市場では野菜が山のように積まれ、「どうせ残るんだ、持っていきな」と笑いながら配る老人がいる。子どもたちは裸足で広場を駆け回り、いつもなら叱る母親たちも、今日は何も言わない。
教会の鐘が鳴る。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
まるで世界へ向けた子守歌のように。
老人は橋を渡った。
橋の下を流れる川は細くなり、水面には世界樹から落ちた白い葉が何枚も浮かんでいる。
その葉は流されず、ただ静かに漂っていた。
町外れまで来ると、一人の少女が道端に座っていた。
膝には白い猫を抱いている。
「おじいさん。」
老人は足を止めた。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
「まだ、お仕事?」
「そうだ。」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「でも、世界は終わるんでしょう?」
「そうらしい。」
「じゃあ、お手紙も終わるの?」
老人は少し考えた。
「手紙は終わらない。」
「え?」
「誰かを想って書いた気持ちは、世界が終わっても消えん。」
少女は難しい顔をしたが、やがて微笑んだ。
「じゃあ、お仕事頑張って。」
「ああ。」
老人は歩き出す。
小さな声が背中へ届いた。
「いってらっしゃい。」
その言葉は、五十年以上前、配達員になった初日に妻から言われた言葉と、まったく同じ響きをしていた。
老人は少しだけ目を細めた。
道は北へ続いていた。
北部戦線。
今では草に覆われ、人もほとんど通らない街道である。
途中、小さな宿場町へ立ち寄る。
宿屋の看板は外され、主人は店の前で椅子に座り、夕日を眺めていた。
「泊まりますか。」
「いや。」
「最後くらい、ただでいいですよ。」
老人は笑った。
「ありがとう。しかし今日は急ぎの配達がある。」
宿屋の主人は革鞄を見つめた。
「まだ郵便ですか。」
「ああ。」
「世界最後の配達員ですね。」
「最後かどうかは分からん。」
「もう他にはいませんよ。」
「それでも、名乗るものではない。」
主人は深く頷いた。
「その制服、格好いいですね。」
老人は照れくさそうに帽子へ触れた。
「五十五年着ると、身体のほうが制服に合わせるようになる。」
二人は笑った。
笑い終えると、主人は何かを思い出したように口を開く。
「北へ行くなら、一つ村があります。」
「村?」
「戦争の生き残りが住んでいる小さな村です。」
「まだ人が。」
「数人だけですが。」
老人は礼を言い、再び歩き始めた。
夕方。
村へ着くと、煙突から細い煙が一本だけ上がっていた。
木造の家々は古く、畑は半分以上が草に覆われている。
庭先で薪を割っていた老人が、近づく足音に顔を上げた。
「旅の方か。」
「郵便です。」
その一言に、薪割りの老人は驚いたように目を見開いた。
「郵便……?」
「少し、お尋ねしたいことがあります。」
革鞄から封筒を取り出す。
「エドガー・ロウという兵士をご存じありませんか。」
薪割りの老人は、封筒を見たまま固まった。
やがて、ゆっくり腰を下ろす。
「知っています。」
老人は息を呑んだ。
「同じ部隊でした。」
風が吹いた。
乾いた土が舞い、庭の古い風車がぎぃ、と音を立てる。
「彼は……」
配達人が尋ねるより先に、薪割りの老人は静かに話し始めた。
「優しい男でした。」
それが最初の言葉だった。
「剣は強くありませんでした。」
「酒も弱かった。」
「女好きでもありません。」
「英雄なんて柄じゃない。」
少し笑う。
「でも、誰より仲間を見捨てない男でした。」
老人は黙って聞いていた。
「毎晩、奥さんの話をするんです。」
『今日はシチューを作ると言っていた。』
『今頃、庭の花が咲いている。』
『帰ったら子どもが歩いているかもしれない。』
そんな話ばかり。
「まだお子さんが。」
「生まれる前でした。」
配達人は封筒へ目を落とした。
送り主。
マリア・ロウ。
妻。
薪割りの老人は続ける。
「戦争ってものは、不思議でね。」
「昨日まで笑っていた奴が、今日は土の下だ。」
「泣く暇もない。」
「だから皆、家の話をした。」
「帰る場所を忘れないために。」
沈黙が流れた。
夕焼けが少しずつ紫へ変わっていく。
老人は意を決して尋ねた。
「エドガー殿は……。」
薪割りの老人は静かに首を横へ振った。
「終戦の前日でした。」
「負傷した若い兵を助けようとして。」
「戻りませんでした。」
配達人は帽子を胸へ抱えた。
五十年間。
この手紙は、その事実を知らないまま眠っていたのだ。
「ご家族は。」
薪割りの老人は遠くを見る。
「奥さんは、毎年春になると町の郵便局へ行っていました。」
「返事はありませんか、と。」
「それだけ聞いて帰るんです。」
「誰も本当のことを言えなかった。」
「いや。」
「言っても、信じなかったのかもしれません。」
老人は何も言えなかった。
郵便とは希望だ。
だからこそ、人は届かない返事を待ち続けてしまう。
薪割りの老人は立ち上がり、家の中へ入る。
しばらくして、小さな木箱を持って戻ってきた。
「これを。」
中には色褪せた写真が一枚。
若い兵士と、一人の女性。
二人とも照れくさそうに笑っている。
「エドガーとマリアです。」
老人は写真を両手で受け取った。
裏には、震えるような小さな文字でこう書かれていた。
――帰ったら、この続きを生きよう。
老人はその言葉を何度も読み返した。
世界は終わろうとしている。
それでも、この写真の中だけは、二人はまだ未来を信じて笑っていた。
薪割りの老人が、小さく言う。
「墓ならあります。」
「丘の上です。」
「奥さんも、十年前に亡くなりました。」
配達人は静かにうなずいた。
革鞄の中で、一通の手紙が小さく音を立てた気がした。
まるで五十年の時を越えて、
「まだ届けてください。」
そう願っているようだった。
村を出るころには、陽は西の稜線へ半ば沈みかけていた。
薪割りの老人に教えられた墓地は、村の外れにある小高い丘の上だった。
昔は教会が建っていたという。
今は鐘楼だけが残り、鐘はとうの昔に落ち、蔦に覆われた石壁が風雨に耐えているだけだった。
丘へ続く坂道を、配達人はゆっくりと登る。
若いころなら、息も切らさず歩けた道だった。
今は一歩ごとに膝が軋み、革靴の底が小石を踏むたびに、乾いた音が夕暮れへ溶けていく。
肩に掛けた革鞄は、たった一通しか入っていないというのに、なぜか少し重かった。
それは革の重さではない。
五十年という時間の重さだった。
丘の途中で、老人は立ち止まった。
世界樹が見えた。
遠く地平線の向こう。
かつて世界の中心と呼ばれた巨大な樹は、夕焼けの中で静かに立っている。
葉はほとんど残っていない。
細い枝が空へ伸び、まるで最後まで何かを支えようとしている老人の手のように見えた。
風が吹く。
白い葉が一枚。
また一枚。
音もなく空から離れ、大地へ落ちていく。
世界は、本当に終わろうとしていた。
だが配達人の足は止まらなかった。
世界が終わることと、郵便を届けることは別の話だった。
それだけは、五十五年間変わらない。
丘の頂には、小さな墓地が広がっていた。
石碑はどれも古く、文字が風化し、名前を読むのも難しいものが多い。
その中に、二つ並んだ墓石があった。
片方には、
エドガー・ロウ
もう片方には、
マリア・ロウ
と刻まれていた。
派手な墓ではない。
花も少ない。
それでも誰かが最近掃除をしたのだろう。
落ち葉はきれいに寄せられ、小さな花瓶には野花が供えられていた。
配達人は帽子を脱ぎ、深く一礼する。
「こんばんは。」
返事はない。
もちろんだ。
返事を期待して声を掛ける仕事ではない。
届けるために声を掛ける。
それが配達人だった。
老人は革鞄を膝の上へ置く。
ゆっくりと留め具を外す。
中には、黄ばんだ封筒が一通。
朝よりも、少しだけ色が柔らかく見えた。
老人は封筒を両手で持った。
五十年間。
戦争も。
雨も。
雪も。
幾度もの引っ越しも。
郵便局の統廃合も。
世界の終わりさえも。
この手紙は越えてきた。
たどり着くために。
老人は静かに息を吸う。
「郵便です。」
夕風が草を揺らす。
返事はない。
老人は、そのまま立っていた。
一分ほど。
いや、それ以上だったかもしれない。
若いころ、新米配達員だった自分を思い出す。
師匠は言っていた。
『呼んですぐ帰るな。』
『留守だと思っても、もう少し待て。』
『人には事情がある。』
『その数十秒で、一生会えた人もいる。』
あの日の言葉が、今も身体の中に残っていた。
老人は静かに頷く。
「失礼します。」
封を開いた。
糊はとうに乾き、紙は少しの力で開いた。
中には一枚だけ。
折り畳まれた便箋。
丸みのある、丁寧な文字。
何度も書き直した跡。
少し滲んだ墨。
急いで書いたのではない。
時間をかけて、大切に書いた手紙だった。
老人は小さく咳払いをすると、墓前で読み始めた。
⸻
あなた。
元気ですか。
寒くなってきました。
あなたは薄着だから、ちゃんと着込んでいるでしょうか。
この前、お隣さんから人参をたくさんいただきました。
だから今日は、あなたの好きなシチューを作っています。
少し作りすぎてしまいました。
帰ってきたら、一緒に食べましょう。
この子も、お腹の中で元気に動いています。
きっとあなたに似て、優しい子になりますね。
毎日、帰ってくる日を数えています。
あなた。
どうか、生きて帰ってきてください。
私は待っています。
今日も。
明日も。
ずっと。
愛しています。
⸻
読み終えたあとも、老人は便箋から目を離せなかった。
そこには特別な言葉は一つもなかった。
英雄を讃える言葉もない。
世界を救う願いもない。
ただ、一緒に食卓を囲みたい。
ただ、帰ってきてほしい。
ただ、それだけだった。
それだけの願いが、五十年間届かなかった。
老人は便箋を丁寧に折り直す。
封筒へ戻し、静かに閉じた。
そのときだった。
風が止んだ。
先ほどまで揺れていた草が、ぴたりと動きを止める。
空気まで静まり返る。
まるで、この丘だけ時間が立ち止まったようだった。
老人は二つの墓を見つめる。
「長らく、お待たせしました。」
その声は震えていた。
「配達が遅くなりました。」
帽子を胸へ当て、深く頭を下げる。
「申し訳ありません。」
配達員は、ときに謝らなければならない。
届けられなかったことを。
遅れてしまったことを。
自分の責任ではなくても。
それが、この仕事だった。
しばらく頭を下げたまま立っていると、頬を一筋の涙が伝った。
老人は慌てて拭おうとした。
しかし、その涙は自分のものではないような気がした。
五十年間、誰にも流せなかった涙が、ようやく流れたのではないか。
そんな気がした。
ゆっくりと顔を上げる。
夕暮れだった空は、いつの間にか星が見え始めていた。
その数は、昨日より少ない。
また一つ。
世界から光が消えたのだろう。
老人は革鞄を肩へ掛け直した。
その瞬間だった。
ふっと。
肩が軽くなった。
思わず振り返る。
何かを落としたわけではない。
鞄の中を開ける。
封筒は、ちゃんと入っている。
それなのに、長年背負い続けてきた何かが、確かに消えていた。
老人は静かに微笑む。
「配達、完了しました。」
その一言は、誰に聞かせるでもなく、暮れゆく世界へ穏やかに溶けていった。
すると遠くで、教会だった建物の鐘楼が、小さく軋んだ。
鐘はもうない。
誰も鳴らしていない。
それでも老人には、一度だけ澄んだ鐘の音が響いたような気がした。
それは祝福だったのか。
感謝だったのか。
あるいは、長いあいだ待ち続けた二人の「ありがとう」だったのか。
老人は確かめようとはしなかった。
配達人の仕事は、届けること。
その先は、受け取った人だけのものなのだから。
丘を下るころには、空は群青色へと変わっていた。
世界の終わりまで、あと二日。
誰もがその事実を知っているのに、夜は驚くほど静かだった。
虫の声は聞こえない。
鳥も鳴かない。
風さえ遠慮するように、野原をゆっくりと撫でていく。
老人は夜道を歩いた。
革鞄は肩に掛けたままだった。
五十五年間、一日たりとも身体から離さなかった鞄である。
若いころは重かった。
手紙だけではない。
結婚指輪を送る小箱。
戦地へ向かう兵士への菓子。
生まれたばかりの孫の写真。
大学の合格通知。
訃報。
人生は、紙切れ一枚では収まらないほど重かった。
だから鞄も重かった。
けれど今は違う。
肩へ食い込んでいた革紐は、不思議なくらい軽かった。
中身が減ったからではない。
最後の一通が、ようやく「届いた」からだ。
郵便とは、運ぶことではない。
届けることだ。
老人は、その違いだけを五十五年間信じて歩いてきた。
夜明け前、町へ戻る。
酒場には誰もいなかった。
昨夜まで笑い声で満ちていた広場も静まり返り、子どもたちの描いた落書きだけが石畳に残っている。
パン屋の扉は開いたままだった。
花屋の店先には、一輪だけ白い花が咲いている。
世界が終わるというのに、花は自分の咲く理由を変えなかった。
老人は少し笑った。
「立派だ。」
誰に向けた言葉でもない。
町全体へ向けた、小さな賛辞だった。
郵便局へ着く。
窓には朝日が差し込み、埃が金色に舞っている。
扉を開けると、若い局員が床に座ったまま眠っていた。
机の上には閉局の書類。
封印用の蝋。
使い切れなかった切手。
世界最後の日を迎えるための準備だけが整っている。
物音で目を覚ました局員は、慌てて立ち上がった。
「帰ってきた!」
その顔には、子どものような安堵が浮かんでいた。
「届けられましたか。」
老人は静かに頷く。
「ああ。」
「ご本人に?」
「届けるべき場所へ。」
局員は何も聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
仕事というものには、報告書へ書けないことがある。
きっと、この配達もそうだった。
老人は鞄を机へ置く。
革紐をそっと撫でた。
「軽くなりましたか。」
若い局員が尋ねる。
老人は少し驚き、それから穏やかに笑った。
「分かるか。」
「ええ。」
「ずっと見ていましたから。」
老人は鞄を開ける。
中にはもう、配達する郵便は一通も残っていなかった。
便箋も。
封筒も。
荷札も。
何もない。
空だった。
若い局員は目を丸くする。
「手紙は……。」
「届けた。」
「でも……。」
「郵便は、受け取られたら配達員のものではない。」
局員はゆっくり頷いた。
その言葉は、教本のどこにも書かれていない。
だが、五十五年働いた人間だけが知る、本当の決まりなのだろう。
二人は局内を見回した。
壁の時計。
古い仕分け棚。
磨かれた窓口。
何十万通もの手紙が通り過ぎた場所。
どれも静かに朝日を浴びている。
「閉めましょうか。」
若い局員が言った。
「ああ。」
二人は最後の掃除をした。
机を拭き。
床を掃き。
窓を磨き。
誰も来ない待合椅子を整える。
急ぐ必要はなかった。
一つ一つの仕事に、いつもと同じだけの時間を掛けた。
最後だからといって、特別にはしない。
それが、この場所への礼儀だった。
やがて老人は、受付の小さな引き出しから一枚の札を取り出す。
木でできた、古い札だった。
長い年月で角は丸くなり、文字も少し掠れている。
老人は扉を開ける。
朝の光が町へ広がっていた。
空では世界樹から、また白い葉が一枚落ちる。
その葉は風に乗り、郵便局の前まで流れてきた。
老人は札を掛ける。
そこには、たった一行。
本日をもちまして、業務を終了いたしました。
老人はその文字をしばらく見つめた。
涙は出なかった。
寂しさも、不思議となかった。
ただ、長い一日を終えたような静かな満足だけが胸にあった。
帽子をかぶり直す。
鍵を掛ける。
錠前が「かちり」と鳴った。
それは、五十五年間続いた仕事の終業ベルだった。
「お疲れさまでした。」
若い局員が頭を下げる。
老人も深く礼を返す。
「こちらこそ。」
二人は並んで歩き始める。
行き先は決めていない。
もう配達先はない。
急ぐ理由もない。
ゆっくり歩けば、それで十分だった。
ふいに、老人は足を止める。
どこからともなく、小さな声が聞こえた気がした。
「ありがとう。」
男とも。
女とも。
子どもとも。
老人とも違う。
懐かしいような、優しい声だった。
老人は振り返らない。
配達人は、届けたあとに相手を確かめたりはしない。
届けるべきものを届けた。
それで仕事は終わる。
帽子のつばへ、そっと手を添える。
「どういたしまして。」
その一言だけを残し、再び歩き出した。
世界樹から最後の葉が舞い落ちる。
風が止む。
空が静かに白く染まっていく。
誰も叫ばなかった。
誰も悲鳴を上げなかった。
世界は壊れるのではなく、眠るように終わっていった。
そして、その日。
世界で最後の郵便配達人は、人生で最後の配達を終えた。
手紙は、届いた瞬間に価値が生まれるのではない。
誰かを想い、書き、託し、届けようと願った、その瞬間から、もう誰かの人生を温め始めている。
だから人は手紙を書く。
だから配達人は歩く。
世界の終わりでさえ、その営みを止めることはできなかった。
――了




